第5話 狼耳ミルクと幸せな時間
前回のバイトで撮られた、自分の情けない写真の数々。あれは机の引き出しの最も奥、二度と開けることのないであろう『黒歴史』と名付けた箱の中に封印した。ひまりさんの、マタタビでとろけた可愛い姿だけを脳内のベストショットアルバムに保存し、僕は平穏な日常を取り戻した……はずだった。
「……まだかな」
放課後の教室で、一人スマホを眺めながら呟く。窓の外では友人たちが楽しそうにボールを蹴っているが、僕の心はここにあらず。あの奇妙で、最高にエキサイティングなバイトの連絡を、今か今かと待ちわびていた。ひまりさんと、少しだけ普通に話せるようになった、あの不思議な一体感。また、あの非日常を味わいたい。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面には、見慣れた、しかし誰よりも待ち望んでいた差出人からのショートメール。僕は「よしっ!」と小さくガッツポーズをし、人気のない屋上へと駆け上がると、躊躇なく青いリンクをタップした。
◇
「しょこたん! ひまりさん! お待ちしておりましたですぅ!」
白い光の向こう側では、いつも通りルーミア様が満面の笑みで出迎えてくれた。ひまりさんも、少しだけ僕に視線を送って、こくりと頷く。前回の一件以来、僕たちの間には奇妙な連帯感が芽生えていた。
「さて、今回の撮影対象ですが……少々ワイルドで、手ごわいモフモフさんになりますぅ!」
ルーミア様が芝居がかった口調で言うと、ひまりさんが「は? 手ごわいって何。また変な条件あんの?」と眉をひそめた。
「ふふふ、今回の対象は、モフモフな狼さんたちですぅ! 彼らは誇り高く、群れ以外の者には心を許しません。ですから、そのままでは少々危のうございますので……」
女神様がパン、と手を叩くと、目の前のテーブルに二つのグラスが出現した。中には、とろりとした黄色い液体が満たされている。
「こちら、『犬耳ミルク』になりますぅ! これを飲めば、あなたたちも狼の群れに受け入れられるはずですぅ!」
(狼……! あの孤高で、凛々しくて、それでいてモフモフの塊……最高じゃないか!)
僕は興奮を隠しきれないまま、グラスを手に取った。
(今回は犬耳か……。味は……バナナミルクっぽくて美味しいな)
甘くまろやかな液体を、ごくごくと一気に飲み干す。直後、体の芯から熱が湧き上がり、全身の細胞が活性化していくような感覚が走った。頭のてっぺんがむず痒くなり、視界の端に、ぴんと立った黒い耳が映り込む。腰のあたりからは、太くてふさふさの尻尾が、意思を持ったように左右に揺れていた。
隣で同じようにミルクを飲んだひまりさんも、神殿の大きな鏡に映る自分の姿を、驚いたように見つめている。
「え、うち、結構イケてんじゃん……」
長い金髪と、そこから覗く純白の狼耳のコントラストが絶妙だった。猫耳の時とは違う、少しクールで大人びた雰囲気が、彼女の新たな魅力を引き出している。
「すごく、似合ってます。カワイイです、ひまりさん」
僕が素直な感想を口にすると、ひまりさんは鏡から僕に視線を移し、少しだけ頬を赤らめた。
「……あんたも、まあ、悪くないんじゃない。その黒い耳、なんか……カッコいい、かも」
「えっ!?」
まさか褒められるとは思わず、僕は心臓が跳ねるのを感じた。
「……っ! ば、バーカ! 勘違いすんなし!」
ひまりさんはぷいっとそっぽを向いてしまったが、その白い耳が嬉しそうにぴくぴくと小刻みに動いているのを、僕は見逃さなかった。
◇
僕たち三人が転移したのは、月明かりだけが頼りの、静寂に包まれた広大な草原だった。ひんやりと澄んだ空気が肺を満たし、草の匂いが鼻をくすぐる。見上げれば、満天の星が、まるで宝石をまき散らしたようにきらめいていた。
その静寂を破るように、遠くの岩陰から、いくつもの光る目がこちらを窺っているのが見えた。一つ、二つ……気づけば、十を超える黄金の光が、僕たちを静かに包囲していた。やがて、影の中から、狼たちがゆっくりと姿を現す。その統率の取れた動きは、野生の厳しさと誇りを感じさせた。
「ねえ、マジで大丈夫なの、あれ……」
ひまりさんが、不安そうに僕の腕を小さく掴む。
「これをあげてくださいですぅ。心を込めて」
ルーミア様が、どこからか取り出した新鮮な鶏肉の塊を、僕とひまりさんに手渡してくれる。
僕はごくりと唾を飲み込み、群れの中でもひときわ体が大きく、威厳のある銀色の狼……おそらくリーダーだろう……の前に、ゆっくりと進み出た。そして、膝をつき、鶏肉を乗せた手のひらを、静かに差し出した。
銀色の狼は、すぐには食いつかなかった。ただ、僕の目をじっと見つめ、ふん、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。試されている。その視線から、そんなメッセージが伝わってきた。やがて、僕に敵意がないことを悟ったのか、そのざらりとした温かい舌で、僕の手のひらをぺろりと舐め、鶏肉を優しくくわえていった。
それが、信頼の証だった。
リーダーが僕を受け入れたのを見て、他の狼たちも次々と僕たちの周りに集まってきた。
「うわあ……! すごい……!」
大きな体が、僕の足にすり、と力強く寄せられる。指を立ててその背中を撫でれば、指の根元まで沈み込むほどの、密度の高い極上の毛並み。筋肉質で引き締まった体と、その上を覆う柔らかな毛皮のギャップがたまらない。
(ああ、これだ。僕が求めていたのは、この生命の温かさなんだ……!)
人懐っこい一頭が、僕の顔をぺろぺろと遠慮なく舐め回してくる。くすぐったさと嬉しさに、僕は思わず笑い声を上げた。
ひまりさんも、最初は少し怖がっていたが、足元にじゃれついてくる子狼のあまりの可愛さに、すぐに警戒を解いたようだった。今では大きな灰色の狼のお腹に顔をうずめ、「ちょ、やめろって! くすぐってー!」と叫びながらも、満面の笑みを浮かべてそのモフモフを堪能していた。
僕たちは夢中でスマホのシャッターを切った。月を背景に遠吠えするリーダー狼の凛々しい横顔。兄弟でじゃれ合い、甘噛みしあう子狼たち。そして、ひまりさんの膝の上で、安心しきった顔で眠る子狼の、天使のような寝顔。すべてが奇跡の瞬間で、すべてが愛おしかった。
今回は、マタタビのようなハプニングはなかった。ただただ、純粋なモフモフとの触れ合いだけが、そこにはあった。ルーミア様も、今回は写真を撮ることに夢中になるのではなく、女神らしい穏やかな微笑みを浮かべて、僕たちと狼たちが織りなす光景を、ただ静かに見守っていた。
やがて、東の空が白み始め、別れの時が来た。狼たちは名残惜しそうに僕たちの周りをうろつき、リーダーの銀狼は、最後に僕の頬をもう一度だけぺろりと舐め、仲間たちを率いて森の奥へと帰っていった。
天界に戻ると、ルーミア様は心から満足したように微笑んだ。
「お二人のおかげで、わたくしも心が洗われるような、素晴らしい光景を見ることができましたですぅ。本当に、ありがとうございました」
もちろん、バイト代の二万円ももらってきた。
自宅のベッドに倒れ込み、僕は幸せなため息をつく。服には、まだ微かに野生の、そして温かい狼たちの匂いが残っているような気がした。
今回は、とても幸せな撮影だった。
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!