8、必然
何という1週間だったのだろう。
それは私にとって、ノリコがうちにやってきた時以来の衝撃だった。
でもあの時と違うのは、能動的ではなく受動的であるということだ。
ガリガリでボロボロなノリコと出会った時は、死んでしまうかもしれないという恐怖と不安と怒りで、自ら進んでノリコを構いたおしたけれど。
ミッチーとの出会いは、まるでミッチーから発せられた神経毒で麻痺させられた私が、ミッチーを受け入れるという状況に追い込まれたようで、未だにどうしてこういう状況になったのか理解しきれていない。
だって、普通の恋人同士ってまずデートからじゃないのだろうか。
だけど、ミッチーがここへ来て2日目からは堂々と私の部屋で寝起きをして、私の作った朝食を美味しそうに食べ、ノリコと同じ中身のお弁当を嬉しそうに手にして出かけてゆき、そして当然のようにまた私がいる家に極上の笑顔で帰宅するのだ。
それは全て、ミッチーの希望で決して私から誘ったわけではない。
確かに、いつのまにかミッチーの存在があたりまえになり、私もママもノリコもこのミッチーの行動を受け入れているけれど。
だからって———
「そんなの、いきなり持ってこられても困るよっ。」
そこらの男よりも腹が据わっていて滅多な事じゃ動じないママも、差し出されたそれらを見て、さすがに焦った顔をした。
「えー、だって帰らない家に置いておくのって不用心だしー。俺の事信用してもらってここに置いてくれているのはわかるけどさー。やっぱり、こういうのって、ある意味俺の側面なわけだしー。それに、俺がここに置いてもらうのに多少なりとも、これで信頼してもらえるかなって思ってさー。」
そう言って、ミッチーがズシリと重そうな書類等が入った2つの手提げ紙袋を、差し出してきた。
戸惑う私にミッチーはため息をつくと、雑な様子で紙袋をひっくり返し、テーブルの上にそれらをぶちまけた。
専門家に依頼しているのか、著作権に関する書類はきちんとファイルされているが、その数はかなり多くて。
先日内藤さんにミッチーは自分の職業を、総合音楽プロデューサー的な仕事だと言っていたが、実は『西 数』というペンネームで作詞作曲をしていると、その夜に打ち明けられた。
西 数といえば、数々の大ヒット曲を生み出している作詞作曲家だ。
新人賞、レコード大賞、最優秀作品賞も取り、奇才といわれている人物だ。
確かに一切顔出しをしていないので、本人がどういう人なのかは謎だったがまさか・・・ミッチーが西 数だったとは。
東の反対は西で、満の意味の対義語の一つとして数という言葉があるし・・・変わったペンネームだと何となく思っていたけれど、そういう意味だったのかと妙に納得した。
内藤さんに本当の事を言わなかったのは、顔出しをしていない事と、言ったら面倒なことになりそうだったからという理由を聞いて、そりゃそうだとも思った。
そして、ノリコに何故オーディションを一緒に受けた歌手の卵と思われているかと言うと、顔出しをしていないのでまだ合格するかわからない素人に、自分が西 数だと知られたくなかったからだという。
オーディションの場では人間性が見えるそうで、最初から西 数と名乗ると制作側という態度をされるから、あえてライバルという状態で観察をしていたそうだ。
実際もう1人オーディションを受けて、ミッチーの意見で不合格になった人がいるらしい。
ノリコはミッチー的にかなり面白かったらしく、歌唱力は勿論だけどノリコ自身に魅力を感じ即座に合格を出したという。
他のスタッフも同意見で、結果全員一致での合格だったらしく、ノリコに自分が西 数だと言ってもいいが、もうちょっとノリコにとってただの東 満でいたいからまだ本当の事を言えないでいると、ミッチーは困った顔をした。
ノリコはそれを聞いても、全く変わらないと思うけどなぁ・・・。
でも、ミッチーがそう思うなら、私は静観していようと決めた。
ミッチーはぶちまけた手提げ紙袋の中からファイルの他、A4の書類紙袋を掴むとそれも次々とひっくり返した。
複数の通帳、印鑑、多分土地関係の書類がバサリと飛び出して。
「え、えーとっ・・・ミッチーが、かなりの財産をもっているのはわかったから・・・と、とりあえず、これはしまっておこう!」
見ただけでもかなりの資産だとわかり、どうしていいのかわからず焦って私はそれらを紙袋に戻そうとしたら、その手をミッチーに遮られた。
「エミちゃん、ちゃんと中身見てよ!俺の力で得たものもあるけど・・・そうじゃないものもかなりあってさー・・・その話もしたくて、ノリコをレッスンに入れて鎌倉にとんぼ返りしてきたんだから・・・史子ママにも聞いてほしいんだよね。」
めずらしく真面目な顔でそう言うから、私は仕方がなく戻そうとしていた手を引っ込めてママを見た。
すると、ママは何かに気がついたようにファイルを1つ手に取って、パラパラとページをめくった。
ママのその様子が気になり、私もそのファイルに視線を向けると。
ファイルの背表紙には、『東 幾作品』と書かれてあって、私は思わずミッチーの顔を見てしまった。
東 幾とは、有名な賞をいくつもとった純文学作家で。
活動は10年ほどだったが、作品はどれも秀逸で発表当時から評価も高く、いまだに色あせることなく多くのファンがいる。
そして美人作家としても有名で、早逝してしまったことに対し『美人薄命』ということでよくメディアに挙げられる人物でもある。
確かに、その顔はミッチーによく似ていて・・・。
「え?・・・東 幾さんって、もしかしてミッチーの——「うん、一応、俺を産んだ人。だけど、母親らしいことは全くしなかったから・・・これに対して思い入れも何にもないけど。まぁ、俺を散々育児放棄したから罪滅ぼししてもらおうと、相続したけどさぁ・・・何か空しくて。世間では認められている作品もかなりあるからさー、印税とか、上演・上映・・・舞台とか映画やドラマになる時に金が入るけど・・・入ったら入ったで、何かムカつくっていうか。どう使ったらいいかわかんなくて、そのまんま手をつけてないし。俺にとっては意味のない金なんだよねぇ。ついでに言うと、父親は昭和の大スター、名優の藤城剣なんだよねー。東 幾は後妻で40くらい歳が離れていたから、俺が生まれた時はもう父親は60過ぎでさぁ・・・前妻の子供いるから、そっちに殆ど財産は行ったけど・・・俺が生活に困らないようにって、六本木の賃貸マンション1棟と、港区にいくつか月極め駐車場を残されたけど・・・70ちょっとで死んだから・・・あんまり、父親との思い出もないし。まぁ、5歳ごろに俺里子に出されたから、その後父親とあんまり会わなかったし・・・これも、俺にとって意味のない金なんだよね・・・。」
ミッチーのいきなりの告白に、私もママも驚いたけれど。
でも、何となく・・・ミッチーがうちへ来てこういう状況になったことが、理屈じゃないけれど、納得できた。
結局は、江村さんの話じゃないけれど。
偶然じゃなくて、必然だったのかも・・・いや、人の思いでここまでつながったのかもしれない。
そう思ったのは、ママも同じようで。
「わかったよ。ミッチー、これは責任もって私が預かる。あんたの気持ちもね?まぁ・・・額がどうかはわかんないけどね・・・うちもミッチーと同じようなもんなんだよ。私の亡くなった旦那がねぇ、えらい財産もちの上に名前の通った画家でね。それ相続したもんだから、管理しなきゃならなくて。面倒臭いったらありゃしない。だけど、まぁ・・・うちにはエミもノリコもいるから、金はあった方がいいから、有難いと感謝しないといけないけどさ。ミッチー・・・もしよかったら、うちで頼んでる弁護士と税理士に、あんたのこれも頼むけど?どうする?」
と提案したら、ミッチーの顔がパァァッと明るくなった。
「うん!史子ママ、お願いします!弁護士と税理士頼んでるんだけど、それが相続の時に関わった人たちで・・・つまり、父親の前妻の子供の紹介なんだよねぇ。面倒でそのまま頼んでるんだけど、なんか俺の財産とか向こうに筒抜けみたいで・・・費用も、何か年々高くなって。もしかしたら、前妻の子供の方の費用もこっちに請求されてるんじゃないかって、結城さんが・・・ああ、結城さんってエミちゃん会ったことあるよね?ノリコの担当になってるコリーレコードのプロデューサー。あの人、俺の里子に出された先の長男で・・・色々あって結城家から籍抜いて東にもどったけど、未だに俺の事気にかけてくれてるんだよね。でも、弁護士と税理士をいちから探すのが面倒で、そのままに——「ミッチー。そりゃあ、ダメだ。直ぐに、うちの弁護士と税理士、手配してちゃんと調べさせて、不正はただすよ!あんたは、意味のない金っていったけどさ、この世に意味のないものなんてないのさ。金は金だけどね・・・その金には、稼いだ人間の気持ちや思いがあるのさ。だから、あんたが相続したんだ。東 幾さんについては、あんた複雑な気持ちがあるかもしれないけど、だからって人をだまして不正を働く奴なんかに、いいようにされてちゃいけないよ。大丈夫、弁護士も税理士も私の信用のできる奴らだから。直ぐに、呼ぶね。まだ、11時前だから・・・1時にはこっち来させるよ。ミッチーは鎌倉を、3時くらいに出ればいいね?取り敢えず、ざっと説明だけして、今晩2人ともこっち泊まらせるから、また夜にでも話をするとして・・・。」
ママがミッチーのとんでもない話を聞いて、憤慨し。
捲し立てる様に話を進め勝手な予定をたてながら、電話台の所へ歩いて行った。
その様子に、ミッチーは目をパチクリとさせ。
「ねぇ・・・弁護士と税理士って・・・忙しいんじゃないの?すぐに来いって言っても、来られるものなのかなぁ・・・。」
と、もっともなことを言った。
私はその言葉に思わず苦笑いをして。
「うん、普通は来られないだろうね。しかも、うちで頼んでる弁護士さんと税理士さんって凄く有名で実績もあるから、目茶目茶多忙だと思うけど・・・でも、その人達ママの熱狂的なファンだから、どんなことしても来ると思うよ。」
と彼らのいつものママに対する憧憬の眼差しと従順さを思い出しながら、そう伝えると。
「うん、何かわかる気がする・・・・。」
と、既に電話の向こうの人と話し始めたママの口調を聞きながら、ミッチーはビビった様子でぶちまけたものを、今度は丁寧に紙袋に戻し始めた。
私は、その様子を見ながらクスクスと笑い、それを手伝おうとファイルに手を伸ばしたら。
「ねぇ、エミちゃん・・・エミちゃん、東 幾の作品って読んだことある?世間では認められた作家だけど、子供を犠牲にして世に出た作品ばかりだ・・・それが認められてるって、俺・・・やっぱり、受け入れられなくてさー・・・。」
ミッチーが口調はあくまでいつもの調子で、突然そんなことを言った。
でも、やはりそれが本心なのだろうと思ったから、私はミッチーの目を見ると正直に答えた。
「1作品だけ、読んだ・・・というか、本持ってる。」
「1作品だけ・・・?結構、作品出てる筈だけど・・・印税が未だに結構入ってくるから、人気なんじゃないの?」
不思議そうな顔で、ミッチーが私を見たから・・・やっぱり、今話すべきなのだろうと思い。
手早く紙袋にミッチーの財産を戻すと、それをミッチーに持たせ。
「ちょっと、話そうか・・・私の部屋へ行こう。」
私はそう言うと、ミッチーの背中を押した。
「エミちゃん・・・?」
いきなりの行動に戸惑うミッチーに、東 幾の作品を何故1つしか読んでいないかの理由を、私は彼女のその作品が嫌いだからと答え。
その言葉に驚いた顔で私を振り返るミッチーを見上げると、自分自身にも言い聞かせるように言葉を続けた。
「でもね・・・何となく、ミッチーがうちへたどり着いた理由がわかったんだ。偶然じゃなくて、必然だったんだよ。」