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1.異変の始まり

「あれ?」


 それは小さな違和感だった。

 いつも通り妹と手をつないだはずなのに、左手の薬指だけが不自然に伸びたまま動かない。


「お姉様?」


 イレーヌが目を丸くして私を見る。

 少しだけ不安の混じった瞳が揺れたのに気づいて、私は安心させるように微笑んでみせた。


「少し疲れが出たのかもしれないわね。昨日、遅くまで本を読んでいたから」

「お医者様に……」

「ふふ、大袈裟ね。大丈夫よ」


 私が笑うと、可愛い妹は安堵したように息をついた。

 そのまま両手で私の手をつかみ、くいっと引っ張る。


「じゃあ、お散歩は早めに切り上げて、お部屋に戻ろう!」

「そうね、いっしょにお茶にしましょうか。きれいなお菓子をいただいたばかりなのよ」

「やったぁ!」


 早く早く、とイレーヌに手を引かれる。

 お茶のあとは、夕飯までゆっくり過ごそう。

 そう決めて、鮮やかな花々が彩る庭園を普段よりも早足で進んだ。


 先日婚約者のセオルから届いた異国の菓子は、宝石のようにキラキラと輝いていて、きっと妹も気に入るだろう。

 カリッとした表面をかじると、シャリシャリとした小気味いい食感を楽しめる甘いお菓子だ。


 政略結婚の相手とはいえ、セオルとは良好な関係を築けていると思う。

 仕事の忙しい彼と顔を合わせるのは月に2度ほどだけど、こまめに花やお菓子を贈ってくれるのがよい証拠だろう。

 地方へ出張に出た際は、お土産にと名産品を渡されることもある。


 あと2、3年もすれば、彼は婚約者から配偶者になる。

 そう思うと胸の奥がくすぐったくて、頬が上気するのがわかった。


「あ、お姉様ったら、またセオル様のこと考えてるでしょ」

「もう、この子ったら」

「あーあ、お姉様をひとり占めできるセオル様が羨ましい」


 ぷくっと頬を膨らませて、イレーヌが言う。

 少し年の離れた妹から率直に向けられる愛情が嬉しくて、私はその柔らかな髪をそっと撫でた。





 翌日になっても、薬指は動かないままだった。

 まるで私の肉体から分離してしまったように、指を動かすことはおろか、指先の感覚さえも失われている。


 さすがにおかしい。

 そう思って、その日のうちに主治医の診察を受けることになったが、原因は不明。

 おそらくストレス性のもので、数日もすればよくなるのではないかと人の好さそうな老医師は微笑んだ。


 ストレスと言われても、身に覚えはない。

 首をひねりながらも、疲れがたまっていたのだろうと判断して、その日の就寝時間を1時間早めた。


 左手全体が動かなくなったのは、それから3日後のことだった。

 1週間後には両腕、10日後には両足が動かなくなり、半月も経つ頃には支えがあっても起き上がることさえできなくなった。


 主治医の診察は続いたが原因解明には至らず、両親は手当たり次第医師を屋敷に呼んでくれた。

 しかし全員が暗い顔で首を横に振るばかり。

 一人、また一人と私の元を訪れる医師は減っていき、やがて主治医が時折顔を見せるだけになった。


 食事はおろか、排泄さえ自力でできなくなったころには、このまま死んでしまった方が楽なのではないかという考えが頭を巡るようになっていた。

 点滴によって与えられる栄養、あてがわれるおむつ。

 恥ずかしくて、不快で、泣き出してしまいたい。

 そう思いながらも叶わなかったのは、すでに表情を動かすことができなくなっていたからだ。

 私にできることは、瞼を持ち上げることと呼吸だけになっていた。


 いつかは呼吸さえもできなくなって、このまま死んでしまうのだろう。

 そう考えると、底知れぬ恐怖に打ちひしがれる。

 死にたいと思いながらも、命を失うのが恐ろしかった。


 体の感覚を失ってしまったのは、幸運だったのかもしれない。

 床ずれの痛みも、汚れたおむつの不快感も、空腹さえ感じずにいられるのだから。

 このまま感覚だけ取り残されていたなら、きっと早々に狂ってしまっていただろう。

 しかしどういうわけか、いくら時間が経っても視覚と聴覚だけは鮮明に残されたままだった。

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