6、夜の海
カーディガンを着てきてよかった。
撫でるようにあたる夜風は、昼間とは違いひんやりとしていて、ブラウス1枚では体が冷えてしまう。
それでも今日は散歩に出かけなかったから、この時間でも来ることができてよかった。
勿論、暗くて江の島ばかりか、海の向こうは何も見えないけれど。
それでも、砂を踏む感触と波の音、潮の匂いを一日一回感じることは、私にとって一種の儀式のようになっていて。
雨天であるとか何か用事がない限り、ここに来ないと自分の中にある言葉にならない何かを確かめられないようで、不安になるのだ。
「朝食の後に、ここを散歩するのが雨の日以外の私の日課なの。今日は、イレギュラーなことばかりで、来ることができなかったから・・・夜でもこうして来られてよかった。」
2人で話がしたいからと、夕食の後散歩に誘われ。
どうしても手をつなぎたいと言ってきかないから、面倒で言うがままつながれた手を気にしないようにしながら、私はそう言った。
「それって、エミちゃんが鎌倉を好きな理由のひとつなのー?」
本質を見極める目を持った男が、まるで飴食べる?と聞くような口調で問いかけてきた。
「そう・・・なのかな。いや、鎌倉は好きだけど・・・そうじゃなくて。私が、鎌倉を離れられない理由が、ここにあるって感じなのかな。」
あまりにも何気なく訊くから、誰にも話していない理由をあっさりと喋ってしまった。
すると、ミッチーは立ち止まり、私の顔を覗き込んでいた。
その頬は、何故か膨らんでいて。
「それって、元カレが理由ってこと?」
完全に誤解しているようだ。
私がどう答えたものかと、黙っていると。
「エミちゃん!!」
頬ばかりか、鼻の穴まで膨らませて、私の両肩を掴んできた。
いくらとびきりのハンサムと言っても、その顔は面白くて。
「プッ・・・アハハハッ。」
思わず笑ってしまった。
私が立っている浜辺の前は道路を挟んで大きなレストランがあり、その灯りでかなりここまで明るいから鼻の穴まで見えるのだ。
ただでさえミッチーは背が高いから、下から鼻の穴がみえているし。
笑う私に、何で笑うの!?としつこく訊くから面倒になって。
「私のパパが亡くなる3年くらい前に、東京からこっちに引っ越して。パパはここでよくスケッチしてたの。ママと私もついてきて、ここに座って絵を描くパパを見たり、砂遊びしたりして。パパは本当にこの場所が好きだったの。本人もそう言っていたし。ママと出会ったのもここで、ここから見える江の島をよく描いていたの。私の名前も江の島を見るで江見ってつけたみたいだし。ここにいるパパは、体が随分弱っても、本当に幸せそうだった・・・でも、9歳になるちょっと前に亡くなったから・・・忘れたくないのに、パパの記憶もどんどん曖昧になって。だから・・・毎日ここへ来て、パパがスケッチした景色を確認して、パパがいた記憶をこれ位以上忘れないようにしたくて・・・。」
正直にそう話すと、ミッチーの膨らんでいた頬と鼻は元に戻った。
そして、ただ暗い海の向こうに視線をやり。
「そっか。それなら、ごめん。今日散歩できなかったのは、完全に俺の所為だ。」
と、素直に謝ってきた。
その言葉は、まるで私の気持ちに寄り添ってくれているようで。
だから、つい・・・。
「でも、夜こうして散歩に来ることができたし。私ひとりじゃ、いくら地元でも1人で今の時間に来るのは怖いし・・・ミッチー、よかったら今度の日曜日に一緒に朝散歩する?」
なんて、誘ってしまった。
その途端、しんみりしていたミッチーが、急にテンションをあげて。
「うん!一緒に行く、行く!!嬉しいなぁ、こんな大切な気持ちを俺に話してくれて、大事な日課も俺を誘ってくれて!・・・エミちゃん、俺・・・エミちゃんの事、本気なんだ!ノリコからエミちゃんの話を聞いて、不思議なんだけど、絶対に俺エミちゃんを好きになるって思ってたんだ。いや、もう好きになってたんだと思う。でも、実際に会って好きとかそんな簡単なものじゃなくて、俺・・・ようやく、探していたものが見つかったって感じたんだ。俺には一生手に入らないって、根拠もなく思っていたことが・・・いきなり目の前に現れて。もうエミちゃんとずっと一緒にいたいって思ったんだ。だから・・・かなり強引で、ちゃんとした言葉もなく、いきなりエミちゃんを抱いちゃったけど。でも、俺っ・・・本気だから!昨日、客間に1人で寝ることになって。今までずっと1人で、寂しいなんて感じたことなかったのに。昨日は、エミちゃんと一緒の部屋で眠れないことが悔しくて。だから、今日の夜は一緒に寝たいと思って、一度ノリコと一緒に出社したけど・・・エミちゃんにちゃんと頼もうと思って、ノリコがレッスンに入ったから急いでお弁当食べて、一回自宅戻って着替え持って鎌倉に1人で来たんだ。そうしたら、起きてきた史子ママがいて。俺の気持ち話したら、自分はカフェでランチ食べながらゆっくりしてくるから頑張れって励ましてもらって。エミちゃんの部屋に入ったらエミちゃん気持ちよさそうに眠ってるし。俺も昨日寂しくて眠れなかったから、眠くなって・・・不思議なんだよねぇ。エミちゃんの隣に横になったら、凄くよく眠れたんだ。フフッ・・・今日から一緒に寝るから、俺、不眠症解消できそう!!」
一気に自分の言いたいことだけ言うとミッチーは上機嫌になり、私とつないでいる手をブンブン振りまわした。
何か凄い勢いで喋っていたからほとんど聞き流したけれど、だけど1つだけよーくわかったことは。
ママもミッチーとグルだったということで。
つまりは、ママはミッチーが気に入ったってことなんだろうな。
夕飯前にやってきた内藤さんと肇さんには、いくら縁談をもちかけられても、今までこういう協力はしなかったみたいだし。
まぁ・・・ノリコやママに対しても、凄くなついているようだし。
ミッチーのこと嫌じゃないし。
とりあえず、ミッチーのことは流れに任せてみるかとそう思った。
だから私はミッチーを見上げて、これだけは言っておこうと思った。
「何となく、私のこと察してくれているみたいだけど。ちゃんと行っておくね。ママから引き継いだ『chicago』を私は辞めるつもりもないし、今の家はパパと最後に暮らした家だから家を出るつもりもないの。店は水曜日休みで、それ以外は夕方5時から23時まで営業しているから、夕飯は水曜日以外『chicago』に来れば食べられる。ノリコもそうしているから。もし、夕食を食べないなら連絡だけして。それでいいなら、うちに泊まってもいいけ——「わかった!エミちゃんの言うとおりにする!ありがとう!!」
ミッチーは私の言葉を聞くとそう言って、ニパッと笑ったから。
私はもうそれ以上何も言えなくなって、私の心の中にあるパパの風景と向き合うため、歩き出した。
すると、ミッチーも私と同じように口を閉じて何かを感じようとするかのように、私と並んで歩き出した。