第8話 刃を振る前に
夜の火が揺れるたび、少年はまだ知らぬ重みを手にしていく。
どこへ向かうかも知らないまま、ふたりは歩いていた。
獣道と呼ぶには細すぎ、道と言うには踏まれすぎた地面。根の浮いた地肌と、崖から崩れた白石が交じるその斜面を、ヴォルトは迷いなく進んでいく。
前を行く背中は、何も語らない。
けれど、進むべき方向を問うことは、少年にはもうなかった。
この道が、どこに続いていようと──自分は、あとをついていくしかない。
風が、森の奥から吹き抜ける。
その中に、何かの羽音が混じった。翼を広げた何かが頭上を横切り、影を落としていく。
リオは反射的に肩をすくめるが、ヴォルトは立ち止まりもしない。
昼を越え、陽は西へ傾いていく。
周囲の地形がなだらかになり、背の低い木々がまばらに広がる地形に出た。
空が見える。湿った空気が抜け、風が身体を撫でていく。
ふたりは丘の途中で足を止めた。
そこは、木々に囲まれながらも視界が開けた場所で、地面は石と草が混じり、陽を遮る枝は少ない。
──野営に、ちょうどいい。
ヴォルトは無言で荷物を下ろす。
リオも同じように、革袋を脇に置いた。言われなくても、何をすべきかはもうわかっている。
空はまだ明るい。だが、火を起こすには早すぎる時間ではない。
ヴォルトが湿気の少ない落ち葉を選び、数本の小枝を積む。リオは黙って石を探しに行く。
すでに「命じられる作業」ではなくなっていた。
火が起きると、煙が風に流れた。
ふたりは言葉を交わさぬまま、温度だけが近づいていく。
──その火のそばで、リオは革の紐に指をかけた。
胸元から取り出したのは、あのナイフだった。
ヴォルトから受け取った、無骨な、そして確かに“役に立つ”重みを持った刃。
少年は、それをただじっと眺める。
薄い光にかざせば、刃の湾曲がゆっくりと浮かび上がる。切っ先は鋭すぎず、だが芯を喰う重さがある。
柄に巻かれた黒革は、かつての持ち主の手の跡を残している。それが、少年の指に静かに馴染んでいた。
リオはそっと立ち上がる。
火の周囲を踏まぬよう気をつけ、広めの地面に移動する。
ナイフを鞘から抜く音が、火のはぜる音に重なって響いた。
──構える、というより、試すような手つきだった。
右手で握り、左手で一度、重みを確かめる。腰を引き、前に出る足に重心を乗せて──一太刀、空を斬る。
その動きは、まるで踊りのように軽かった。
だが、無駄は少ない。刃を見ず、腕の軌道と足の位置を意識している。
リオは知っていた。
ナイフをどう握れば、逃げる相手を牽制できるか。
どう身体をずらせば、追手の懐に入れるか。
──ただし、それは“奪うため”の技だった。かつて、自分が属していた世界の、生き延びるための癖。
ふた振り、三振り。
動きは荒いが、速い。土くれが跳ね、空気が断たれる音がする。
少年の瞳が、わずかに光っていた。
──その背中に、気配が落ちる。
振り返ると、ヴォルトが立っていた。
火の番をしていたはずの男は、いつの間にか立ち上がり、背後に立っていた。
リオの手の動きが止まる。
ナイフを下げたまま、息を整えながら、男の表情をうかがう。
だが、何も言われなかった。
責めもせず、褒めもせず、ただ、じっとその動きを見ていたようだった。
ヴォルトは、一歩、地面を踏む。
それだけで、空気が張り詰める。焚き火の熱とは別の、冷たい緊張が足元に伝ってきた。
ヴォルトは、言葉を使わなかった。
ただ、リオの正面に立ち、ゆるやかに片手を上げて──そのまま、指を開いた。
ナイフを渡せ、という合図だった。
リオは一瞬ためらったが、従った。
柄を握ったまま、刃を外に向け、ヴォルトの手にそっと置く。
その瞬間、手の中の重さが消える。だが、代わりに空気の重心が変わったように感じた。
ヴォルトはナイフを受け取ると、一度も構えず、柄を軽く回した。
手の中で重心を探る。刃の角度、革の締まり、握りの深さ。
それだけで、すべてを見ていた。
そして──静かに腰を落とした。
肩は力を抜き、片足を後ろに引く。
腕を真っ直ぐにはせず、肘にわずかな“たわみ”を残したまま、ナイフを体の横に添える。
その姿勢は、一見、攻撃の構えには見えなかった。
まるで、まだ戦わない者の立ち方だ。だがそこには、静かな殺気があった。
──刃を振ることなく、相手を制する構え。
リオが見ていると、ヴォルトは何も言わずに一歩踏み出した。
その一歩は、踏み込むものではなく“満ちる”ような一歩だった。
かかとで地を探り、つま先で静かに接地する。
続けて、左足が重心を運ぶ。
刃は振られない。ただ、少しだけ“軌道”を描いた。
リオは息を呑んでいた。
それは、まるで“間”そのものを切り取る動きだった。
「振るな」
ヴォルトが初めて、声を出した。
それは命令ではなく、事実のように、淡々と置かれた言葉だった。
「刃を振るのは、最後だけでいい」
リオは、何かを言いかけて──口を閉じた。
ヴォルトはナイフを返すと、指先でリオの肩を軽く押した。
姿勢を崩さぬまま、立ち位置を正す。足の幅。つま先の向き。背の傾き。
「お前は、小さい。骨も軽い。だから……刃を持って立つことの意味を、先に覚えろ」
それは、指導でも説教でもなかった。
ただ、“この体格で戦うならば、それが最適だ”という、冷静な観察の上に成り立つ提示だった。
リオは、再びナイフを構える。
さっきまで振っていたような荒々しさは、そこにはない。
手の中の刃が重く、まだ自分のものになっていないと感じている。
──でも。
「……こう、か?」
問いは、わずかに震えていた。
だが、その声には“学ぼうとする意志”があった。
ヴォルトは返事をしなかった。
そのかわりに、地面の小石をつまみ、リオの足元に投げた。
リオはとっさに体をずらし──ナイフを、振らずに止めた。
身のこなしは不格好だったが、確かに“振らずに動いた”最初の一歩だった。
「……それでいい。刃は、見せるもんじゃない」
ヴォルトの声は、火の音にかき消されかけた。
だが、少年には届いていた。
彼はナイフを収めると、静かに膝を折った。
そして、手のひらで柄を撫でる。自分の鼓動が、刃に伝わる気がした。
ヴォルトは再び火の番に戻る。
彼が槍を手に取ったとき、リオは目を伏せたまま、言葉にできぬ熱を胸の内に抱えていた。
ナイフが返されたあとも、ヴォルトはそこを離れなかった。
リオがもう一度、構えようとしたとき──
男の手が、少年の右手首をそっと掴んだ。
「違う。そうじゃない」
リオが困惑の目を向ける。だが、ヴォルトは答えず、無言でナイフを逆さに持たせた。
刃を下に、柄の末端を上に──いわゆる“逆手”の握り。
刃は少年の前腕の内側に沿う形になり、構えたとき、自分の腕がその刃を隠すようになった。
「見せるな。刃は飾りじゃない」
そう言いながら、ヴォルトはリオの肩を軽く押した。
次に、腰の位置。足の向き。背中の角度。
押すでも引くでもなく、わずかに触れることで、身体の配置を整えていく。
右足を半歩後ろ。
膝は抜き、重心を低く。
顔は下げず、だが“視線”ではなく“気配”で敵を捉えるように。
「振るな」「殺すな」──そう言ったわけではない。
けれど、男の動きは、そう語っていた。
リオは言葉を発せず、ただ従った。
それは剣士の構えではない。斬るための型でもない。
──守るために、殺すときだけ使う“構え”だった。
「その構えは、守る姿勢だ」
「逆手は、距離を潰せる。受け流せる。逃げられる」
「けど、振ったら──殺すことになる」
リオの喉が、ごくりと鳴った。
手の中のナイフが、ただの道具ではなく、“結果”そのもののように思えてくる。
「構えるってのは、見せることじゃない。見せないことで、生き延びることだ」
ヴォルトは、刃を振る動きを見せなかった。
その代わりに、ナイフを構えたまま──周囲の木々に向けて、ゆっくりと歩いた。
足音は出さず、枝は避ける。
光を避け、影をなぞる。
それは、対峙ではなく“消えるための動き”だった。
「殺す奴は、現れない。構えたときには、もう刺してる」
静かな声だった。
だが、その意味は鋭く、火の音を切るように刺さった。
リオは、ナイフをもう一度握り直す。
構えたまま、動かない。
足の向きと重さ。手の角度。背の高さ。──すべてが、今はまだ不格好だ。
けれど、確かに「構えようとしている」動きがあった。
ヴォルトはもう一言だけ残して、焚き火のほうへ戻っていった。
「まず立て。立ち方がすべてだ」
火のそばに戻ったヴォルトの背中を、リオはしばらく見ていた。
男は座り込み、槍の穂先を布で拭いていた。
いつものことだ。食事の前、休息の前──ヴォルトは必ず、武具を手入れする。
槍は一日に一度、必ず洗われる。柄も、金具も、ほつれかけた皮も。
それが“殺すため”の道具であっても、ヴォルトの手入れはどこか、静かで、丁寧だった。
リオはまだ、立ったままだった。
身体に、さっきの“構え”が残っていた。
右足の重み、背の傾き、握ったナイフの位置。全てが、妙に生々しく身体に残っていた。
──「まず立て。立ち方がすべてだ」
その言葉が、耳に残っている。
“構え”とは、斬るための格好だと思っていた。
けれど、ヴォルトのそれは違った。
殺すより、殺されないために。
振るより、見せないために。
──立ち方ひとつで、戦いの行方を変える。そんな生き方があることを、少年は初めて知った。
リオは、ナイフを収めた。
小さな鞘の中に刃を戻すその動作にも、どこか“慎重さ”が宿っていた。
火の向こうから、何かがはぜる音がした。
枝が弾け、橙色の火の粉が小さく宙に舞った。
──ふと、ヴォルトが動いた。
ヴォルトは革袋から干し肉をひと切れつまむと、火越しにふいと手を動かした。
投げたのか、置いたのか──判断に迷うほどの、浅い弧。
肉は、リオの膝ではなく、胸元にそっと届いた。
何も言われていない。
けれど、少年はそれが「おまえの分だ」と分かるようになっていた。
リオは小さく「……ありがとう」と呟いた。
だが、声には出なかった。
口の中に肉の塩気が広がっていく。
少し固く、少し燻されすぎているが、味がある。
リオは、ナイフの重さと味の重さが、同じところに落ちてくる気がして、目を閉じた。
──自分は、まだ何者でもない。
盗賊団では、ただの“手足”だった。
素早く動けて、小さくて、見落とされる存在。
判断も選択も、自分ではしてこなかった。命じられた通り、動くだけ。
けれどいま──この旅の中で、自分の“動き”を見られている。
それは、恐ろしくもあり、どこか嬉しくもあった。
焚き火の明かりが揺れている。
風が通るたび、ヴォルトの影が長く伸び、そして縮んでいく。
──リオはその背中を、また見つめた。
あの男は、何も言わずに教える。
それはきっと、誰かを信じているからではない。
むしろ、信じず、確かめるように“見ている”のだ。
少年は、そう感じていた。
「見せるな。振るな。立て」
それは命令じゃない。
この世界で、生き残るために必要な“骨の言葉”だ。
──だから、学ぶ。
それを受け取ることが、生きることになると、そう思った。
火のそばにしゃがみ込むと、リオは自分のナイフを取り出し、鞘ごと手に取った。
持ち方を確認し、再び逆手に構えてみる。
もう一度、立ってみる。
ゆっくり、音を立てずに足を運んでみる。
重心を落とし、背を伸ばし──影を踏まないように。
ヴォルトは何も言わなかった。
だが、ちらりと視線が一度、動いた。
それだけで、少年は少しだけ、背筋が伸びた気がした。
振らぬ刃の先に、次の一歩がある。