エピローグ
あの旅の終わりが、始まりだった。
風がない。
地の底のような静寂が、崩れかけた石柱の合間を満たしていた。
天井は半ば崩落し、外光が斜めに差し込んでいる。灰を混ぜたような光だ。
かつてここは神を祀った場だったらしい。だが今は、死体も祈りも残っていない。
鉄靴が瓦礫を踏む。石屑が音を立てて砕けた。
ヴァルトはそのたび、無意識に足裏の角度を変える。砕いた音より、滑らせた砂の感触の方が信頼できる。
崩れた床には罠もある。竜の足跡もある。両方を読むには、足裏の“重さ”が要る。
槍を持ち直す。左手が柄の中腹、右手が下端。
柄を軽く撓らせながら握り直すと、掌の皮がきしんだ。
わずかに返した手首が、穂先を弧状に揺らす。意図はない。ただ、構えが体の延長である証。
空気が一段階、冷たくなった。
奥から気配が来る。音ではない。風の“反射”が変わった。
リオの声が、小さく背後に届いた。「来る……!」
ヴァルトは返事をしない。
その場に半歩腰を落とし、重心を床へ沈める。槍は左腰から右肩へ、斜めに構えられていた。
天井のひび割れ、左右の石柱、竜が来る経路とその圧──すべての軌道が“静止画”のように脳内に展開されている。
竜が現れた。
音は後から来た。
その巨体が咆哮とともに姿を見せる頃には、ヴァルトはすでに前足の爪の角度を読んでいた。
尾が来る。殺しに来ている。
ヴァルトは一歩、斜め後方へ踏み出す。
右足を滑らせ、地の段差を使ってわずかに重心を落とす。
同時に槍を寝かせ、刃ではなく“柄の側”を床の亀裂へ沿わせる。
竜の尾が風を裂いた。
振り抜く瞬間の気流を利用して、ヴァルトは反対側の瓦礫へ跳ねる。
着地は膝を殺し、足裏で受ける──足の小指側から順に重さを地に預けることで、音を消す。
そして、跳ねた反動で左足を軸に一回転。
槍の穂先が、喉下へ滑り込む。
突きではない。
“切り込む”ための突き上げ──だが刃を深く入れない。
ヴァルトは肩をひねり、手首を極限まで倒して、穂先を筋の束に滑り込ませた。
そこに“止まる”。力を貫かず、緩めもせず。
竜が首を振る。
その動きに合わせて、穂先を刃の腹で撫でるようにずらし、切開する。
咆哮。だが血は出ない。筋の薄皮一枚──逃げる気力だけを奪う。
ヴァルトは距離を取らない。むしろ踏み込んだ。
右足の膝で、竜の前肢の骨の内側を蹴り上げる。
膝を引き上げるのではなく、“押しつける”ように叩き込む。
その質量のまま、跳ね返る肉の波を受けて半歩後退──
背後の柱に体重を預け、反動で跳ね戻ると同時に、
槍の柄尻を両手で持って真下から竜の鼻へ突き上げた。
“打ち込む”というより、“食い込ませる”。
硬質な軟骨に対して、握力のすべてを込めて、柄をねじ込む。
骨が悲鳴を上げたような音を立てて、竜が身をよじった。
尾が横殴りに振り抜かれる──巨木のような質量が、空気ごと叩き潰しに来た。
ヴァルトは、刃を寝かせた。
柄の中程を握り、穂先を右足側へ水平に倒す。
そのまま地を滑らせ、床の亀裂に穂先を“預けた”。
柄は撓む。だが、軌道は変えない。
竜の尾が目前をかすめる瞬間、ヴァルトは左足を前へ。滑らせるように斜行し、槍は、足の動きに連動して起き上がった。
刃を旋回させるように持ち上げ、軌道の中に組み込む。
突くのではない。
肘と手首で“抉る”──すれすれの動きが、皮膚と筋肉の境を裂いた。
槍は、下から起こされていた。
剣のように振るのではない。刃を腕ごと旋回軸にして、抉る。
穂先が喉下に届く瞬間、手首が返される。鋼の三角刃が、逆ねじれの角度で肉を裂く。
突き刺さない。貫かず、押し込む。
刃が“抜けない”ほどの深さを避け、皮膚と筋肉の接合部だけを裂く精度。
竜の咆哮が上がる。首を振り、身を引く。
ヴァルトは一切追わない。右足を引き、同時に槍を肩越しに引き戻す。
柄の長さ全体を、弧を描くように滑らせて、左手に引き取る。
そして、柄尻を鼻面へ真下から突き上げた。
鈍い打撃音。
狙いは神経叢ではない。ただ、鼻腔の通気と視界を“断つ”ための一撃。
そこでようやく、ヴァルトは後ろを見た。
通路に立つリオが、唇をかすかに動かす。「行ける……?」
ヴァルトは頷かない。
ただ、槍を一度地面に立て、柄を軽く叩いた。音が鳴る。それだけで十分だった。
竜が咆哮する。天井から土砂が落ちる。
崩落の予兆。出口は遠くない。
ヴァルトは槍を引き抜く。
構えを変えず、呼吸も変えず、ただ静かに刃を戻す。
再び竜を睨む。だが、その刃はもう下を向いていた。
殺す気はない。
ただ、退くときに背を預けるための構え。
一歩、ヴァルトが進む。
一歩、竜が後退する。
その刹那──天井が崩落た。
光が粉塵に乱反射し、視界が白く塗り潰される。
咆哮も、震動も、すべてが遠ざかっていく。
ヴァルトは槍を背に回し、通路の闇へと姿を消した。
竜は追わなかった。
この旅が何を終わらせるのかは、まだ誰も知らない。