第10話 昭和の私と令和の私
レイコとカズオが結婚したのは、昭和55年のことだった。
九州で生まれ育った二人は、知人を介したお見合いで出会い、そのままとんとん拍子に結ばれた。
貞淑で家庭的な妻と、亭主関白な夫。この時代、この地域では一般的な夫婦像だった。
しかしながら、人一倍人の善いレイコと、人一倍調子に乗りやすいカズオの組み合わせは、悪い方向にシナジーを生んだ。
朝。
レイコは、カズオが出勤する三時間前には起床し、お弁当と朝食を作る。
当然、冷凍食品などを入れるわけにはいかない。彩りも考えた手作りのおかずを丁寧につめていく。
その日カズオが着るワイシャツと背広をセレクトし、丁寧にブラシをかけておく。
遅れて目覚めたカズオから、
「今日はこの色じゃないだろ。お前、本当にセンスないな」
と罵倒されることもあった。
そんなときは速やかに、こちらもすでにアイロンがけ済みの第二候補のセットを差し出すのだ。
昼。
カズオが仕事をしている間、レイコは隈なく家中を掃除する。
几帳面を通り越してもはや神経質とも言えるカズオに、埃の一つでも見つかろうものなら、
「主婦は家事でミスしてもなんともないからいいよな。俺が仕事でミスでもしたりしたらもう……」
とネチネチした恨み節を繰り返されてしまう。
そうはなるまいと、掃除後のダブルチェックも必須である。
夜。
カズオが仕事から帰宅するベストタイミングを見計らって、熱いお風呂を沸かし、品数豊富で栄養バランスも完璧な温かいご飯を用意する、なんてことは当たり前。
一たびカズオがおかずにケチをつければ、レイコはすべての食事を作り直していた。
カズオが食事を済ませ、入浴し、就寝した後、明日の食事の仕込みとスーツのアイロンがけをすませてから、レイコもようやく床に就くことができた。
これが、この夫婦の日常だった。
そして、現在の価値観からは信じがたいかもしれないが、レイコはこれがごく一般的な夫婦の在り方だと信じて疑わなかった。
九州から出たことがなく、若くして結婚した彼女には、疑う契機もなかったのだ。
「わたしはセンスがないから、もっと慎重にスーツをセレクトしないと」
「カズオさんは会社で大事なお仕事をしてる。わたしは家事が仕事なんだから、家事は完璧にこなさなきゃ。家事もできないなんて、主婦失格ですもの」
「わたしの味付けがいまいちだから、カズオさんが食べられなかった。ちゃんとおいしいものを作り直してあげなきゃ」
レイコに押し付けられた“良い妻たれ”という固定観念は、彼女を極端な自責思考へと陥らせた。
この頃、カズオの帰りが妙に遅い日が増えてきたことも、レイコはちゃんと勘づいていた。
「わたしがダメな妻だから、カズオさんは怒るんだ。わたしに魅力が足りないから、カズオさんは帰ってこないんだ」
加速していく自責思考は、彼女なりの防衛機制だったのかもしれない。
しかし、彼女の身体の方は、この思考に順応していなかった。レイコの抱えたストレスは、頭を支配する前に、体を蝕みはじめた。
度重なる腹痛に疑念を抱きながらも、彼女は“良い妻”でありつづけた。
もはや市販薬では抑えることのできない痛みと闘いながら、義務を果たさんと奮闘していた。
そして、気づけばレイコは、末期の胃がんと診断されていた。
診断直前、もはや彼女は普通の歩行すらスムーズには行えなくなっていた。
それでも、彼女が入院するその日まで、ついぞカズオが台所に立つことはなかった。
レイコが息を引き取ったのは、昭和64年1月7日。昭和最後の日だった。
◇
ダイキの元を立ち去ったレイコは、亡くなって以来初めて、九州に帰ってきていた。
当時彼女が結婚生活を送っていたささやかな平屋があったはずの場所は、今や大きな商業ビルが建っており、ビルの壁面の巨大なスクリーンには、今話題の女性起業家のインタビュー映像が放映されていた。
レイコは、それを見ていると、何故か無性に笑えてきた。
ビルを眺めながら、一人で声を上げて笑った。
彼女の目指した“良い妻”は、本当はカズオにとっての“都合のいい妻”だったのだろう。
レイコは、生前それを明確に認識することはできなかった。
しかし、霊として舞い戻ってきた後、カズオを見守りたいと思う気持ちがもう欠片も湧いてこないことには、きちんと気がづいていた。
思い出深いはずの九州にも、なぜかこれ以上長居したくなかった。
九州という檻から一度も出ることなく生涯を終えたレイコは、もっと広い世界を見ようと、日本各地をふわふわと飛び回った。
大きく羽ばたき始めたレイコには、生前長らく感じていなかった清々しい気持ちが生まれていた。
しかしながら、彼女はその気持ちを正面から認めることができなかった。
その時の彼女にとって、今の気持ちを肯定することは、彼女の生前の人生を否定することと表裏だったのだ。
――だが、どうだ。
あの頃の平屋は見る影もなく、近代的な街並みが広がっている。
昭和だった年号も、今や平成を飛び越えて令和だ。
女性は家庭を守れ? ――いやいや、女性起業家も大活躍しているじゃないか。
時代も、景色も、価値観も、変わっていったのだ。
それならばどうして、今を認めることが、過去の否定になるのだろうか。
「あの頃の私も、小さな世界でたくさん頑張ってた! 最高の奥さんだった! ……でも今は、広い世界を見ることができてる。……昭和のレイコに後悔がないとは言えないけど……どっちもわたしの人生だもの。令和のレイコは、幸せです!!!」
ひとしきり笑った後、彼女は大きく伸びをして、空に向かって笑顔でそう叫んだ。
人心地ついたレイコの脳裏に最初に浮かんだのは、ぶっきらぼうな関西弁の男だった。
「……会いたい。謝らなきゃ」
彼女はもう、自分の気持ちから目を背けることはなかった。
胸に手を当て、すうっと深呼吸をして、その男の待つ東京へと戻っていった。
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