表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

花散る心

作者: 榛李梓
掲載日:2016/04/15

 親愛なるキョウコ。


 今年もまた春が来たよ。

 街の至る所に咲いている満開の桜が、視界をピンクに染めている。

 日本で桜を見るのは、これで何度目になるだろう。

 最初に桜を見たのは、そう、私がまだ大学生で、日本に初めて留学に来た年だった。

 4月の初旬、来日したばかりの私は、日本のことを何も知らず、日本語もまだ覚束ない状態で、近くに頼れる知人も無く、これから始まる生活への期待と不安が入り混じっていた。

 そんな私に、チューターの君はとても親切にしてくれたね。

 学校での諸手続きを手伝ってくれたり、生活に必要な買い物に付き合ってくれたり、すぐに使える日本語を教えてくれたりした。

 最初の頃は、私の拙い日本語と、君のちょっと上手な英語を交えて会話していた。

 君は私のたどたどしい日本語の言い間違いに時々笑ったりしていたけれど、いつも根気よく私の話に耳を傾けてくれた。


 キョウコ、覚えているだろうか。

「日本では、春に吹雪になることがあるんだよ」

 君はイタズラを仕掛けた子供のようにそう言って、私を近くの公園へ連れ出した。

 満開の桜に囲まれた公園は、お花見を楽しむ人々でお祭りみたいに賑やかだった。

 空は雲一つない青空で、上着なんかいらないくらい暖かかったことを覚えている。

 花見客の喧騒から少し離れた小道を歩きながら、ピンク色の花を見上げた。

 大学にも咲いていたから桜を見るのは初めてではなかったのだけれど、薄いピンクや白っぽいのというように、それぞれ微妙に色の違う花をいっぱいに付けた桜が続く並木道はあまりにも見事で、私はとても興奮していたんだ。

 突然の強い風で花びらが吹き上げられ、目の前に薄ピンク色の吹雪が舞った。

 君が言っていたのはこれか、と私は嬉しくなって、少し前を歩く君を呼び止めた。

 花びらの吹雪が君を覆い隠そうとする。

 振り返った君が、一瞬痛みを堪えているような、泣き出しそうな顔に見えて……。

「キョウコ、僕の彼女になってくれませんか?」

 思わずそう口に出していたんだ。

 君はとても驚いていたね。

 だって、私達は知り合ったばかりでお互いのことなんて何も分からなかったのだから。

 私はね、あの時の花吹雪を、今でもはっきりと思い浮かべることができるよ。

 花吹雪に包まれた君は、夢みたいにきれいだった。


 私は一年間の留学で、すっかり日本が大好きになってしまった。

 帰国してからも、大学で講義を受けている時、食事中、友達と笑い合っている時でさえ、遠い空の下にある日本とそこにいる君が、いつも心の片隅にあって離れなかった。

 だから、私は日本で暮らすことを決めたんだ。君と生活を共にしようと。


 キョウコ、君と何度一緒に桜を見ただろう。

 最初は二人だった。

 サクラが生まれてからは三人になった。

 サクラはひらひらと舞い落ちる花びらをつかまえようと小さな手を伸ばして走り回って、しまいには転んでしまったのに、平気な顔をしていた。

 君は私に似たんじゃないかと言ったけれど、転んでも真っ直ぐ前を見られる強さは君にそっくりだと、私は思う。

 ハルカが生まれて、四人での花見になった。

 ハルカはピンクが大好きで、いつも花見に行こうと催促するのはハルカだったね。

 つないだ手が温かいのは君と同じだった。

 二人の娘も大きくなって、いつからかまた、桜を見るのは君と二人になった。


 いつか君に、君が花吹雪の下で見せた表情の理由を尋ねたことがあっただろう?

 一斉に花を咲かせて儚く散ってしまう桜を見ると、切なくなるのだと君は言った。それは多くの日本人が抱く感情だと。

 遠い海の向こうの国で生まれ育った私には、その時は分からなかった。

 でも、桜が特別な花なのだということは分かったよ。

 桜の下の君はまるで一枚の絵画のようで、私の故郷には君をそれ以上に美しくできる景色なんて存在しないのだから。

 だから、私は君と日本で暮らすことができて本当に幸せだったんだ。


 私が日本で暮らして、もう四十年にもなる。

 見た目ばかりはどうにもならないが、私もだいぶ日本人らしくなった。

 この前なんか、私が電話をしながらお辞儀をするのを見て「完璧な日本人だ」と言って、ハルカとケンジが夫婦そろって大笑いしていたよ。もちろんそうさ。「完璧」という漢字だって間違わずに書けるからね。


 今年はサクラ夫婦が花見に誘ってくれてね。カオリも連れて、四人で桜を見たよ。

 娘たちも私を心配しているらしい。何かと気にかけてくれる。

 私は大丈夫だ。

 ただ、君がいないことに、まだ慣れないんだ。

 桜を見る時にいつも隣にあった君の存在が無いことに、困惑するばかりだ。

 キョウコ、別れはまだ早すぎるんじゃないか?

 日本の食事は健康的だから、私は当分そちらに行けそうにないと思うんだ。

 いったいあと何度、君のいない花見を繰り返すのだろうね。


 サクラ達と花見に出掛けて、はらはらと舞い散る花吹雪を目にした時、その花びらのひとひらひとひらに君と見た桜を思い出して、胸が締め付けられるようだった。

「おじいちゃん、いたいの?」

 小さなカオリがね、私を見てそう言うんだ。

 もしかすると、私はあの時の君と同じような顔をしていたのかもしれないね。

 キョウコ。

 もうすぐ薄紅の吹雪が吹き荒れ、春が去って行ってしまうよ。

 散りゆく桜に寂寞の思いを抱く今の私は、私が魅了された日本に、日本人に、そして何より愛する君の心に、少しは近づくことができただろうか。

念のため補足。

チューター……ここでは日本に来た外国人留学生に対して、学習面や生活面での相談に乗ったりサポートしたりする日本人学生のこと。大学からバイト代が出たりもします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 桜は美しいですものね。でも残念ながら私の中では一番ではありません。私が大好きなのは牡丹の花です。それも色は白。下手糞な例えをすれば、まるでティッシュペーパーで作った造花かと見まごうくらい真っ…
[良い点] 散り行く桜の情景が、美しい物からやがて切なくなる主人公の気持ちとが合わさり、素敵な抒情がありました。 [一言] ありがとうございます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ