第4話 焔の跡、歩む者たち
言葉が交わらぬ旅でも、信じられる背はある。
──冷たい風が吹いていた。
森は夜を深く沈め、梢のあいだから、白む空がひとかけらだけ覗いていた。
焚き火の跡はすでに掻き消され、土の上に残るのは、潰れた草の跡と、わずかな熱気のみ。
リオは、木の根元に膝を抱えていた。
頬はこけ、腕は骨ばっている。手首を覆うツルの腕輪だけが異様に重く見えた。
目の焦点は合っていない。だが、その胸は早鐘のように上下している。
ヴァルトはしゃがみ込み、地に耳を当てた。
風の向き、鳥の気配、獣の通った痕。
──違う。
土に響いたのは、蹄でも、四足の走りでもない。
人間の靴音だ。しかも二人分ではない。複数。
ヴァルトは立ち上がり、槍を手に取った。
一言も発しない。
だが、その背中は「動くな」と言っていた。
リオは、動けなかった。ただ、それが「恐怖」ではなく、「信じるしかない」からだと、自分でもわかっていた。
ヴァルトの手が、腰の袋から何かを取り出した。
灰と油を混ぜた小瓶。小枝に塗り、逆風の中、わずかに焚き火の跡へ擦りつける。
匂いを残すためだ。
そのまま、地面に転がった一本の布片を拾い、リオの腰に結びつけた。
「……?」
問いかける暇もなかった。
ヴァルトは、指で地面を二度叩き、そのまま草陰を指さした。
──走れ、ということだ。
リオは、無言のまま小さくうなずき、土の匂いを吸い込みながらしゃがんだ。
そのときだった。
「いたぞ! このあたりだ!」
森の奥から声が跳ねた。
甲高く、怒気を帯びていた。武装の音が続く。金属が草を叩くような音。
盗賊団の残党──いや、援軍か。
ヴァルトは既に走り出していた。
足音はない。空気すら揺らさぬように、低く、地を這うように走る。
目指すは、あえて焚き火の跡。
そこに、敵が引き寄せられることを知っている。
そしてそのすぐ脇に、倒木の影。風の読み、光の角度、土の踏み応え──すべてを読み切った死角。
ヴァルトはそこに、獣のように沈んだ。
槍を寝かせ、呼吸を殺す。目だけが光る。
──来る。
一人、足音。二人目、後ろから続く。
三人目──重い足取り。斧か。武装の形状まで、土の跳ねる音で読み切る。
ヴァルトは、槍を地に滑らせるように構えた。
その刹那。
「おい、いたか──」
刃が、喉元を貫いた。
声は途中で途切れた。血飛沫は草に吸われ、斃れた音は地に沈んだ。
二人目が振り返る。その目が、月に照らされた男の影を捉える。
「う、おお──!」
叫びが出るより早く、ヴァルトはもう斜め後ろへ踏み込んでいた。
槍は振らない。突くのではなく、叩き潰すように腹へ打ち込む。
空気が抜ける音。肺が潰れる。
男は崩れるように倒れ、槍が脇腹を刈った。
三人目が斧を振り上げる。
だが、ヴァルトはそこにいなかった。
わずか半歩、左に沈んだだけで、死角を抜けた。
斧が振り下ろされる。空を切る。次の瞬間、足元に槍の石突きが打ち込まれる。
「ぐっ──!」
よろめいた男の首元に、冷たい刃が閃いた。
それで終わりだった。
三人の気配が、森から消えた。
それでもヴァルトは、すぐには動かなかった。
草の揺れ、風の中の匂い、遠くの獣の反応──
“他にいない”ことを、確信に変えるまで。
ようやく、リオの隠れた方角へと目を向けた。
──草が、かすかに動いた。
木の陰から、リオが出てくる。
だが、歩きがふらついていた。
ヴァルトの視線が、一瞬だけその細い足に向いた。
やせた骨格。震える膝。泥のついた腕輪。
──その姿を、彼は一言も発さず見つめた。
ただ、死体からベルトを一本引き抜き、黙ってそれをリオに渡した。
「……え?」
言葉の代わりに、ヴァルトはそのベルトで荷袋を縛り、肩に担がせた。
歩け、と命じたわけではない。
だが、リオは一歩を踏み出すしかなかった。
足は重い。身体はきしむ。
でも、背中は、追うべき影を見失わなかった。
──この人は、俺を“連れている”。
それだけは、間違いないと思えた。
山道は痩せていた。
根の浮いた地面は、長いあいだ踏みならされていない。草に覆われ、斜面のあちこちが崩れている。
その道を、ヴァルトは黙って登っていた。
先に立ち、振り返らない。
リオはその後ろを追う。
脚は鉛のようだった。踏み出すたびに、膝が笑いそうになる。
吐き気はとうに過ぎて、喉は乾きすぎて、もう渇いていることすらわからなかった。
木々のざわめきが耳に痛い。体温が逃げていくのがわかる。けれど──
背中だけは、見失わなかった。
歩き続ける理由が、ほかになかったからだ。
足元の石に躓いたとき、リオの指先が思わず空を掴むように伸びた。
その瞬間。
ヴァルトの手が、荷袋の帯をつかんだ。
無言で、体を引き戻す。
リオは、ようやく呼吸を吐いた。
「……ありが、とう」
応えは、なかった。
ただ、また前に進みだした。まるで、“それが当然”だと言うように。
何も言わなくても助けることがある。
それを、リオは初めて知った気がした。
火がはぜた。乾いた松の枝が弾け、灰が舞う。
ヴァルトは黙って火を見つめたまま、食糧の袋を引き寄せると、ひとつ、干し肉を取り出した。
裂いた半分を、そのままリオに差し出す。
言葉はなかった。だがそれは、はじめから「渡すつもりであった」ような、自然な動きだった。
リオは受け取るまでに、ほんの数秒の間を置いた。
──毒かもしれない、と疑ったわけじゃない。
ただ、何も見返りを求められずに差し出されたことがなかった。
盗賊団では、与えることは、支配の始まりだった。
そういう生き方しか、知らなかった。
肉を口に運び、噛む。塩と獣臭が舌に残る。
乾いた肉の固さが、逆に安心だった。
噛めば噛むほど、確かなものがある気がした。
火のゆらぎが、まるで誰かの声のように見えた。
名前を、聞こうかと思った。
けれど、やめた。
──まだ、呼んではいけない気がした。
ほんのわずか、リオは男のそばに身を寄せた。だが、ひざが触れるほど近づくことはしなかった。
夜の冷えが、皮膚の上に膜のように降りてくる。
あたたかさはある。だが、それに甘えてはいけない。
そう思うくせに──
火の明かりの中で、自分の呼吸が落ち着いていくのを、止められなかった。
孤独は終わらない。ただ、誰かと並ぶことで薄れてゆく。