第6話 名もなき崖を越えて
崖を越えたのは、身体か、それとも心か。
森は深い。
枝という枝が絡み合い、空を拒むように葉を重ねていた。陽は差さず、地面には濡れた苔と、動物の骨のような白い残骸がところどころ埋まっている。空気は冷たく、だが湿り気があり、喉の奥に微かに鉄の味が混じる。誰も歩いた形跡はなく、地面には獣のものでもない奇妙な引き摺り跡がいくつも走っていた。
その森を、二つの影が音もなく進む。
ひとつは大きな男。背には包みと槍を背負い、全身を包む防具は血の匂いが染み付いている。歩幅は広く、足音はなぜか落ち葉ひとつ乱さない。
もうひとつは小柄な少年。男の一歩を、二歩で追う。足元を滑らせぬよう、枝に触れぬよう、気配を消すように進んではいるが、時折、その視線は森の奥で蠢く“何か”に引き寄せられていた。
「……ここ、前よりも湿ってる。獣が通った感じじゃない」
リオがぽつりと呟いた。答えはない。先をゆく男、ヴォルトは足を止めもせず、ただ淡々と進む。リオは一瞬だけ眉をひそめたが、慣れたように再び歩き始めた。
会話はそれきりだった。
森は音を殺す。風がない。鳥も鳴かない。耳の奥で、自分の呼吸音ばかりが膨らむ。リオはそっと肩をすくめ、吐いた息をゆっくり吸い直した。
──黙ってれば、怒られない。
昔、盗賊団にいた頃の癖だ。役立たずは声を上げるな。必要とされるまで動くな。そう教え込まれた。
けれどこの男は、怒ることもしない。ただ、無視する。
まるで、こちらの存在など最初から無いかのように。
それでも、歩みは止めない。
リオはふと、後ろを振り返った。森が、完全に閉じていた。来た道は霧と枝に飲まれ、戻ろうとしても二度とは抜けられないような気がする。そこには、鋭い喪失感があった。
「……ねえ」
再び声をかける。反応はない。
「このまま、どこまで行くの? どこに向かってる?」
ヴォルトの背が、わずかに動いた。だが振り向くことはない。リオの問いは、空中に溶けた。
森の密度が変わる。地面の苔が岩に変わり、斜面が生まれた。ふいに空が見えた。枝の切れ間から、灰色の光が漏れている。
その瞬間、リオの足が止まった。
目前に、崖があった。
どれほどの高さかは分からない。ただ、崖の先には谷があり、その先に別の森が見える。飛び越えるには遠すぎ、回り込むには道がなさすぎる。
ヴォルトが止まり、槍を背に回して地面に立てた。
リオの心臓が、ひとつ鳴る。
「……まさか」
ヴォルトは、荷を下ろした。体を屈め、足場を確認し、風向きを読んでいる。その全てが無駄なく、無音だった。跳ぶつもりだと、見れば分かった。
リオは、己の足を見る。自分の体では到底届かない。無理だ。飛んだところで、崖の中ほどで落ちる。──じゃあ、運ばれるしかない。
だが。
「……抱えられて、行くの?」
問いは、情けなさだった。唇の奥が震える。自分は、何もできない。ついていくだけの荷物だ。
ヴォルトは答えない。ただ、リオの方に視線を向ける。無表情。だが拒否の気配もない。
リオは、拳を握った。
崖のふちに立ったヴォルトは、手袋越しに岩肌を押さえ、風向きと距離を測っていた。
リオはその背中に遅れて近づき、足元の空間を見下ろした。
地面は遥か下。深さは三十メートルはある。飛び降りれば即死──しかし、対岸までは、跳躍と滑空で届かない距離ではない。
「……飛べるのか」
リオが、息を吐くように呟いた。
ヴォルトは応えない。代わりに一歩、崖の端に近づいた。わずかに重心を沈ませ、足裏で岩盤の硬さを確認するように地を踏む。
無理だ、とリオは思った。
いや、あの男なら届くかもしれない。しかし──自分は、足手まといだ。
言葉にしかけて、喉の奥で止めた。
ここで「置いていってくれ」と言うのは違う。それは甘えだ。かといって、「飛ぶ」と言い切る勇気もない。
ふと、風が吹いた。
その瞬間、ヴォルトの右手が動いた。
まるで道具でも扱うように、ためらいなく、リオの脇に腕を差し入れた。
「……!」
声にならなかった。
抱えられたのは一瞬。気づいたときには、地が離れていた。
重力の感覚が、宙で途切れる。
リオの視界が反転し、風が耳を叩く。
ヴォルトは、無言のまま跳躍していた。全身の筋肉が一瞬だけ硬直し、次の瞬間には、空を斬るような勢いで彼方へと駆け抜けていた。
空中でリオは、ようやく自分が抱えられていることを理解した。
胸倉ではなく、背中と腰を押さえられ、落とさぬように支えられていた。
だがそれは、優しさではない。あくまで「運搬」だった。木箱でも担ぐような、無駄のない力の配分。
それが、ひどく悔しかった。
(……俺は、荷物かよ)
心の中で呻いた。だが、それすらも口には出せなかった。
二人の影が、崖の向こうに落ちた。
ヴォルトは、着地の瞬間、片膝を突いた。衝撃を逃すように足を滑らせ、すぐに姿勢を立て直す。
そのままリオを地に降ろすと、何も言わず背を向けて歩き出した。
リオは、その背中を黙って見つめた。
怒るべきなのか、悔しがるべきなのか、自分でも分からない。だが──はっきりしていることがひとつある。
この先、自分の足で越えなければならないものは、もっと多くなる。
だから。
せめて、歩く速度だけは、遅れないように。
リオは、立ち上がった
ヴォルトの両足が地に着いた瞬間、リオはまだその背の中にいた。
ぬくもりはない。だが、支えの感触は確かにあった。ごつごつした背中越しに伝わるのは、岩のような体温ではなく、“意志”そのものだった。
リオはそっと、肩に置かれていた手をほどく。ヴォルトは何も言わず、その手を離すのを待っていた。飛び越えるという行為そのものよりも、その沈黙の方が、胸の奥を締めつけた。
──荷物じゃなくて、俺は。
腕輪が微かに軋む音がした。だがそれは、力の反応ではなく、錯覚のようだった。
二人はまた、森の中を歩き出す。足場は悪く、湿った落ち葉に覆われた傾斜が続く。背後には崖と断絶の空間。進むしかない道を、ヴォルトは淡々と選び取っていく。
リオは数歩後ろからついていく。その背中を睨むでもなく、見上げるでもない。息を整え、ただ“並ぼう”とする意志だけで足を動かしていた。
道なき道を踏み分けるたび、靴底に粘る泥が重くまとわりついた。森は依然として静かだった。だが、それは“平穏”ではなかった。沈黙というよりも、何かを潜ませているような──息をひそめる獣のような、奇妙な気配だった。
ヴォルトは、ときおり足を止めては空を仰ぐ。雲の切れ間に一筋、陽が射す。
その瞬間、木々の合間から、地平の向こうに何かが覗いた。
「……村?」
思わず、リオが言葉を漏らす。
ヴォルトは答えない。ただ、わずかに頷いたようにも見えた。
風が変わった。森の奥から吹き抜けてきた湿気を帯びた風ではない。土と人の匂いを含んだ──生活の気配だ。
「……ほんとに、あったんだな」
その声に、ヴォルトは振り返らない。
だが、足を止めたまま、しばしの間そこに立ち尽くしていた。
リオは彼の背を見ながら、何かを言いかけて、やめる。
代わりに──小さく、ふう、と息を吐いた。
それが安堵なのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなのは──
――この旅は、まだ終わらない。
リオは黙って歩き出す。ヴォルトの背中に追いつくことも、距離を縮めることもなく。ただ、同じ地面を踏みしめて進む。
その先にある村が、何を意味するのか。
二人とも、まだ何も知らなかった。
名も知らぬ村の灯が、なぜか温かく見えた。