第7話 刃は語らない
語らぬ背中から、学べることもある。
丘を越えると、低い霧の底に小さな村が浮かんでいた。
柵もない。見張りもいない。ただ、岩と木材を組んだ屋根が並び、静かな煙が幾筋か、空へとまっすぐ立ち上っている。囲炉裏の火だろう。暖を取るには、まだ湿気が残る時刻だった。
ヴォルトは足を止めると、霧の匂いを吸った。何も言わず、少しだけ視線を巡らせ、それから歩き出す。
リオは二歩ほど遅れて続いた。無言だったが、その目は小さく動き、村の様子を測っている。
──獣除けの骨が吊るされている。軒先に干した皮。農村というより、狩猟を生業とする集落のようだ。
ふたりの足音に、最初に気づいたのは子どもだった。土塀の向こうから顔を覗かせ、何かを言いかけたその口は、すぐに引っ込む。
代わりに、母と思しき女性が出てきて、目だけでふたりを測る。その背には手斧がある。口元は動かさないが、いつでも手が伸びる位置。敵意ではない。ただ、用心深さが残っていた。
ヴォルトは応えない。何も言わず、そのまま市場へと向かっていった。
村の中心には、木の台を並べただけの即席の市がある。塩、干し肉、麻袋に詰められた乾いた豆、削り出しの器具類。道具屋のような家もあり、その前には鉄鍋や錐、壊れたまま放置された耕具が山になっていた。
リオの肩が、わずかに動く。
──初めて見る土地、初めて見る人。だが、彼はそれを言葉にしない。ただ、ヴォルトの背中の動きを見て、同じように歩を緩めた。
市場の端、粗布を被った屋台にヴォルトが立ち止まる。
並んだ品を無言で指差し、一つずつ袋に詰める仕草を見せる。布をめくると中は乾燥イモだった。保存に適している。量は多くないが、他の村より質が良い。ヴォルトは軽く頷き、腰から革袋を解く。
「……四十だ」
女主人が口を開いた。返事はない。だが、ヴォルトは無言のまま、革袋から銀貨を三枚取り出し、四つ目を握ったまま止まる。
女が目を細めた。「塩付きのやつかい?」
ヴォルトは首を横に振る。三枚のまま置いた。
一瞬の沈黙。女はしばらく考え、それから黙って袋を受け取る。交渉は、そこで終わった。
リオはそのやりとりを見ていた。
声を発していない。だが、相手の言葉を聞き、わずかな間と手の動きで判断している。
──値は決まっていないのか、それとも言葉の代わりに“誠実さ”のようなものを秤にかけているのか。
ヴォルトは別の店に向かう。次は薬草と燻煙材。治療と保存、それに虫除けのためのもので、形は不揃いだったが、量は多い。
今度も、彼は言葉を発しない。ただ、必要な物を一つひとつ、無駄なく選び、積んでいく。
リオは、ついていくだけだった。
だが、ただの“荷物”としてではない。観察するように、背中を見ていた。
言葉がなくても交渉できるのか。あるいは、信頼とは静かに積み上げるものなのか。
ふと、少年の表情が微かに歪んだ。目線が手のひらへと落ちる。
──自分なら、もっと上手くやれるかもしれない。
だが、今の自分では、まだ言葉を挟む資格がない。
村の空気は静かだ。だが、沈黙の中に、選ぶ者と見ている者の境界がある。
ヴォルトの背は遠くない。けれど、歩幅の差があるわけでもないのに、少年は“追いつけていない”気がしていた。
それでも、少年は黙ってついていった。足を止めることなく、目と耳と、息の仕方すらも、学ぼうとするように。
午前の陽が、村の屋根に斜めの光を落とし始めていた。風は湿り気を帯びていたが、森の中よりはずっと呼吸がしやすい。
リオは、ほんのわずかに肩を緩める。とはいえ、気は抜いていなかった。気を抜くという選択肢を、彼はまだ許されていない。
ヴォルトは三軒目の道具屋に足を踏み入れた。屋根の低い木造の小屋で、天井に吊るされた鍬や鉈の陰がゆらゆらと揺れている。
入口脇の樽には油布、壁際の棚には編み籠、そして中央の机には、砥石や綿糸、磨耗した包丁の束が置かれていた。
男が店番をしていた。痩せており、片目に黒布を巻いている。ヴォルトの姿を見た瞬間、手元の作業を止めた。
「……用か」
その一言に、ヴォルトは応じない。だが代わりに、棚から砥石を一つ取り上げ、重さと目の細かさを指先で確かめるように撫でた。
男がわずかに眉を動かす。沈黙が空気に沈み込んだ。だが、拒絶ではなかった。
それを見ていたリオの内心に、奇妙な焦燥が芽生える。
──喋らなくても、通じるのか?
彼の知っている世界では、言葉は武器だった。あるいは罠だった。相手を動かすには言葉が要ったし、信用されるにも、騙すにも、言葉が要った。
けれどこの男──ヴォルトは違う。選ぶ。渡す。目で確認し、動作で合意する。そうして、物は確かに手に入っていく。
リオはもう一人の観察者のように、その後ろでじっとしていた。
少年の足元に、擦れた革袋が置かれている。中には、買い揃えた食料や薬草が収まっていた。
──それを持たされているわけではない。けれど、自然と彼が“それを持つ立場”になっていた。
道具屋を出ると、村の空気はさらに柔らかくなっていた。
露店の間を通ると、薪割りをしていた男が一人、リオに目をやり、その手元の革袋に視線を落とす。軽く頷いた。
ほんの一瞬だが、少年はその反応を忘れない。
何も語らない大人の背中を追うことが、“信頼される側”に繋がっている──そんな気がしたからだ。
ヴォルトは振り返らない。
リオもまた、何も言わずに着いていく。その距離が、最初よりわずかに縮んでいた。
次に立ち寄ったのは、鍛冶屋だった。
村の端にある、土間のような造りの作業場。軒先に積まれた炭と鉄屑。奥では炉の火がかすかに赤みを帯び、誰かが重たい金槌を扱っている音がした。
火花は散っていなかった。どうやら仕事は終わっているらしい。
ヴォルトは鍛冶場に入ると、工具が並んだ棚を無言で見回した。そこには槍の石突き部の固定具や、柄の補強金具、簡易の砥石が雑然と並んでいる。
鍛冶屋の男は、大柄で無愛想な風貌だった。真っ黒な前掛けを付け、煙草のような葉を口の端で噛んでいる。
「……槍の補修か」
男の声は低く、乾いていた。ヴォルトは答えず、棚の砥石に手を伸ばす。指先で押して重みと目の細かさを確かめるように動かすと、棚板がきしんだ。
その音と同時に、リオが一歩前に出た。
「……親父、こっちの、ほうが合うかも。槍の石突き──段差が深いだろ」
鍛冶屋の眉がわずかに動く。
リオは自分でも驚いていた。
言うつもりなどなかった。けれど、黙って観察してきたぶん、次に何が噛み合わないか──なんとなく読めた気がした。
彼は砥石の隣にあった銅製の金具に手を伸ばしながら、言葉を重ねる。
「これ……たぶん、炉の空気抜きが甘い。芯まで熱が届いてない」
鍛冶屋が目を細めた。リオは気にせず続けた。
「槍の柄に噛ませるなら、ここを少し削れば、ちょうどいい段差で止まる。今ある中じゃ、これが一番マシじゃない?」
わずかに、鍛冶屋の口元がゆるんだ。
それは笑みではない。“分かっている奴”に向けた反応だった。
「……坊主、どこの鍛冶場で見てた?」
「見てただけ。昔の話だけど」
リオは目を逸らさず、まっすぐに答えた。
沈黙のあと、鍛冶屋はゴツい指で金具をつかんだ。
「……お前の言うとおりだ。癖はあるが、悪くない」
そう言って砥石と合わせて二枚。だが──
「こっちの型も、くれてやる。火は通ってる」
別の金具を無造作にリオの前へ転がした。気まぐれに見せかけた、無骨な気前。
リオがちらとヴォルトを見たとき、男は何も言わなかった。
ただ、一瞬だけ目が細められたように見えた。
鍛冶屋は指を鳴らしながら別の補修具を引き出す。「これは銅。削れば合う」
ヴォルトは無言のままそれを手に取る。
交渉は、短く終わった。砥石と金具、合計二枚。
リオは手持ちがなかったが、提案した手前、代わりに払おうとした──その瞬間。
ヴォルトがその手を、軽く押さえた。
その甲が、少年の指先にふれる。
冷たくも、温かくもなかった。ただ「任せろ」と、言葉なしに伝える重みだった。
リオはゆっくりと手を引っ込め、渡された金具を丁寧に革袋に収めた。
リオはその感触を、そのままに掌に残した。
鍛冶屋を出ると、村の空には淡く曇った陽が浮かんでいた。
風は止んでいた。空気はどこか、張りつめたままだったが、吹く前の静けさのように、刺すものはなかった。
ヴォルトは一言も発せず、村の外れへと歩き出す。
リオは革袋を持ったまま、その背に続いた。袋の中には、砥石と金具。自分が選び、交渉して得た道具が、静かに収まっている。
──ただの荷物じゃない。何も言われなかったが、それは“任されたもの”だ。
村の柵も門もない境界を越えたあたりで、ヴォルトがふいに立ち止まった。
リオも、つられるように足を止める。
男は背中の袋──遺物を収めた硬い革のポーチを開き、しばらく中を探った。
そして、ひとつのものを取り出す。
ナイフだった。
刃渡りは掌より少し長い程度。
だが、その形は奇妙だった。よくある狩猟用のものとも違い、刃はわずかに湾曲しており、重心が刃先に寄っている。
柄は黒革で巻かれ、使い込まれた跡があったが、全体のバランスは崩れていない。刃には研ぎ直しの痕が何度もあり、微細な刻み目が光を鈍く返していた。
どこにも装飾はない。
だが、無駄が削ぎ落とされたそれは、まるで“戦うためだけに存在する刃”のようだった。
「……持て」
ヴォルトが、それを少年の前に差し出した。
リオは、一瞬だけ動けなかった。だが、次の瞬間には手を伸ばし、慎重にそれを受け取っていた。
重みがある。だが、決して握れないほどではない。
柄の太さも、少年の手に合っていた。
何より、刃先の角度と湾曲が、彼の腕の延長のように自然だった。
「……使い込んだが、刃はまだ残ってる。お前の手には、これが最適だ」
それだけだった。
礼の言葉も、褒めるような素振りもなかった。けれど、その言葉の裏にある意味を──少年は感じ取っていた。
信頼とは、言葉の多寡ではない。
ヴォルトは、それを自分の道具を通して示した。
リオはそのナイフを胸元に収めた。革の紐を通し、肌の下に収める。重みが、鼓動に添うように伝わってきた。
「……ちゃんと使う。無駄には、しない」
少年がそう言ったとき、ヴォルトは何も返さなかった。
けれど、それでよかった。返される言葉を、少年はもう必要としていなかった。
ふたりは再び歩き出す。
村の背後に、森が戻ってくる。獣道は細く、湿った地面にわずかな轍が残っている。風が草を揺らし、枝を擦る音が混じっていた。
リオが歩幅を早めると、ヴォルトの隣に並んだ。
男はそれを咎めなかった。視線も寄越さなかった。だが、どこか、その歩調に違和感はなかった。
森に入る直前、ヴォルトの足がわずかに右へずれ、茂みを避けるように進路をとる。
その一歩が、少年の通る道を自然と空けていた。
リオは何も言わず、そこを踏み込んだ。
ふたりの靴音が、同じリズムで地を鳴らした。
それは、言葉の代わりに手渡された。