第5話 火は絶やさず
冷えきった森に、熱は持ち運ぶものだった。
獣道を外れ、苔むした斜面を踏み分けていく。湿った土が足裏に沈みこみ、木々の隙間から差す斜光が、細かい埃を揺らしていた。
ヴォルトは一言も発さず、前を行く。
少年――リオは、その背中を見ながら、黙ってついていた。
ふいに、ヴォルトが足を止めた。
何かを見つけたのかと視線を向けると、ヴォルトは周囲の地面を見やって、そこにわずかに沈んだ足跡を確かめていた。草の葉が一枚、わずかにちぎれ、獣の通り道らしき筋が斜面を横切っている。
リオは、言葉を飲み込んだまま様子を見守った。
風の流れとは別に、葉が一枚、地面すれすれを滑るように舞った。次の瞬間、微かな音が耳をかすめる。リオが動きを止めたのは、ヴォルトの視線の先に気づいたからではない。茂みの奥、わずかなざわめきを拾ったからだ。
地面をかすめて走る、小さな影。野うさぎだった。褐色の毛並みに枯葉が混じり、ふいに陽の射した隙間へ飛び出したことで、ようやく姿が明瞭になる。
風が、止まる。
茂みの奥、かすかに葉が揺れた。
──次の瞬間。
細い前足を畳むように跳ね、一息で岩の根元へ──そこへ、鋭く空を切る音が走った。
ヴォルトの腕が、槍を放っていた。
投擲の瞬間は、ほとんど視認できない。体幹ごと捻り、背中の筋肉がねじれると同時に、槍は地面すれすれの軌道を描いていた。落葉を巻き上げることもなく、静かに、鋭く。わずかに跳ねたうさぎの背後へ、鋭角の先端が吸い込まれるように突き刺さる。
音はない。ただ、影が跳ねずに倒れた。
リオが見たのは、槍の尾部が地表に触れる寸前、角度を保ったまま突き刺さったその瞬間だった。うさぎの体は、まだ温かさを残していた。
ヴォルトは一歩進み、茂みをかき分ける。
そこには、一匹の野うさぎが倒れていた。咄嗟に跳ねようとしたのか、前脚が半ば浮いた姿勢のまま、胸部に深々と槍の穂先が突き刺さっていた。出血は最小限。喉も腹も避けて、致命だけを与えた一撃。槍を引き抜き、倒れた獲物を片手で持ち上げると、そのまま腰の袋に布を広げてくるむ。血のにじんだ先端を、葉でぬぐった。
「……すごい」
リオがぽつりと漏らしたが、ヴォルトは何も返さなかった。その動作に迷いも飾りもない。まるで何十回と繰り返してきた作業のように、手慣れた所作で獲物を処理していく。
そして、再び歩き出す。獣道とは言えないほどの道を、今度はわずかに左に折れながら進んでいく。
やがて、木々の切れ間に低い屋根が見えてくる。木の皮を編んで作られた素朴な小屋。その脇に薪が積まれ、壁には風で晒された毛皮が干してある。
「……今日も泊まっていくんだろ」
扉の内側から、くぐもった声が響いた。
次いで、年老いた男がのそりと現れる。腰の曲がった体つきだが、腕と脚は太く、斧を片手にしている。
ヴォルトは何も言わず、手にした獲物を差し出す。
木こりはそれを受け取り、目を細めた。
「上等だ。内臓を抜いておこう」
火を起こし、皮を剥がし、肉を吊るす音が、夕暮れの中で響いていた。
──
夜。
焚き火の脇で湯が沸き、食事が並ぶ。塩はないが、肉の香ばしさに飢えた胃が刺激される。
ヴォルトは、少年に布団を一枚渡すと、何も言わずハンモックを軒下に設けた。吊るしたロープはまるで罠のように確実に張られ、彼がどこにいても戦える位置取りに見えた。
リオは戸惑ったように布団を見つめ、それでも黙って受け取る。
ありがとう、と言いかけてやめた。その言葉が、ここでは不自然に思えたからだ。
男の背は、火の揺らぎに包まれながら、ただ黙って揺れていた。
──
朝。
冷たい空気の中、焚き火の灰が風に舞っている。
リオが外に出ると、すでに薪が積み上げられていた。鋭く割られた断面が、まだ湿気を含んで光っている。
木こりは家の裏で斧を研ぎながら、言った。
「行くんだな」
ヴォルトはうなずきもしない。リオも何も言わなかった。
けれど、その無言のまま、小屋を後にする二人の背には、わずかな温もりが残っていた。
言葉の代わりに、薪が割られていた。