5、35歳
ハッと、とび起きた時には。
ベッドに寝ていたのは私1人で、部屋には西日が差していた。
全てが夢だったのかと一瞬思ったけれど、私の体のあちらこちらには唇と指の感触が鮮明に残っていて。
そして、私の体の奥にも生々しい気配が残っていた。
それに、ワンピースに着替えたはずなのに、パジャマをきっちり着込んでいたということは、やはりそういうことなのだろう——
「ママ、ごめん!こんな時間まで、寝ちゃって。はぁ・・・せっかくの休みだったのに、掃除ばかりか洗濯までサボっちゃった・・・。」
エプロンを手に、そう言いながら慌ててリビングに入ると、ママはめずらしく手紙らしきものを書いていた。
私の言葉にママは顔を上げて。
「偶にはいいさ。休みなんだし。それより、ご飯作るのが面倒なら鮨でもとるかい?ここのところ、マサルの顔を見ていないし、ちょっと多めにとってマサル呼んでやったっていいよ。」
のんびりとした声でそう言った。
ママは私の負担を軽くしようと、そう言ってくれたのだろうけれど。
「いや、買い物してあるし・・・カレー作るよ。カレーだったら、そんなに手間じゃないし。」
私はママの言葉に首を振り、慌ててエプロンを身に着けた。
すると、ママはそんな私を見てニヤリと笑い。
「そうかい。」
と、一言返事をすると、また手紙に向き直った。
そんなママに、既に何もかもお見通しかとあきらめたようにため息をつくと、私はキッチンへと足を向けた。
私は冷蔵庫から鶏肉を出しながら、昼間の事はママに多分バレているのだろうなと、ガックリと項垂れた。
本当は鮨をとっても良かったのだけれど。
鮨だと、人数を想定しないと注文できない。
つまり、ミッチーの分を頼むか頼まないか・・・。
それは、ミッチーがここにまた来るのか、来ないのかを考えることで。
今は、それについては考えたくないし。
もう、昨日からイレギュラーなことばかりで、私は面倒で考えることを放棄し、カレーライスを作ることにしたのだ。
カレーならば、そんなに人数は関係ないはずだから。
何も考えないようにして、サラダ用の玉ねぎを刻んでいたら、インターホンが鳴った。
慌てて、手を洗い流し水気をタオルで拭くと、既にママが立って玄関へ向かっていた。
私はホッとして、また包丁を手にしたけれど。
「こんにちはー、エミちゃん。おじゃまするわよ?あら、今夕食を作っていたの?」
耳障りな甲高い声に、内心うんざりしながら私は顔をあげて、こんばんはと挨拶をした。
何でこんな夕飯時にやってくるのかと、腹立たしくなったけれど。
この内藤さんは、私がママから引き継いだアメリカンバー『Chicago』の近所にある洋菓子屋の奥さんだ。
60代で、ご主人が3年前になくなったけれど、修行を終えた息子さんが店を継いだので、今は職人さんを数名使い、店を切り盛りしている。
鎌倉でもなかなかの人気店だ。
「うわぁ、カレーライスかな?エミちゃんの手料理、いいな。」
内藤さんの後ろから入ってきた息子の肇さんの姿を目にし、私は再びうんざりとした。
40代後半の肇さんは髪が寂しい未だ独身で、内藤さんも焦っているらしく、最近やたらと私と肇さんを会わせようとする。
というより、去年、肇さんが店に持ってきてくれた新作菓子を私が美味しいと言ってから、何かのスイッチが入ったのか、肇さんが積極的になったのだった。
だけど、ハッキリ言って肇さんは私のタイプじゃない。
というより、苦手だ。
「本当ねぇ、エミちゃんはお店でもお料理しているんでしょう?それなら、きっとカレーもおいしいわよねぇ。うち、まだ夕飯の支度していないのよ。カレーなら多めにつくっているわよねぇ?」
その上、母親の内藤さんも私は苦手だ。
図々しいし。
「市販のルーで作っていますから、普通だと思いますけど?それに、ノリコが帰ってきて食べますからそんなに余分はないですよ。」
お前に食わせるカレーは無いよ!と言いたいところをグッと我慢し、私はあいまいな笑顔でそう言った。
すると、内藤さんはノリコちゃんねぇ・・・と、皮肉な顔をした。
「最近、ノリコちゃん店を手伝っていないそうじゃない?若いからって、遊び歩いて家の手伝いもしないなんて。そんな子に晩御飯ちゃんとつくるなんて、エミちゃん甘いわよ。ノリコちゃんは、史子さんの本当の子供じゃないんでしょう?少し甘やかしすぎじゃない?」
図々しい上に、勝手に勘違いしてしかも思い込みも激しいし。
そして、余所の家の事情に無神経にズカズカと入り込んでくるデリカシーのなさにもあきれ返っていて。
私は、そんな内藤さんと、内藤さんの一方的な言葉にうんうんと頷く肇さんに、今日も嫌悪を感じた。
「甘やかしてなんていませんよ。ノリコは別に遊び歩いているわけじゃないですし。それに、ノリコは戸籍上もちゃんとうちの子で、私の可愛い妹ですから。何の問題もありません。それより、内藤さん。こんな時間に、余所の家を訪ねるなんて、余程緊急なことでもありましたか?」
さっさと用件を聞いて、引き取ってもらおう・・・そう考えた。
だけど。
「そうなのよ。エミちゃんにねぇ、肇がデートを申し込みたいんですって。」
「・・・・・・。」
無理だ、無理。
デートの誘い位自分ですればいいのに。
何で、母親がでしゃばるの!?
しかも、内藤さんの後ろで顔を赤らめ、もじもじしながら私を見るその目!!
無理っ!絶対に無理!!
「前々から、史子さんにはうちの肇にエミちゃんをどうかって、お伺いしていたんだけどね。史子さんったら、それはエミちゃん自身の問題だから本人の気持ちが肇になければどうにもならないんじゃないか、親の出るまくじゃないなんて冷たい事言うのよ?結婚は家と家のつながりになるんだから、まず親が気に入った相手じゃないとねぇ?その点、エミちゃんはこうやってお店をやりながらきちんと家事もこなしているし、美人で、若いから子供もたくさん産めるだろうし、それに・・・ゆくゆくはこの大きな家を相続するでしょうし。うちにお嫁に来てもちゃんと家の事も店の手伝いもそつなくこなせるわ。本当に肇にぴったりのお嬢さんだと思って。」
内藤さんの勝手な言い分に、私はあきれてものも言えなかった。
何勝手な事言っているの?
それにこの家を相続って・・・そんな、病気はしているけどママもまだ若いし、そんな先の事・・・それに、うちにはノリコだっているのに!!
段々頭にきて、怒鳴ってやろうかと口を開きかけた時。
「ただいまー、エミちゃん。ごめーん、なんかそのオバさんの喋りが機関銃のようで、割り込めなくて立ち聞きみたいになっちゃったけどー。えー、オバさんその後ろにいるオジさんの結婚の話しているのに、なんでオジさん何にも喋んないの?それに、まず親が気に入るって・・・まず、本人が気に入らないとダメでしょう?何いってんの?」
ミッチーが、ママと連れだってキッチンから続くダイニングに入ってきた。
ママがノリコは今クリーニング屋に行ってもらっていると私に言った事から、内藤さんにノリコを会わせたくない為だと気がつき、ノリコが返ってくる前にこの2人を追い返そうと決心した。
ということで、渡りに船でミッチーに協力してもらおうと私は考えた。
「ミッチー、お帰り。お弁当どうだった?」
ミッチーの言葉に憤慨している内藤さんを無視して、私はミッチーにニッコリと話しかけた。
すると、ミッチーはパァァッと明るい顔になり。
「ただいま、ただいま!エヘヘ、お弁当目茶目茶美味しかったよー、ありがとうねぇ・・・でも、昼前に出かけようと思ったから、朝会社についてすぐ食べちゃって・・・もうお腹ペコペコ!!今日はカレー?うわぁぁ、もう匂いで美味しいってわかるよ、これっ!ノリコが帰ってきたら、すぐ食べよう?あ、そうだ、お弁当明日も、卵焼き入れてね?俺、エミちゃんのしょっぱい卵焼き、だーい好き。」
そう言うと、お弁当箱を持ってキッチンに入ってくると、自分でお弁当箱を洗い始めた。
ノリコの分ももっていたらしく、2つのお弁当箱をだ。
ノリコも綺麗に全部食べたよーと、上機嫌で泡を立てている。
そんなミッチーを見て、内藤さんは。
「なっ・・・エミちゃん、この方どなた?親戚の方?いくら親戚の方でも人様の縁談に口を挟むなんて、失礼じゃないですか。それに、肇はまだ35歳で、オジさんなんかじゃありませんっ!」
と、怒りをあらわにミッチーに食って掛かった。
私は、そこで肇さんがまだ30代半ばと聞き必死で堪えたけれど、内心は飛び上がるほど驚いていた。
だけど、ミッチーはそれに対しそのまま、物凄く驚いた顔をした。
「ええええええっ、そのオジさん、35歳なの!?うそだぁ、俺と同い年ってこと!?信じられない!?何か、老ける薬でも飲んでるのぉ!?」
老ける薬って・・・どんな発想だと心の中で苦笑しながら、ミッチーが肇さんと同い年って事に私は驚いた。
というより、ミッチーが35才という事に滅茶苦茶驚いた。
どう見ても、20代後半にしか見えない。
それは内藤さん、肇さんも同じらしく、嘘でしょうと目を吊り上げた。
そんな2人に、ミッチーは。
「嘘じゃないよぉ。××年生まれの、巳年だよ。ああ、それと俺はエミちゃんの親戚じゃなくて、彼氏だからー。勿論、結婚も考えてるし。史子ママにも俺の気持ちは伝えてあるし。だから、エミちゃんがそっちのオジさんと結婚する可能性はゼロでーす!」
と、爆弾発言をした。
私はその言葉に目をむいたけれど、すかさずママが言葉を続けたから、何も言えなくなった。
「このコの言う事は本当だよ。良い縁があったと思って、前々から内藤さんにはエミを嫁にって言われていたから、お断りの手紙を今書いていたんだけど。丁度良かった、これで直接お断りできるね。」
「そんな・・・こんな、何をやっているかわからない人にエミちゃんをお嫁に出すなんて、史子さん早まったらだめよ!うちは近所で古くから店もやっているし、身元も分かっているし、エミちゃんだってお嫁に来やすいと思うわ!エミちゃんが結婚して家を出たとしても、ノリコちゃんにお店と家のことしてもらうにしたって、近所だから見に来られるし心配ないでしょう?」
ミッチーのことはともかくとして、食い下がる内藤さんの言い分があまりにも身勝手で、流石に私もハッキリ言おうと思ったのだけれど。
「えっ、エミちゃんと結婚するのはお嫁に行くのが前提?だって、エミちゃん長女だよ?それ、エミちゃんの本意じゃないよね?ノリコだって今一生懸命夢にむかっているし。今、エミちゃんはノリコを一生懸命応援しているんだよ。しかも、エミちゃん『Chicago』やめるなんて一言も言ってないじゃん。エミちゃんは、この家と『Chicago』が大好きだからさぁ。そうだ、一言もって言ったら、全部オバさんの意見で、そっちの俺と同い年のオジさんは何にもエミちゃんに対して気持ちを言っていないじゃん。オバさんが結婚するんじゃないでしょう?」
私が思っていること全てを、ミッチーが代弁してくれた。
昨日であったばかりなのに、何で私の事がこんなにわかるのだろうと不思議だったけれど。
やはり、昨日思ったようにミッチーは物の本質を見る目がある人なのだと思った。
そこで、ミッチーの言葉にようやく肇さんが口を開いた。
「エミちゃんは、美人だし・・・母さんも気に入っているし。『Chicago』でも、客あしらいが上手いから、うちの店も難なく切り盛りしてもらえるだろうし。それに、女は嫁に行くのが一番の幸せなんだ。それに、うちは地元でも有名店だから、バーのママやるよりずっといいはずだ。嫁にもらってやるって言われているうちに結婚した方がいい。」
本当に、開いた口が塞がらない・・・もう、ため息しかでなかった。
この人は、私と結婚したいんじゃなくて、条件に合うから私と結婚したいのだと言っていることに、気が付いていないようだ。
そろそろノリコも返ってくるだろうし、怒鳴って追い返そうかと思っていたら。
「やっと、肇さん本人の気持ちが聞けたよ。」
ママが静かな声で話し出した。
「今まで内藤さんの話ばかりだったから、どうお断りしようかと思っていたんだけどね。肇さんの気持ちを聞いて、きちんとお断りができるよ。まず、エミの幸せは嫁に行くことじゃないよ。エミが好いた相手と結婚することだよ。親として欲を言えば、その相手がエミを大切にしてくれる人がいい。まず、エミ自身を愛してくれる人。エミの大切にしている気持ちを無視して、自分の都合を押し付けないような人がいい。それとね、エミは何よりもノリコを大切に思っているから、ノリコをないがしろにするような人は問題外だね。ということで、そちらのお申し出は、ここではっきりお断りさせて頂くよ。」
ママの言葉に、愕然とする肇さん。
そして、それでもあきらめない内藤さんがミッチーに目を向けた。
「あなた、肇と同年代とおっしゃいましたけど、その歳で、スーツも着ないで勤まる会社なんて碌な会社じゃないでしょう?エミさん、いくらお店をやっているからって、そんな訳の分からないお勤めをされている方と結婚して、幸せになれるのかしら?」
幸せの定義がもはや、ママが言った事からずれていることにこの人は気がついているのだろうか。
とりあえず、ミッチーがノリコと同様歌手の卵だとは言わないでおこう。
ましてや、35歳でそんな状況だと知ったら、内藤さんが何をいいだすかわからない。
そう思っていたら、ミッチーが驚きの告白をした。
「ああ、俺がさっき会社に行ったって言ったから、会社員だと思ったんですねー。俺、会社員じゃないですよー。フリーで音楽関係の仕事していますから。えーと・・・総合音楽プロデューサー的な仕事で、スーツは滅多に着ないです。ああ、フリーでも俺売れっ子ですから、年収はいいですよ。普通のサラリーマンの10倍以上です。ついでに言いますと、今契約している仕事が、コリーレコードが企画している新人のデビューで、さっき俺が言ってた会社って言うのはコリーレコードです。人がどう見るか勝手ですけどー。今の俺が携わっている仕事は、やりがいのある仕事なんで、碌な仕事じゃないっていわれるとカチンときますねー。まぁ、信じるか信じないかは勝手ですけど、その新人がデビューしたらお知らせしますよ。」
内藤さんと肇さん以上に驚いたのは、私かもしれない。
だけど、ママは平然としていたから、昨日のうちにミッチーから事情を聞いていたのだと気がついた。