9、ミッチーの事情
パパの絵は、人気がある。
市場に出回っている数は限られているから、かなりの高値で売買されていると聞く。
だけど、ママは自宅にある絵は売らないと決めているようだ。
ママは模様替えのように時々飾る絵を変えて、パパとの思い出を1人楽しんでいるし、パパが最後まで手放さずに自宅に残した作品は、パパ自身も思い入れがあったに違いないから。
そう考えて、私も大切にしたいと思っている。
ミッチーは音楽に関してはプロフェッショナルだけれど、絵画については全くの素人だった。
「初期の頃は、市場に出ている画風じゃなくて、もっと色が暗めで繊細で張りつめた感じだったらしいんだけど。丁度そのころパパの家が火事で全焼して、その作品も全部燃えてしまって。途方に暮れていた時に、鎌倉で以前会ったママと偶然再会して・・・その後、明るくて綺麗な色合いの画風にガラッと変わったんだって。恋愛で人生が明るく見えたのかな・・・ほら、全然違うでしょう?」
そう言いながら、私はスクラップブックを開いて、反対側のソファーに座るミッチーに見せた。
焼失してしまった絵を年代別に作成した記録として、その直前に教授の勧めで写真に撮っておいたのだという。
そして偶々火事の時、教授に見せてくれと言われて貸し出していたから、スクラップブックだけは無事でこうして今私の手元にあるわけだ。
家の中のあちらこちらに飾ってあるパパの絵は、画風を変えた後の物だからその違いは一目瞭然で。
私の部屋に飾ってある、江の島の水彩画も心が柔らかくなるような、美しい色合いだ。
「・・・うん、本当だねー。でも、色は暗めだけど・・・絵そのものは、繊細で美しいタッチだよね?これ描いていた時って、エミちゃんのパパってまだ18歳くらいだよね?でも、既に完成されている感じがする・・・やっぱり、凄い才能の持ち主だったんだねー。」
話をしようと言って私の部屋に誘ったのに、確信に触れず関係のなさそうなパパの絵の話を始めてミッチーはイラつかないかなと思ったけれど。
そんな様子は全くなく。
私の話に向き合い、興味深そうにスクラップブックに貼られた写真を1枚ずつ丁寧に見ている。
私はそんなミッチーの横顔を見つめながら、やはり東 幾さんとよく似ていると今更ながら思った。
「はい、ありがとう。エミちゃんの大切なもの見せてくれて、嬉しかったー。」
時間をかけてじっくりと写真を見た後、ミッチーはそう言ってにっこりと笑った。
ここまでちゃんと話を聞いてくれたからやっと本題に入れると思い、私は立ち上がり壁際の本棚のところへ行くと、一冊の絵本を手に取った。
「え・・・これって、まさか・・・?」
ミッチーの前に差し出したのは、『魔法のバイオリン』という題名の絵本で。
東 幾さんが文章、絵は私のパパが担当をした。
年代的には東 幾さんが亡くなる1年ほど前に書かれたもので、パパは当時まだ大学生だった。
「そう。今から26・27年前くらいに出版されたもので、今はもう絶版になってて、手に入らないかも。人気がなかったから、再版にならなかったみたい。少し絵は暗いけど、繊細で美しい挿絵だから雰囲気があっていいんだけど。やっぱりお話がね・・・もう、救いようのない話で・・・どうしようもないんだよね。私も子供心にもう二度と読みたくないって思ったんだけど、パパの挿絵だから捨てるわけにもいかないし・・・。つまり、私にとって東 幾さんってそういう印象なんだよね。世間では優れた純文学作家とか、美人小説家とか、よくテレビでも特集を組まれるけど・・・。」
ミッチーが手に取らないので、絵本をテーブルの上に置いた。
ミッチーは手に取ろうとはしないけれど、表紙を食い入るように見つめていて。
「救いようのない話って・・・どんな話?」
しばらくたってから、ミッチーが漸くその言葉を口にした。
「絵本だから、すぐ読めるよ?あらすじ話すと、私の感情が入って伝わりにくいかもしれないし。」
「東 幾の本は読みたくない。エミちゃんの感情を入れて話してもらった方が、俺には伝わるよ。思いっきり、エミちゃん視点で話して。」
ミッチーは幼児期にかなりの事情があったようで、普段は素直な物言いをするのに、東 幾さんに対しては頑なな態度だ。
私はため息をつくと、絵本を手に取り、久しぶりにページを開いた。
「主人公のトキは、心優しい妻と小さな娘がいる、町のパン屋さんで。子供のころから音楽好きで、楽団員だったお祖父ちゃんの形見のバイオリンで仕事が終わった後、近所の浜辺で演奏するのが趣味っていう人で。つまり裏を返せば、楽団に入れなくて趣味でバイオリンを弾く程度の腕前だったんだよねぇ。下手の横好きってやつじゃない?ある日、トキが浜辺でバイオリンを弾いていると、何台も連なった豪華な馬車が目の前で停まって。出てきたのは、明日宮殿で演奏するために呼ばれた外国の立派な楽団の団長さん。その人がいうには、バイオリニストが急病になって困っている。ぜひ助っ人としてバイオリンを弾いてくれないかと。トキは宮殿で演奏なんてそんな大それたことはできないと断るんだけど、団長さんが手伝ってくれたら魔法のバイオリンをプレゼントすると目の前に、そのバイオリンを出したの。そのバイオリンはそれはそれは美しくて。トキはその美しさに思わずそのバイオリンを手に取ったら、どうしても演奏したくなって。音色も美しくて、そのせいか自分の演奏も普段とは比べ物にならないほど素晴らしくて。これなら宮殿で演奏しても大丈夫かもしれない、急病で困っているようだし・・・そう考えなおして、団長さんの申し出にOKして。まぁ、目の前のバイオリンに目がくらんだんだろうね。身の程しらずにも、誘いをうけちゃったのよ。それで、宮殿での演奏はどうにか無事終わって。楽団はヤレヤレと国に帰っていって、トキはそれをいい思い出としてまた真面目にパン屋をやればよかったのに。トキは残された『魔法のバイオリン』に魅入られて店でパンを作る以外は、朝から晩まで演奏し続けるようになって。すると、平凡でつまらなかった毎日がキラキラと輝くように感じられて。トキの演奏を聴きに来る人が増え、聴いた人は皆素晴らしいと称えてくれて。パンも売れて儲かるようになったから、パン職人を雇って身の程知らずにも自分は演奏に没頭したの。でも、益々パン屋は流行って、お金もどんどん入って来て。そんなトキにとっては素晴らしい日々が続いて。だけどある日、娘が命にかかわるような大けがをするの。雇っていたパン職人が、パン職人のくせに大して上手くもないバイオリンばっかり弾いて、大儲けしているトキに嫉妬して、娘に暴力をふるったの。殴られた娘は運悪くかまどにぶつかって頭を打ち、大やけどをして、大変な騒ぎになって。でも、その前から奥さんにパン職人がおかしい、バイオリンばっかり弾かないで家族と向き合って欲しいと相談されていたのに、トキはバイオリンに夢中で聞こえないふりをしていて。自分の事しか考えなかった。それでもうまく回っているから、見て見ぬふりをしたのだけど。大けが、大やけどを負った娘は、一命はとりとめたけれど、一生残る傷を負ってしまって。トキはとんでもない事になったと慌てたけれど、奥さんはトキを責めて娘をつれてトキの元から去っていってしまい、トキに残されたのは大金と、美しい『魔法のバイオリン』だけ。孤独になったトキは、ふと、お祖父さんのあの形見のバイオリンはどうしたのだろうと思い出して。慌てて最後にお祖父さんのバイオリンを弾いていた浜辺に向かうと、朽ちて壊れたバイオリンが砂浜の上に転がっていた・・・っていう、最悪の救いようのない話。反省もなく、奥さんと娘がただひたすらかわいそうな、トキにとっては自業自得だろって話、なんだけど・・・・ミッチー?・・・どうかした?」
パラパラと読み返すと、私の雑な説明とは違って、美しい描写とリズム感のある文章で。
話自体は嫌いだけれど、改めて東 幾さんの才能は素人の私でも感じ取れた。
だけど、ミッチーは私の話を聞いて、その美しい顔をあらん限り醜く歪めて。
「はっ・・・自分のやったこと、そのまま書いてどうするんだよっ。」
と、吐き捨てた。
「え・・・?」
驚いて言葉が出ない私に、ミッチーはハッとして。
「嫌な話だけどさぁ・・・エミちゃんには、俺の事全部わかってほしいから・・・そのうち俺の家の事情を話さなきゃって・・・まさか、エミちゃんのパパと東 幾がこういう風にかかわりをもってたって知らなかったから、まだ話してなかったんだけどね。これは、ちゃんと話をしておいた方がいいと思うんだ。できたら、史子ママにもきいてもらいたいんだけど。」
歪めた顔を無理やりいつもの優しい顔に戻し、静かな声でそう言った。
「エミが、あんまりこの絵本の話が嫌いだ、主人公のトキのことをパパがせっかく素敵に描いたのに、大っ嫌いって泣くし。私も、何にも救いのない話だし・・・挿絵が素晴らしいぶん、もったいないと思ってねぇ。そりゃあ、文章はすばらしいよ?だけど、こんな話、子供向けの絵本に向かないだろ?だからさぁ、旦那になんでこんな話の挿絵なんて引き受けたんだって、昔きいたんだよね。だって、うちの旦那、大学生の時にはもう親は亡くなっていたけど、財産はあったからね。金には困らなかったから、嫌な仕事は受けないはずじゃないか。だから、どういう気持ちでこの仕事を受けたんだろうって、気になってねぇ。」
何となく、パパのアトリエだった私の自室でこの話がしたくて、ママを私の部屋へ呼んだら。
テーブルの上に置いてある、その絵本を手に取りママはため息をつきながら、ミッチーを切ない目で見つめた。
ミッチーは、そんなママを無表情で見つめ返し。
いや、無表情と言うか・・・感情が固まってしまっているように思えたから、私はミッチーの隣に寄り添うように座った。
すると無表情だったミッチーが、私を見つめ嬉しそうに笑うと、指を絡め私の手を握りしめた。
こんな私でもミッチーの固まった感情をほぐすことが出来るならと、握りしめられた手を私は意志をもって強く握り返した。
その途端、ミッチーがため息をついた。
「・・・今までの俺なら、憎しみの感情しかない東 幾に関する事、全部シャットアウトしてきたんだけど。エミちゃんがこうして傍でよりそってくれて、しかもエミちゃんのパパとのかかわりもあるって知って・・・不思議なんだけど、心が・・・どんな話でも聞こうっていう状態になってる。何となく、俺の事情を話しても・・・エミちゃんは変わらない気がするし。本当に、不思議・・・だから、史子ママ。知ってることがあったら、話してほしい。」
「いや、変わるも何も・・・ミッチーは、ミッチーじゃん?ノリコだって同じだと思うし。今、目の前にいるミッチーが、私達にとって本当のミッチーでしょ?逆に、私達に何か特別な事情があったとして、ミッチーはそれを知って私たちに対する態度を変えるの?」
私が今更何言ってんだという態度で、そういうと。
「確かに・・・相田家での俺は、偽りのない、今は心のままの俺だし。エミちゃん達に何か事情があったって、そうだよね・・・変わらないよね・・・よし。」
と、私とママを見比べ、ミッチーはおもむろにシャツの裾をスラックスから引っ張り出して、目の前でまくり上げた。
そして、ミッチーのお腹に残るいくつものタバコの火傷跡と・・・お腹から上に長く伸びる白い線・・・・が目に飛び込んできた。
「ミ、ミッチー、それっ・・・。」
驚きの声を上げる私と。
「それは、タバコと・・・ナイフの傷痕かい?・・・まさか、それ・・・東 幾さんがつけたんじゃないだろうねっ!?」
硬い声で、焦った様に問いただすママ。
そんなママに、ミッチーは首を横に振り。
「やったのは、家政婦。東 幾は、藤城剣と小説を書くことに夢中で、子供は家政婦にまかせっきり。でも、東 幾が美人で歳はいってるけど大スターと結婚して、小説家としても認められていることに家政婦が嫉妬して、俺にやつあたりをして。それがどんどんエスカレートして。服で見えないところをつねられたり、タバコを押し付けられて。俺、家政婦が怖いって東 幾にくっついていたら、仕事ができないって家政婦に引き渡されて。挙句の果ては、藤城剣と夜食事にでかけちゃって。家政婦と2人っきりになったら、台所から包丁持ってきて俺に包丁をペタペタあてて、脅すから・・・もうヤケになって、もうおしまいにしようって。自分から斬られに行ったんだ。そうしたら、ちょうどうまい具合にザクッて斬れて。すんごく痛かったけど、もういいやって思ったときに、藤城剣がせっかくだから俺も食事に連れて行こうと戻ってきたときで。そっから大騒ぎになったんだろうけど、意識が亡くなって。出血がすごくて一時ヤバかったらしいけど。どうにか助かった。それでも、タバコを押し付けた火傷の痕とか、見えないところのアザとか。何よりも、子供部屋で包丁を持ち出して俺を刺したことは決定的で。その上、そこで東 幾の育児放棄が問題になったんだ。いくら服で見えないと言ったって、幼児なんて風呂に入れたり、着替えさせたりしたら傷痕なんて一目瞭然なのに、なぜこうなるまで気が付かなかったか・・・周りからも、かなり責められて。結局俺は、刺されたショックと今まで普通に育てられなかった怒りで、親から離れたいっていう希望があっさり通って。結局、それっきり、東 幾とは会わなかったんだ。里子に出されたし。だから、何でこんな本を書いたのかって、逆にすげぇ不思議だ。」
淡々と、当時の話を感情のない声でした。
ノリコの状況も酷かったけれど、親がいるのに放置で助けを求めても子供の話を無視で、また恐ろしい家政婦に面倒見させるなんて、とても信じられない。
あげくの果てに、刃物で斬られるなんて・・・。
私はショックで何も言えず、ただミッチーの手を握りしめていた。