平凡な恋と、異常な影
佐々木水帆は至極平均的な女子大学生である。
人並みに可愛くて、人並みに賢くて、人並みに大学生活を謳歌している。
そして人並みに、恋をしていた。
しかし、水帆は、ある一点をもって人とは大きく違っていた。
それにより、水帆の恋は時に本人の意思に反し、あらぬ方向に舵を切っていくのだが……本人はついぞそれに気づくことはない。
――とにかく今の彼女は、多くの若者がそうであるように、小洒落た理屈ややんごとなき理由などなく、ただ、若さの波に流されるがまま、恋をしているのである。
今日も水帆は、呆けた顔でそわそわと講義が終わるのを待っている。
分子生物学というこの小難しい講義は、とても片手間で頭に入る内容ではないが、そんなことは彼女にとって問題ではない。
文系の彼女がなぜ敢えてこの小難しい講義を履修したかといえば、当然、「意中の君がこの講義にいるから」にほかならない。
そして水帆は、今日こそはその君に話しかけると決めていた。
水帆の意中の君、井上史也は、大教室の最後列、入口付近の席に気だるげに座り、スマホをいじっていた。
その気だるさに相反し、髪はばっちりとセットされており、男性にしては細身すぎる身体にはブランドもののTシャツを纏っている。
どいつもこいつもきちんと講義を受けろ、という正論はさておき、授業中にスマホをいじる学生の姿などは、大学内ではごく一般的な光景である。
だが、そのよくある気だるい姿さえも、今の水帆にはアンニュイな魅力に変換されるのである。
“アンニュイ史也”をちらちらと盗み見ているうちに、講義終了の時間となった。
ささっと前髪を手で整え、リップを塗りなおし、インカメでビジュの仕上がりを確認。悪くない。そして意を決して席を立ったその瞬間。
バラバラバラ……
音を立てて、水帆のペンケースの中身が床にぶちまけられた。
「えぇ!? ペンケース、ファスナー閉めたと思ったんだけどな……って、あぁ……!」
戸惑いつつもぶちまけたペンたちを拾っている間に、史也の姿は消えていた。
水帆は意気消沈する。
「今日も話せなかったよ……先週も先々週もだし……もう、何回目……?」
水帆が「今日こそは」と意気込んでいたのには理由がある。
史也と水帆は学部が異なるため、確定で会えるタイミングはこの分子生物学の講義のみである。
毎週木曜日にのみ訪れるこのチャンスを逃すまいと、水帆は毎週史也に話しかけようとするのだが、その度に“何か”が起こるのだ。
今日はペンケースぶちまけ事件。
先週はアラーム爆音鳴り響き事件。
先々週はハンカチ突風に飛ばされ事件。
“怪奇”というには取るに足らない事件ばかりだ。
それでも、こうも毎週邪魔が入ると、比較的現実主義な水帆でも、まるで大いなる力が彼女の恋路を邪魔しているのではないか、と考えざるを得なくなってきた。
だが、水帆のこの少しドラマチックな感傷は、あながち間違っていなかった。
大いなる力ではないが――彼女の恋路を邪魔する者は確かにいるのである。
水帆の目には映っていないが、彼女の背後にはいつも、二人の男女の影があった。
◇
「おし、今週も阻止成功や」
満足げに口角を上げる関西弁の青年。
ベビーフェイス気味な顔とは裏腹に、180センチは優にあろうという男らしい体格が、なんとも不思議に調和した魅力がある。
「先週はアラームの音でかくしすぎて、水帆が悪目立ちしてもうたからな。今週はいい塩梅やったんちゃう?」
どうやらペンケースの中身をぶちまけたのはこの男らしい。
「本当にいいんですかねぇ…こんなに毎回邪魔しちゃうと、わたし、そろそろ、水帆ちゃんに申し訳なくなってきちゃいますよぅ…」
ゆったりと穏やかな口調で話すのは、先ほどの男よりは少し年上で、主婦くらいの年代に見える女性。
“包容力”を具現化したようなやわらかな質感と物腰の、いわゆる癒し系の美人だ。
何もかも異なる二人だが、共通しているのは、二人とも浮いていて、そして二人とも半透明だということ。
――つまり、二人は“霊”なのだ。
それもただの幽霊ではなく、二人とも水帆の“守護霊”なのだ。
「レイコ、何言ってるんや? 二人で水帆の幸せを掴み取ろうって約束したやないか。俺らで水帆の目を覚まさせたらないかん。」
「でも……ダイキくん、私たち守護霊なのに、主の意思に反することばっかして……」
ダイキと呼ばれた男は間髪入れずに反論する。
「水帆は免疫がないからまだわかってないだけや。覚えてるか? 水帆があいつに惚れた日――」
◇
――その日、水帆は分子生物学の講義が行われている大教室の前を小走りで通り過ぎようとしていた。
由利と七海との約束、間に合うかな、などと思案しながら大教室の入り口付近に差し掛かったとき、
どんっ!という衝撃とともに水帆は尻餅をついた。
「いてて……ご、ごめんなさい! 私、走ってたから……」
と慌てて水帆が見上げると、史也が手を差し伸べてきた。
「大丈夫? 怪我、してない?」
史也は手慣れた手つきで水帆を抱きおこし、そのまま壁際に寄せる。
片手を壁につき、もう片手で水帆の顎を持ち上げながら、
「怪我してたら大変だから、LINE交換しよ? 何かあったらいつでも連絡してね。俺、井上史也。君はなんていうの?」
と、流れるように語り掛ける。
少女漫画だったら背景に花が咲き乱れ、キラキラのトーンがインフレを起こしているところだろう。
女子高育ちで男性に免疫のない水帆はすっかりのぼせてしまい、
「あ……佐々木水帆です……。ラ、LINEですね、はい! どうぞ!!」
と、脳が思考するより先に口が答えていた。
あまりにもステレオタイプで、あまりにも滑稽にも思える。
それは水帆自身もどこかでうっすらと感じていた。
それでも、これが水帆が人生で初めて、ヒロインになった瞬間だったのである。
そんな恋の始まりだったわけだが――
「いや、きっっっっっしょ。きしょすぎる。壁ドンに顎クイて、もう平成のキショコンボや。令和になってもう7年経ちますけど。時代錯誤のチャラ男君は平成に返ってもろて……」
ダイキは全身に鳥肌が立ったとでもいうように身を震わせ、早口でまくしたてる。
一方のレイコは、ダイキに比べると穏健派のようだ。
「ダイキくん、言い過ぎですよぉ。そんなにだめですかねぇ……ドラマチックでいいじゃないですかぁ。私の主人も、結婚する前はこんな感じだったような気がしますよ~?」
「それは、あんたも……いや、時代が違うんや。今はこういうのはきしょいってことになってんの。……それと、こいつを見てると、俺が世界で一番嫌いな男を思い出す」
“あんたも男を見る目がないからや”と言いかけた言葉を途中で飲み込み、最後は吐き捨てるように呟いた。
「あんなやつよりさ、俺的にはこっちの方がええと思うんやけどな」
ダイキが再度見下ろした水帆の隣には、ふわふわとした笑顔を浮かべる男の姿があった。
◇
今週の史也チャレンジも失敗した水帆が、とぼとぼと教室を出ようとすると、一人の男が目に入る。
正確には、その男が着ている服が目に入ったのだが。
水帆と同じ学部に所属する小野寺拓実は、その日、黒地に右胸元に「44」というナンバープレートが付いているように見えるTシャツを着ていた。
彼のお気に入りの1着である。
水帆はその服を見るや、
「寺ちゃん……これ、もしかしてハント試験の時のヒソヤカのナンバープレート風Tシャツ……?」
と咄嗟に口走っていた。
拓実は一瞬驚いた様子を見せたが、
「え、佐々木さんすごいね……! この服着てて気づいてもらえたの初めてだよ。ハント×ハントも好きなの?」
無造作に降ろされた前髪からキラリとした瞳を覗かせて、ふわりとした口調で答える。
「好きどころじゃないよ! こんなの……『俺じゃなきゃやり過ごしちゃうね』!」
「うわぁ~~出た名セリフ!」
「てか! よく見たら寺ちゃん持ってるのレオレオのアクスタじゃん! 大学の大教室にレオレオがいるの、エモっ!!」
「そうそう、それで持ってきちゃったんだよね。しかも、この教室、選挙編のときの会場に似てて……」
と、知らない人からしたらなんのことやらという会話で盛り上がる二人だが、会話は唐突に遮られる。
「水帆ちゃん、ここにいたんだ。よかったらこの後、お茶でもしにいかない?」
先ほどよりも一段と髪の束感が強くなった史也が現れた。
どうやらお誘いに備えてヘアーチェックを済ませて舞い戻ってきたようである。
「え!? 史也くん! う、うん、私、ちょうどお茶したいって思ってたんだ! 荷物すぐまとめるから、ちょっと待ってて!!」
頬を染めた水帆がぱたぱたと自分の席に向かっていくのを見届けた後、史也は、
「これ、オタクの子がよく持ってるワクスタ?みたいなやつ? 実際持ってる人、初めて見たわ。でもなんか、小野寺君っぽいって感じだね。」
と、悪意があるのかないのか絶妙に区別のつかない笑みを浮かべて拓実を見下ろす。
拓実はまっすぐと史也を見つめるが、何も言い返すことはなく、そのまますぐに立ち上がって教室を後にした。
◇
ダイキは先ほどの拓実よろしくレイコをまっすぐに見つめ、「な。」と一言つぶやく。
レイコは首をひねりながら、
「う~~ん、確かにダイキくんの言うとおりかもしれないですぅ」
と答える。ダイキは満足げにうなずき、
「そうや、これは水帆のため。俺の水帆……絶対に幸せにしたるからな……。あんな奴とは絶対くっつかせん! おー!!」
と、珍しく声を張り上げながら拳を掲げる。
勢いに押されたレイコも首をかしげながらも拳を掲げ、
「お、お~~~??」
と声を合わせる。
こうして過保護な守護霊二人による奇妙な共同戦線が始まったのである。
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