第3話 名を持たぬ者たち
言葉の代わりに、火と沈黙で通じ合う者たち。
──風が止んでいた。
夜の底に沈んでいた森が、白んだ空気に少しずつ染まり始めていた。雲の色はまだ鉛色のまま。だが、葉の裏がかすかに明るい。
冷えきった空気のなか、土と灰に埋もれた火床のそばで、ヴォルトは目を開けていた。
身体を起こす。焚き火は熾火だけを残していたが、男は手慣れた手つきで枝を数本くべた。火はまだ生きていた。
その傍ら、獣の毛皮を肩に掛けて眠る小柄な影があった。少年だ。
頬にかかった土の汚れ。握った拳は細く、爪の下に乾いた血。吐息は浅く、喉の奥でときおり何かを噛むような音を立てる。
ヴォルトは視線を落としたまま、何も言わず立ち上がった。水袋を取って腰に下げ、足音を立てぬように崖沿い(がけぞい)の坂を下ってゆく。
やがて、葉の滴を集めた小さな溜まりで身を沈めた。掌に水をすくい、泥を流し、布を湿らせる。火打ち石と鍋底に残った灰を一度確認し、何も言わず引き返す。
戻ったときには、少年が起きていた。だが言葉はなかった。
ヴォルトは濡らした布を焚き火の傍に置き、荷袋から干し肉を取り出すと、石の上に投げた。
それは「食え」という言葉より静かだった。
少年は、ほんのわずかにまぶたを伏せた。
火の前に座り直すヴォルト。その背を、少年は見ていた。
──なんで何も言わないんだろう。
問いは言葉にならない。胸の奥で小さく、何度も転がる。
助けられたのだ。いや、交換されたのだ。その境目が曖昧なまま、こうして野営を共にしている。
火をくべ、布を渡し、食い物を寄越す。だが一言も喋らない。名も名乗らない。質問すらされない。
それが楽だった。楽だったはずなのに、何かが詰まる。
少年は、ふと唇を開いた。
「……あの」
ヴォルトは振り向かない。だが耳だけがわずかに動いた。
「……」
声は、出なかった。
喉の奥で詰まった言葉を、少年は火の中へ落とした。
火がぱちりと爆ぜ(は)た。
それだけだった。
焚き火の始末を終え、二人は森を抜ける獣道に踏み込んでいた。
斜面は乾いていたが、ところどころ落ち葉に覆われた岩肌がのぞいていた。道と呼べるものはなく、踏みならされた痕跡もほとんどなかった。
先を歩くヴォルトは、視線を一度も後ろに向けなかった。
少年は、それでも数歩遅れてその背を追っていた。
──重いな。足が。
眠りは浅く、腹は鳴り、喉は乾く。けれど、いま一番重いのは“言えなかった言葉”だった。
名を、訊けなかった。
ただのひとことのはずだった。それなのに、口を開いた瞬間、胸の奥が固くなり、舌が止まった。
名を知らないまま旅をしている。その事実にようやく気づいたのだ。
ついで、足がもつれた。
「──っ」
咄嗟に転びかけた身体を、細い腕で支える。指先が泥に滑り、膝をついた。
くしゃりと草が潰れた音がした。
ヴォルトの足が止まった。
振り返りはしない。ただ、ほんのわずかに、顎だけがこちらに向いた。
──見るでも、問いかけるでもない。
それだけで十分だと言わんばかりの、気配。
少年は、ゆっくりと立ち上がった。
「……大丈夫」
呟くように言ったが、届いていないはずだった。
それでも、ヴォルトは歩き出していた。
その背を、少年は今度は転ばずに追いかけた。
数歩の距離。その歩調に、少しだけ自分を合わせてみる。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。ただ──
“置いていかれているわけではない”
そう思えたのだ。
しばらくして、林の開けた場所に出た。崖の端に近い。周囲を見渡せるが、風が抜けて寒い。
ヴォルトは立ち止まり、腰の袋から火打ち石を取り出した。
地面にしゃがみ、焚き火の跡のような場所を整える。そして、黙って少年の方に石を投げた。
「……え?」
石は土の上に落ちた。
少年が戸惑いながら手に取ると、ヴォルトはわずかに顎をしゃくった。
──火を起こせ。
言葉はない。だが、それ以外に意味などなかった。
少年は膝をつき、小枝と乾いた草をかき集めた。火打ち石を構え、火花を飛ばす。
何度も、何度も。
指が震える。火は、なかなかつかない。
それでも、やがて──
小さな光が、草の先に灯った。
煙が上がる。少年は身をかがめ、慎重に息を吹きかけた。
光が、ひとつ、燃え広がる。
それを、ヴォルトは黙って見ていた。
少年は、火を囲むように座った男の隣に、そっと腰を下ろした。
火が爆ぜ(は)る音だけが、静かに続いた。
──いまなら、訊けるかもしれない。
少年は火を見つめたまま、呟いた。
「……あなたの、名前は」
火が揺れた。
ヴォルトは、何も言わなかった。
ただ、わずかに顔を伏せ、火に目を落としたままだった。
少年は、何も言い足さなかった。
そして、思った。
──今日も、聞けなかった。
焚き火の傍らに座る位置は、少しだけ近くなっていた。