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時代小説 真剣勝負

魔左衛門

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 男は畦道を急いでいた。

 真昼なのに曇天で薄暗かった。

 ときどき小雨が降っては止み、止んでは降った。

 畦道の両側は水田が広がり、ところどころ茅葺屋根の民家が散在している。

 男の他にあたりは誰もいなかった。

 旅人と一目でわかる装束だ。

 三度笠に褪せた道中合羽。手甲脚絆(てっこうきゃはん)は藍色というより、埃にまみれて鈍色を呈している。

 年は三十路を少し過ぎたくらいか。

 細見の長身で、頬の刀傷は浅黒い顔に凄みを添えている。太い眉の下に光る眼光の鋭さは、目を合わせる者に畏怖の念を抱かせる。

 腰に差した瀟洒(しょうしゃ)な太刀だけは、男にしては不釣合いな名刀だ。柄、鍔、鞘のどれをとっても上質で、旗本の床の間に飾っても見劣りしない。

 辻まで来ると、突然、近くの納屋の陰に隠れていた野武士たちが、刀を構えて男を取り囲んだ。

 野武士は四人。ここの村人だろうか。稲作の他に追剥(おいはぎ)を生業とする村かも知れぬ。村に迷い込んだ旅人が追剥の餌食になる。

「知らん顔だんべ」年長の野武士が言う。「おまん、何て名じゃ?」

 男は無視して通り過ぎようとする。だが年長の野武士は、そうはさせじと刀の切っ先を男の喉元に近づける。

「何て名じゃ?」

 男は三度笠に半分隠れた顔を少し上げる。

「魔左衛門・・」

 唸るような低い声だった。

「何?何だって?」小太りの野武士が言う。「魔左衛門?変な名だんべ」

「変じゃ、変じゃ」髭面の野武士が言う。「聞いたことねえ名じゃ」

「兄じゃ」少年の野武士が言う。「こんなやつ、やっちまえ」

 年長の野武士が魔左衛門と名乗った男の胸に刀を突き刺す。

 青緑色の血しぶきが飛び散る。

 だが魔左衛門は倒れない。刀は魔左衛門の胸に刺さったままだ。

 魔左衛門は素手で胸に刺さった刀の刀身を掴み、ゆっくりと抜き取る。抜き取った刀は水田に放り投げる。

 野武士たちは四人とも仰天した様子だ。

 刀を刺しても生きているからか。刀を素手で引き抜いたからか。それとも血の色が赤くなかったからか。

「死ね!」

 髭面の野武士が刀を一振りする。だが魔左衛門は身じろぎもしない。体から噴き出した血潮はやはり青緑色だ。

 魔左衛門は鞘から自分の刀を抜き、八相の構えから髭面の野武士に一太刀浴びせる。赤い鮮血が畦道を汚し、髭面の野武士の首は宙を舞って水田に落ちる。ほどなくして首なしの胴体が崩れ落ちる。

「弥平!」少年の野武士が叫ぶ。「弥平、どうなってんじゃ」

 小太りの野武士は魔左衛門と目が合うと、震えながら刀を捨てて逃げ出した。

 脇差を抜いた年長の野武士は背後に回って魔左衛門の背中を斬りつける。だが青緑色の返り血を顔に浴びるだけで、魔左衛門は倒れない。

 魔左衛門は刀を使わず、片手で年長の野武士の首をしめ、そのまま軽々と持ち上げる。年長の野武士は思わず刀を捨て、地面に浮いた足をばたばたさせる。首の骨が折れる鈍い音。ばたばたさせていた足の動きが止む。

 魔左衛門は年長の野武士の死体を水田に放り投げる。水田から水しぶきが上がる。

 少年の野武士の姿はすでになかった。逃げ足は速いようだ。

 魔左衛門は刀を鞘に納めると、何事もなかったようにまた旅路を急いだ。

 傷はとうに癒えていた。

 

 自分の名は魔左衛門。

 それが、魔左衛門が自分について知っているすべてだった。

 魔左衛門には記憶がほとんどない。

 自分がどこで生まれ、これまで何をしてきたか。はっきりと思い出せない。

 ただいつの頃からか、自分はこうして旅をしている。どこへ行こうという当てがあるわけではない。ただ気の向くまま、今日の自分が今日向かう先を決め、明日になれば明日の自分が別の向かう先を決める。そういう旅だった。

 多分、自分はもう死んでいるのではないか。

 かすかな記憶が、唐突に蘇ることがある。

 自分は壮絶な死闘の末、何者かに惨殺されたのだ。ところがどういうわけか成仏できず、妙な具合に魂が死体に宿り続けた。

 その結果、生きているとも死んでいるともつかない、今の自分になってしまった。 

 だが生きているときも、今と同じように旅をしていたのではないか。

 旅をしている最中に自分は一度死に、死んだ後もまた旅を続けている。死ぬ前も死んだ後も生活はさして変わらない。だとしたら、自分にとって生きているか死んでいるかは、旅よりも大きい意味を持たぬかも知れぬ。

 旅の最中、何度も人を斬ってきた。それは生きて旅をしているときも、死んで旅をしているときも同じだった。

 人を恨むことも、人に情けをかけることもない。ただ旅の道を阻む輩は容赦なく斬った。

 剣の腕には自信があった。


「隠れ里を」坊主が言う。「よう生きて通り抜けたのう」

 茶屋は峠の中腹にあった。

「地元じゃあ、山賊村って呼んでるんじゃ。追剥の野武士たちがおって、一度村に入ったら二度と生きて出られんのじゃ。だからみんな、麓からわざわざ峠を遠回りして、ここまで来る」

 坊主は橙の袈裟を着ていた。

 魔左衛門は話を無視して茶をすする。坊主は勝手に隣に座り、勝手に話しかけてきた。どれだけ無視しても坊主は話を止めない。

 どうやら魔左衛門が山賊村の方角からこの茶屋まで歩いてきたのが、坊主の関心を誘ったらしい。

「あんた、死人憑(しびとつき)じゃろう」

「・・・・」

「隠さんでもええ」

「・・シ・ビ・ト・ツ・キ?」

「ようやく口を聞いたのう」

「・・・・」

 坊主は勝負に勝ったようなしたり顔になる。よほど死人憑の声を聞いてみたかったのか。

「そうじゃ。死人憑じゃ。あんた、もしかして死人憑も知らんのか?」

「・・知らん」

 坊主は長々と薀蓄(うんちく)を垂れた。

 死人憑とは、人間の死体に霊が憑りついて、あたかも生きているように動く異形を指す。普通、死人憑は数日もすると霊が去って元の動かない死体に戻るが、まれに死んだ人間の霊が自分自身の死体に憑りつくこともある。この場合、霊としてはもともと宿っていた体だけに、居心地がいいのか、何年も憑りついたままになる。

 魔左衛門は、この類の死人憑だと坊主は説明した。

 見た目は普通の人間とさして変わりないが、死人憑の腕っぷしは十人力、身のこなしは獣のように素早い。

「あんた、よほど怨念を抱いて死んだんじゃろう。あんたを斬った相手がよほど憎かったんじゃろう。そうじゃないと、あんたみたいにはならんて」

「・・・・・」

 坊主は若い時分、高野山の金剛峰寺で修業した。座禅、滝行、千日回峰と荒業を積むうちに、いつしか神通力が備わった。

 神通力のおかげで生霊も死霊も見える。人間と死人憑の区別もつく。

 坊主の自慢話は終わりそうにない。

「神通力は結構、重宝するもんじゃ。この前なんか・・」

 不意に坊主は口を大きく開けたまま無言になる。

 ほどなくして坊主は椅子から転げ落ちて腹這いに倒れる。背中には矢が刺さっている。

 茶屋の女将が坊主の死体を見つけて悲鳴を上げるまで、やや間があった。

 矢の飛んで来た先を見ると、弓を持った人影が走り去っていく。山賊村の方角だ。

 魔左衛門は人影を追いかける。

 少年だった。先ほど大人たちに混じって魔左衛門を襲った少年の野武士だ。

 魔左衛門の足は獣のように速かった。魔左衛門は少年を追い越し、回り込んで通せんぼをするように向き直る。

 少年は立ちどまり、弓を構える。

「来るな」少年が叫ぶ。「こっちへ来るな」

 魔左衛門はしばらく不動のまま少年を睨みつけた後、ゆっくりと少年の方へ歩み寄る。

 最初の矢は魔左衛門の額に命中した。だが魔左衛門は倒れない。矢の先から青緑色の血が地面に滴り落ちる。

 少年は背中の弓筒から次々と矢を取り出しては魔左衛門に射る。矢は魔左衛門の胸や腹を埋め尽くす。だが魔左衛門は歩みを止めない。

 弓筒の矢がなくなる前に、魔左衛門は少年を捕まえる。胸蔵を掴み、懲罰のように体ごと宙に持ち上げる。

「殺せ」少年が言う。「殺すなら早く殺せ」

「なぜ坊主を殺した?」

「あいつじゃない。最初からお前を狙ったんだ」

 魔左衛門は手を放す。少年の体は地面に落ちる。少年が起き上がると魔左衛門は少年の頬を二回張る。少年はまたしても地面に崩れ落ち、体を丸めて嗚咽する。

「無駄な殺生はするな」

 魔左衛門は体から矢を引き抜きながら、元来た道を戻る。

 無駄な殺生はするな。魔左衛門は胸の内でそう唱えた。無駄な殺生ばかりしていると、自分のようになってしまう。

 殺生は大人になってからでいい。子供のうちから、殺生なんてするものじゃない。

 いや、大人になっても生きているうちは、殺生はしない方がいい。

 死んで死人憑にでもなってから、それから殺生を覚えても遅くない。


 茶屋まで戻ると、坊主の死体の周囲に人だかりができている。

 生霊や死霊が見えても、己の死期を悟ることも避けることもできない坊主の神通力。どれほど役に立つものか。

 魔左衛門は懐から寛永通宝を数枚取り出し、女将を見つけると机の上に置く。

「これで足りるか?」

 女将は魔左衛門に気づくと悲鳴を上げる。茶屋の客たちの視線が魔左衛門に集まる。

 魔左衛門は自分がこの場に長居すべきでないと悟り、足早に茶屋を後にした。

 額に刺さった矢を抜き忘れていたのに魔左衛門が気づいたのは、それからだいぶ経ってからだった。



 玉村宿は、中山道に通じた倉賀野宿から、日光例幣使街道を東へ進むと、最初に見えてくる宿場町である。

 本陣一軒、問屋場二軒、旅籠五十軒、その他、木賃宿や茶屋は数知れず。春になると上方から日光へ向かう例幣使の一行で賑わう。

 大旅籠、上州屋は玉村宿のはずれ、木戸付近にあった。

 数えで十八のお菊が上州屋に奉公に上がってから三年経つ。

 庄屋の娘で幼少の頃は何不自由なかったが、おりからの天保の飢饉で生活が苦しくなった。村では百姓一揆が相次ぎ、小作人が実家を放火して半焼したこともある。

 半分、身売りするように次女のお菊とすぐ下の弟、喜平が上州屋に出された。七人いた兄弟もばらばらになった。

 しかし、どんなに苦しくても前向きに生きる明るい性分が、村一番の器量よしにもまして、お菊の取り柄だった。


 もうすぐ麦秋の季節がやってくる。

 そう思うとお菊の胸は高鳴った。

 今時分、生まれ故郷の高崎では麦が実り、視界いっぱいに広がる村中の麦畑が、黄金色の海原になっているだろう。風が吹けば幾重にも黄金色の波ができる。

 お菊は何にもましてこの光景が好きだった。

 冬は凍てついた空っ風、「赤城おろし」で喉の弱いお菊は喘息に苛まれるが、初夏の麦畑を見るたびに、自分が上州の地に生まれついたことをありがたいと思うのだった。

「姉ちゃん」

 振り向くと額にたんこぶを作った喜平がいる。

「こんなとこ、もうたくさんだいね。おいら、今日で上州屋を出てく」

「喜平っ」お菊が喜平の額に手を当てる。「どうしたん?」

「番頭に箒で叩かれたんだいね」

「番頭さん、どうしてそんなにひどいことするん?」

 喜平は、裏庭で風呂を炊く薪の割り方をいつまでたっても覚えないから、番頭を本気で怒らせたと説明する。

「それだけで叩くん?」

「それと・・・・夕べ厨房で刺身を盗み食いしたことがばれたんだいね」

「だったら、喜平も半分悪いやいね」

「悪いもんか。番頭だって、ときどき盗み食いしてるん・・」

「でも喜平、よう考えて。ここ追い出されたら、あたしたち行くとこないんよ」

 すると女将が廊下を通りかかる。

「あんたたち」女将が言う。「何油売ってるん?。お菊、早くお客さんの膳下げな」

「申しわけありません」お菊が頭を下げる。「ただいま、まいります」


 部屋に入ると、衣冠束帯を着た男が寝そべっている。

 男の名は梅小路昌幸。日光帰りの例幣使の使者と名乗り、三日前くらいから上州屋に居ついている。

 例幣使の一行なら、かなり前に本陣を立ったはずだった。一人で旅籠屋に泊まるのはおかしい。

 別の飯盛女には前橋藩に奉公する御家人と称しているらしい。

 例幣使の使者なのか御家人なのか、そのいずれも嘘かも知れぬ。だが金回りだけはいいようで、宿代を小判で払うので上州屋の女将には気に入られていた。

 膳を下げていると、寝ころんだままの梅小路が突然、お菊の腕を握り、

「おまえ、飯盛女でごじゃろう?。いくらで買えるかの?」

「うちの飯盛女は遊女はやりません」

「今時の旅籠はどこも最初はそんなふうに断るものでごじゃる。どれ、金ならいくらでも出す。いくらでごじゃる?」

「やめてくださいまし」

 梅小路は中腰になり、執拗にお菊の体を触ってくる。

 お菊は思わず梅小路の頬を張る。下げていた膳が床に落ちる。

 梅小路は女のように声を出してヒイヒイ泣きじゃくる。

「失礼します」

 床に落ちた膳を拾うと、お菊は部屋を後にした。

 かかあ天下で知られる気丈な上州女の血が、お菊にも流れていた。

  

 

 鉄火場(賭博場)に似合う、少し影のある年増の美人だった。

 壺振りの女賭博師は、黒い着物の掛け衿から肩腕を出し、右肩の柔肌と白いさらしに巻いた胸元を露出している。

 壺を持つ右手と賽を持つ左手を交差させる。左手には人差し指と中指、中指と薬指にそれぞれ賽をはさんでいる。

「入ります」

 中盆が言うと女賭博師は賽を壺に入れ、軽く振った後、盆茣蓙(ぼんござ)の上に伏せる。

 魔左衛門は目をつぶる。

 頭の中で壺の中身がうっすらと浮かび上がる。

 賽は二つとも赤い点が上を向いている。

 魔左衛門は駒を丁に張る。

「丁半出そろいました。勝負」

 女賭博師が壺を開ける。

「ピンゾロの丁」

 魔左衛門は駒を受け取る。

 盆茣蓙の周囲には十数人が座っている。魔左衛門から見て、手前側が客、向こう側が興行主の博徒。

 二個の賽を振り、足した数が偶数なら丁。奇数なら半。あらかじめ駒を買い、丁半いずれかに賭ける。駒は鉄火場の入口で換金できる。

 鉄火場に来てから魔左衛門は勝ち続けていた。目をつぶると壺の中が見えるからだ。なぜ見えるのかは魔左衛門にもわからない。

 死人憑になると、こういう神通力も備わるのか。先日の茶屋で、坊主が死ぬ前に聞いておくべきだったかも知れぬ。

 魔左衛門が出ていこうとすると、中盆の隣に座している黒い眼帯をした初老の男が呼び止める。おそらくこの鉄火場の貸元だろう。

「お客さん、もう一勝負お願いしますよ」

「・・・・」

「お客さん、いい刀お持ちですね。名刀、『村正』じゃありませんか」

 眼帯をした貸元の話では、名刀には二種類あるという。

 一つは床の間の飾り物として骨董商に高く売れる美しい刀。もう一つは人を斬る道具として値打ちのある刀。『村正』は後者の名刀だという。

「よかったら、その刀とこいつを賭けませんか」

 眼帯をした貸元は懐から小判を取り出し、盆茣蓙に置く。

 次の勝負は貸元と魔左衛門の二人の一騎打ちとなり、他の客は見物することになった。

「入ります」

 魔左衛門は目をつぶる。今度は刀を半に張る。

「勝負」

 壺を開けると、魔左衛門の脳裏に浮かんだとおりだった。

「サブロクの半」

 周囲からどよめきが上がる。眼帯をした貸元は舌打ちする。

 魔左衛門は小判を受け取ると、その場を去った。

 鉄火場は、廃屋となった場末の元旗本屋敷を改築したものだった。

 魔左衛門は雑木林に通じるけもの道ともつかない細道を進んで行った。

 雑木林を過ぎれば、玉村宿に出るはずだった。

 

 眼帯をした貸元は、名を新之助と言った。

 新之助の自慢は背中に掘った七紋龍の刺青だった。上州一帯ではこれより見事な彫物はないと新之助は自負していた。

 七紋龍は七匹の龍で、青龍、赤龍、黄龍というように、七匹の龍に虹の七色を一色ずつあしらった絢爛豪華な柄に仕上がっている。

 玉村界隈を縄張りにする地方ヤクザの親分ながら、美術品、工芸品に造形が深く、掛軸、陶器、反物、甲冑、刀剣を収集する道楽があった。

 七紋龍の刺青も新之助自身は芸術品と考えていた。

 並みのヤクザなら、見る者を脅すために刺青を彫る。だが新之助は違う。自身の高邁な趣味を示すために、そして見る者を陶酔させるために七紋龍の柄を選んだのだ。

 若い時分は道場破りを繰り返すなど、剣の腕も相当なものだったが、中年期に入ってから考えが少し変わった。

 真に強くなるには安物の刀では限界がある。自身が研鑚を積むだけでなく、高価な刀を入手することが強くなる近道に違いない。そう考えるようになり、陶器のように刀も銘柄にこだわるようになった。

 上州極道一の粋人。それが七紋龍の新之助に与えられた称号だった。


 新之助は手下を集め、雑木林の細道を小走りに進んでいた。

 儲けすぎた先ほどの客を始末するためだった。始末したついでに、今日の客の儲けもそっくり回収しようという魂胆だ。

 特に小判はどうあっても回収したい。

 鉄火場の経営は、客が賭博に勝っても負けても儲かる仕組みにしてある。勝ち過ぎた客は雑木林で殺し、戦利品を徴収すれば、黒字経営が維持できる。

 新之助の手下は三人。権三、佐助、庄兵衛。いずれも新之助一家の選りすぐりの剣客だ。

 魔左衛門は雑木林の中央付近で見つかった。

 新之助、庄兵衛は魔左衛門の正面に回り込み、刀を抜く。

 後方では佐助が刀を抜き、権三が槍を構える。

「お客さん」新之助が言う。「今日はツキがなかったと諦めな」

 庄兵衛が奇声を発して斬りかかる。魔左衛門はわずかに体をかわし、居合抜きのように抜刀とともに庄兵衛の腹を横一文字に薙ぐ。

 庄兵衛の上半身は下半身から滑り落ちる。腹から上がなくなった足は、血を吹き出しながら、走ってきた勢いで倒れる前に数歩歩く。

 魔左衛門は新之助を睨みつけながら刀を八相に構える。

 剣の上級者ならば、構えを見ただけで相手の実力がわかる。新之助は魔左衛門が相当の手練れであることを悟る。

 ましてや魔左衛門が手にしている刀は名刀、『村正』だ。『村正』を持てば三流の剣客は二流、二流は一流。一流の手練れが扱えば、その強さは天下無双だ。

「気をつけろ」新之助が言う。「こいつはお前らが差しで戦って斬れる相手じゃねえ。全員でいっせいに斬りつけろ」

 佐助の剣が魔左衛門の剣と切り結ぶ。

 その瞬間を新之助は見逃さない。

 新之助の一撃が魔左衛門の左手首に命中する。

 青緑色の血が噴き出す。

 魔左衛門の左手首が地面に落ちる。

 切り落とされた手首の傷口から、ジュゥゥゥゥーと音をたてて白煙が上がり、卵の腐臭がたちこめる。

 魔左衛門は右手一本で握った刀で佐助ともう一合切り結ぶと、よろけるように後ずさる。

「死ねっ」

 権三の槍が留めとばかり魔左衛門の胸を突く。

 魔左衛門は胸から青緑色の血を吹き出しながら権三を睨みつけ、無言のまま佇んでいたが、佐助が一太刀浴びせると、おもむろに仰向けに倒れる。

「手間かけやがって」新之助が言う。「こんな強いやつは久しぶりだぜ」

「親分」佐助が言う。「早いとこ、小判を取り戻しちまいましょうや」

「まかせたぞ」

 佐助は魔左衛門の死体に近づくと、しゃがみ込んで魔左衛門の懐に手を入れる。

 左手の傷口からはなおも音をたてて白煙が上がり、卵の腐臭はさらにひどくなった。

「親分、見つけましたぜ」

 佐助は得意そうに小判を新之助に見せる。

 すると左手の傷口から肉が盛り上がり、たちまち五本の指を持つ手の形に変形していく。

 手が生えてきたのだ。

「佐助、気をつけろ」

 新之助が言うより早く、生えたばかりの左手が佐助の喉元を掴む。

 小判が地面に落ちる。

 魔左衛門は佐助を掴んだまま起き上がる。

 佐助の体は宙に浮く。手足をばたばたさせる。

「佐助!」権三が叫ぶ。「逃げろ!」

 魔左衛門が右手の刀で左衛門の腹を突くと、佐助は動かなくなる。

 魔左衛門は佐助の死体を軽々と権三に投げつける。権三は投げつけられた死体の重さに耐えきれず転倒する。

 新之助は腰を抜かして動けない。

 魔左衛門は小判を拾うときびすを返し、何事もなかったように元の道を歩き続ける。

 着物は青緑色の血で汚れていたが、傷はすべて癒えているようだった。



 お菊は太鼓橋に佇んでいた。

 上州屋は例幣使街道に面し、街道を挟んで烏川の支流が流れている。烏川は五料宿付近で利根川と合流する。

 太鼓橋は上州屋を出て街道を渡ったところにあった。

 女将から聞かされた話では、梅小路が自分を身請けしたとのことだった。

 身請けとは、旅籠に相当の金を積み、妾にするため飯盛女を買い取ることを言う。

 もともと遊郭から芸娼妓を買い取ることを指したが、旅籠の飯盛女の場合にも使う。

 あんな品のない男の妾になるくらいなら、いっそ川へ飛び込んで自害する方がまし。そう思い、太鼓橋まで来たものの、後に残される喜平のことを考えると不憫でならない。

 上州屋で働く以前にも、天保の飢饉で実家の生計が傾いてこのかた、これまで何度も辛い目に会ってきた。

 だが本気で死のうと思ったのは初めてだ。

 草鞋を脱ぎ、欄干に上ろうとすると手を掴まれる。

 梅小路だ。

「死ぬくらいなら」梅小路が言う。「麿と契らせてたも」

 お菊は我に返ると草鞋を履き、その場を去ろうとする。

 だが梅小路はまだ手を離さない。

「一回だけじゃ、契らせてたも」

「いやです」

「一回だけでごじゃる」

 お菊は梅小路を突き飛ばし、足早に上州屋に戻ろうとする。しかしそうはこの色男の問屋が卸さない。 梅小路は走って先回りし、大の字を作って通せんぼする。

「誰か助けて」お菊が叫ぶ。「お願い。助けて」

 すると太鼓橋を渡ってきた見知らぬ男が、何を思ったか、お菊と梅小路の間に立ちはだかる。

 三度笠をかぶった長身の男だった。

「何者じゃ」梅小路が言う。「そこをどかぬか」

「・・・・」

「邪魔するやつは斬るでごじゃる」

 梅小路は刀を抜いて三度笠の男に斬りつける。

 三度笠の男は刀を手で掴み、そのまま粘土細工のようにグニャリと捩じり曲げる。手から青緑色の血が流れる。

 梅小路は腰を抜かして後ずさる。小便を漏らしているようだ。

「助けてくれ。金ならいくらでもやる」

 梅小路は懐から小判を数枚、投げる。

 起き上がれるようになると、梅小路は例幣使街道を西へ走り去った。

「ありがとうございました」お菊が三度笠の男に頭を下げる。「怪我は大丈夫ですか?」

 三度笠の男の手から、不思議なことに刀の傷跡がスゥーと消えていく。

「是非、あなたさまのお名前を教えてくださいまし」

「・・・・」

「どうか、お名前だけでも」

「・・魔左衛門・・」

 

 お菊の勧めで魔左衛門は上州屋にしばらく滞在することになった。

 魔左衛門が渡世人であることは、お菊には一目でわかった。

 梅小路が太鼓橋に落としていった小判の一枚をお菊が女将に払うと、女将は二つ返事で魔左衛門の宿泊を許した。

 お菊と喜平は次第に魔左衛門と親密になり、魔左衛門を兄のように慕うようになった。

 魔左衛門のことをお菊は「マーさん」、喜平は「マー兄ちゃん」と呼んだ。

 魔左衛門は寡黙な上、過去の記憶がほとんどない。

 だが悪い人ではない。お菊はそう思った。



 鉄火場は休業日なので客はいなかったが、新之助一家の面々が盆茣蓙の周囲にたむろしている。

「やつは魔左衛門にちげえねえ」権三が言う。「あの顔は瓜二つですぜ」

 権三の話はこうだった。

 おととい、高札場を通ったとき、人相書きの前に人が集まっているので近づいてみると、庄兵衛や佐助を斬った男そっくりの顔があった。

 名前は魔左衛門。

 周囲にいた野次馬の噂話では、なんでも魔左衛門は渡世人で、博打や刺客、用心棒などをやって食いつないでいるという。武者修行者に自分から決闘を申し込むことはないが、挑まれれば断らない。決闘で殺した相手の懐にあったものを徴収して、飢えをしのぐこともある。

 しかも並みの人間とは違い、魔左衛門は一年くらい飲まず食わずでも生きながらえるので、そうした仕事もあまりしなくてもいいのだという。

 人間ではなく、死人憑だとも言われている・・。

 半分は生き、半分は死んでいる。それが魔左衛門だった。

「魔左衛門の居場所もつきとめました」権三が言う。「やつは一週間も前から上州屋の二階に寝泊まりしてます」 

「で、その魔左衛門とやらはどうやったら殺せるん?」新之助が言う。「人間じゃろうが化け物じゃろうが、こちとら知ったこっちゃない。ただ殺せればそれでええ」

「首ごと切り落とすしかないだんべ」与平が言う。「トカゲだって、しっぽを切ったら生えてきよるが、首切ったら死ぬだんべ」

「燃やすのはどうだんべ?」辰五郎が言う。「燃やしちまえば、生きてるわけないだんべ」

「その二つとも」新之助が言う。「やってみるのはどうじゃ?」

 新之助はすでに百両で用心棒を雇っていた。昔、田舎の藩の兵法指南役をやっていたという浪人で、刀の構えを見せてもらったが、かなりの手練れと見受けられた。

 その用心棒に自分たちが助太刀して魔左衛門の首を切り落とす。

 だがその前に上州屋を放火する。放火して魔左衛門が焼け死ねばそれでよし。万一、死なないで上州屋から出てくれば、用心棒が首をはねる・・。

 上州屋を放火すれば魔左衛門以外にもたくさんの人間が死ぬことになる。だが一人の人間を殺すために、関係のない多くの人間を巻き添えにする残忍な手口は新之助の得意とするところであった。

 あわよくば、魔左衛門の首を役人に持っていき、賞金を稼ぐもよし。死んだ魔左衛門の懐から小判を取り戻すもよし。

 だが今回は金儲けより、魔左衛門の命を奪うことが大事だった。

 二人の手下を殺された以上、復讐しなければ極道の沽券にかかわる。

 新之助は自分の作戦を説明した。

「で、上州屋の放火は」与平が訊く。「いつ、やるんだんべ?」

「明日の明け方はどうだ?」と新之助。

「ちょっと早すぎやしませんか?」と権三。

「じゃあ賭けるか」新之助が言う。「儂が賭けに勝ったら、明日の明け方決行じゃ。お京、頼むぞ」

 新之助が目配せすると、盆茣蓙の隅に座っていた女賭博士が賽を壺に入れ、伏せる。

 新之助は丁に張る。

「勝負」中盆を務める辰五郎が言う。

「ニロクの丁」



「火事だ!」

 まだ卯の刻(午前3~5時)だろうか。明け方、叫び声がする。

 お菊と喜平が襖を開けて二階部屋に飛び込んで来る。

 魔左衛門は布団から起き上がる。

「火事よ」お菊が言う。「マーさん。早く逃げて」

 魔左衛門は急いで道中合羽を羽織り、腰に刀を差し、三度笠をかぶる。寝るときも起きているときも着ているものは同じなので、これだけで身支度は整う。

 二階部屋から出ると、階段の下から火の手が上がっている。とても階段を下りられない。

「どうするん?」喜平が言う。「これじゃあ、逃げられんね」

「戻るぞ」魔左衛門が言う。「さあ、早く」

 三人が二階部屋に戻ると、魔左衛門は窓を開けて体を乗り出す。

「屋根は大丈夫だ。屋根に登るぞ」

「屋根?」お菊が驚いて言う。「そんなとこ、登れるわけないね」

 だがそれに答えず、魔左衛門は喜平を抱きかかえ、窓の外に連れて行く。喜平は尻を魔左衛門に押してもらい、なんとか屋根に登る。

 次はお菊だった。魔左衛門に手伝ってもらうと意外と簡単に屋根に登れた。

 最後に魔左衛門は一人で造作なく屋根に登る。

 屋根の上は火の気はないが、上州屋全体が燃えているのがわかる。

「あそこに飛び込むぞ」

 魔左衛門が指さす先を見ると、烏川の支流だった。

 支流は例幣使街道に沿って流れ、その先に河原があり、土手がある。

「どうやって?」お菊が言う。「鳥でもあるまいし、無理だいね」

「・・・・」

「無理だいね」

 魔左衛門は有無を言わさず、お菊と喜平を軽々と両脇に抱える。

 少し後ろに下がると、助走をつけ、屋根から飛び降りる。

 道中合羽が風を受けて広がる。天と地の視界が逆になる。

 次の瞬間、三人は川に落下する。

 お菊はなんとか河原まで泳いだ。先に河原についた喜平は水を飲んだらしく、咽ていた。

「みんな無事か?」と魔左衛門。

「マー兄ちゃん」喜平が言う。「死ぬんかと思った」

 すると怪しげな人影が三人を取り囲む。

「生きてたのか、魔左衛門」

 新之助だった。



 お菊と喜平は土手を登って逃げた。

 魔左衛門は刀を抜き、新之助一家の面々を睨みつける。

 大竹甚平利巌は刀を下段に構え、やや距離を置いて魔左衛門を観察する。新之助に雇われた用心棒だった。

 魔左衛門は大竹に向き合い、刀を八相に構える。

 構えを見れば、大方の実力がわかる。

 あの男、ただものではない。大竹は胸の内でひとりごちる。

 新之助から相当の手練れだと聞いていたが、予想以上だった。

 大竹はやおら魔左衛門に斬りかかる。

 一合切り結ぶと、大竹は素早く後退して距離を置く。

 勝ち急いではいけない。勝ち急いだ方が負ける。

「差しで魔左衛門と戦うな」新之助が言う。「いっせいに斬りかかるんだ」

 権三、与平、辰五郎の三人は、同時に魔左衛門に襲いかかる。

 魔左衛門は獣のように天高く跳躍し、視界から消える。

 権三の槍が誤って与平の胸を刺す。

「与平!」と権三。

 槍を抜くと与平は息絶え、崩れ落ちる。

 ちょうどそのとき、魔左衛門は辰五郎の背後に着地する。

 辰五郎が振り向くと、大上段の構えから魔左衛門が刀を振り下ろす。

 頭蓋から脳漿(のうしょう)と鮮血を吹き出しながら、辰五郎は転倒する。

「食らえ!」

 権三の槍が魔左衛門の脇腹を突く。

 青緑色の鮮血が河原の石を染める。

 魔左衛門は左手で槍を掴んで脇腹から抜き、槍を持ち上げる。

 槍を抱えていた権三の体は宙に浮き、もんどり打って地面に尻もちをつく。

 そこをすかさず、魔左衛門が一撃を加える。

 頸動脈から血しぶきが上がり、権三は絶命する。

 脇腹の傷はもう癒えていた。

 大竹は再び魔左衛門と対峙する。

 立て続けに三人が斬られた。自分はこれまで剣豪と謳われた侍を随分と見てきたが、あの男ほどの手練れを見たことがない。このままでは自分が斬られる。

「マーさん」お菊が叫ぶ。「助けて」

 声のする方を見ると、新之助がお菊を羽交い絞めにし、首に脇差の刃を当てている。 

「魔左衛門」新之助が言う。「この娘の命が惜しくば、刀を捨てろ」

 魔左衛門はやや躊躇(ちゅうちょ)した後、刀を地面に投げ捨てる。

 大竹はこのときを待っていた。

 踏み込むとともに、刀で円を描く。

 三度笠をかぶった魔左衛門の首が宙を舞って川に落ちる。

 お菊が悲鳴を上げる。

 首を失った魔左衛門の体は、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。

 卵の腐臭。ジュゥゥゥゥーという音と白煙が首のあったところから立ち上る。

 止めどなく流れる青緑色の血が、河原を伝って川の水に混じる。

「とうとう死にやがったぜ」

 新之助は吐き捨てるように言う。



 上州屋の奥にある木賃宿、玉村屋にも火が燃え移っていた。

 そのすぐ風下の茶屋では、(まとい)持ちが屋根に登って、「は組」の纏を振り回している。

 江戸時代の消防は破壊消防が基本だった。現代のような消防ポンプはなく、延焼を防ぐために火事になった家屋とその風下の家屋を倒して消火するという方法だった。

 竜吐水(りゅうどすい)という消防ポンプはあったが火事を抑えるほどの力はなく、もっぱら纏持ちの火傷を防ぐために用いられた。

 纏持ちの纏はこの家屋まで火が来る前に、これより風上の家屋を倒せという目印だ。

 町火消「は組」の組頭、金次郎は、腕っぷしと責任感が人一倍強い男だった。

 まだ玉村屋の火が小さいことから、当初、金次郎は土手組の下人足たちに川から(たらい)でバケツリレーをやらせたり、竜吐水の水をかけさせたりしていた。だが次第に火が燃え上がり、それだけでは間に合わないことに気づいた。

 (とび)人足たちは上州屋はおろか、風下のおおかたの家屋を倒して消火している。

「お頭」鳶人足の一人が言う。「そろそろこの木賃宿、倒しましょうや」

「そうだなあ」

 すると、紺絣(こんがすり)の着物を着た小太りの若者が金次郎の前に来て土下座する。

「まだあの宿には、おらのおっかあがいるだ」紺絣の男が言う。「宿を倒さんでくれ」

「なんだって」金次郎が言う。「まだ人がいたのか」



「おまえは儂たちについて来るんじゃ」新之助が言う。「おまえの器量なら遊郭に高く売れるじゃろうて」

 新之助は嫌がるお菊の手を強引に引き、河原の土手の石段を登って行く。大竹がその後に従う。

 河原に置き捨てられた首なし死体の切断面から、なにやら青緑色の塊が盛り上がる。

 青緑色の塊は大きくなり、ある形を作り始める。

 徐々に青緑色の血液が引くと、塊の全貌が見えてくる。

 魔左衛門の首だった。

 太い眉。頬の刀傷。すべて魔左衛門の切られた首と同じだった。

 目を開く。

 眼光の鋭さは切られる前のもの以上だった。

 首が生え終わると、魔左衛門はやおら立ち上がり、地面に落ちていた自分の刀を拾う。

「オオォォォー」

 魔左衛門は天に向かって大声で咆哮する。それは獣の雄叫びだった。人間のものではない。

 石段を登っていた三人が魔左衛門に気づく。

 大竹が石段を駆け下りる。

「痛っ」と新之助。

 お菊が新之助の手を噛んだのだ。新之助が手を放すと、お菊は石段を駆け下り、大竹に捕まらないように河原を迂回し、魔左衛門の背後に回る。

 大竹はおもむろき刀を抜き、下段に構える。

 魔左衛門と大竹。二人の剣客の睨みあいが続く。

 意を決した大竹が疾走して魔左衛門に斬りかかる。

 相打ちだった。

 互いに互いの腹を一文字に斬り、二人とも同時に倒れる。

 ほどなくして魔左衛門が起き上がる。

 腹からまだ青緑色の血が垂れているが、ほとんど止血したようだ。

 魔左衛門の正面には体を震わせた新之助が刀を中段に構えている。

「来るな」新之助が懇願するように言う。「こっちへ来るな」

 魔左衛門は刀を八相に構える。

 するとそのとき、「オオォォォー」という雄叫びとともに、水しぶきを上げながら、川から一匹の白い大きな獣が飛び出す。

 それは三度笠をかぶった全裸の男だった。

 それはとても人間とは思えない身のこなしで、新之助に飛びかかる。

 狼のように新之助の喉元に食らいつく。

 新之助の首筋から血が噴き出す。

 新之助は口から舌を出したまま息絶え、河原に仰向けに倒れたまま動かない。

 それは口のまわりについた血をぬぐいながら、魔左衛門を睨みつける。

 魔左衛門は相手がいつ飛びかかって来てもいいように、改めて刀を構え直す。

 よく見るとそれは魔左衛門そっくりの顔をしている。

 しばし沈黙が流れる。

 それはやおら新之助の帯を解き、茶色の着物を脱がせて自分に羽織る。脱がせるとき、仰向けの死体を横転させ、背が上になったので、新之助の刺青が露わになる。

 薄暮の光を浴びた七紋龍は、宿主を失ってなお威厳を保っている。

 それはもう一度、魔左衛門を睨みつけるが、「オオォォォー」と雄叫びを挙げると、石段を駆け上がり、土手の道を走り去る。

「マーさん」お菊が近づいて言う。「あいつ、誰なの?マーさんそっくりの顔だった」

「・・・・」

 魔左衛門にも相手が何者なのかわからない。

 首を切られたところまで覚えている。

 自分は胴体から首が生えてきた。

 目の前にいた男は首から胴体が生えてきたのだ。

 男は自分の分身だ。

 いや、男の方が本物で、今の自分が男の分身かも知れぬ。

 だがそれはどうでもいいことだった。

 旅の途中、これまでにも何度となく、自分は増殖してきたのではないか。

 首を切られる前の自分とて、分身のそのまた分身だったかも知れぬ。

「姉ちゃん」

 喜平が土手を駆け下りてくる。ずっと木陰に隠れていたのだ。

「喜平」お菊が言う。「大丈夫?」

「怖かったよう」

 喜平は泣きじゃくりながら、お菊に抱きつく。

 

 

「お願いします」紺絣の男が言う。「おっかあを助けてくれ」

 金次郎は盥の水を頭からかぶる。

「お頭」梯子持ちが言う。「何やるんですか」

「おれがあの家に飛び込む」

「無茶ですよ」

「人がいるんだ」

 だがそのとき、裸に茶色の着物を一枚だけ羽織り、三度笠をかぶった奇妙な男が走って来る。

 三度笠の男は燃え盛る玉村屋に近づく。

「おまえ」金次郎が言う。「そっちへ行くな」

 だが命令を訊かず、三度笠の男は火の中に突入する。

 ややあって玉村屋の壁が破裂し、中から黒焦げになった人影が出てくる。

 黒焦げの男は老婆を抱えている。

 下人足たちが竜吐水で黒焦げの男と老婆に水をかける。

「よし今だ」金次郎が言う。「家を倒せ」

 鳶人足たちがいっせいに刺又で玉村屋の柱を突く。

 玉村屋は音をたてて倒壊し、材木から白い煙が立ち込める。

 火はほとんど消える。

 下人足たちは竜吐水の水を燃え残った小さな火にかける。

 すべての火が消えると、茶屋の屋根に登っていた纏持ちが地面に飛び降りる。

 老婆は軽い火傷は負ったものの無事だった。

「ありごとうございました」

 紺絣の男はべそをかきながら、老婆といっしょに金次郎たちに頭を下げる。

 黒焦げの男は、当初、ひどい火傷を負ったはずだったが、どういうわけか火傷が癒えている。

 頭にかぶった三度笠は燃えてなくなっている。茶色の着物も半分は燃えて、男はほとんど全裸だった。

 金次郎は自分の半纏(はんてん)を脱いで、全裸の男に着せてやる。

「よくやった」金次郎が言う。「おまえ、何て名だ?」

「・・魔左衛門・・」

「おれたちの仲間に入らねえか?」

「・・・・」



 例幣使街道を歩く三人―魔左衛門、お菊、喜平―の姿があった。

 途中の茶屋とも万屋ともつかない店で魔左衛門は新しい三度笠を買った。

 そこで食べた饅頭が今日の食事のすべてだった。

 もうすぐ五料宿だ。

 夕日を浴びて街道沿いの麦畑が黄金色に輝く。それはこの世のものと思えない美しさだった。

 お菊は涙が頬を伝っているのに気づく。

 涙を流したわけは、麦畑が美しかったからか、生まれ育った上州の地を離れる寂しさからか、それとも魔左衛門と喜平の三人でこれから旅をすることへの心もとなさからか、お菊自身にもわからない。

 麦畑からトキが飛び立ち、「クゥー」と鳴きながら五料宿のある東の空へ飛んでいった。


(完)



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