籠城一泊
『ごめんね、明日は鏡河さんのところに行けなくなっちゃった』
昨夜、カシパから帰ると遠葉から一通のメールが送られてきた。あまりにも好都合なので来れない理由を聞くのを忘れたが、遠葉にもプライベートがあるのだからあまり踏み込み過ぎてはいけない。
昨夜帰りの電車の中、あのとき観覧車にいなかった二人からなにを話していたのか問い詰められることはなく、今日は楽しかったね、とか、また行けたらいいね、だとか遊び疲れに浸っていた。気遣われることや話は一つとしてなかった。
気を取り直して今日も鏡河のところへ出向く。小さな公園は体感温度よりも涼しげで、緑黄生い茂り、午後にもなっていないこの時間に子供たちや他の人の姿はなく、木陰のベンチに座っている彼女を見つけた。
今日もどうやら制服を着て、スケッチブックを膝の上に真剣な面持ちで鉛筆を紙に走らせるその様は、自分の中にあった彼女の印象をぶち壊した。鏡河は不真面目、怠惰的、怠慢性、生の活力を全て失っていると思い込んでいたが、どうやら完全な思い違いだったようだ。
俺はその目を知っている。輝かしく何物にも代えがたい他人には決して見ることができない世界を見ているときの目を彼女はしていた。簡単に話しかけることができず、同じ公園にいながらも彼女と少し離れたところからその姿を見ていることしかできない。
絵画のようだった。今日の鏡河はただ綺麗でどこか儚く脆そうで、しかし力強い生命力を感じさせた。時間が停止した錯覚に陥り、小さな風も揺れる木々も草も花も照りつける日差しさえも彼女を引き立てる為の脇役だった。
「よし、これくらいでいい。で、あなたはいつまでそこで呆けてるの? そんなに見つめられても困るんだけど」
こちらを見ないその声に、気がつけば俺はずっと見惚れていたらしい。それとなく腕時計を確認するとこの場所に到着してからまだ五分も経っていないことに気がつく。
「ああ、いや、暑いよな今日も」
「じゃあ帰る?」
「いやいやいやいや、ここは涼しいさ」
「そこ、陰から外れてるけど」
目を細めこちらを向いた彼女の絹糸のような髪が日に反射して煌めいた。心が取り込まれ、おはようの一言も言えない。遠葉が目標とする女はこんなにも美しい人物だったなんて初めて知った。
「ま、むさ苦しいあなたにぴったりの暑苦しい場所だし満足できた?」
「お前、むさ苦しいの意味知って言ってるのか?」
「馬鹿にしてるの? 月城優一って意味でしょ」
どうやら見た目と口は別らしい、再確認できて勉強になったよ。……て、あれ、こいつ俺の名前。
「本当は名前覚えてたんだな」
「意味と一緒に覚えるのが勉強だし当然」
「はいはい、今日も減らず口で安心したよ」
まともな会話ができないのは以前から変わらないか。なにか相当溜め込んでいるものがあるのかもしれないと心配半分怖さ半分だったが、この調子なら大丈夫か。
それで話があるんだろ? と調子を取り戻し切り出してみると鏡河に若干の躊躇いの色が見えて。
「私が不登校になった理由。一応、あなたにはちゃんと話しておこうと思って」
と、彼女は木陰に目を逸らした。嫌じゃなければ、なんて少し弱気を見せられたら元々それが聞きたかった俺は自然と鏡河に歩み寄り。
「是非聞かせてくれよ」
腰を据えて聞き手に回ることにした。だがやはり、いきなり自らの昔話を始めるのは気恥ずかしいのか少しして、鏡河は本題とは多少ずれたところからぽつりと語り出した。
「まず私の家族構成なのですけどね、実は既に母は父と離婚していましてです、つまり現在は母子家庭ということになる訳ですが、それでも母は若い頃からデザイナーとして世界で仕事をしていた」
「よし鏡河、落ち着こう」
緊張しいの遠葉を相手にしている気分になった。
「昔のことって言えば昔のことだけど、それでも時期で言うならつい最近のことでもあるんだよ。ああ、私が不登校になった理由だけど、その原因になったことについてのことだけどね。えっと、こんなこと他人に話したことないからまとめるのが難しいな。中学二年まで私は普通の学生だったんだ。クラスメイトとも上手くやっていたし大人たちからの評判も聞くところによれば良かった。普通に好かれて普通に通い、思えば本当に普通の女子だった。懐かしむ訳じゃないけど、あの頃の自分はそれなりに楽しかったんだと思う。周囲の期待が重かったというくらいで、けどそんなの私には関係なくて、ああこれは昨日話したっけ。まあ、そういうことで実に普通の生活をしていた、できていた。それが壊れたのは中学二年生のときだよ。春先の美術部で変な噂が流れ始めたんだ。鏡河深那は美術部顧問の男と付き合っている、なんて馬鹿らしくてふざけた根も葉もない噂だったよ。そんなことある訳ないし、そもそも私はその顧問のことあまり好きじゃなかったから、校内でイケメンとか騒がれてたその男に群がる生徒が腹いせに流した下世話だと思ってた。そう思い込んでいた。けどさ、実際は違った。あるとき部活帰りに同じ部の先輩、あんな女は先輩だとも思いたくないけど、そいつに上から目線で言われたよ。また顧問を誘惑して自分の作品を優先してもらうんでしょ、ってね。なんのことかさっぱり理解できなかったけど、少し考えてそういうことかって理解した。要ははコンクールとか展示会とかで最優秀作品の場にいつもある私の絵が憎たらしかったんだ。その性悪女が流した噂じゃないにしても誰かが私に嫉妬していることだけはそのときはっきりしてさ、それでもそんな下らないことに構う必要なんてないって思ってある程度無視し続けてた。同期の生徒からなにか聞かれてもきっぱりと事実を否定して、中にはしつこく問い詰めてきた奴もいるけどなんとか誤解は解けていった。と、勘違いしてた。あるときから、そのあるときが明確にいつだったか思い出せないんだけど、教室に入って違和感があったんだ。なんて言うんだろうああいうの……、言うなれば予感にも似た違和感? ちょっと違うな、クラスメイトから予告されているような、これからあなたの身に不幸が降りかかりますよって犯行声明を受けている気がしたんだ。馬鹿なこと言ってると思う? いや、そんなに必死で否定してもらわなくてもいいんだけど。……まあ、耳を傾けてくれて、どうも。じゃなくて、そうだ、予感、予告。その日からクラスメイトの大半は私を避けるようになった。なんでそうなったか、前提として下らない噂があったから簡単だった。きっとあの噂がここまで浸透したんだろうなってさ。勘弁してくれよって呆れるのも束の間、次の日から徐々に私を避ける生徒の数は増えて、一日に喋る量が前より八割がた減った頃には気を遣ってくれていた友達や一部の部員があからさまに離れていったんだ。そして夏を前にして私は完全に孤立した。と言っても、今まで話していた友達に裏切られたなんて気持ちはなかった、ことはないけど、それでも学校生活に支障をきたす程のことじゃなかったよ。だってそうでしょ? 友達と話さなくても授業は進む。部員に助けられなくても絵は完成させることができる。ほら、なにも問題はない。けど、厄介なことが起きてしまった。美術部の顧問、噂の中で私とお付き合いをしていたその男が他の学校に飛ばされた。なにかしら職員入れ替えの時期だったのかもしれないけど中学生には関係ない。飽きられつつあった噂の種火が一気に全校生徒に広がったんだ。やっぱり本当だった、嘘じゃなかった、交際が発覚してしまい責任を取る為に顧問が消えたんだ、とかいい加減にしてくれよって感じだったよ。きっとあの男は妙な噂で居心地が悪くなって弁解もしないまま周りの意に流されたんだ。だとしたら、中学生の噂を信じる大人たちも下らないけどね。それで私の方でなにか変わった訳でもなく、ますます信憑性を帯びた嘘はその後も消えることはなかった。だから結局、引き続き私は孤立したままだったよ。どう? これが私が不登校になった原因。下らない噂を解消することもできずにめでたく不登校児になりましたとさ。………………嘘だ、下らないのは私の方だ。確かにきっかけは今話したことだけど、原因はもっと他にあるんだ。その後のこと、ここは素直にお願いするけど、この後の話は誰にも言わないでください」
頭を下げた鏡河に並々ならない事情を察した。面白半分に聞いている訳ではないので静かに頷き彼女の言葉を待った。今までの話だけでも不登校になるに足りると思うのだが、それ以上のことが起きたとするなら既に俺の想像では補えないところにあるのだろう。
未だ公園には人影はなく、ふと真っ直ぐ向き直した鏡河の口が開かれた。
「夏休みが終わってから秋のコンクール用の絵を仕上げ始めたんだ。ラフも構図も構想も出来上がっていたからいよいよ着色だけでさ、この調子なら二週間もあれば完成させられるって高を括ってたんだけど、それが駄目だったのかな。大体の色も整えてあとはゆっくり仕上げるつもりで美術室の保管室にその絵を置いて、ある日様子を見に行ったら備品の山に潰され埋もれて壊されていたんだ」
大きさはこれくらいのやつだ、と彼女は俺の背丈よりも二回り程大きく手を広げた。その絵を描くことがどれくらい大変なことか、やはり想像に容易くない。
「もうさ、なにもかも頭の中が真っ白になってさ、自分が今どこにいるのかなにをしているのかなにを見ているのか目の前にある状況がそのときばかりは分からなかったよ。だって普通考える? 人が作ったものを故意にぶち壊すなんてこと」
人為的な悪意。抑えきれない嫉妬から生まれた人の黒い部分。鏡河はそれを忌むような笑みをしていた。そしてきっとその当時も同じような、いや何倍もの痛みを感じていたはずだ。
「信じられなかったけどさ、呆然としてる間に美術室から駆け去る音がして…………」
言葉に詰まったのか彼女の視線が定まっていなかった。
「それから教室に戻ってさ、いつもと変わらず呑気に話してる奴らが気に食わなくなって」
またなにかを言いあぐねた様子で同時に妙な戸惑いがあり、息を吸い込み意を決したのか鏡河は口を開き。
「魔法で、教室を滅茶苦茶にしてやった」
…………と。
「そうだよな、当たり前だよな。いきなりこんなこと言われても、馬鹿らしく仕方ないよな。痛い女の過ぎた妄想だよ、こんなのさ」
確かに、すんなり受け入れるにはあり得ないことだが、彼女の言葉には何一つとして虚構があるようには思えなかった。感覚的にあり得ないことを信じてしまえたのだ。いや、完全に納得している訳ではないが、しかしそれでもけどだけど……。やばい、俺が混乱してしまっている。落ち着こう、聞き返そう、こういうときはゆっくりと話をしなければ。
「鏡河、いや、鏡河」
「なに?」
駄目だ、訳分からなくてどうしようもない。魔法? ということは魔法使い? え、そんなのありなのお前? 鏡河深那は魔法使いであり魔法使いこと鏡河深那は即ち魔法使いである、だなんて立証できない公式が成り立つことは、全くないと言えるのか俺? 現実離れし過ぎていて自問自答にまで陥ってしまう。
「これは夢、とかまさかそんなオチじゃないよな?」
「もしも夢だったらどんなに良かったか。信じてもらえなくても、結構だけどさ」
そんなに悲しい目をされるといたたまれなくなるだろ。
「俺は信じたいよ、お前の話。でもさ、じ、じゃあ、そうだ、今見せてくれよ、その魔法をさ。そうすれば全部信じられる」
彼女の話が妄想だとすればこいつを信じることができなくなる。だからこそ本当であってくれと思う一方で、実際に魔法を見せられたらそれはそれで俺はどうすればいいのか。信じた後で、なにができるのだろうか。
「……分かった、そうなるだろうって覚悟はしてたし。そうだな、なら季節外れの風物詩でもどうだ?」
鏡河が目を瞑り、辺りにひやりとした空気が流れ込んできた。それは風のせいではなく、木陰の涼しさとも違い、感じたことのある金属的な冷たさによく似ていて、そして……。
嘘だろ、今は真夏なんだぜ? 今年は去年よりも猛暑日が続いているのだ。だというのに木漏れ日に、雪が舞い降ってきた。
「どう? これで、納得して、くれた?」
なにも言えないよ。こんなの信じるしかないだろ。掌に受けた白のそれは、触れた瞬間そっと溶けて消え少しの冷たさを残し別の白が落ちてくる。激しさの欠片もなく、ただ誰かの涙の代わりのようで不思議と愛おしさが込み上げて、しばらくそうしていた。
「本物でしょう? お気に召すかは、分からないけど、これが今の私にできる、精一杯、の……」
「鏡河!」
危なかった間に合った。横に倒れそうになった彼女の肩を間一髪支えることができた。意識が朦朧としているのか鏡河の体中から力が抜けている。先程まで普通に話していた彼女は一瞬にして虚弱な女の子になってしまったかのようだった。そして俺は支え方を間違えたと自覚した。肩を支えるのなら背中側から腕を回すべきだったのだ。今この体制は、なんと言えばいいか、彼女の正面に覆いかぶさるような誤魔化しの利かない格好になってしまっていた。
「こうぜんわいせつ罪で、あなた、捕まってしまうかも、よ?」
「馬鹿なこと言うな。罪の部分だけ強調するな」
そんな力もないくせになに言っているんだこいつは。
「そう、言い忘れてたけどさ、魔法は凄く、酷く疲れるんだ」
「ああそうか分かった。俺はお前の言うことを信じる。信じたから降りやませて大丈夫だ」
「そう、それは、お気に召したようで、なにより、だ」
最後の一粒が鏡河の頬に溶け、それから雪が落ちてくることはなかった。
魔法を使うと酷く疲れるなんて程度のものではないように見える。今にも気を失ってしまいそうな華奢な肩から鏡河の限界も伝わってくる。話の続きを聞かなければならない気がしたがそんな場合ではない。早いところゆったりと横になれる場所へ彼女を運ばなければならないのだ。そう思い立ったが直ぐに俺は鏡河を抱き上げてマンションのロビーへ向かった。正直赤面を隠せないが構っていられない。
「お姫様抱っことか、やっぱり、時代遅れな男」
「消え入りそうによく言うよ。強がり言うくらいなら黙って楽にしてろ」
「強がりなんて、言ってない。私は、引き籠りだからさ。時代遅れの、仲間だよ」
「ああそうかい、確か入り口は指紋認証なんだよな? ほら、開けてくれ。お前じゃないと開かないんだろ」
「むり」
「無理ってなあ、このまま抱きかかえられたいって言うのかよ?」
「………………腕が上がらない、動かせない、だから、むり」
答えの間が気になったがそうなら仕方ない。文字通り手を貸してもらおう。
「この、変態」
寝言に負ける罵倒なんか気にするもんかよ。
自分で立つこともできない鏡河をリビングの幅広のソファにそっと寝かせ、閉め切った大きなカーテンを開けると外の光が眩しかった。部屋の明かりを点けていないことに気がつき壁にあるそれっぽいスイッチを押すと目に優しい明るさに変わり、改めて見ると高級マンションのに相応しい広さだった。元は大型デザイナーズマンションとして設計されており、確か住居人のこだわり次第で部屋の間取りをある程度変更できるのが特徴だったはずだ。前に気になり調べてみたところ、そういうコンセプトだということを知った。
それにしても、広い。こんなところに一日中一人でいたら病んでしまいそうだ。なんというかこの広さは、大勢の人間がいて初めてその在り方が成り立つような気がした。
「ねえ、あなたはさ、毎日毎日私を説得しに来て、辛くなかった? 嫌だって思わなかったの?」
「……正直に言えば、最初は嫌だったよ」
やっぱりそうだよな、と天井を見つめたままの彼女はまだ力が入らないようだ。ぼうっとした口調で魂が半分抜けかけている。
「そうだ、俺がここに通い詰めることになったきっかけって話したっけ?」
「いや、そんなの聞いてない。聞いてないし、別に今更そんなこと……。やっぱり、聞く」
なんだかな、虚ろな彼女は情緒不安定には見えないが、言葉と気持ちがいまいち噛み合っていない気がする。ノーと言ったかと思えばイエス、OKと頷いた矢先にNGと首を横に振られている気分だ。だがいつものような言葉のぶつけ合いにはならず、むしろしっかりと会話をしてくれている。鏡河の棘が萎びれているから、彼女に慣れ過ぎてしまっているのか、どちらにせよ居心地は悪くなかった。
それからきっかけとなった担任とのやり取りや夏休みに入ってから明確に知り合った遠葉のことも踏まえ、今までのことを彼女に話した。苦労話を苦労の根源に話していると思うとやるせないが、黙って聞く鏡河は妙に笑っているように見えた。
思えば、学生らしい楽しみの一切を切り捨てていたのかもしれないと考え直すが、もしも諦めていたら今のような状況にはなかったかもしれない。ならばまあ悪くなかったのかもしれないとさえ思えるのだから不思議なものだ。
「そういう訳で、頑固なお前の為に遠葉が提案したのが昨日の遊園地だったんだよ。だからさ、お前が感謝するべき相手はどっちかって言えば遠葉なんだぜ?」
ふうーん、と一層やる気のない生返事をした鏡河は弱々しくこちらを指さして。
「でも、あなたがあいつをやる気にさせなければ計画は失敗してた。結局、あなたのお陰で私を外出させることができたも同然、でしょ?」
誘ってくれてありがとう、という変換は俺にしかできないだろうな。
気になったのは、遠葉の話になると鏡河の興味が若干冷めていっているように感じられたことだ。
「だいぶ楽になってきた。やっぱり自宅はいいもんだ」
まだ強がっているのか寝ながらの背伸びが難しいのか彼女は身を少しだけ震わせ息を吐く。俺の瞼の裏には真夏の雪景色が焼き付き離れない。
「……魔法、だっけ。さっきの、本当にお前は魔法使いなんだな」
「びっくりした? 怖かった? 逃げ出したくなった?」
「んなことあるか。綺麗だよ」
「なっ! 雪が……、だよな?」
「ああ、お前が知ってるかどうか分からないけど去年は一度も降らなかったからさ、いいもの見れたよ」
そうですか、と今日一番の素っ気なさで彼女は顔を窓に向けてしまった。
「……私が初めて目にした自分の魔法はさ、あなたが言ってくれたようなものじゃなかったよ。とても醜くて、汚いものだったな」
「教室を滅茶苦茶にしたってやつ、か?」
「ああ、怒りに任せて滅茶苦茶にしてやった。ボコボコだ。凸凹だ」
冗談めいていたが実際は言葉よりも酷い有様だったに違いない。不良生徒がゴミを投げつける迷惑行為とは訳が違う。自然現象を発生させることのできるレベルの力が働いたのだから、事件にならない訳がない。その証拠に、報道一歩手前の惨事だったと本人は言った。
「それでその後、どうなったんだ?」
「軽傷者も出てさ。けど母さんが、そのこと自体を揉み消した」
言葉を失ってしまう。大人一人でなかったことにできる事態ではないと思うが、もしかすると彼女の母親はとんでもない人物なのかもしれない。いや、そうではなく、決して関心ではなく、大人が怖くなってしまう。軽傷者が出るようなことがあっても尚そのことを霧に隠すなんて、それではまるで……。
「そうかそういうことか。魔法の存在自体をなかったことにしたかったのか」
鏡河が小さく頷いた。
「母さんも昔は魔法使いだったらしくて、小さい頃に化け物扱いされてたんだってさ」
過去形が気になった。つまり、今は魔法使いではないということか、と聞くと彼女はまたも頷いた。魔法使いをどうやって辞めたのか、治したのかとしつこく聞くも鏡河は分からない、と曖昧に肩を竦めた。
「私もさ、何度も本人に聞いたけどまともな答えは聞けなかったよ。その内深那にも分かるわ、なんてはぐらかされた。私の気を知りもしないで仕事にかまけて帰ってこないし、どういうつもりなんだか」
だがネグレクトという訳ではないらしく、何カ月に一回は帰宅するのだと言った。
「それにしても、昔話にしては酷い話だな」
「ふん、同情したか?」
「全くしてないって言えば嘘になる。けど、一方的にどちらが悪いなんて決めつけることもできないよ」
それはそうだ、と張本人は細い声をしていた。はっきり言い過ぎたかもしれない。気休めでもお前は悪くない、お前は被害者だと言ってあげることができたらどんなに良かったか。しかし、事実、たかが高校生の俺が善悪で判断できる領域を超えている。上辺だけの言葉より、彼女の為になる現実的な協力方法を考えてあげたかった。だがなんて声をかけたらいいのか分からない。穴の開いた言葉ばかりが思い交ってしまう。
「結局、それが不登校になったきっかけなんだな?」
「大部分は、ね。一からやり直そうとして遠くの方にある学校を選んで進学して、わざわざ母さんが引っ越し場所を買ってくれたっていうのに、いざ柚ノ木の美術部に入ってみたら中学の二の舞かと思ったよ」
そういえば担任は鏡河と部員同士で仲のほつれがあったと言っていた。もしも軽度のほつれだったとしても、鏡河の嫌な過去のことが事態を膨張させてしまったのかもしれない。部活で他の生徒といる以上は多少のいざこざや言い合いはあるものだが、彼女においては最悪の出来事を一緒に思い出させてしまうのだろう。難儀だな。ならば鏡河の母親が与えたというこの根城は名実共に彼女を守っていることになってしまうではないか。なんとなく外に出られない出不精の不登校児ではないと知った今、俺ができることなんて、実はなにもないのではないか。
「なあ、鏡河。その魔法ってさ、ある程度自分でコントロールできるんだろ?」
「なんでそう思ったのか聞かせてもらいたいね」
「だって、じゃなければ俺たちと初めて顔を合わせてくれたときになにか起きてるはずだろ」
「それ、あのときはすみませんでしたって言ってるみたいに聞こえるんだけど」
無理矢理押しかけてしまったのは申し訳ないと少しは思っているさ。
「あなたの予想はいい線いってるけど外れてる。当たらずとも遠すぎる」
「誉め言葉だねありがとう」
内心ほっとした。いつもの調子が戻ってきているみたいだ。
「普段なら魔法を抑制するなんて意識するまでもないけど、本気で怒り込み上げて爆発すれば、そのときは感情と一緒に魔法も暴発してしまうんだよ。厄介なことこの上ない。本気で怒ることさえできないなんて、ストレス溜まるよ本当に」
怒りでストレス発散っていう考えが魔法よりも怖くないか?
「子供の頃に夢見ていた魔法ってさ、もっと便利でなんでもできて、なにか幸せにさせるものだと思ってたけど実際は真逆もいいところだよ」
「だけどそれって使わなきゃいいだけの話だろ」
「簡単に言ってくれるよ、全くさ」
呆れられたかもしれないが事実だと思うのだ。魔法をコントロールできるのなら意識して使用しなければいいだけのことのように思えた。だが、鏡河は指で額をとん、と軽く叩き。
「性格なのかな。私、怒りっぽいんだよ」
ああ、つまり、抑えられない怒りは彼女にとって日常茶飯事だということか。ならば確かに他人と接する機会を極力減らそうとするこいつの気持ちは分からないでもない。
「ならお前の性格を根本から直すとか、そういうことになってくるよな」
「本人を目の前でよく言えたな。あなたのそういうところ、むかつきを通り越して関心するよ」
それしか解決方法がない、と言い切る自身は実のところない。だが思い浮かんだ案はそれしかなかった。性格を改善し、魔法を完全に制御できるようにする。鏡河が更生するには一番の考えだと思うのだが、当の彼女は安直な考えを即却下するように手を払った。
やっぱり認められないよなこんな愚直案。それでも。
「なあ、意地張ってるようなら素直に他人と接してみたらどうだ? お前の話を聞いた後で少し酷い言い分かもしれないけど、いじけてるようにしか見えないぞ」
「それは本当に酷い言い分だ。もうちょっと気遣いとか思いやりとか、あなたにはそういうものないの?」
「これでも俺は、お前のことを考えて通い詰めてたつもりだけどな」
無言になる鏡河。だが押し切られた訳ではなく、どうしてか上の空だった。
「あのさ鏡河。俺はな、お前が辛い思いをしたのはお前自身のせいだ、とかそういうことを言いたいんじゃなくて、なにかやりようがあったかもしれないなって、そういうことなんだ」
「見事にふわっとした意見だ。結局、虐げられる方に原因があるってこと?」
「違うよ、それは絶対に違う」
そんなことあっていいはずがない。
「虐めってのは、虐めた方が悪得な快楽を得る一方的な手段だよ。そこに正当性があってなるもんか」
「……でもさ、私の場合ヒトに当てはまる了見じゃ測れないだろ? どう考えてもあのときのことは惨事を生んだ私が……」
「だからそれは違うって。お前、物事の順番が可笑しくなってるぞ。最初のお前は被害者だったんだろ? ……気に障ったら悪いけど、加害者側に回るまでのお前は全くの無実だったんだよ」
決めつける言い方が気に食わなかったのかきつく睨まれてしまう。
「立場が逆転するまでに至った経緯がはっきりとしてるなら、お前が気に病むべきことは過去に起こった全てじゃないだろ」
「あなたさっき、どちらが悪いとは言えないって」
「ああ、だってお前は最後まで我慢しきれなかったんだ。他人と関わらなくても大丈夫だと思い込んで、それでも最後には周囲を滅茶苦茶にするまで怒るなんてさ。それじゃあまるで、心のどこかで他人との繋がりを求めていたように思えるんだよ」
「破綻してる。言いたいことそのまま包み隠さずに言ってくれてさ。本当に私は他人と関わりを持たなくても平気だったんだよ」
「ならどうして」
「私の絵が壊されたんだ! あのときの全てを込めたものが砕かれたんだ! 評価点が悪かったとか元々描く気じゃなかったとか、そういうものじゃなかったんだよ!」
初めて彼女の叫びを聞いた。そして。
「私の、私の全てだったんだ」
初めての本音だった。はっきりと、しかし震え消え入る声で彼女は腕で顔を隠している。
「そう思うなら、なにもお前が加害者面することないだろ。正々堂々、お前は自分の意思を貫けば良かったんだよ」
「……簡単に言ってくれるよ、本当にさ」
既に論点はずれていた。だからこそ一時休戦を同意の上で、少し遅い昼食を作ることにした。まだ立ち上がることはできない鏡河の為に、俺が料理をすることになったのだった。
どうしてもシチューが食べたいみたいで冷蔵庫の中身を空けると丁度いい食材が沢山あり、少し時間がかかることを承知で慣れないシステムキッチンでの料理を始める。野菜を切り高そうな鶏肉を一口大に切ってまずはフライパンでそれらを炒める。自宅にはIHなんてものはないので火が出ないことに多少の違和感はあるが熱の通りは意外と早く、肉の赤い部分が半分以上消えたところで具材を鍋に滑らせ入れた。投入するシチューの元を目安に具材をお湯に浸し沸騰するまで待つ。その間に冷蔵庫にあった一斤の食パンを八つに等分し透明のお皿に緊張しながら盛り、鍋が沸騰したタイミングでシチューの元をかき混ぜながら投入する。あとは焦げつかないようにお玉でゆっくりと回しながら完全に溶けるのを待つばかりだ。しばらくして、俺流シチューが完成した。楕円のお皿に盛り食パンと一緒に食卓へ並べると、我ながら褒めてもいい出来栄えではあった。
ふう、キッチンも食器も具材も料理器具も、必要以上に高級に見えて緊張したぜ。
「お待たせ鏡河。自分で立てるか?」
「馬鹿にしないで。立とうと思えばいつでも立てるよ」
差し出した手をやんわりと振り払われたがやはり脱力気味なことに変わりはなかった。しかし無理に立ち上がり転倒されても困る。弾かれた手で彼女の腕を掴むと、びくりと反応があった。そんなに警戒しなくても大丈夫なのに。
食卓まで介護士のように付き添い座らせて、俺は向かい側に腰かけ食べ始める。
鏡河は相当お腹が減っていたのか黙々と食べていた。文句も言わないので上手くできていたのだろうと安堵するとシチューがやたらと美味しく思えた。そして、一通り食べ終えると彼女はおもむろに。
「今日は、泊まってく?」
「…………はへ」
余りにも思いがけないお誘いに、疑問形にすらならない不可思議な声が出てしまう。。訳も分からず、なんで? と間抜けに返すと鏡河はスプーンをかちゃかちゃとなぞりながら、なんとなく、と不満そうに吐き捨てた。そしてはっとし不自然なまでにスプーンをなぞる指を引っ込めて。
「そ、そういうことじゃないから、他意はこれっぽっちも全くない!」
なんてムキになる彼女が可笑しくて笑ってしまう。もちろん俺の方もなにか期待するとかそういうやましさは、全然ないと言い切る自身はないが、それにしても鏡河とのロマンスの予感に胸を高鳴らせるなんてことはないのだった。それもこれも、幼い頃から近所の春の家に何度も幾度も泊まりに行っていたせいなのだ。
だからきっと俺の返事は決してヘタレではないと断言できる。
「分かった、泊まるよ。けど俺はソファーで寝かせてくれ」
ヘタレじゃないからな。
その後、ソファーの上でしか寝れない野郎の汚名にも似た別名を貼られ、その日の夜を彼女と一緒に過ごすことにした(文字通りの意味は含まれていませんから絶対に本当に)
結局のところ魔法を使用した後は、程度にもよるが基本的に一日中身体が重く怠く動かせず、全身が金縛りにあったような無気力感に襲われるらしいのだ。その状態を彼女が言うには、満員電車の中心にいる自分以外の乗客が全員力士、らしい。それは別の意味できつく感じられたが、つまり俺は動けなくて動きたくない彼女の一日世話係に任命されたというだけだ。
母に連絡を入れ泊りの許可をどうにか得て夕方まではいつも通り鏡河と控えめの口論をし、夜になりシャワーを浴びに行く彼女を脱衣所まで連れて行く。そこからは男の責務でそそくさと背を向けしっかりとリビングに戻り、惜しさや悔しさに打ちひしがれることは全然全くなかった。…………頑張ったよな、俺。
「お世話係、こっち来てくれない?」
数十分後、シャワーを浴び終えた鏡河から不名誉な名前で呼ばれ閉ざされた脱衣所へ向かうと着替えを持ってくるようにと扉越しから命じられた。
「分かったけど、着替えどこにあるんだ?」
「私の部屋。クローゼットを開けて見えたらそれ」
「部屋、いくつもあるんだけどさ」
「玄関から数えて五つ目の右の部屋がそこ」
「えっと、着替えってどんなのだ?」
「見れば分かるから早めに持ってきてくれない?」
初めて入る部屋にある初めて開けるクローゼットの中で初めてお目にかかる鏡河の着替えを初見で分かったら、俺は類稀な変質者かそれこそ本当にお前のお世話係になっちまうよ。
「……冷えるから、早くして」
「なるべく急ぐ」
鏡河に言われた部屋へ向かい入るとそこは生活感のない自室だった。そこはとてもじゃないが『私の部屋』に相応しいとは言えない。なにもなく、ほこり一つない壁に大きなクローゼットが一つあるのが分かるだけだ。殺風景な部屋に寒気すら感じたが、取り敢えずクローゼットを開けて中を確認すると更に寒気を感じた。中には一着二着三着……、数えるのがばからしくなる程の制服で一杯だった。もしもこれがナース服やミニスカポリスの制服ならば、ああ実はこういう趣味をお持ちなのねお嬢様、で済むのだが、全てが等しく柚ノ木高校指定制服だったのだ。上下セットでハンガーにかけられ吊るされているそれは、ある種ホラーでもあった。そういえばあいつ、遊園地へ遊びに来たときも初めて自宅へ入れてくれたときも今日でさえも、姿を見せるときはいつも制服を着ていたな。なにか特別な理由があるのだろうか? 考え難い話だがなにかしらの理由があり魔法を制御する為に仕方なく常備着用しなければならないのか、どんな理由にしてもとにかくぱっと見で、これこそが奴のパジャマだぜ、に該当するものはない。となれば俺が部屋を間違えたかあいつ自身が間違えて部屋を教えたか、だろう。一度部屋を出て玄関から数え直す。一、二、三、四、五つ目の右の部屋。そこの扉を開けて入ると、いや、やっぱりさっきの部屋だった。こうなれば失礼極まりないかもしれないが、鏡河の自室を自力で見つけ出すしかないようだ。一旦脱衣所に戻り部屋の場所に間違いがないか聞き直すことも考えたが、一度教えたことを何度も確認されるとブチ切れそうなんだよなあいつ。
近そうな間違いとしては右の部屋だと思っていたのが実は左でした、というパターンだろう。向かい側と逆側の両方から見た場合に左右逆転するのは当たり前のことで、自分は右手を上げたつもりでも正面の相手からして見れば左の空間に手は上がっているのだ。玄関から数えて五つ目の右というのは、玄関を背に歩いて五つ目の右ではなく、玄関を奥に見た状態で数えて五つ目の右、ということだろう、きっと。じゃなければ一生考えても分からん。
と、逆説にならい扉を開け明かりを点け、さっきの部屋よりも強い悪寒と張り詰め冷え切った恐怖を感じた。一瞬にして息が詰まり、呼吸を忘れ、冷や汗が垂れる。目の前の光景は殺風景とは程遠く、色々なものがごちゃごちゃと引き詰め合い得体の知れない集合体がそこにあった。思わず後退り、床に目をやると、血の池ができていた。それはその部屋中に広がっていて、この世からかけ離れたおぞましく醜悪な世界を見てしまっている気分だ。
さっきの部屋の方が余程生活感があった。何故ならあそこにはクローゼットという日常家具があったのだ。ここは、この部屋は、なんだ? なにを目にしているのかも分からない、見るもの全てにフィルターをかけても足らないぞ。そうしてただ茫然と部屋を見つめていると、瞬間背筋が凍りついた。
「あれだけ私の部屋に入るなって言ったのに、勝手なことしてくれるよあなたはさ」
振り向くと、ってうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
「ちょっと、その部屋の奥はまずいって!」
「か、鏡河、お前それっ⁉」
ふと自分が勢いよく部屋へバックステップをしていたことに気がついた。が、既に遅く、背中にごつごつとした感触があり不吉な音と共に視界に巨大な影が覆い被さった。次の瞬間に起こる事態を頭では理解できても体は動かない。あ、俺、潰される。
「危ない!」
鏡河に腕を掴まれて、咄嗟の出来事に呆気なく俺は彼女に抱き寄せられた。引き戸の扉をバタンと閉めた鏡河は勢いそのままに。
「あなたも押さえて!」
と、彼女に合わせ両手で扉を押さえつけた。ドゴン、と強い衝撃を受けたが込めた力を緩めていい訳がなく、激しく鈍い崩壊音が静まるまで押さえ続けた。
………………やばかった。
「全くあなたは、他人の言うことを聞いてないからこうなるんだよ。私の家で怪我人とか笑えないぞ? 着替え持ってくるだけでなんでこんなことになるのかさっぱりだ……」
「ああ、悪い、と言うかあれ、なに?」
醜い物体が倒れ落下し命の危機に瀕したことはこの際さて置き、それよりも謎の塊の正体が気になった。
「あれは私の副産物。その中でも納得いかない作品の溜まり場だよ」
「えっと、つまりお前が作った、もの、って、こ、と……」
怒涛の出来事に動転していたが、生命の危機が去り部屋を支配していた物体の正体がなんとなく分かった今となってはどうしても視界に入ってしまう豊満で華奢で柔らかそうな彼女の箇所。淡いピンクのレースに持ち上げられている二つのそれと、同じ色でありながらも圧倒的に上よりも布面積が少ない露わな下半部。蒸気を帯び火照っている白い肌に、視線を、駄目だ外せなかった。
そんな視線に気がついた鏡河から殺気を感じる。先程とは比べ物にならない危機感があり、弁解の余地はないことを思い知った。
「これくらい、ちょっとだけほんの少し、あなたになら別にいいかなって思ってたけどさぁ」
と、羞恥の引きつり笑いと怒りの涙目で鏡河は大きく息を吸い込み。
「変態!」
引っ叩かれなかっただけ良かったのかもしれない。
「なあ、俺が悪かったって。まさかあんな部屋があるなんて知らなかったんだよ。それにお前の下着姿を見たことも謝るよ」
「思い出させてくれるな……」
数分後、鏡河にとって全ての部屋が自室扱いされていることが判明した。着替えがあると言っていた部屋は間違いなく最初に入った右の部屋だった。寝るときも制服で寝ているらしく、パジャマとは紛れもない制服のことだったのだ。なかなか着替えを持ってこないお世話係に痺れを切らし、やむなく下着姿で探しに出てみると俺が例の部屋の扉を開けているのを見て呆れたらしい。
確かに初めてここに来たときの鏡河が提示した条件は、絶対に私室に立ち入らないことだったが、どれが私室かも分からない俺にとっては不可抗力極まりないことなのだ。それに加え、あんなものが部屋の中に鎮座していることを予想できるはずがない、と苦し紛れに弁解するも、もういいから着替え持ってきて、と俺は再び向かわされたのだった。
そして鏡河が着替え終え、あなたもシャワー浴びれば? なんて浴室の使用許可が出たので甘んじて受けることにした。まだ湯気が立ち暖かく湿っぽい個室でドギマギしながらシャワーを浴び、着替えなんてないので着ていた服を着てリビングに戻ると鏡河はまだ少し怒っているようだったので、頭を下げては機嫌を窺う為にまた上げての繰り返しをしているのが今なのだ。
「まあ、なんと言うか俺も春の似たような姿を見たことあるし。って、なに引いてんだよそういう意味じゃないからな」
高熱で倒れた幼馴染を看病していたら自然とそういう姿を見ることになってしまったという単純な話だ。
「だからさ、別に俺は気にしてないし記憶にも残ってないから安心してくれ」
「不思議と侮辱されてる気分だよ」
ああ言ってもこう言うもので、不機嫌を直してくれるまで結構時間がかかってしまった。なんとかお許しをもらえたのは二十一時が過ぎた頃で、お腹が減ったと鏡河神が言うのでシチューの残りで夕食にした。
先程の言葉、記憶にも残っていないというのは建前で、それから鏡河と目を合わせる度に気恥ずかしさを思い出してしまっていたが、おくびにも出さないように自制し続けたのだった。
そして夕食後、リビングでくつろぐ鏡河に聞くタイミングを失っていた謎の物体の詳しい正体について聞くと。
「絵だけじゃなくて木工とか石膏とか色々試してさ、これが思うように上手くいかなくて、けど失敗したらしたで後処理が面倒で、それでさ」
それで失敗作として偶然空いていた部屋に保管するつもりで何気なく放り込み続けていたら、保管するどころか新しい作品が勝手に出来上がっていたらしいのだ。訳分からねえ。
それはそれとして、ならばあの床に広がっていた濁った池はなにかと聞くと。
「ああ、あれは絵具だ。フローリングの材質にどれくらい色が馴染むのか試してた」
最初は少量の絵具を円状に塗りたくり様子を見ていたがその内我慢できなくなり部屋全体に広がらせるまでに至ったのだと飄々と語られた。何故わざわざ赤色で試してたのかしつこく聞いてみると、赤って格好いいでしょ? らしい。天才ってすごいねほんとうに。
こいつの手にかかれば通りすがりの公道がたちまち謎アートに様変わりしちまうかもしれない。このまま外に出させない方が社会の為かもしれないよ。
「私もさ、床に絵具が完全に馴染むまでは失敗作入れるのはよそうかなって思ってはいたんだけど、それがまさかあれを生み出すとは思いもよらなかったよ。ははは、偶然の産物って面白いよな」
「笑い事じゃないだろあれ」
死ぬところだったわ阿呆。
「でもどうしたものかな。あれが倒壊した今、あの部屋はもう使えないよ」
「お前の中に片付けるっていう選択はないの?」
「片付けるもなにも、あなたがかたをつけてくれちゃったでしょ?」
「それほぼ同じ意味だし、状況は全然違うからな」
ムッとなる鏡河。今日はこいつのこういう表情よく見る日だ。
「じゃあ今度、部屋の掃除手伝ってくれない?」
責任取るつもりで手伝って、と彼女はそんなことを言うのだった。まあ大半は俺の方に非があったのだから当然と言えば当然か。よし、次は塵一つ残さず片付けてやろう。
その後も変わらず憎まれているのか親しく思われているのか判断し難い時間が過ぎ、気がつけば深夜帯になっていた。そろそろ寝る時間だよな、と俺がソファーに移動すると。
「え、早すぎじゃない? 一日ってこれから始まるんでしょ?」
と、彼女から紅茶を淹れるように命じられたのだった。お姫様、寝不足は体と心に毒でございますよ? なんて言うのも憚られる程、鏡河は楽しそうに笑っていた。