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第一節 『不登校児・鏡河深那』


 夏休み。しかしおよそ高校二年生には似つかわしくない長期休暇の始まりだった。心は踊らず、ただ夏の本番はここからだという覚悟改め、俺は柚ノ木高校の正門を出る。

 終業式が終わった直後、スマートフォンに未読があり、メールの送り主は日菜宮春、幼馴染からだった。

『これからプロムナードに行くけど、来て』

 とあれば断る理由も別段用事もなく、二つ返事で待ち合わせ場所まで歩いて向かう。

暑い、とにかく暑い。夏服は風通しを良くするだけではなく体の内側からもっと涼しさを与えてくれるものであってほしいと汗ばみながら思うのだ。聞くところによると数十年前は各教室に冷房設備がなく、若いうちは暑さに耐えろとか教訓じみた言葉を浴びせる教員の精神論が正義だったらしい。暑がりの生徒から近くの生徒に暑さが移り、その生徒から別の生徒へ熱が渡り渡されの地獄絵図。大人の言うことは分かるが、しかし子供である自分たちは真逆の意見をぶつけたくなるものだ。

滴る汗を拭いながら気が付くと、駅前のカフェプロムナードへ着いていた。

 冷房が効いてる店内は天国た。しかしまあ相変わらず、お客さんの少ないこと。だからこそ毎度隠れ家的な使い方で落ち着かせてもらっているのだが、このお店が経営難でないことを願うばかりだ。

「あ、優一、遅かったね」

 活発的で透明感ある声、店内左手二席先の窓際の席、いつものテーブルにそいつはいた。明るい茶色に染まったセミロング、一目で活発だと分かるぱっちりとした瞳、座っていてもスタイルの良さが不思議と際立ち人生が楽しくて仕方がないと言わんばかりの笑顔を向けて手を振る女子。俺の幼馴染で柚ノ木高校のアイドル(表面上は)の日菜宮春。その朗らかなオーラで男子女子問わず人気の天然性は、黙っていても不景気な店内にお客を引き寄せるのではないかと錯覚してしまう。そんな彼女に手招きされ向かいに座ると唐突に。

「さてと、本題に入りましょう」

 と、威嚇のように切り出された。

「春、一先ず一息つかせてくれないか?」

「お黙りなさいな優一、いいえ柚ノ木高校二年D組学級委員長、月城優一!」

 なぜフルネーム、なぜ言い直してまでフルネーム?

「ちょっとね、最近勉強に身が入ってないって噂だよ? このままだと進学の危機かもしれないって心配されてること知ってる?」

「えっと、誰が誰を心配してるって?」

「優一ママが、優一を!」

 大きく透き通る美声、いわれのないことで怒られていても気分は悪くなかった。

「全くさ、学級委員長の仕事? だとかで担任から無理難題押しつけられたことには同情するけどさ、なにも徹底的にこなそうとしなくてもいいんじゃないの?」

「いや、別に俺は無理してる訳じゃないよ」

 現に三か月前は慣れなかった早朝五時起きもコンスタントにこなせているのだ。勉強も、まあ、一学年時と比べて復習の時間は減らしているけど成績が落ちていることもない。家では早寝早起きを徹底し、授業中も机に突っ伏して居眠りなんてもってのほかで、自己評価上では学生の鏡だと思うんだけど。

 ……帰宅部だけど。

「私ね、というか私たちね、優一があの女と深く関わって駄目男になっちゃうかもしれないって心配してるの。これ本当のことだからね?」

「いやいやお前よりも成績上だし、それは小学校時代からなに一つ変わらないし」

「うっ、そこなんだよね。一体どうやって忙しいながらもそこそこの成績を保っていられるのか、こつがあれば是非ご教授いただきたい、じゃないわよ!」

 このノリの良さ、適度に阿呆でかわいらし……、馬鹿な女。良い意味で庶民的。良い頭の悪さ。多少の矛盾を適度に孕み、だからこそ計算高くない受けの良さがあるのだろう。誰にでも平等に、どんなときでも均等に、天秤のような女だ。

 けど、だけれども、そんな天秤の女神にも許し難い人物はいるらしく、忌々しい宿敵の名を口にした。

「鏡河、深那。あの女だけはやめておきなさい」

 かがみがわ、みな。名前の大半に「か」と「み」を宿す俺のクラスメイト。「神」に愛された元美術部の天才だ。

 しかしこれを春は「かみ」を抜かして「わな」と言う。

「あの女は容姿端麗美貌美麗のハニートラップよ」

「あのなー、俺にそんな罠仕掛けてなんの得があるっていうんだよ?」

「…………絶対によ」

 こいつ私怨だけで言ってるな。訂正だ。日菜宮春は決して天秤なんかじゃない。良くてシーソー止まりだろう。

「二年の始まりから今まで優一はなにしてた? 朝一であの女を向かいに行って、しかも成功のためしがないでしょ? あった? ないでしょ?」

「……ないけどさ、一応インターフォン越しに声だけだけど聞かせてくれてるんだぜ? ならいつかはさ」

 こちらの呼びかけに応じてくれるようになっただけ進展があるのだ。元々はいくら呼び出しをかけても徹底して無視されていたのだから、めげずに続ければいつかは。

「いつかって、いつ?」

 こいつ、さっきまで笑っていたくせにもう真剣な面持ちになりやがった。これだから女は分からない。昔からマイペースな奴ではあったけど、こと鏡河に関してとなると厳しさ百倍だ。同性同士、思うところがあるのだろうか。

 しかし、俺も春も彼女とは一度も顔を合わせたことがないのだから先入観というものだ。

 そう、新学年になってから鏡河深那というクラスメイトと一度も会ったことがないのだ。一度も、ただの一度も、彼女の姿を見ていない。

 高校二年の始まり、なにかの間違いで俺は学級委員長になっていた。どうせやることもないのだから適当な委員会に入っておこうと浅はかな考えで生徒会に入ってしまった。狙った訳ではなく、本当に考えなしで手を上げたら周りに挙手は一切なく、物好きな男子生徒として生徒会へ、そして連鎖的にかつ極自然に全自動に二年D組の学級委員長に任命されてしまったのだ。そこまでは別に良かった。だがそこからが問題だった。

 各委員会で新年度初の会議があった四月半ば。生徒会で書記係になった俺の帰宅時を見計らって担任の新谷女教師に職員室前へ呼び出された。これから一年頑張れよ、とか初めは当たり障りのない話ばかり、だがそれも束の間、突然小声になる担任に耳を寄せるととんでもないことを任されるはめになったのだ。

 月城、お前、クラスメイトを連れてこい。

 はてな、首を傾げ校内にいるであろうクラスメイトを探しに行こうとすると腕を掴まれて。

いや、言い方が悪かったか。正しくは、不登校児の復帰に貢献しろ。

さばさばとした物言いに、拒否権はないと知った。担任が美人で少し嬉しいとかそんなことはどうでもいい。とにかく話をぶった切ってでも帰らなければと本能が告げていた。しかし相手は大人、こっちは所詮子供であり、大人の都合で話は続いてしまった。

クラスメイトの鏡河深那は知ってるか? いやまあ不登校だから直接会ったことはないだろうけど名前だけは聞いたことあるよな? 一応彼女も一年の最初は登校していたんだけどね、所属していた美術部で色々あったみたいでそれきり姿を見た奴はいないんだよ。生徒はおろか教員もだ。不登校の原因は明らかに部員同士の仲のほつれだが、それだけで丸々一年も不登校になるとは考えにくい。ともすれば、鏡河本人が出るに出られない状態に、意固地になっているのかもしれないんだ。けどな、ここで教員が話をつけに行ったところで、ほらあれだ、繊細なお年頃ってやつだろう? 大人が出しゃばっても解決に繋がらないと思うんだよ。職員の中には彼女を復帰させる為に色々試そうっていう考えなしもいるけど、私は間違っていると思うんだよ。で、そこでだ…………。

「学級委員長である月城に、鏡河深那の更生を頼みたい」

「春、頼むから担任の真似して言わないでくれ」

 思い出すだけで弱気の安請け合いをしてしまったことが悔やまれる。結局その後も逃げ道と反論を綺麗さっぱり塞がれ防がれて、俺は頷くしかなかったのだ。

 マジで大人ってずる賢い。というか強引。

「でも優一さ、最初こそ乗る気でなかったのに今は結構やる気だよね」

「三か月も同じことの連続だとさ、なんかこっちが意地になっちゃうんだよな」

「あっそう。で、いつかって、いつなの?」

 しつこい奴だな。そんなこと俺にだって分からない。今までただ鏡河が外に出てくれることを願って自宅へ向かいに行ったり教科毎の宿題を渡しに行っているだけなのだ。しつこく続ければ、きっと、うん、きっと。

「……俺って計画性なさすぎなのかな」

「いきなり弱気になって、そんなのいつものことでしょ? なにごとも強気が一番だよ」

「お前は俺を励ましたいのか潰したいのかどっちなんだよ全く」

 そんなこと言っても仕方ないじゃん、となぜか向かい席の幼馴染は口を尖らせた。

 鏡河の更生を諦めろという一方で強気になれというエールを送る、果たして春の本意はどちらなのだろうか。などと考えても無駄だと経験上知っているので深くは追及しないでこう。

「誰に止められようとも俺はあいつを登校させてみせるさ」

「かれこれ三か月、明日からは夏休み、声だけの女はまだ遠し。ねえ優一、まさか夏休み中も通い妻、もとい通い夫になるつもり?」

「そうだけど?」

「そうだけどじゃないでしょ!」

 がたん、と両手を机につき立ち上がった春はいつになく怒っているように見える。俺が思っている以上にこいつは鏡河のことが気に入らないのか。

 それと母が心配するまでもなくしっかり勉学と両立して不登校児の更生に努めるつもりだし、今までだってそうしてきた。過保護というか心配性というか、とにかく少し放っておいてほしいものだ。

 だが、一の反論から来る百の反撃が恐ろしくて言うことはできない。幼馴染と母を恐れる俺って一体全体情けないな。

「大体さ、最近の優一生徒会にも顔を出してなかったんでしょう? 友花に聞いたら優一には大事な役割があるから非はないよ、とか言ってたけどさ、生徒会も巻き込んであの女に構ってるって訳?」

「あのな、そんな大がかりで大それたことじゃないんだよ。たかが一般の、いや元美術部の天才を連れ戻すだけなんだからさ。確かに考えようによっては大変なことかもしれないけど粘り強く説得すれば上手くいくさ」

「じゃあ周りは巻き込んでない訳ね? あくまで優一単身の愚かな行いってことでいい?」

「それでいいけど、愚かじゃないけど、とにかく一筋縄じゃないかもしれないけど必ず成果はあるよ」

「夏休みが終わったら秋には修学旅行もあるっていうのにさ」

「いや、それは全く関係ないだろ」

 どことなく嚙み合わない会話に違和感はあるが、それを解消するよりも気まずさが勝り、話を切り上げ窓の外を見る。

夕暮れ時の交差点、店内のボサノバのBGMと流れる人の波、赤信号に停滞する車の帯。

 ……夏休み中に解決しなければならない案件は、実のところ二つ。

 一つはクラスメイト鏡河深那の夏休み明けからの登校復帰。夏休み中の一ヶ月でどうこうなるかは彼女自身の意思に委ねられていると言っても過言ではない。俺がすべきは後押しだけだ。というか、彼女の自宅形態的に強制連行は凡そ不可能なのだ。

そしてもう一つの懸念事項。二つ目の案件。中学からの親友、片山光季との仲直り。解決方法は単純明快で頭を下げれば済むかもしれない仲違いだが、それがどうしてこうも難しいものだとは思いもしなかった。

 複雑化され故に放置で解決するかもしれない問題と、解決までの道筋が見え見えで簡単明快だけれどもどうしても踏み切れない問題。

 高校二年の夏休みは、なんとも休みのないものとなるのだろう。

 それと、今日帰ったら母を説得しなければ。
















『不登校児・鏡川深那』


 七月二十八日。翌日から鏡河深那の更生計画を本格的に開始した。彼女の自宅は柚ノ木南地区に位置する超高級高層マンションで、所得の桁が違う住まいであるからその入り口のセキュリティーは指紋認証によるオートロックというテクノロジー溢れる仕様だ。住人ではない第三者は内部から開けてもらわなければならず、それがなされるまではしばらくインターフォン越しのやり取りになるだろう。例に漏れずこの日も持久戦覚悟で夏の朝日に身を晒しながらマンションへ向かい呼び出しをかけた。

 ロビー前で応答を待つこと十四秒。

『誰?』

 低音美声の応答はいつもよりも若干早かった。

「俺だ、月城だ、クラスメイトだ」

『そう、帰って』

「いやいやそうはいかないぞ鏡河。夏休みは始まったばかりだ、ここで退いたらお天道様も雨模様に変わっちまう。ということで、早速開けてくれ」

『訳が分からない、変質者かあなたは。学級委員長だかなんだか知らないけど開けてやるもんか』

「俺だってな、最初からお前が素直に話を聞いてくれさえすればこんなにしつこく何度も訪れたりはしなかったよ」

『勝手に来て身勝手なこと言って、私のことは関係ないだろ?』

「関係大ありだ、大いに影響してるわ馬鹿野郎」

 口が過ぎたかもしれないがこのまま無下にされるくらいならいいだろう。

「学生の身分で不登校とか贅沢にも程があるだろ。お前の贅沢のせいでこっちはあらぬ心配されるは一方で喧嘩はするわでてんやわんやだ。三ヶ月、俺がお前を連れ出そうとしてもう三か月。その間声しか聞かせてくれないとか焦らすにも程があると思うけどな。だから開けて俺と話を、いや俺の話を聞いてくれ」

『話だけならここでもできるだろ。わざわざ招き入れてやる義理も義務も私には全くないね』

 こいつ、今日が猛暑日だということを知ってのことか?

『大体、私が迷惑なら関わらなければいいだけでしょ。押しつけがましい鬱陶しい、さっさと帰ってクーラーで涼みな』

 やっぱり知ってのことか⁉

「鏡河、頼むから中に入れてくれ」

『嫌だ』

「頼む!」

『嫌だ』

「お願いだ、直接会って俺の話を聞いてくれ! 頼む!」

『嫌だって言ってるのが分からない? あなたの方こそ余程馬鹿だよ』

 無音、いや虚しさ書き立てる蝉の声。数分で終わったやり取りは失敗に終わった。しかし信じられないことにいつもよりは長く持った方なのだ。これが当初ならば。

「鏡河俺だ、月城優一だ、クラスメイトで学級委員長だ」

『そう帰って』

「そんな訳にはいかない。お前を連れ戻すのが俺の」

『さようなら』

 とこんな調子だったのだから、これはこれで進展と言える。徐々に彼女との会話の持続時間を延ばしていけば聞きたいことも聞けるような気がするし、言いたいことも言えるようになる。捻くれ者を相手に遠慮をしていたら一歩も進めない。鏡河深那にとってこのマンションは自身を守る絶対防壁になっている。この籠城戦、屈するわけにはいかない。

何にしても日と言葉を改めて出直そう。一旦帰宅してシャワーを浴びようと来た道を振り返ると一人の少女が佇んでいた。目が合う、そのままじっとこちらを見つめ、いや眺めている。その子は声をかけてくる様子もなく照りつける日差しに膝丈の半袖パーカーと白いブーツが映し出されていた。

 知り合いではない。ただ自分と年は近いような気がする。醸し出す雰囲気は小動物系、黒髪ボブカットで小さくもなく大きくもない可愛い類の女子生徒。女子生徒? あれ、俺この子どこかでみたことあるような気がしないでもないでもない。記憶にはないが体感の奥底に…………。

 やっぱり分からない。きっと気のせいだ。これだけ正面で見ていても思い出せないのなら見ず知らずに違いない。

「月城、優一さん?」

「へ、あ」

 突然のことだった。静かに距離を詰め寄る彼女は確かに俺の名前を呼んだ。しかもフルネームで。女の知り合いなんて春と生徒会の数人くらいであり、この子の名前を思い当たりはしなかった。

「やっぱり、月城さんですよね?」

「えっと、そうだけど」

 怪しい人物という訳ではないだろうが警戒心は少なからずあった。それこそ春の言うハニートラップ的ななにかだとすれば全力疾走でこの場から離れるべきだ。しかしなぜだろうか、ゆっくりと嬉々として目の前に迫る彼女からはどうしてか緊張が見て取れた。両手を後ろにやり覗き込むその子の瞳は俺を決して逃がさない。

「こんなところで、しかも朝早くに奇遇ですね。どこかに遊びに行ってたんですか?」

「えっと、ああ、まあ遊びに来た訳じゃないけど似たようなものかな」

 ふふふ、と笑う彼女になにかデジャブめいたものを感じる。

「あー、えっと、失礼だけど、本当に申し訳ないけど、どちら様でしょうか?」

「え?」

 数秒、ただしお互いの認識の違いを悟ったなんとも言えない沈黙。明らかに相手はこちらを知っているようだったのでそれがまた不味い。

少し落胆の色が見える彼女は改めて姿勢を正し、やはりこちらを見つめて離さない。

「えっと、一人で勝手に盛り上がってごめんなさい! そうだ自己紹介がまだでした。わたし、柚ノ木高校二年A組の遠葉江津果です。その、以後お見知りおきを!」

 ぺこりと頭を下げた彼女は同じ高校の同級生であった。ただそれだけでは腑に落ちない。校内の有名人でもない俺をなんでこの子は知っているのか。

「……本当にわたしのこと、覚えてない、ですか?」

「いやほらえっとそう、ああ思い出した思い出した! あの時のあの子かぁ! いやぁ、すっかりイメージ変わってたから気づかなかったよ! 夏ってこうも人を変えるものなんだなー」

 瞳が潤む彼女、遠葉さんをフォローする為とはいえかなり無理があった。。やばいな、これは本当に遠葉さんとどこかで確実に顔を合わせているぞ。だというのにくそ、ここ三か月間の記憶が鏡河をどうにかしようと悩んでいる自分の姿しかない。春が心配していた通り、割と周りのことを見れていなかったのかもしれない。なんて反省している場合ではない。

 遠葉江津果、二年A組。……ええい、キーワードが少なすぎて欠片も思い出せない。小動物系女子でボブカット、いや女子なんて頻繁に髪型を変えるので姿形を頼るのは無駄か。

 だとすれば、そうだフルネームだ。苗字までならともかく他人の名前を知る機会なんてそうそうない。あるとするならば出席の点呼確認時くらいだが、この子はA組で俺はD組。違うクラスの生徒の名前を知る為に教員やその他の生徒に俺の名前を聞くという手はあるがそれこそ普通はしないだろう。ならばもっと別の、そう個人的な関わりか名前を知り得る出来事があったとしか考えられない。フルネームが見ず知らずの第三者の目につく物事。校内でそれがあるとするならばどこだ? 個人用ロッカーの標識は生徒番号だし、その他には教科書、に名前を書くのはもう古い。テストの順位が張り出されることはないし体育着のジャージの刺繍は苗字のみ。あとは生徒証だが盗まれでもしない限りは他の人に渡ることはないし、とあれば保険証だが…………、思い出した。俺、この子に滅茶苦茶助けられていた。あのときの恩人は遠葉さんだった。

「……保険証、あのとき届けてくれて本当にありがとうございます!」

 潔く頭を下げよう。そして誠心誠意謝ろう。

「俺は君のことを、いいや遠葉さんのことを今の今まですっかり忘れていました。誠に申し訳ございません!」

「え、え、そんなに謝らなくてもいいですよ⁉」

「いいや謝らせてもらうとも。そしてお詫びというかお返しに、これからどこかでお茶にしよう。もちろん、全部、俺の奢りだ」

 おろおろとする目の前の恩人はどこか嬉しそうで俺たちは近くのカフェに向かうのだった。


 不覚にも財布を落としたのは二年生になったばかりの四月。主に学級委員長としては荷が重い任で脳のキャパのほとんどを占められていたある日。新しい生徒証を発行する為に保険証が必要で、しかし財布ごと保険証をなくした俺は新規保険証を作るための身分証明証を持っておらず面倒くさいことこの上ない事態に頭痛がしていた。

 校内を探し回っても見つからず困り果てた俺は、ここになければ諦めようと職員室の落とし物ボックスを確かめに行った。が、鍵がかかっているガラスケースのボックス内にそれはなく、泣く泣く下校しようと諦めを決めたそのときだった。

 あの、すみません。もしかして、落とし物ってこれ、ですか?

 今思い返してみれば、あのときの恩人は今と髪型もなにも変わっていない。感謝の気持ちがどうか慎ましい奢りで伝わることを願うしかないのだった。

 マンションから一番近くにあるリーズナブルなファミレスを素通りし、学生としては少しお高いカフェにあえて入る。恩人さんは多少驚いていたけど構わない。席に着きメニューを開き、うんまあギリギリ足りそうだ。そうしてお互いに軽食と飲み物を頼んだ。

「お財布を拾ったのは偶然だし届けたのも当たり前のことだから、もうそんなにかしこまらなくていいですよ」

 プロムナードよりも広めのカフェでオレンジジュースを飲みながら笑顔の遠葉さんは印象通りの人だった。優しさとどこかほわっとしたオーラを纏い漂わせ、クラス内で人気者なんだろうなと感じさせた。話し方もおっとりとしていて、けどのんびりと悠長な物言いというふうではなく、はっきりとした口調で芯の強さが伝わってくる。

 ああ、俺こんな人を忘れていたなんて最低じゃん。

「それにその、わたしのことは遠葉でいいですからね」

「いや、そういうことなら呼ばせてもらうけどさ、なら俺のことも月城でいいよ。それか優一でも構わない」

「え⁉」

 びっくりした。結構大きな声出せるんだな。

「え、あの、でも名前で呼ぶだなんてそんなこと、恐れ多いと言いますか無礼極まりないと申しますか、えっと、なので、つ、月城君と呼ばせてもらいます」

「ああ、それでもいいよ。それと敬語も外しちゃってくれ」

 俯き気味になった彼女はなぜか照れている。同い年でも年頃の女子というのは難しい。春に慣れすぎてしまっている俺はそういうことに鈍くなっているのだろう。

「……それにしてもあんなところで会えるなんて本当に偶然でした、偶然だったね」

「ああ、そういえば遠葉さんは、遠葉はなんであんなところにいたんだ?」

あのマンションに住んでいるという感じでもなかったし用事があったにしては誘いに快くのってくれた。夏休み初日の早朝に出歩くなんて滅多にないと思うのだ。

「そのことなんですけど、なんだけどね。その、月城君もしかして鏡河さんと友達なのかなって思って」

「いや、俺とあいつはそんな親しい仲じゃない、ん、なんであいつのこと知ってるんだ?」

 鏡河さん有名人だもん、と得意げにして外を見る遠葉。美術部の天才、柚ノ木高校からプロの画家が生み出されるかもしれない可能性と多大なる期待。そしてなんと鏡河深那は中学生のときから人並外れた絵の才能で周囲を圧巻させていたらしい。

「と言っても中学はここより遠い場所にあったから知ってる人の方が少ないと思うけどね。あ、そうそう、わたし小学校から今まで鏡河さんと同じ学校でしかも毎年同じクラスでね、だから鏡河さんのこと、よくは知らないけどそれなりに知ってるんだ」

 あり得る話ではあるが、あの場所にいたこととなにか関係があるのだろうか。

「高校も本当に偶然同じになってね。中学のときは友達になりたくても話しかけることもできなかったから今度こそはって思ってたんだけど、流石に高校入学してからは同じクラスになれなくて話す機会もタイミングもなくなっちゃって。そしたらね、鏡河さんが不登校になったっていう噂があって、その一年後にもう一つ噂が広まったんだ」

 聞くところによるとその噂とは、不登校児の更生に努める不憫な男子生徒がいる、というものだったらしい。

 学校から期待された不登校児と同じクラスのしかも学級委員長になってしまった男子生徒が悲しいかな成功するとも限らないミッションを遂行しているという少し誇張気味の噂。今後本人を通さずに広がるそのような噂を耳にしたそのときは、不憫ではないと断固抗議しよう。

「それでね、わがままではあるんだけどね、もしも月城君が鏡河さんと仲が良かったらね、わたしも仲間に入れてくれないかなって思って」

 なんだその可愛いわがままは。

「そうか、けど残念なことにさっきも言ったけど、俺とあいつは決して友達なんかじゃないんだ。というかその逆だな。あいつにとっての俺は籠城を崩そうとする外敵で、俺にとってのあいつは、そうだな、言うなれば……。」

 敵でもないし友達でも仲間でもない。顔も知らない同級生を、なんと例える。噂の言い方を借りればそれこそミッションでしかない、無機質な業務対象ではあるが、うーん、そうじゃないような気もする。最近になり鏡河と血の通ったコミュニケーションを望んでいるのだと気がついたのだ。彼女の更生を意地でもやり遂げようとしているのがなによりもの証拠だろう。

「言うなればあいつと話し合えるようになりたいと思ってる、遠葉と同じ友達志願者かな」

「ふふふ、月城君っていい人だね」

 ふむ、悪い気はしない。出会って間もない遠葉はこんなにも分かってくれるのに昨日の春の対応ときたら酷いものだ。

「でもそっか、あの月城君でも鏡河さんと仲良くなるのは難しいんだね」

「俺は誰とでも仲良くなれるようなクラスの人気者には程遠いよ。どちらかと言うと少ないコミュニティーの中だけで完結する手ごろなお付き合いが理想だからな」

「へえー、意外だね。月城君、校内じゃ結構評判いいよ? 生徒会所属兼学級委員長で、しかも柚ノ木の二光と仲いいんだよね?」

「いや生徒会って言っても書記だし、勝手に学級委員長になっちゃっただけだしな。それより、柚ノ木の二光ってなんだ?」

 まさか、という驚きを隠せない顔で遠葉は身を乗り出し目を輝かせた。

 柚ノ木の二光。二つの光。柚ノ木高校のみならず柚ノ木という広い地域を明るく照らす将来有望な期待の星。飛びぬけた才能とカリスマ性で生徒や教員、市役所通いの老人までもが認知する有名人が我が校にいるらしい。それも同級生だ。

 一方はアイドルのようにキュートでアダルトな魔性を秘めたクリスタルボイスの歌姫。

 一方は小中高と剣道の公式試合で全勝無敗無双を誇る現代の武人男子高校生。

 いやはやこうも噂は広まるものかと関心さえするが、どちらも確かに自分の友達で親友だった。

歌姫、日菜宮春。

武人学生、片山光季。

そのどちらも柚ノ木の有名人だったなんて、距離が近すぎると見えないものがあるものだ。

「柚ノ木高校軽音楽部の日菜宮さんと剣道部次期部長を約束された片山さんの二人と仲がいいなんて、全校生徒も羨んでるよ」

「そう言われてもな、春はただの幼馴染だし光季は中学からの付き合いだしな、俺がどうこうしたっていうよりは自然とそうなっていたって話だよ」

「だからこそ羨ましい。わたしなんか友達一人もいないし、どうあってもあの二人とお話しなんてできないし」

 あいつらはそんなにも高嶺の花なのか。というかさらっと寂しいこと言ったなこの子。

「じゃあさ、今度春に会ってみるか」

「え! あ! いや、そういう意図があって言ったんじゃなくてですね!」

「敬語、戻っちゃってるぞ」

 ごめんなさい、とあたふたする彼女を見ていると妙に気持ちが落ち着く。それにしてもこんな表情豊かな子に友達がいないなんて俄かに信じられない。

「そのね、日菜宮さんとは知り合いになりたいけどね、今はその、別の人が気になるっていうかなんていうかね」

「ん、それってやっぱり鏡河のことか?」

「うん。日菜宮さんが憧れだとしたら、わたしにとっての鏡河さんは目標なの」

「あの引き籠りが?」

「そう、だって鏡河さん、高校に入るまでは普通だったんだよ」

 遠葉が言うには小中学校での鏡河は協調性のある女子生徒だったらしい。全てが一般より上回っている普通で特別な文武両道性格優良児として、大人からの期待溢れる美術部の天才だったらしいのだ。グッドオールマイティな女子生徒が何故にバッドマイノリティな生徒になってしまったのか、美術部でのいざこざを担任から聞いていたのでそこまで不思議には思わない。だが十一年も彼女と同じ学校に通う遠葉は、疑問が尽きないよ、とうなだれている。その様子は心から鏡河を心配しているようであり、友達になりたいという言葉に偽りはないみたいだ。

 ふと、卑怯な考えが頭をよぎる。もしも遠葉が力になってくれたなら、あるいは頑固者で偏屈な鏡河を登校させることができるかもしれないと。周りの人間を、善良なこの子を巻き込んでいいものか、得と迷惑を秤にかけるのも失礼な話だが迷ってしまう。

「月城くん?」

「え、ああなんだ?」

「なんでもないけど、なんか思いっきり悩んでるみたいだったから」

 いけない、悩み癖が出てしまった。

「ごめんごめん、とにかくあいつのことは心配しないで俺に任せてくれていいよ。夏休み明けには必ず連れ戻すからさ」

「あ、そのね、そのことなんだけどね。実は私も鏡河さんの登校復帰に協力したくて」

「だから遠葉は夏の海のカモメでも……、なんだって?」

 もじもじと、おどおどと、遠慮がちにきょろきょろと、遠葉はなにかとんでもなく助かることを口にしなかったか?

「あ、えっと、わたしなんかじゃ力になれないよね。本当にごめんなさい、今のは忘れてください」

「そうじゃなくて、遠葉、お前本当にいいのか? 本当に協力してくれるのか?」

 思わずテーブルに身を乗り出し問いただしていた。突然の勢いにたじろがれたがどうでもいい。

彼女は少し身を引き背筋を伸ばし、そして言葉を選ぶように戸惑いながらも。

「はい、お願いします……!」

 と、明かりを映し強く脆そうな瞳を向けていた。

 夏休み初日の成果はなしに近かったが、別のところで進展があったことを喜ぶ自分がいた。

「それじゃあ明日の朝九時にマンション前で。もしも遠葉が寝坊したら着くまで待ってるよ」


 翌日、遠葉と待ち合わせをして鏡河の説得に乗り出した。待ち合わせ時間二十分前に到着したという彼女は乙女的な私服姿で、昨日もそうだが意外とおしゃれに気を遣うタイプらしい。春もそうだけど、同い年として見て異性間でこうも意識が違うものかと関心さえする。

 遠葉はどこか緊張しているようでインターフォンを鳴らす手が少し震えていた。

 そして、俺にとってはいつものことで、呼び出しをかけてから一秒、二秒と十数秒経ってから応答があった。

『はいはいおはよう、そしてさようなら』

「か、鏡河さん!」

 鎮まるロビー前。恐らく応答側も予期しない突然の来訪者に戸惑っているに違いない。

 不意打ちだ、参ったか。

「え、えっと、朝早くにごめんなさい! わたし、柚ノ木高校二年A組の遠葉江津果と申します! この度は朝早くからの訪問に、ご迷惑かと存じますがお話をさせて頂けないでしょうか?」

『そんなに朝早いって分かってるなら来るな……、と言いたいところだけど、なんか後々面倒くさいことになりかねないから少しだけ聞いてあげる。なにか用? 遠葉何某さん』

 え、こいつ、俺のときと対応が違くない?

「あ、あの、わたし実は鏡河さんとですね、と、友達になりたくて来ました!」

 またも静寂、今日も暑い夏日の朝。考えに考え言葉の意味を探っているのかしばらく応答がなかった。もしかして通信が切られたのかと思えるしばらくの後、インターファン越しに溜息が聞こえた。

『で、それだけ?』

「は、はい、それだけです。あ、じゃなくてですね、できれば直接お顔を拝見して話したいと思う訳でして!」

 なにその家庭訪問。

『なにその家庭訪問』

 ちくしょう、鏡河と被ってしまったではないか。それにしても遠葉の勢いは凄まじく、たどたどしい言葉に秘められた思いの強さが伝わってきた。

 恐らくは相手もそれを感じたのだろう。

『まあ、丁度やることもなくなったし気まぐれついでに会ってもいいけど条件がある』

「はい、なんでしょうか?」

『私の部屋には絶対に入らないこと、この一点。それだけ厳守してもらえるのなら入れてあげる』

「分かりました。絶対に、ぜったいに鏡河さんの部屋には足を踏み入れません!」

 その後の返答はなく、ただロビーへの自動扉が開かれた。こちとら三か月もかけて通い詰めた意味なんてなかったのではないかと錯覚する程簡単に、こうして不登校児の城壁を通過することができたのだった。

 広々としたロビーを抜け、エレベーターへ乗り十八階のボタンを押す。随分昔ならば昇降機ガールがいてもおかしくない優雅なエレベーターホールは音がなく静かだ。遠葉はまだ体が固く見え、むしろ十八階に近づくにつれ緊張を増しているようだ。決して狭くない閉じられた箱に二人きり。意気揚々とはいかずにただ上がる。

 ……やっと着いた。

降りると長く広い通路の真ん中だった。鏡河が待っているのは確か十八階の六号室だ。ロビー前の郵便ポストを調べたところ、 彼女の自宅は一八○六号室。通路を左に進みその番号を見つけた。標識には番号と、鏡河とだけある。一軒家だと世帯に含まれる全員の名前もあったりするがこのレベルのマンションであれば個人情報の保護が厳重なのだろう。それだと同じ苗字の住人が複数人いたら訪問者は不便だと思うけど。

扉前、呼び鈴を見つめ、下のときよりもいっそう呼び出しをする指に緊張感が走る。ただ不登校児の同級生と会うだけなのにこうも躊躇してしまうものか。そういえば鏡河の方からはロビー前の様子は見えていたのだろうか? 例えば来訪者を確かめるカメラなどが設置されていても不思議ではないが、そうすると俺がいることも承知で通してくれたことになる。もしかすると今日は上手く話が進むかもしれない。

遠葉と顔を合わせ頷き、俺が呼び鈴を押す。何度も押して催促させるのは気分が悪いので、いやこれまで鏡河にかけたアプローチを考えると今更だが待つことにした。

「鏡河さん、遅いね」

「ああ、多分急いで部屋の片づけでもしてるんだろ。案外招き入れる気満々なのかもな」

「ふふふ、それだといいね」

 遠葉が笑うとなんだか気持ちが軽くなる。春とは違うやわらかな雰囲気が落ち着かせてくれた。

 カチリ、とオートロックらしくものが外されたが期待した人物は出てこない。どうやらあちらはこちらをわざわざ出迎えてはくれないようだ。

「よし、行くぞ遠葉」

「はい、いいえ、行こう」

 鏡河家の扉を開き、靴を脱ぎ、足を踏み入れる。敵地に潜入した特殊戦闘部隊の、そうまさに、子供の頃に憧れていた戦隊ヒーローの気分だった。不安と期待という使い古された言葉通りに心臓の鼓動が重く鳴り、それを抑えつつも部屋がいくつもある廊下を歩く。真っ直ぐ行ったところの一際巨大な扉を開き、小さな風が吹き込み柑橘系の香りが流れてきた。

 その不登校児は両手を組み凛と立ち、靡く金色ロングのぱっつんヘア。 ふわりとカーテンが擦れ、スタイル抜群の制服姿。鋭く艶やかな瞳がこちらを捉え、への字の口がそっと開かれた。

「ようこそ私のプライベートに。まずは、自己紹介をしていただきましょうか」

 綺麗な低音は猫を被らない威圧的なものだった。が、この声は危険だ。もろにくる。今の一言がもしも自分に向けられた愛の囁きならば落ちていたかもしれない。

 目の前の人物には魅力的な部分が多すぎる、多すぎてもはや部分的などと分割するのは不可能で、容姿だけならば春よりも上だった。

「……なに? どうして黙って阿呆みたいな顔して。話す気がないならさっさと帰ってくれない?」

 しまった、見惚れすぎていたようだ。これではまるで一目惚れだ。いけないいけない、俺に限ってそんなことは絶対にありえないというのになんという不覚。

「ご、ごめんなさい、わたしちょっと驚いちゃって」

 昔から彼女を知っている遠葉が驚く程の美しさを見せつける鏡河はなにか警戒しているようだった。他人を自宅に上げたのだから当たり前といえば当たり前だ。これで全くの無警戒だとしたらどんなに話し易かったことか。

「わたし、柚ノ木高校二年A組の遠葉江津果です! その、今日は……!」

「ああ、あなたはもう知ってる」

「え、あ、そう、ですよね」

 そりゃあさっきあれだけ大きな声で自己紹介していたしな。とあれば、もしかしてお互いに自己紹介って俺と鏡河で、ということなのか? だとすれば前々から名乗っていたし丁寧に下の名前も教えていたはずだ。彼女が知らない訳ないけど。

「じゃあ一応、俺は月城優一。知っての通り柚ノ木高校二年D組、お前のクラスメイトだ」

「へえー、そうだったんだ、初めて知った。で、なんの用? 月城何某君?」

「……優一だよ。というか散々伝えたと思うけど、お前を学校に登校させる。それだけだ」

「なら夏休み中はもう来なくていいでしょう。どうせ学校なんかやってないんだから」

 こいつ、やっぱり。

「言い方が悪かったな。お前を外に連れ出す。自宅に籠ってばかりの不登校児で不健康なお前を更生させる。以上だ」

「そう、尚更お節介どうも」

 俺のことなんて殊更どうでもいいみたいだな。

「それで、あなたの用はもう済んだ? 何城何某君?」

「月城、優一だ。いいか、お前のことを修正する奴の名前だ。覚えておけよ、鏡川深那」

 と彼女の静かな睨みに負けないよう、決して目を逸らさずに言ってやると、今すぐに殴りかかられそうな張り詰めた空気がリビングに充満した。

 彼女の内面は捻くれすぎているらしい。インターフォン越しで充分伝わっていたはみ出し者のオーラを直に感じ、抑制できずにどうしてもぶつかってしまう。冷静に、一旦落ち着こう。言い合いをしに来たのではないのだから。

「まあ、いい。とりあえず今日はここにいる遠葉が鏡河に話があるっていうから付き添いで来たんだよ。話くらい聞いてやってくれ」

「はいはい、分かりましたよ。で、おどおどびくびく男の後ろに隠れてる可愛らしい彼女さん、なにか私に言いたいことでもあるのでしょうか?」

 溜息吐きながら言うなよな。遠葉が可哀そうだ。

「あ、それと友達になってくださいとかいう嘘くさい話なら聞かないから。私は時間の無駄使いがなによりも嫌いでね。本音をお聞かせ願いたいのでどうぞご了承お願い致します」

「えっと、ね。わたし、鏡河さんと友達になりたくて今日は来ました」

「ねえ、話聞いてた?」

「だって、それが本当の気持ちなんです。わたしずっと鏡河さんに憧れていて、こうして会ってくれたのだって凄く嬉しいですし感謝してます」

 鏡河の綺麗な顔が少し歪んだ気がした。それでも綺麗だった。続く遠葉の言葉には感謝とか感激とか、スーパースターの握手会に参列したファンを思わせた。それ程までに遠葉は彼女をずっと見ていたのだろう。そしてどれ程遠くで見つめることしかできずに過ごしていたのか、今まさに感極まりの最中に見える。

 しかし鏡河の組まれた両腕がほどかれることはなく、むしろきつくなっていくばかりでいて、俺はいつ二人の間に立つべきかタイミングを伺う。遠葉が一方的に『目標』を語る場に痺れを切らしたのか黙っていた鏡河が口を開いた。

「くだらない」

「え?」

「あなたの話がじゃなくて、そんな話に私は下らないって言ってるの」

 遠葉の純粋な思いは呆気なく砕かれ交渉悲しく決裂した。鏡河は決して誰にもこびない姿勢を頑なに続けるようだ。本当に、これでは遠葉が可哀そうで仕方がない。俺は意を決し、口を挿む。

「お前、このままでいいと思ってるのか?」

「……さて、なにが?」

 少しだけ間があったことを見逃す俺ではない。

「一生ここに引き籠り続けて怠惰に身を任せ、友人一人いないまま寂しく過ごすつもりかよ」

「それで充分、大いに結構。友達なんてものは私にとって足枷でしかない」

「それはお前がずっと一人であり続けた結果そう思うしかなくなっただけだろ?」

 鏡河の肩がぴくりと動く。

「一人でいることに対してなにか正当性をこじつけて自分をごまかしてるだけだ。一人でいるのは楽だろうけどさ、けど、だけど、楽しくないだろ?」

 こういうのをなんて言うんだっけな。確か、押しつけがましいお節介だっけ。

 どうやら俺はこいつを見ていると懐かしさにかられてしまうみたいだ。それも思い切り居心地の悪い懐かしさを感じてしまう。良く言えば、鏡河は昔の俺に似ている。

「なあ、少しは外に出ろよ。冷房にあたるのもいいけどさ、夏の外は気持ちいいぞ? 暑いけど楽しいし、汗かくけどそんなもんシャワーを浴びれば関係ない。はっきり言って、お前が今過ごしている時間はお前が嫌う無駄そのものだよ、鏡河」

 三か月間も声でやり取りはしていたが、初対面で言いたいことを言ってしまったことに早くも後悔する。相手のことを全く思慮しない言葉、強制される外出令。自分が鏡河だったら月城優一とかいう馬鹿に呆れてなにも言えないだろう。そりゃあ深く溜息を吐かれて当然ですよ。

「……で、それだけ? 私からは特に言うこともないし早く帰れば?」

 と、鏡河は両手を緩め、あっち行けと手を払った。どうするよ、と遠葉を見ると、ここは大人しく退こうとバツの悪い目をしていた。確かにこれ以上は無理そうだ。

 また来るよ、と俺は遠葉を連れて鏡河に背を向ける。リビングを出る間際に聞こえた鏡河の、借金取りかよ、というナイス突っ込みは的を射ていて思わずなにか言葉を返しそうになってしまった。それにしても、また来ると残され断らないということは、もしかしてまた来ることを望んでいるのかもしれないと、愚かしい期待をしてしまう。

 その期待は期待に終わった。

 翌日、鏡河家に向かうもロビーにすら入れず。その翌日、インターフォン越しの彼女の声色が前にも増して威圧的になり。更に翌日、そうですか、としか答えない機械的な対応を冷たく受け、次の日はついに呼びかけに応じなくなってしまった。それでも何度も鏡河を説得しようと試みるも成果が出ず、全て夏の猛暑がそうさせているに違いないと現実逃避に陥りかけた。

彼女の自宅に踏み入れてから五日が経ち、朝起きて考えることといえば、今日も失敗に終わり帰宅する夕方まで、カフェにて反省会兼対策会議兼雑談交じりのひとときを遠葉と過ごすのだろうな、ということだけだった。考えようによっては可愛い異性との夏休みライフを満喫しているのだが、本来の目的は果たされる目途も見込みもなく少しの進展はあったが先に繋がる予兆は全くない。

 そうこうしている間にあれから六日目。今日も以下略、となにか決定的に大事なものを忘れているようにも見逃しているようにも感じる起床時間の午前七時。スマホのアラームを止めカーテンを開けると、まだあの子の説得に時間をかけるつもりなの? と幼馴染と似たようなことを強い日差しが訴えかけていた。いいや、今日の日差しはきっとこう言っている。まだそんな方法であの子の説得に挑むつもり?

なんだか鬱陶しいネット広告みたいな陽だが、そんな煽りさえも一日の活力と行動力の源になる。それ程までに行き詰り先行き不安お先真っ暗だということなのだが、さてはてこれからどうするべきか寝起きの頭ではさっぱり思いつかない。太陽をお告げとする妄想はいい加減にしておき、一階のリビングへ降り冷蔵庫の中に会った菓子パンを朝食として遠葉にメールを送る。

『起きてるか?』

 素っ気ない一文、知り合って一週間そこらとは思えない馴れ馴れしい短文には三秒も経たずに既読がついた。

『おはよう、寝癖が直らなくてちょっと遅れそう! 月城君はゆっくり家を出て大丈夫だからね!』

 そういえば癖毛気味だと言っていたっけな。鏡河の説得に行くだけなのだからそこまで気にしなくてもいいと思うが、お言葉に甘えて、癖毛に甘えていつもより遅く出るとしよう。

「優一、起きてるのー? 今日も外行くのー?」

 離れた洗面所から母の声が届いた。大人に夏休みなどないようで、母は決まってこの時間に起きて出勤支度を整えるのだ。母子家庭が大変なこと、女手一つの苦労を間近で見て知る俺は母の分の朝食を用意する。砂糖多めでスクランブルエッグを焼きベーコンやレタスと一緒に食パンに挟みオプションのポテトサラダを食器に乗せる。用意したホットコーヒーが毎日インスタントなのは多めに見てほしい。

 既にスーツへ着替え終えた母がリビングで朝食を食べ終える頃には七時四十分。家を出る順番が遅い方から朝食やらなにやらの準備をするのが月城家だ。

「じゃあ行ってきます。優一、夏休みの宿題、しっかりやっておきなさいね」

 玄関口でヒールを履きながら母はいつも心配をする。毎度のことで分かってるよ、と返事をすると母は手を振り帰宅時間を告げ家を出て職場へ向かう。

 一人になったところで食器を片付けるとメールがあった。遠葉からだと決めつけ見ると。

『ねえ優一。光季と喧嘩したって本当?』

……春からだった。


「それでね、わたし改めて思ったんだけど、鏡河さんに登校してもらうにはやっぱり誰かが仲良くなるしかないと思うの。友達になって、理解して、そこからがやっとスタートラインだと思うんだ。……月城君、聞いてる?」

 夏休みが始まってから定番となった鏡河深那更生会議室(仮)のいつものカフェに今日はクラシックのBGMが流れていた。遠葉の話を余所に、幼馴染に例の事案がばれたことが想像以上に不安でいて、それ以上にどこからそのことを知ったのかが気がかりだった。

「ああ、聞いてる聞いてる。で、スタートラインが越えられないって話だろ?」

 遠葉には悟られまいと断片的に聞こえていたワードで答え誤魔化してしまう。

「そうなんだよね。友達になりたいっていうのは本当なんだけど、わたしもなんだかその一歩が踏み込めなかったから」

「あいつ、他人の言葉を聞いてるけど信用してないっていうか、自分以外を信頼してないっていうか、どちらにせよ難儀な奴だよな」

 皮肉なことに鏡河の話題をしているともう一つの問題の方がうやむやになっていき不思議と口が軽くなる。

「今日は今日で応答してくれたものの、ものの数十秒で通信切りやがって、普通もう少し会話らしいことしてくれてもいいよな?」

「ものの、もの、の。凄い、よく噛まずに言えたね」

 さっきまでぼけっとしていた俺が言えたことではないけど、論点ずれてるぞ。

「いやいや本当にね、せっかくいい返事を聞かせてくれたものの、ものの数十秒で終わりだなんて寂しいよね」

「嬉しそうだな?」

「うん、だって成功したからね」

 目を閉じて、じっと深く喜びを噛み締める遠葉は一体どっちのことを言っているのだろうか。

 もののものの、という意図しない簡単な早口言葉の方か。それとも……。

「鏡河さんと遊園地。うー、楽しみだなー」

 今日の鏡河深那説得の成果。明後日に遊園地へ行くことを約束させることができた。

 これがどれだけ凄いことか今までの失敗を踏まえ分かってはいる。だがまだ実感が湧かないのだ。なにせあまりにあっさりだった。インターフォン越しに二人で矢継ぎ早に遊園地へ誘う言葉をかけて、黙り無視していると思っていた引き籠りの一言が。

『なら行く』

 だったのだから。言葉を畳みかけることに気を取られ話の前後をはっきりと覚えていない。そんな強引な誘いに呆れられたのか観念したのか、それともなにか思惑があってのことか。

余計な勘ぐりをして手放しで喜べない自分がいた。いや、とろけた笑顔でいる遠葉を見ると自然と釣られてしまうのだが、変な予感が、不穏な雲行きを感じてしまうのだ。

 その日は晴れて鏡河と遊びの約束を取りつけた記念と称し、遠葉と夕飯を食べに行くことになり、焼き肉がいいという彼女に合わせて駅前の焼き肉屋を選んだ。細身の彼女が実は結構な食欲の持ち主だということはここだけの話にしておこう。


 外出日和、もはやこの暑さにも慣れてきた。柚ノ木から離れた場所にある柏駅まで約一時間、急行電車に揺られ待ち合わせ時間の三十分前に俺は到着した。柏の遊園地、通称かしわアミューズメントテーマパーク、略称カシパ。東京ドーム何個分と聞かれたらそもそも東京ドームを見たことがないので例えられないが、入場口アーチは巨門そのものだ。そのカラフルな色彩は、確か有名デザイナーとの共同制作だという話を聞いたことがある。その手の話に疎い俺でも聞いたことがあるデザイナーだった気がするが、すっかり名前は思い出せない。なにせその話を知ったのは保育園の頃で、つまりこの広大な遊園地は十数年前から堂々開園しているのだ。

現在も人気が落ちることのないこの場所に来たのはいつぶりだろうか。前に来たときは春の両親と一緒だった記憶がある。となると、六年前とかそれくらいだろう。アーチを見上げ懐かしいような新鮮なような絶妙な気分に浸っている間にも、家族連れや恋人たちが目を輝かせ次々と園内へと吸い込まれて行く。

「月城君?」

 好意的な女の子の声に振り向くと、遠葉が…………、来ていた。

「おはよう月城君。今日も暑いね。鏡河さんはまだ、だよねー。時間通りに来てくれるといいね。って、どうしたの月城君?」

 そう、彼女の深紅のノースリーブワンピースがミニだとか、編み上げブーツがこうとかそういうことではなくて、軽いアクセントになっている蓮華のヘアピンが可愛いねとか少し気の利いた言葉でもかけようかと思ったが、それ以上に、遠葉お前って意外と胸、いや、やめておこう。あらぬ勘違いをされても後に困るだけだ。

「月城君、大丈夫?」

「ああ、別に平気だよ。大したことじゃない、なにも問題ない」

「そう?」

 顔を覗き込まれると恥ずかしくなってしまう。春で慣れていると思っていたのに、やはり女は服装や髪型一つでそれまでの印象が変わるものなんだな。

 遠葉と雑談をしながらも気恥ずかしさを隠すようにわざとらしく腕時計を見ると待ち合わせ時間まであと五分を過ぎていた。鏡河が来れば二人きりの状況も変わるはずだ、と彼女の到着を待ち望む。それもこれも、今日の遠葉がなにか違うからだ。今まで、と言っても夏休みに入ってからだが、彼女の印象は全く持って友達。それが今日、女友達という性別指定で認識してしまった。まさかここから淡い恋に繋がるなんてことは万が一もないが、遠葉を女と意識してしまうことがなんだか気まずかった。

 お願い、私は友達のままでいたいの。

 瞬間、頭の中で過去の声が再生された。くらりと思考の平衡感覚が迷子になり、思わず瞼を押さえる。

「月城君、もしかして寝不足?」

「え、ああ、実はな、遊ぶルートを遅くまで考えてたらなかなか寝つけなくてな」

 こんな賑やかな場所に来ているのに心配をかけては駄目だ。

「実はわたしも楽しみで眠れなかったよ。全部遊び尽くせるかな?」

「まあ大丈夫さ。何回か春と来たことあるし、ある程度はリードできるぜ」

「かっこいいね、月城君」

 満面の笑顔。他人を幸せにする彼女の特許。協力的なこの子にはどんな感謝を言葉に表しても足りないくらいだ。

「そういえば、月城君と日菜宮さんって……、日菜宮さん」

 ん、なんか文脈が可笑しくないか?

「あいつと俺がどうした?」

「あ、あの、鏡河さんと日菜宮さん」

「おいおい、暑さにやられて可笑しくなっちゃったのか? 俺と春が春で鏡河と春がどうしたんだよ、って……」

 驚きを隠せないとばかりの遠葉の視線を辿ると、制服姿の鏡河がこちらへ向かっている。確かに、休日のしかも遊園地へ制服で出かけるなんて風変わりな奴だが、その隣には夏の装いで涼しげな奴がもう一人。唖然、愕然、何故お前がここに、そして何故そいつと一緒にいる?

「いやー、ごめんごめん遅くなって。あなたが遠葉江津果さん? 初めまして、私、同学年の日菜宮春です。よろしくね」

「え、あ、え、あの、え?」

「もー、戸惑っちゃって可愛い。で、そっちのなんでもない男はどなたですか?」

「あなた様の幼馴染ですよ、春さん」

「へえー、かっこいいー」

 満面の真顔。誘ってもいないのに春はやって来た。全く、水が油とくっついてくるなんてどうかしている。そもそも俺たちがここに来ることをどうやって知ったのか。もちろん俺は話していない。偶然にしては不自然だが、当初予定していた鏡河、遠葉、俺、そして当日緊急参加の春を合わせた四人でカシパに入って行くのだった。

 入場アーチを抜けた先は日常と切り離された世界。カラフルで賑やかな園内に遠葉は嬉々とした息を漏らした。聞くと、初めて来たんだ、と突然の合流者に嫌な気はしていないようだった。そもそも遠葉は春に憧れていたらしいので、彼女にとって俺を除く今日のメンバーはベストなのだろう。既に楽しくて仕方がないという遠葉をエスコートするように春は一歩先を行っている。

「さてと皆さん、なに乗る、どこ行く、なに食べる? あ、優一には聞いていないので」

「えっと、わたしみんなのおすすめのところに行きたいです」

「おい遠葉、こいつのおすすめはあまり聞かない方が……」

「じゃあ、あそこで決まり!」

 高々と指さすそこはカシパ最高の全長を誇るジェットコースター、ドリームマッハだった。頂点に達するまでの恐怖、そこからの急降下、かと思えば急速で駆け上り何回転かも分からなくなる螺旋のコースを急速下降、その速度を落とさないまま振り落とされるなよとばかりに縦横無尽に暴れ回るアトラクションで、春の好物である。そして同時に俺の苦手なものなのだ。

 こいつが来たことにより避けて通ることはできないとは思っていたができれば乗りたくなかった。ああ、これは楽しむどころじゃなくなったな。肝を据えて腹を括ろう。

 ドリームマッハの待ち列は長くなかったがそれでも立て札には二十分待ちとある。その間に春は遠葉と親睦を深める乙女トーク(?)をしていて、鏡河は先程から口を紡ぎ後ろにいるばかり。今日が乗る気でないにしても春が来たことにより更に不機嫌になってしまったのかもしれない。せめて俺が隣で彼女の相手をするとしようかな。

「なあ、鏡河はこういう絶叫系は好きか?」

「好きか嫌いかで言えば大体のアトラクションは嫌いだよ。危険だし騒がしいし、この手のものに乗ったら叫ばなくちゃいけない決まりでもあるの?」

「へえ、ならそこだけは俺と一緒だな」

「なのにわざわざここに来たの? もしかして真正の馬鹿?」

「いや、だって春の勢いには勝てないし遠葉は喜んでるし、断れないだろ。あと馬鹿じゃないからな」

「わたしとあなたで不評を唱えれば、あるいは別の場所に行けたかもしれないのにね」

 素っ気なく言い放つ彼女はもしかしたらただの怖がりなのかもしれない。だとすればツンケンした態度が可愛らしくも思える。

「まあ、私はいいけど、どうでも」

「いつも一言多いぞ」

「それより気になることがあるんだけどいい?」

 鏡河が前の二人を交互に見比べ、冷たい目線を俺に向けた。

「どっちが正妻でどっちが愛人?」

「人聞きの悪いこと言うなよ。どっちも同級生でどっちも友達だ」

「それにしては随分な上玉を両手に持ってるように見えるけど。恋愛関係じゃないならなにか二人の弱みでも握ってるとしか思えない」

「人聞きの悪いこと言うなよ⁉」

 お前、言葉使いがちょいちょい荒いぞ。

「そうじゃないにしても、あの女とはなにか秘密がある、と確信してるけど?」

「…………悪いこと言うなよな」

「図星ということで流してあげる」

 鏡河は遠葉と談笑している春に冷ややかな熱線を送っていた。傷が浅い内に話題を変えちまおう。

「お前さ、なんで今日はこんなあっさりと外に出て来てくれたんだ?」

「三か月。もう四ヶ月。あなたが私のところに無駄骨折った期間だけど、自覚ある?」

「あるけど、むしろそれを自覚してるならもう少し良い対応があってもいいと思うぞ?」

「だからもう少し良い対応したんだけど」

 つまり、今日出かけたのは俺が四か月間も説得をし続けた功績、になるのか? いやいやそれにしても、もっと早く快い対応見せてくれよお嬢様。

「あなたもいい加減骨折り損は嫌だろうと思ってね」

「骨折り続けるのも嫌だったけどな」

「勝手なお節介でよく言わないで」

「不良学生が生意気言うな」

「優等生が説得力の欠片もない」

「不登校児が生意気を」

「学級委員長の戯言でしょう」

「引き籠りの戯れ言だろ」

「生徒会書記とかたかが知れてるね、何某何某くん」

「いい加減、俺の名前くらい覚えてくれよな……」

 正しく名前を呼ばれないだけで結構ショックだな。それにしても、ほんの少しだけ鏡河の頬が緩んで見えたのは、気のせいか。前の二人の視線を微かに感じたのも、きっと気のせいだ。

 そうこうしていると順番が回り、俺たちはドリームマッハへと乗り込んだ。しっかりとシートベルトをして昇降した器具でがっちりと体が拘束される。振り落とされる心配はないものの、これだけ厳重に縛られると逆に不安になるのは俺だけだろうか? いや、隣に座り目を閉じる鏡河も同じ気持ちだろうな。発射の合図でゆっくりと動き出すドリームマッハ。雲へ近づく程怖さは増すが不思議と笑みが込み上げる。

天辺で一瞬停止した。

もしかしたら俺は今日生まれて初めてジェットコースターを心から楽しめるかもしれなぁぁぁァァァァァァ⁉


「月城君、大丈夫?」

「ああ、なんとか座ることはできるよ」

 ドリームマッハ恐るべし。やはりあれを楽しみ乗れる奴は人間じゃない。故に本日三回目のドリームを今まさに体験しに行っている春は凡そ一般常識のそれとはかけ離れている生き物なのだ。俺も鏡河もあんなに嬉々としていた遠葉でさえも、あれに乗るのは二回が限度で、今はベンチで休み春の帰りを待つばかりとなっていた。

「鏡河さんも、体調大丈夫ですか?」

「…………え?」

「遠葉がお前のこと心配してるぞ」

「あ、そう、それは、大丈夫だけど」

 通訳が必要だとは思えなかったけどな。

「そうだ、わたしなにか飲み物買ってきましょうか?」

「そう、あーいや、なら私が行く」

 待ち列を離れてからというもの鏡河はスマホを見続けて、あまり操作に慣れていないのか初々しい手つきでなにか別の考え事をしているようだった。その場を離れる彼女を目で追う遠葉は浮かない顔をしていた。知らず知らず俺も似たような表情をしていたのだろうか、顔を見合わせると彼女は苦笑いした。

「鏡河さん、やっぱり楽しくないのかな?」

 答えに困り俺も苦笑気味になってしまう。きっと鏡河本人に聞いたとしても、つまらなくはない、とか思ってもないようであるような返しが待っているだろう。。

 なんとか鏡河を楽しませる手立てはないものだろうか。

「まさか春が来るとはな」

「え?」

「いや、春とあいつってちょっと仲悪くてな」

「あー、ちょっと、なんだね」

「……もの凄くいがみ合っててな」

 やっぱりね、と苦笑に苦笑を重ねて遠葉は遠くを見た。その先にはきっと三度目の直滑降を楽しんでいる春がいる。

「鏡河さんと日菜宮さん、なにかあったの?」

「まあ、その、なんだ、ファーストコンタクトが悪かったとしか言いようがないな」

「え、二人って会ったことあったの?」

「いや、例によってインターフォン越しにだけどな。俺一人じゃ説得できないかもと思ってさ、春と一緒に呼びかけたことがあるんだよ」

 結果は言わずもがな、大失敗だった。どちらも大声をあげて喧嘩するわロビー前の係員には睨まれるわ悲惨だった。二人の争いの内容ははっきりと覚えていないがきっかけだけは思い出せる。

「春があいつにさ、友達になろうって言ったんだよ。それで鏡河は怒り即発、交渉の余地はなくなっちまったんだ」

 誰かが友達になれば引き籠りも改善される、という結論へ既に幼馴染は辿り着いていたのかもしれない。だがさり気なく能天気な一言が鏡河のどこのなんの導火線に火を点けてしまったのか一瞬にして爆発。見るも無残な仲違いに終わってしまったのだ。

「じゃあ、わたしが鏡河さんに言ったことも気に障ったのかなー」

 苦笑いに苦笑いを重ね更に苦々しい顔をする遠葉は肩を上げ、えへへ、とわざとらしく笑った。そんなに気にしなくてもいいと思うぞ、とは気休めも程々に俺も彼女と同じ遠くを見つめた。

「でもそんなことがあったのに、なんで日菜宮さんを呼んだの?」

「いや俺は呼んでないぞ?」

 そもそも一昨日の朝にメールを返してからというもの春からの返信はなく、直接会ってもいないのだ。

「え、そうなの? てっきり月城君が呼んだのかと思ったよ。じゃあ日菜宮さん、なんで今日来たんだろう? どこで今日のこと知ったんだろうね?」

 つまるところの疑問はそれに尽きる。どこで知ったか何故来たかを知ったところでどうする訳でもどうなることもないが、あのときの再現、公衆の面前の言い争いだけはどうか避けていただきたいと誠真摯に願うばかりだ。

「そうだ月城君、鏡河さんのメールアドレスとか電話番号って教えてもらった?」

「あいつがそう簡単に教える訳ないだろ。聞いてみたことはあったけど、軽い個人情報なので、って断られたさ」

「な、難儀だね」

 遊園地に来てまでいつも通り鏡河について話していると当の本人が戻ってきた。しかしその両手にも片手にも飲み物らしきものは見当たらず聞くと、そういえば忘れてた、と一体なにしてたのお前さん状態だった。

「おっまたっせー! いやー、やっぱりいつ乗っても何度乗ってもドリームマッハはいいものですなー」

 元気ルンルンの春も丁度良く合流し、昼食前に別のアトラクションに乗ろうと団体行動を再開した。鏡河が囁くように、早すぎるでしょ、と呟いたのに気がついたのはもしかしたら俺だけだったかもしれない。その証拠に春と遠葉は気に留めない様子で先陣を行っていた。

「どうした鏡河、行こうぜ」

「はいはい、分かりましたよ王子様」

 それから数分後、またしても春の一存で結構なスピードのコーヒーカップに乗ることに決まった。四人で同乗しもちろんと言わんばかりに春が中央のテーブルを回し回転させていく。こういう乗り物って傍から見れば興冷めかもしれないが実際に乗ってみるとこれがなかなか楽しくスリルがある。他に負けない回転を見せているのだろうが周りの様子など見えたものではない。黙りじっとしている鏡河も、きっと心の中では楽しんでいると思いたい。

 そんなアトラクションを降りた後、昼食前に一回だけという口約束を破棄した春に同行し、それから二回もコーヒーカップに乗ることになってしまった。それを経てしても尚元気ハツラツな春は満足したと言わんばかりに背伸びをして。

「ふぅー、面白かった。じゃあ、もう一回だけ乗っちゃっても?」

「なにか食べようよお姫様」

 と、とんでもないことを言い出すので必死で止めるのは俺の役目だ。

 渋々了解と無尽蔵のエネルギーを誇る幼馴染をなんとかアトラクションから気を逸らすことができ、やっと近くのイタリアンカフェに入り昼食にありつくことができた。

 カシパに入場してから約二時間、しかし乗ったアトラクションの種類は二種類のみ。時間を持て余した訳ではないのに酷く効率の悪い回り方をしている気がする。それでも春に振り回されることが特に不満ではなさそうな遠葉を見る限り意外とこれでもいいのかもと思ってしまえる。だが一方で鏡河は、根菜ピザを食べている今は口を開いてはいるのだが、咀嚼して飲み込んでオレンジジュースを一口、そこから俺たちの話題の輪に入ろうとはしなかった。

そりゃあね、食事中にぺちゃくちゃやたらに話すのはお下品かもしれませんけどね、低俗かもしれないけど、本当に必要最低限の受け答えしかしてくれないとなると心配にもなるよ。

「ねえ、江津果はこのろくでなしとどこで知り合ったの?」

「俺を見てろくでなしと言うな」

 いつの間にか春は遠葉のことを名前で呼んでるし。

「月城君はろくでなしなんかじゃないよ」

「え?」

「え?」

「え?」

 鏡河以外の疑問符が重なった。

「あ、えっとですね、月城君はとても頼りになると言いますか、全力で他人の力になりたいって思ってるいい人、だと思います、よ……?」

「優一が、他人の為に、全力で、うーん、ちょっと待って、やっぱり面白い」

「えっ、笑わないでくださいよ⁉」

「そうだぞ春。遠葉と俺に失礼だ。今すぐその笑いを止めて謝れ」

 なにがツボに入ったのか春は必至で笑いを堪えている。意味が分からないが流石に傷つくよ?

「あー、ほ、ほ、本当にごめんごめん。ひー、あー、駄目だやっぱり最高だよ」

「わたしなにか変なこと言ったかな……」

「大丈夫、お前はいいことしか言ってない。こいつの頭は普通よりだいぶクレイジーな方向に寄ってるから気にするな」

「もう、ごめんって言ってるでしょ。それに別に馬鹿にしたんじゃなくて、なんか江津果っていい子だなって思って。それに、分かり易いね」

 なぜか遠葉の頬が赤く染まっていく。鏡河は呆れた顔して平然としているし、この場についていけていないのはもしかして俺だけか。

 確かに冷静に見てみれば女三人男一人のこの状況で、同性同士にしか伝わらない言葉の意図があったとしても不思議ではない。

 遠葉が恥ずかしそうに俯く訳を、春が笑い転げそうになった理由を、そして鏡河が心底くだらないと馬鹿にする目を俺に向けている意味を、誰か頼むよ本当に。

 和やかなのかぎすぎすしているのかよく分からない昼を経て、気と体力を取り直した俺たちはカシパ巡りを再開した。春に合わせてばかりだとこっちの身が持ちそうもないので今度は俺自ら提案したアトラクションは、カシパオリジナルキャラたちが舞踏会を開いている緩やかなコースターアトラクション。もう落ちたり回ったりするのは勘弁だ。

「すごい綺麗、本当のお城みたいだね」

「だろ、そうだろ、流石遠葉は分かってるな」

 遠葉が最前列で輝き煌めくシャンデリアとキャラクターに目を奪われている間、春は鏡河と一緒の後部座席で黙っていた。振り返ってもこの暗がりでは後ろの表情なんてはっきりとしないので、いがみ合っているのかなんて見えやしない。ただ、その中でもチラチラと華麗に踊るキャラクターを横目で見る鏡河を見逃しはしなかった。

 そして次に向かったのは妖精たちの森という、どちらかと言えばアトラクションよりも探索地に近い場所だ。そして俺は確信した。鏡河は可愛いものや煌びやかなものに弱い、と。

 それが立証されてなるものかとばかりに鏡河は、妖精たちが細工した宝石や装飾の数々、それらが散りばめられた森の中、俺たちの後ろで興味なさそうにわzとらしく腕を組んでいる。が、やはり堪えられない衝動があるのだろう、目が完全に泳いでいた。大人びて見られたいませた少女に見えて仕方ない。

「なあ鏡河、結構楽しいもんだろ?」

「はあ? 別に、どうでも、これくらい、なんともありませんですけども」

 言葉、可笑しくなってるぞ。

「さてと、次はどこに行こうか? 遠葉は気になったものとかないのか?」

「えっとね、じゃあプリンセスタウンに行きたいな」

 妖精たちにさようならをして俺たちは次の場所へ向かった。

 そこはカシパの姫たちがお散歩している豪華な街。アトラクションではなく、お土産やカシパの洋服店などが連なる場所だ。本来なら帰る直後に訪れる場所なのだが、ここでしか買えないものが沢山あるとなれば話は違うようだ。余程来たかったのか遠葉は先導し、小一時間程でほとんどの店を回った。

その後も色々なアトラクションに乗ったり少し休んだりを繰り返し、その度に鏡河の機嫌を窺った。返される言葉は、別に大丈夫、のみで逆に心不安になる。ここは大丈夫という思いよりも、楽しくなるべき場所なのだから。

 そんなこんなで夕暮れが訪れて、いよいよカシパにナイトパレードの時間が訪れた。夏は着物でパレードをするキャラクターたちを夕闇の明かりが照らし出す。ノスタルジックな音楽に隣にいた春は感慨深い息を漏らした。沈む夕日と巡るパレードに遠葉も魅入り二人は、すごいね、と旧来の友達であるかのようだった。

「月城君、ほら、すごい綺麗だよ。まるで魔法みたい」

「ああ、確かに魔法みたいだな」

「……魔法はこんなにいいものじゃないよ」

鏡河の声に振り返ると彼女は空も見上げずにそっぽを向いていた。なにか聞こえた気がした。気がかりな気のせいを残したままパレードは続き、艶やかな花火が上がった。周りは一層大きな盛り上がりを見せパレードはフィナーレを迎えようとしている。そういえば、春は今年の夏祭りもどこかでライブをやるのだろうか? だとすればきっと光季も……。

「ねえ、ちょっといい?」

 鏡河が珍しく自ら話しかけてきた。

「この後、少しだけでも時間ある?」

「え、ああ、まあ、ああ」

「どっちなの? ないなら、別に大丈夫だけど」

「あるよ、全然ある。なくても作る」

 なんの話があるのかどこに行きたいのか分からないが断る理由はなかった。まさか妖精の森にまた行きたいなんて言い出さないよな。だが、もしそうだとしてもこっちは行ってやる気構えだ。

 星がちらつき始めた空へ最後の特大花火が広がり夏の一大パレードは終演を迎える。。静かな歓声を残しつつ、浸っていた家族連れや恋人たちが各々と散らばり、その大体は出口へと向かっていた。春も遠葉も自然とその波に流れるような足取りで、しかし立ち止まっている俺と鏡河を振り返り首傾げている。

「悪い二人共、ちょっとこいつと話があるから先に行ってくれ」

「……いいけど、江津果と待ってるけど。帰った方がいいの?」

 これから繰り出される話がどのようなものなのかはっきりとしないのでなんとも言えない。だが、俺を引き留めた本人は明後日の方向を見てどっちでもいい、とぶっきらぼうに呟いた。

「駅で暇潰してくれ」

「分かった、じゃあ、待ってる。行こう、江津果」

 春が遠葉と一緒に視界から去り、その一瞬だけ遠葉と目が合った。よろしくね、とでも言っていたのかもしれない。

「で、どこに行くんだ?」

「どこでもいい」

「お前から言い出したんだろ?」

「なら、あそこ」

 さっきから顔を合わせない彼女が指さしたのは夕闇の中で光る巨大な観覧車だった。何度もここに遊びに来ていたが観覧車だけは乗ったことがなかった。あんなとろい乗り物嫌い、といつも春が嫌がるものだから気に留めたこともなかったのだ。

 夜も近いからか待ち列はそこそこなものでその大半が男女で指を絡ませている。なんだか周囲の雰囲気に飲み込まれてしまいそうでぎこちなくなってしまう。順番が回ってくるまでは全く会話らしい会話はなく、ただ二人で無言を貫いていた。

 案内のスタッフに誘導されて、恐らくは四人乗りが限界だろうその箱に乗り込み向かい合わせに座った。そしてゆっくりと、ゆったりと、星に近い場所まで上がり始める。ただ、四分の一の高さに届くまでの間、鏡河が口を開くことはなく、ただじっと窓の外を見つめているばかりだった。こちらから話し出そうにもタイミングを完全に失った今となってはきっかけを作ることすら難しく、どうしたものかと内心困り果てていると、小さな声が微かに届いた。

「……がとう」

「え?」

 がとう。ガトーショコラを連想してしまう。

「……りがとう」

「えっと、機嫌でも悪いのか?」

 きっ、と睨まれた。しまった、ここは機嫌じゃなくて気分をうかがうべきだったのかもしれない。彼女は少し怒ったような口振りで。

「あ・り・が・と・う」

 と、俺に、え? 聞き間違いでなければ、確かに今、彼女らしからない言葉を聞いたような。分解気味の感謝の言葉を、こいつが。

「ああ、もう聞こえない? せっかく素直に感謝を述べてるのにさ」

「え、えっと、ああ、いや、聞こえてはいたんだけど」

 聞き間違いかと思ったから。

「というか、なんで俺に?」

 ふいっと再び外へ視線を逸らす鏡河は口をぱくぱくさせながら言葉を詰まらせている。こいつ、こんなにファンシーな奴だったか。

「今日、誘ってくれたこと。それと、楽しませようと、してくれたことに……」

 堪らず慌てふためかんとするのを必死で堪えているのか顔は向けてはくれない。しかし、鏡河の素直な部分を初めて知り、得をした気分になる。

「いや決して今日は楽しかったとか来て良かったとかそういう謝辞じゃなくて、ただ、なんていうか、ほらあれ、よくぞこの私を外に連れ出すことができたなっていう関心の念を伝えてるだけで」

「お前は悪の親玉かよ」

 いや、つい最近までは俺の中でこいつは本当に悪役だったのだが、今日一日でがらりと変わる印象があるものだ。

「それにさっき自分で感謝を述べてるとか言ってたぞ?」

「はあ? 言ってない、全然言ってない」

「まあ、いいけどさ。俺もまあ、お前がそこそこ楽しめたなら良かったよ」

 そこそこはね、と嘘かどうかも分からない意地を張る鏡河は恥ずかしそうに地上を見る。上がる度に遠く小さくなっていく明かり煌めく地上の光景に、俺もまた一緒に浸っていた。

「で、話ってもしかしてそれを伝える為に?」

「まさか、さっきのは偶々口から出たわびさびだ」

 ここにきてなにが言いたいのかさっぱり分からねえ。

「……あいつから、なにか聞いた?」

「あいつって」

「私の中学生時代のこと」

「ああ、遠葉からか。聞いてるよ、文武両道でちょっと特別な普通の女の子だったんだろ?」

 ちょっと特別か、と鏡河は恨めしそうに目を閉じた。そこに悪意や他意がないにしても彼女にとってなにか痛いところだったのかもしれない。俺もそういう部分が少なからずあるから軽はずみな言葉を恥じた。

「そう、私は特別だった。予習復習をしなくても勉強はできたし普段から運動をしなくても運動部の奴らに負けることはなかった。知ってるかもしれないけどさ、私美術部だったんだよ」

「ああ、知ってる。しかも天才と謳われ将来を期待されていたくらいなんだろ?」

 遠葉の話の中でも担任の話の中でも言われていたくらい、偽りのない才能の持ち主なのだろう。だが向かい合わせで溜息を吐く天才がなぜ転落したのかをまだ知らない。

「正直さ、周りからの期待なんて嬉しくもなんともなかったよ。プレッシャーにも感じなかったし、その分同じ分野の他人からは妬まれてたんだと思う」

「才能を持つ他人を妬むのはお馴染みだよな」

「そう、けど、そう簡単に割り切れないことがさ、あったんだよ」

 不意に彼女がこちらを向いた。思わず呼吸を忘れた。それ程まで鏡河の瞳は冷徹な寂しさを帯びていた。

「あいつからはどこまで聞いた?」

「遠葉からはさっき言ったことと、あとは性格優良児だったってことくらいだよ」

「そうか、じゃああのことは話してないのか。計算高いというか、なんだかな」

 と、やはり鏡河は遠葉のことを毛嫌っている節があるようだ。それでもその言い方は、壊れやすいガラス細工を思わせた。

 気がつくと観覧車はいつの間にか頂点に達していた。下の方で人口の明かりが密集して見える。

「……明日さ、また来る予定あるの?」

「え、どこに?」

「私の、ところに、性懲りもなく」

「なんだそんなの当たり前だろ」

「来るのはまあ、別にいいとして」

 迷惑だけど、と言葉を挿み。

「明日は一人で来て。朝十時にマンション前の公園で待ってるから」

 迷惑だけど来いとはなんとも矛盾した誘いではあるが今に限った話ではないか。了解し、遠葉に連絡しなくては、と思っていると、鏡河が夜空を指さした。

「あれってさ、光ってるけど本当はゴミ屑だ。手の届かない場所にあって、なまじはっきりと見えちゃうから綺麗に思えるだけでさ、実際は大したことない。他の惑星から切り離されて行き場を失った成れの果て。弱く光ることでしか存在を表せない出来損ないだ」

 唐突に随分な物言いだったが分かる気もする。憧れは傍に寄る程憧れから遠くなる。いつかそれは現実的なものになってしまい、やがて憧れとは正反対のものになっていく。子供の頃に、ガキの頃に見ていた夢物語も多分この先きっと崩れ落ち、欠陥だけが思い出に残り、そしてやがてどうなるのか、まだ子供の自分には想像もできないことだ。

「綺麗のままでいたいよ、普通ならさ。少なくとも、私は」

 彼女の言葉はそれっきり続くことはなかった。そして地上に戻り、俺たちはカシパを出て駅へ向かった。


 今日が素直に楽しかったかといえば嘘になる。行けば雰囲気に吞み込まれ楽しくなってしまうと、ある意味の危機感があった。私は興味関心など全くないと思わせる為にも行くべきではなかったのかもしれない。

 ついていない日が続いている。いや、そもそも中学二年の秋以来、幸せを感じたことなんて一度としてなかったのだから最近に限った話ではない。そう考えると、今日も私らしい一日だったといえる。一転して最悪の日かと思える一日は、二転していつものことなのだ。

 いつからこんなに不愛想な気持ちが生まれてしまったのだろうか。さもそれが当たり前のように、心臓の鼓動の一切をかき消す痛みが襲う。痛い、辛く、孤独、しかし全てが自業自得だと思い返せば不思議と痛みは和らいでいく。その代わり、目の奥にじんと熱を帯び、それが零れないよう唇をきつく噛み堪える。

 私にはその資格がないのだから。私は自分自身の為に悲しむことも許されない。

 きっとあの人もいつか私を諦めるときがやってくる。そうすれば私を縛りつけるものはなくなるのだ。それが最善で、だとすればそのときこそ私の方が悪になる。それであの人は善の方向を向き、正しい道を行けるのだ。それまでは静かに待とう。

考えようによっては愚かなことだ。思わずため息を吐いてしまう。あの人を拒絶するならもっと効率的なやり方があるはずだが、そうさせてくれない私がいた。一体私はなにを望んでいるのだろうか? 一体私はなにを、期待してしまっているのだろうか?

私が思い描くこの先とは真逆の未来を、この期に及んで想像してしまう。やめよう、止めよう、ここまでにしよう。下らないモノローグにも足らない思いは全て閉じ込めて、明日の為に眠りに就くとしよう。



(続きは後日投稿予定です)


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