第5章 「湯煙の彼方に望む加太湾」
綺麗さっぱり水に流す必要があるのは、何も過去に起因する心残りや蟠りに限った話じゃないの。
何しろ私達はついさっきまで、友ヶ島のプライベートビーチで遊んでいた訳だからね。
細かい砂粒やら、潮風を浴びて付着した塩気やら。
そうした海水浴に付き物の諸々を、スッキリと洗い流す必要があるんだよ。
そう言う訳で私と美鷺ちゃんの二人は、宿舎に併設してある大浴場へ浸かってノンビリとリフレッシュする事にしたんだ。
「にしても、今回はツイてたな…見ろよ、千の字。この露天風呂、アタシ達二人の貸し切りだぜ。」
「さっき上がって行った大阪支局の子達の言った通りだったね、美鷺ちゃん。あの子達はミストサウナと内風呂のジャグジーをメインで使っていたみたいだから、露天風呂へはあまり入ってないみたいだけど。」
大義そうに伸びをする美鷺ちゃんに応じながら、私は頭頂部に乗せたタオルの位置を直したんだ。
この友ヶ島要塞の宿舎では様々なレジャーやアクティビティが楽しめるけど、大浴場に引かれている源泉かけ流しの天然温泉は実に素晴らしいよ。
私がお湯に浸かりながらボンヤリと見ている加太湾があるでしょ。
あの対岸にある和歌山市加太地区の旅館やホテルの温泉と同じ炭酸水素塩泉が、この大浴場のお湯の泉質なんだ。
当然の事だけど、温泉に入る時の適応症もそっくりそのままだよ。
一般には「効能」って一言でザックリ呼ばれてるけど、厳密には「泉別適応性」と「一般適応症」とに二分されるんだ。
泉質別適応症だったら、切り傷に末梢循環障害、そして冷え性に皮膚乾燥症状だね。
そして一般適応症なら、肩凝りや腰痛に神経痛、それにストレス諸症状や疲労回復にだって効果があるんだ。
そうした母なる地球の恵みとでもいうべき温泉の効能は、脳松果体の肥大発達に伴う特殊能力サイフォースの発現と生体強化ナノマシンの静脈注射を始めとする各種の改造手術によって強靭な身体を手に入れた私達にも相応に作用するんだよ。
軍事訓練で負った裂傷や打撲痕の治りの早さも、温泉に浸かるか否かで幾分か変わって来るんだよね。
個人差もあるからこれはあくまで私の主観だけど、治癒能力の向上率はアルコールを摂取して生体強化ナノマシンの働きを活性化させた時と大体同じ位かな。
だから今みたいにお酒を飲みながら温泉に浸かっていると、その両者の相乗効果で治癒能力も一層に向上するんだよ。
もっとも、実弾の飛び交う実戦の真っ最中に悠長に温泉へ浸かっている訳にはいかないんだけど。
そうした諸々の効能の中で特に即効性があると感じるのは、何と言っても疲労回復によるリラックス効果なんだよね。
広々とした大浴場に足を伸ばして浸かれば、身体の疲れも心の疲れもジンワリと溶けていき、気付けばそのまま流れ去ってしまうよ。
後はこうして御猪口に冷や酒を注げば、もう何も言う事はないね。
せっかく和歌山に来たんだもの、御当地の地酒をやらなくちゃ勿体ないじゃない。
粘菌の研究で名を馳せた南方熊楠の御実家の蔵元が作った純米酒も、香り豊かで実に味わい深いなぁ。
去年の合宿研修で加太要塞を訪れた京花ちゃん達も褒めていたけど、その言葉に嘘はなかったね。
「京花ちゃん達、今頃は訓練か巡回パトロールでもやっているんだろうなぁ…」
そんな私のしみじみとした独り言を、美鷺ちゃんは決して聞き逃さなかったんだ。
「おいおい、千の字。たかが一週間の合宿研修だってのに、堺県へ残してきた京の字達の事が恋しくなったのかよ?単なるホームシックか、それとも京の字達三人の中に飛び切り愛しい奴でもいるのか…」
「ブホッ!ちょ、ちょっと!変な事言わないでよ、美鷺ちゃん!」
全く、美鷺ちゃんったら困っちゃうなぁ…
お蔭で口に含んだ純米酒を盛大に吹き出しちゃったじゃないの。
「やっぱりアレだろ、千の字?同じ御子柴高一年A組のクラスメイト縁もあって、生駒英里奈少佐のあたりに粉かけてんのか?向こうは華族様の家柄だから、千の字としては良い玉の輿に…」
「もう…変な事言わないでよ、美鷺ちゃん!確かに英里奈ちゃんは大切な友達だけど、普通にプラトニックな間柄なんだよ。葵ちゃんとフレイアちゃんみたいな事を想像しないでくれないかな。」
私と英里奈ちゃんの仲を変な風に邪推してからかうだなんて、まるで消灯時間間際の大部屋で恋バナしている男子生徒みたいだよ。
どうやら修学旅行気分になっているのは私だけじゃなくて、美鷺ちゃんも同様みたいだね。
「フレ公と葵の上の二人か。あの連中の明け透けなやり口には、全く敵わんなぁ。当直シフトの時に支局の宿直室を予約する要領で、今回の合宿研修の個室も敢えて二人部屋にして貰っているんだろ?二人部屋の中で、あの連中は一体何をしてやがんだか…」
「きっと私や美鷺ちゃんの想像通りの事だと思うよ。布団敷きの和室だと支局の宿直室とは雰囲気が随分と変わるから、なかなか楽しいんじゃない?」
徳利に残った純米酒を引っ掛けながら、私は軽く肩をすくめたの。
葵ちゃんとフレイアちゃんが和室で何を楽しむのかは、ちょっと私の口からは言えないなあ。
「さてと…そろそろ上がろっか、美鷺ちゃん。せっかく露天風呂が空いているんだから、あの二人に貸し切り風呂として満喫して貰おうよ。」
「へえ…なかなか気の利く事を言うじゃねえかよ、千の字。あの鴛鴦カップルも、さぞかし喜ぶだろうぜ!」
白い柔肌から湯気を上らせながら立ち上がった美鷺ちゃんは、ニヤニヤとした笑みを浮かべていたの。