第1話 袋と腕輪
あの旅の記憶は、ここから始まる。
まだ、名前も知らないまま。
石の階段を降りきった先に、空気の淀んだ石室があった。
割れた棺のような収納箱が一つ。周囲の壁は崩れ、天井は斜めに沈んでいる。古代の儀式場か、あるいは避難所か。造りは雑だが、床に敷かれた赤褐色の石板には、かすかに装飾の名残がある。
その中心に、一つの袋が転がっていた。
――見窄らしい。
麻と布の中間のような素材。何度も補修された痕跡。口金の部分も黒ずみ、ちぎれかけた紐が垂れている。
だが、名もなき男はそれを手に取った瞬間にわかっていた。
(本物だ)
袋の縫い目は、現代には存在しない技術だった。内部空間を拡張する魔術的な技法。古代語が口金の裏に刻まれ、外からの衝撃を自動で打ち消す細工まである。
これがあれば、水も、食糧も、薪も、テントも、すべて背負って運べる。
男は無言のまま、袋を腰にくくりつけた。背中で金属の留め具が鳴る。
そのとき、背後から微かな足音が石室に染みこんだ。
「よう、そこまで運がいいとはな。そいつ、俺たちが見つけたんだが」
声と共に、灯りが差し込む。松明を持った男たちが数人。
皮の鎧、鉄片を継ぎ合わせたような剣。雑に磨かれた装備、口に歯の欠けた笑み。
盗賊団だった。
男――ヴォルトは、振り返らない。
ただ、槍を持った。
頭領の手が、合図のように落ちた。
次の瞬間、左右の岩陰から二人、そして背後からも回り込むように一人──武器を構えた盗賊たちが、音もなく迫る。
ヴォルトは、動かない。
……いや、動かなくてよかった。
最初の一撃は背後からだった。鈍く光る棍棒が、脳天を狙って振り下ろされる。
だが──
風が裂けた音の次に、乾いた骨音が跳ねた。
ヴォルトの左肘が、真後ろに走る。背中越しの肘打ち。振り向かず、足も動かさず、ただ軸だけで打ち抜いた。
骨が折れ、棍棒が落ちる。
その音と同時に、前方二人が突っ込んできた。
ヴォルトは、槍を抜いた。
音すらしない軌道で、柄が空を割る。斜め下から斜め上への“送り”。最短軌道を描いて、腹と首筋へ──
突かない。振らない。
回す。
柄を撓らせることで、刃の角度を微妙に変えた。首筋に掠った刃は、皮膚を裂くだけに留め、致命を避ける。
腹を狙った一撃も、腸を穿たぬよう、筋膜に沿って滑らせるだけ。血は出るが、死なない。殺しにいったのではない。殺さずに“潰す”だけだ。
槍が戻る。ヴォルトの肩越しに柄尻が舞い、額へ直撃する。
ひとりが沈む。
もう一人も刃を抜こうとするが、その動作の前に、ヴォルトの足が動いた。
踏み込みではない。滑らせるだけ。踵で岩の苔を削り、身体を“傾ける”。
その姿勢のまま、左足の膝で相手の腰骨を打ち上げた。
くの字に曲がる盗賊の身体。槍の柄がその背へ、殴打のように叩き込まれる。
戦闘は、五秒だった。
そして、槍を構え直した。
刃先は地面すれすれ、右足が半歩前。刺突にも防御にも移れる、静かな構え。
その構えを見て、残った盗賊たちは動けなかった。
息を呑む音。焦りと怒気の混じった呻き声。ろぎもできずにいる。
その時、奥から怒鳴り声がした。
「やめろ。無駄死にさせるな」
火の粉を振り払いながら、盗賊団の頭領が現れる。
その腕に、ひとりの少年が引きずられていた。
腕には、朽ちたツルのような腕輪。ぼろぼろで、何の価値もなさそうな“呪われた遺物”。
頭領は、焦ったように叫ぶ。
「なあ、そこのあんた! その袋に入ってた水晶──あれとこいつを交換しようじゃねぇか」
ヴォルトの目が、ほんの一瞬だけ、少年の腕に止まる。
静かに、表情を変えぬまま、腰の袋から“石”を取り出した。
何も言わず、それを投げた。
男の手元に落ちた石を確認し、盗賊たちは歓声を上げる。
少年は、その場に放られた。
ヴォルトは近づかない。ただ背を向け、歩き出す。
数歩の間を置いて、少年がゆっくりと立ち上がる。
目は怯え、声も出ない。ただ、男の背を追った。
石室の奥。崩れたアーチの先に、風の音だけが吹き抜けていた。
ただ、選んだ──それだけだ。