第7話 涙
「…………ダイキ……?」
電話越しに聞こえてくるコハルの声は、背景のザアザアという雨の音に掻き消されてしまいそうなほどか細かった。
「コハル!? いまどこにおんねん!?」
「…………ダイキ……。私な、雨の中傘も差さんと歩くとか、……ドラマとか映画の中だけやと思ってた。けどな、……ほんまに傘も差せなくなることもあるんやな」
コハルは質問には答えず、かろうじて聞き取れれる程度の声で独り言のようにそう言った。
「コハル、どうした? どこにおるか言うてくれ」
ダイキは焦りからつい大声を出す。コハルは相変わらず生気のない声で続けた。
「彼の家行ったら女の子いてんけど……、でもそれだけやなかった。…………八股やって。しかも私……、八番目なんやって」
「…………八股?」
「……なかなか会えへんわけやわ。一週間毎日デートしても、私の番は来うへんのやもんな」
「…………コハル……」
「……毎回、久しぶりやってわくわくして、可愛くしとって……ほんまアホや、私……」
コハルから伝えられたにわかには信じがたい事実に言葉をなくしながらも、ダイキは彼女を探して走り続ける。
数刻走り続けた彼は、ついに目の端に彼女を捉えた。
白いワンピースを着て、ずぶ濡れになりながらフラフラと夜道を歩くコハルは、幽霊にしか見えなかった。
光を失った彼女の目には、道路の対岸の赤い光を認識する力はもはや残っていないようだった。
コハルはそのままフラフラと車道に躍り出る。
ダイキのもう片方の目の端には、まさに車道を通り過ぎようとする大型トラックが映っていた。
瞬間、ダイキは、傘を投げ出してコハルの元に駆け寄った。
「コハル!!!!」
ドンッ!!!! キキ――――ッ!!!!
「きゃああぁぁあ!!!!!!!」
鈍い衝突音と急ブレーキ。そしてコハルの悲鳴。
ダイキは、遠くなる意識の中でも、コハルと自分がトラックに衝突したこと、そして、――それが彼らの人生の終幕となるであろうことを、直感的に悟っていた。
「…………コハル」
薄れゆく意識をつなぎとめようと、ダイキは最愛の女性の名前を呼んだ。
せめて最後に、彼女の顔を見て、彼女の手を握って逝けたなら。
そう思い、血で汚れた手をコハルに向けて伸ばす。
しかし、彼女の体は、その手の届かない距離に転がっていた。
かろうじて見えたその顔、その唇は、弱弱しく「ごめんね」の形に動いたきり、開かれることはなかった。
ダイキの伸ばした手は空のまま、血の海に染まっていく。
その絶望に涙を流す暇さえなく、彼はその後間もなく意識を手放した。
涙の代わりに、降り続く大粒の雨が、幾筋も彼の頬を流れていった。
――これがダイキの、命あるうちの最後の記憶だった。
「……てな感じで、俺は上本町の道路で死んだ。しばらくは道路脇に花やら飲み物やら供えられとったみたいやけど、俺が霊として戻ってきた頃にはもうほとんど枯れとった。けど――」
◇
平成22年の夏、水帆はお盆のため、大阪の祖父母の家に帰省していた。
ご先祖様のお墓参りに行く道中、彼女は、道路脇に枯れた花束が置かれているのを見つけた。
それはあまりにさりげなく、現に彼女の両親はその存在に全く気付いていなかったが、なぜか彼女はそれがどうしようもなく気になったのだ。
「おかあさん、さっきのんでたお水ちょうだい」
そう言って母親からペットボトルの水を受け取った水帆は、父親が運んでいた墓前のお供え用の花束から、百合の花を一本こっそりと抜き取り、ペットボトルに差し込む。
そして、それを枯れた花束の隣にそっと置いて、にっこりと微笑んだ。
「お花、きれいになったね!」
気づけば霊となってこの世に舞い戻ってきてしまったダイキは、数週間ずっと、もはや誰も弔うことのない自分の死に場所を無感情に眺めていた。
水帆の行動は、ただの子供の気まぐれだったのかもしれない。
それでも、ダイキはその少女の行動に、死後初めて感情を揺さぶられた。
それどころか、生前にもほとんど泣いたことなどなかった彼の目からは、気づけば涙が流れていた。
思えば、彼は、失恋したその日から、意識的に心を無にすることに努めていて、自らの抱える悲しさや悔しさと正面から向き合うことはしなかった。
少女の些細な優しさは、その気持ちに被せられた重い蓋をこじ開けた。
積もりに積もったあらゆる感情が、ついに溢れ出したのだった。
◇
「戻ってきてしばらく、死んだ道路から動けへんかった。俺、地縛霊ってやつになったんかなって思てたけど、水帆に会ってから、何故か動けるようになった。それからは、ずーっと水帆の後ろについて見守ってきた。……まあ、俺が水帆の守護霊になったんは、そんなわけや」
ダイキは長い回想話を終え、ようやくレイコに視線を戻す。
そこには、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をしたレイコがいた。
「うっ……そんな……ダイキくん、辛すぎますぅ……。これからは、いっぱいいっぱい楽しいことしましょうね!! もう悲しいことなんて起こさせませんから……!!」
レイコはダイキの両手を握りながらそう繰り返す。
「なんでレイコがそんな泣くんや。……まあ、レイコも水帆の後ろ来てくれてからは、退屈してへんし……前より楽しい、かもな」
ダイキは照れくさそうに目を反らし、そう呟いた。
その言葉に、レイコは相変わらず涙にまみれた顔をぱあっと明るくする。
「よかった……! わたしも、ダイキくんと一緒で毎日楽しいです……! これからも、一緒に水帆ちゃんの恋応援したり、他にもたくさん、いろんなことしましょうね!」
そう言って、握ったままのダイキの両手をぶんぶんと振った。
レイコの手は、霊のくせに、不思議と温かかった。
ダイキはその手の熱に、あの夏以来15年ぶりに涙が出そうになるの必死に堰き止めようと、何度も瞬きを繰り返した。