辛
屋敷に入ると、すぐに執事に辛の部屋へ案内された。
「辛ちゃん。来たよー」
汐は努めて明るく言う。
部屋の奥の机には、直前まで何か書き物をしていたらしい、汐と同い年の少年が座っていた。
そのすぐそばにはメイドのココア=パウダが控えている。汐が彼女にも手を振ると、微笑み返してくれた。
「汐」
同い年の少年―辛が立ち上がる。その手にまだ万年筆を持っているのは、彼の癖だ。考え事をするときなどたまにくるくると弄んでいる。
汐と同じ、黒髪黒目。これはここ牡牛の国では別に珍しくない。
特徴的なのはその眼光。辛は相手を睨むような目で見ることが多い。勿論、礼儀を弁えなければいけない場では別だが。
汐と同じ丸顔で本当は優しい顔立ちなのに、わざとむっとしているのは、相手に侮られないためなのだと思う。
しかし、終始笑顔を浮かべている父親より、彼といる方が汐は安心出来た。
辛は挨拶も無しに、
「なんの話かわかってると思うが」
「さっぱりです」
汐は正直に答える。
辛の持っていた万年筆がぼきっと音を立てて折れた。
「ついこの間、宝石強盗を捕まえたらしいな」
「ああ、あったね。そんなことも」
自分を殺人犯だと思い込んでいた女性の事件のことだ。結局、事件の原因はその宝石強盗にあることを突き止めて、捕まえた上で軽く呪っておいた。
「何故そんな危険なことをした!!!」
辛が怒鳴りながら机を叩く。
「えー」
理不尽な叱咤に汐は不満の声を上げる。
汐の普段の失敗に比べれば、それはむしろ武勇伝と言っても良い出来事だったのだ。
「別に、捕まえようとしたわけじゃないよ
なんか色々あって、最終的に強盗にいき当たっただけ」
「そんな言い訳があるか!!」
事実を述べただけなのに更に怒られた。汐はむくれる。
『うるせぇ奴だな』
鞄の中にいる蠍が辛たちに聞こえないようにぼそっと呟く。蠍は汐と雨以外には喋らないサソリで通っているので、声を聞かれると困るのだ。
「辛ちゃん、すっごく心配性なんだよ」
汐も聞かれないように唇の動きだけで応えた。
のだが、
「誰と話してる」
「ぅえ」
小声と唇の動きだけで見咎められて、汐は驚く。
辛はつかつかとこちらに近づいてきて、
「何か隠してないか?」
「隠してはない」
単に辛から見えないところに蠍がいるだけ、と汐は心の中で呟く。
が、
「あ!」
辛のことが気に食わなかったのか、蠍が鞄から這い出てきてしまった。
「それはなんだ」
「ウチのペットの蠍さん」
汐が蠍を鞄に押し込みながら言う。
「毒虫·······」
辛がぼそっと呟く。
そして、
「·····································································」
無言。ただひたすらに、無言が続く。
それが一番怖い。何も言っていないのに、何を言いたいのかわかるから。
辛はいつも汐が何かする度にすごく心配してくる。同い年なのに、あんたはお父さんか、と言いたくなるくらいに。
もっと小さい頃など、汐が料理で包丁を持てば手を切らないか心配され、ライターを持てば火傷しないか心配され、走っただけでも転ばないか心配された。
そんな辛が、汐が毒虫を飼っていると知ったらどうなるか。
「俺によこせ」
辛はいきなり汐の鞄に手を突っ込むと、蠍を掴み出す。
「え。ちょっと、ちょっと、ちょっとー!!」
汐が慌てふためくと、
「安心しろ。したいけど駆除したりはしない。俺がちゃんと飼う」
「心配だよ!!だって、辛ちゃんものすごい虫嫌いじゃん!!」
そう。辛は、昔から虫が大の苦手である。現に今も蠍を持つ手、どころか全身ががくがくと震えている。
しかし辛は、きっ、と顔を上げて、
「毒虫なんて、汐は危ないから飼うんじゃない!!刺されたらどうするんだ!!!」
「蠍さんに毒はないから大丈夫だよ」
「油断するな!!サソリはな、効果に差はあれど例外なく毒を持ち、求愛した相手が気に入らない仕草を見せただけで相手に毒針を突き刺す恐ろしい生き物なんだぞ!?」
「嫌いなくせになんでそんなに詳しいの?」
汐の疑問は黙殺された。
「ココア。虫籠を」
「はい。ぼっちゃま」
「やめなよ!怒られるよ!(蠍に)」
蠍もじたばたと暴れるが、容赦なくぽいっと虫籠に放り込まれる。
汐は急いで救出しようとするが、辛はまだ部屋にいた執事に、
「汐はもう帰る。送ってやれ」
無慈悲な命令を下す。
「かしまりました」
「かしこまらないで!」
汐は抵抗するが、執事の無言の圧で扉の向こうへ押しやられる。
がちゃんっと蠍が入った虫籠の鍵が閉められた。
「蠍さんを返してーーーーー!!」
汐の叫びは扉の向こうに消えた。