外伝 真澄鏡
「お主、このままで良いのか?」
「何ですか、突然」
高天原の中にある夜の都。その中央鎮座する大社、月代宮。
その大社の一角に設けられた書斎で、其処の主たる月読命、月詠と彼の神仕たる葵葉が机を挟み向かい合っていた。
葵葉は書類に目を向けたまま、淡々と筆を走らせる。その様子を月詠は頬杖を突き、恨めしそうな表情で見つめたまま口元をひん曲げた。
「だから、お主と灯華のことだ。まだ好きあっているのだろう?」
その言葉に、紙を走る筆の音がぴたりと止まる。書類を捉えたままの彼の瞳が、微かに揺らいだ。
しばしの沈黙の後。葵葉はふぅと深く息をつくと、筆を置き顔を上げ、改めて月詠に目を向ける。
「それは昔の話だと、前から言っているではありませんか」
その声はどことなく呆れた声色だった。しかし月詠の表情はますます険しくなるばかり。
「だから何故だ?神と神仕が恋仲になるのは確かに珍しいが、別に主たる我が許可すれば済むことだ。まあ刀羅や鏡夜達の説得は大変そうだが、何とかなるだろう?お主達のためなら、我も助力を惜しまんつもりだぞ」
体を乗り出し、大真面目に彼は言い放つ。しかし一方の葵葉も一歩も引く様子はない。
「ですから、私は今のままで良いと、言っているのです」
低く静か且つ、強い意志を含んだ口調に、月詠はぐぅ、と口を噤む。が、拗ねた子供のようにまたぼそぼそと呟いた。
「・・もう、お主達の仲を否定する者はおらんというのに。好き合っているなら、共に生きるがよいではないか」
「御自分の恋愛観を押し付けないでください。そこまで言うならご自身の――」
「我のことを今持ち出さずともよいだろう!」
いや神仕の私情を持ち出すのもどうかと思うんですけど。と突っ込む気も失せ、ハァと葵葉は小さく嘆息。
こうなると月詠は自分が納得するまで一歩も引かなくなる。主のその性格は、長年仕えてきている中で嫌というほど心得ている。
* * *
彼がまだ陰陽師の「守門青葉」だった頃。彼には密かに想いを寄せた人がいた。否、正確には人ではなく、神様だったが。
名前は知らず、「狐の君」と呼んでいた少女。
人と神の交流が禁じられていたことは重々承知で、それでも共にいることを互いに望んだ。
しかし結果的にその仲は姉に暴かれ、 彼女は事もあろうに姉に命を狙われた。
何とか彼女を逃がすことはできたものの、掟を破ったことを責められた青葉は過酷な罰を課せられ、それにより命を落とした。月詠と初めて対面したのは、彼が命を落とす直前。全身に走る痛みさえも最早感じられず、途切れ行く朦朧とした夢か現かもわからぬ曖昧な空間の中でだった。
降りしきる雨の音に混じって、こちらへ向かってく足音が微かに耳へ届いた。その足音が自分の目の前まで来てと止まったと思うと、ぼんやりと霞がかった視界に影が落ちた。
小柄な人影。まるで子供のような。こんなところに子供が何故。
そう疑問を持つも、頭はもうほとんど働かない。すると不意に、その人影が自分の顔にぐっと近づいたと思うと、
「お主が、守門青葉、だな?」
突然に名前を呼ばれた。声はいかにも活発そうな少年の声。そうだと答えようとするも、もはや喉も潰れ、声はとうに失われている。それを知ってか知らずか、その少年は1人で言葉を続けた。
「先程の戦い、誠に見事。」
声色は変声期前の少年であるはずなのに、口調はそれに似つかわない程尊大だった。しかしそこに違和感を感じられるほどの余裕は、その時の彼にはすでになかった。
「そこらの神々でも、奴を倒すには数柱でかからねばならぬと話をしていたところなのだがな。それをたった一人で倒すとは。その才、ここで散らすには誠に惜しい」
一呼吸置いたと思ったら、少年の顔が更にぐっと近くなる。ぼんやりとしか輪郭を捉えられなかった顔は、晴れやかな笑みを称えていた。
「なあ、お主、まだ生きたくはないか?生きて、会いたい者はおらぬのか?」
まるで心の内を見透かしたようなその一言に、弱い鼓動を繰り返していた心臓が、一瞬息を吹き返した様に強く跳ねた。そして脳裏に、自分が最後に見た「狐の君」の姿が浮かぶ。
自分が名付けたその通りの狐の姿で、自分の元へ駆けてきた彼女。血と穢れに満ちたあの場にいることすら容易ではなかっただろうに、それでも必死に自分に逃げるよう叫んでいた。
けれどそうすることを、青葉は許しはしなかった。彼女の言葉を無視して、その空間から隔絶させる結界を張り、彼女と決別する道を選んだ。
あの時、もう二度と会えないものだと覚悟した。己の命より大切な存在のためなら、命を投げ打つ覚悟ができた。
だからこそ、命を賭して神喰と対峙したのだ。
けれど。
今死と対面しても尚、霞みに消えていく彼女の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
未練がましいと言ってしまえばそれまでだろう。
それでも、彼女は自分の人生の中で何よりの支えであり、唯一の拠り所だった。
ずっと一緒にいることなどとうに諦めていたと言えば、それは嘘だ。
彼女と共に生きることを望んだことは、紛れもない事実。
もう一度、彼女に会えるのなら。
会いたい。
生きたい。
生きて、彼女に。
「 」
生きたい。そう、声は出ないその口を無意識に動かしていた。
その微かな口の動きを少年は見逃さず、彼の唇は一層嬉しそうな笑みを刻んだ。
「よし、では決まりだな!お前を我、月読命様の神仕に任じよう」
つくよみのみこと?それまでの流れに一切疑問を持たなかった彼も彼だったが、その言葉にはさすがに我が耳を疑った。
「何を言って・・」
彼の動揺などいざ知らず、 少年―もとい月読命は右手の人差し指をとん、と青葉の額に当て、歌うように言う。
「守門青葉。お前を今この瞬間から、我、月読命之神仕に任じる。名は改め葵の葉と書き葵葉。月読命之神仕、葵葉だ」
* * *
こうして、なし崩し的に月詠の神仕になって数百年。
彼の計らいで「狐の君」との再会も果たすことができた。しかし再び彼女と会えたからと言って、また昔のような関係に戻りたいとは全く思わなくなっていた。
そしてそれは彼女も全く同じだった。
長い時間の中で彼女への想いが薄れたわけではない。
彼女と出会い、恋をして、共にいる時間が幸せそのものであったのは確かだ。けれどそれ以上に、自分のせいで彼女を危険に晒し、悲しませ、傷つけてしまったことは何物にも耐えがたい事実として、彼自身の心に深く根付いた。
もう二度と、あんな思いを彼女にさせたくない。
彼女をまた愛してしまえば、同じことを繰り返してしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けたかった。彼女が大切であればあるほど、その想いは強く強くなっていった。
そして彼女もまた、同じ想いでいたのだろう。
再会した後、お互いに何も言わずとも「もうあの頃の間柄には戻らない」という暗黙の了解がなされていた。
それを悲しいとも、辛いとも思わない。彼女とまた会うことができる。それだけで十分なのだ。
その想いを、葵葉は月詠に告げずにいた。これは葵葉と灯華、二人だけの秘め事で、約束なのだ。
例え主である月詠でも、このことだけは一生告げることはないだろう。
そのせいで、毎度のように行き先のない問答をしなければならない羽目になっているのだが。未だに「納得がいかない」という表情を崩さない月詠を目の前に、葵葉は姿勢を但し笑みを浮かべてみせる。
「月詠様のお心遣いは本当に有難いです。けれど私も彼女も、今のままで十分幸せなのです。それに・・
仮に私が彼女と生きることを選んだら、私は彼女の仕事を手伝いますよ?そうしたら、月詠様はこの膨大で終わりの見えない仕事をお1人でされることになりますけど・・それでもよいのですか?」
「仕事」という単語に、月詠の額に深く皺が刻まれ、机に置かれた書類の束をちらりと見やる。
そのまましばらく硬直し、やがて大仰に溜息を溢すと、「お前のような優秀な神仕を失うのも痛いからなあ」などとぼやく。
「でしょう?」と返して、筆を取り、書類の整理に戻る。仕事を再開させた部下を見て、主がやらないわけにはいかぬなと月詠も腰を上げ、自分の席に座り直す。
灯華への深い想いは、今も変わらず持ち続けている。互いに想い合っていることも百も承知だ。
けれどそれは胸の奥の奥、誰にも触れられないところへ仕舞っておくと決めた。今のままで良いというのは本心だ。
このまま、夜照る月のように、彼女を静かに見守ることができたらそれでいい。
例え彼女の隣にいられなくても。自分が彼女の幸せになれなくても。
彼女の幸せを見届けることができるのならば、それが私の幸せだ。
それが、長い時間をかけて見つけた、彼の答。