青空と氷点下
ふと空を見たら、電線にスズメが並んで停まっていた。何気ない光景ではあるが、そのスズメの数が尋常ではないのだ。これはおもしろい。私はすぐにそう思い、携帯電話を手にした。すぐにでもこの写真を送って笑わせたい友人がいる。名前をKという。
携帯電話を構えた。機種変更したばかりのそれは、オートフォーカスで勝手にピントを合わせてくれる便利な奴だ。しかし地上から電線では少々距離がありすぎる。ズームは手動で行わなければならない。結局はアナログに勝るものはない。そしてもう一度、電線を見る。しかしその瞬間に走り去る、大型車。その大きな音にスズメ達は散り散りに飛んでいく。残されたものは揺れる電線と青空。それから、それらにズームでピントを合わせている私だ。
思わずため息が出た。白い、薄い雲のような息は、風に流されて消える。時は二月。場所は東北地方のとある町。この頃が、一番関東以南との気温の差が大きいのではないかと思う。推測ではあるが。雪は少しばかり溶け始めていた。太陽が出ている。雪に照り返して眩しく、目を細めて歩く。
しかし春の足音は遥か遠く。暦の上では春だが、ここは完全に冬なのである。
今日も、氷点下だ。
1
ある年の夏の事だ。私は突然うつ病とパニック障害になり、働くことが出来なくなった。
当時百貨店に勤めていた私は、忙しく仕事が出来る日曜日が大好きであった。平日は、館内の光熱費がもったいないほどにお客様が来ない。楽してお給料もらえるならいいじゃないかと思われがちだが、あの暇さを一度体験してもらいたい。うつ以外の何者でもないからだ。
従業員しかいないフロア。新作の入荷もなく、誰も来ていないから当然売り場は乱れが無い。事務仕事は午前中に全て終わらせてしまっている。しかし、日曜日は違うのだ。
ものすごく混む、ということはあまりないが、少なくともお客様は来店する。仕事が出来る素晴らしさを体感できる唯一の曜日なのだ。それなのに、私は日曜日の開店前、自分のショップに入った途端に過呼吸になった。そして強制的に帰らされてしまった。
全く心当たりは無かった。前日も同僚と「明日も頑張ろうね」と笑顔で別れた。そして、何よりもこの仕事が好きで、日曜日が好きだった。
しかしどうやら突然だと思っていたのは私だけらしかった。周りの友人は何となくだが気付いてた様だし、母に至っては、数ヶ月も前から私のパニック障害に気付いていた。それなら一言精神科や心療内科の受診を進めてくれたっていいものだ。しかし思い起こせば、元々母はそういった人だ。
私は幼い頃からずっと自分は不器用な右利きだと思っていたのだが、小学四年生の体育の時間。初めてバスケットボールに触れ、ドリブルをした。無意識に左手でドリブルしていた。私には大人になった今でも左右の区別がつかない。その頃は左胸の名札で確認していたが、体操服には名札が付いていないので分らなかった。だが友人になぜ左でドリブルしてるのかと聞かれ、初めて気付いたのだ。そしてその話を母にすると、母は意図も簡単に、「だってあんた左利きじゃない」と言ってのけたのだ。家族の真似をして右で箸や鉛筆を持ち始めた私を、「そういう子なんだな」と自分の中で解決していたらしい。
話が随分それてしまった。今回母が私のパニックに気付いたのは、私がバスに乗れないからだ。全く乗れないわけではない。しかし、自宅と職場のちょうど中間地点の辺りで必ずお腹の調子が悪くなり、近くにコンビニのあるバス停で必ず降りる。そしてそこからはいつもタクシーで通っていた。それが辛くて、私は途中から自転車通勤に切り替えたのだ。バスに乗ることだけは恐かった。だから大雨の日でもレインコートを着て自転車に乗った。服が濡れても、店内のロッカーに着替えが常備してあるので問題はない。これなら、いつお腹の調子が悪くてもすぐにコンビにに行ける。だから私は、自分はお腹が緩いだけで、まさかこれもパニック障害に当たるとは思っていなかったのだ。
この話を少しだけ友人にしたことがある。そのときに友人は、私が仕事に行くのを嫌がっているのではないかと思ったそうだ。それに関しては無自覚であるが、後になって思い返せば、そんな日もあったかもしれない。特に、平日に。
とにかく、その後行った精神科で働く事にドクターストップがかかってしまった私は他にすることもなくなり、散歩をすることにした。時間は有り余っているのだが、病気のせいで何事にも興味が持てなくなってしまったのだ。自分は多趣味だと思っていたが、散歩する以外には家で横になってぼんやりと天井を眺めている日々だった。テレビもつけない。音楽も聴かない。本も読まなければ漫画も読まない。趣味で参加していたバンドには、少しの間休ませて欲しいと言った。あとはたまに心配してメールをくれる友人に簡単な返事を返すだけ。メールの文章さえ、あまり長いと読むのが難儀な事があった。
その年の夏も、それなりに暑かったはずだ。熱中症のニュースをぼんやりと聞いていた覚えがある。しかし、暑さはあまり感じなかった。ぼんやりと、死にたいだとか、消えてしまいたいだとか、そんな事を考えていた。あまり口には出さなかったし、死ぬ事にだって体力がいるのだ。そう思ったらその分生きてやるか、となんとなく思う。割と前向きなうつ病患者だったのかもしれない。
毎日散歩をした。炎天下の散歩。よく熱中症にならなかったな、と今になって思う。毎日一時間は歩いていたはずだ。途中、必ず近所の書店に寄った。元は自称活字中毒であったので、新刊が出てはいないかとつい寄ってしまうのだ。
きっと、スタッフさんたちにはあだ名を付けられていたことだろう。パーマで眼鏡だったので、「パーマ」か「眼鏡」か「ニート」だとは思うが。
頭の中は、常に空っぽであった。それまでは仕事の事や趣味の事で容量が足りないくらいであったというのに。全消去をしてしまった様に空っぽで、天井を眺めるか、車に轢かれない様に歩くくらいしか出来なかった。書店で何度か文庫本も購入したが、そのページを開くことはなかった。そしてたまに、過去にあったトラウマが、フラッシュバックの様に頭を通り過ぎて、気付くと子供のように泣きじゃくっているのだ。
いつ、それがやってくるのかなんて、わからなかった。幸い散歩の途中では発作が起こることはなかったが。いつでも「泣きたい」と思いながら歩いていた。ふらりと国道に出てしまおうかと思ったこともあった。立ち止まって、うずくまって泣いてしまおうかと思ったこともある。誰にも気付かれなかったら、そのままその場所で熱中症で死んでいたかもしれない。
フラッシュバックは、仕事の事ではなかった。当然だ。私は仕事が好きであったし、上司も尊敬していたのだ。つまり、仕事が原因で病気になったものと思っていたが、原因は大学時代にあったらしい。嫌な思い出しかない。部活動の推薦で入ったその大学は、全くの無名で、これから新しい部活を作って行きましょう、と大学側からわざわざお声をかけていただけたから入った大学であったのに、そこにはすでに部活があった。付属校のOBが集まった部活が。ある程度の覚悟はしていたが、私以外が全員付属校関係であり、高校の頃に出来なかった事へのリベンジを目標に掲げていた。それが、私に何の関係があるというのか。新しい部活とは、どこにあるのか。そして人数が足りないと言っては、学外から付属校の卒業生を呼び、練習もせずに思い出話に花を咲かせるのだ。大会にも出なかった。毎日が、同窓会のようであり、正規の学生で部員のはずの私だけが、なぜか疎外感を感じていた。他校の同窓会になど興味はない。部長に何度も大会に出たいと打診した。出るために加盟しなければならない団体には登録していたからだ。しかしその度に部長は何かと言い訳をしては同窓会を続けていた。
大学一年のゴールデンウィーク。帰省した私は大学を辞めさせてくれと両親に頭を下げたがもちろん認められなかった。その後も帰省の度に頭を下げ、三年の夏に漸く認められた。
その後も私は大学のある土地に住み、一般の社会人で構成されるサークルに入った。大会にも出る事が出来た。大学では出来なかったことを思う存分にやってやった。そして大学に力の差を見せ付けたあたりで、勤めていた会社が倒産し、地元に帰ることになってしまったのだ。百貨店に勤めたのは、それから一年ほどあとのことだった。最初の会社も百貨店だった為、同じ仕事がしたかったが、なかなか求人がなかったのだ。それまではバイトで繋いでいた。
それほどの時間が経っているのに、なぜ今頃? と思ったが、大学から逃げて、やっと生活が落ち着いたのが、その年の八月だったのだ。隙を突いて、まるで嫌な思い出の大群たちに後ろから切りかかられた気分だ。不覚である。
余談ではあるが、病気の治った今でも大学に関係する全てのものが苦手である。ここに名前を晒してやりたいくらいだが、遠慮する事にしよう。また、大学では部活関係以外にも山ほど嫌な思いをした。そちらの方が私を苦しめていたが、きっかけはやはり部活だ。
中退する際、その理由を述べる面談を教授としなければならなかった。私が部活動の実態を話すと、教授はうなだれ、心から私に謝罪してくれた。そして引き止める事は出来ないと悟って下さり、滞りなく中退の手続きが完了した。その部活動がいかに詐欺まがいなものかと言うことは、学内の者なら誰もが知っていた、ということだ。
こんな落ち込んで、行きつけの書店では(おそらく)あだ名を付けられ、好きなことに興味も持てない。病気のせいとは言え、「どうして自分だけがこんな目に」や「大学を爆破したい」「大学で関わったほとんどの人を爆破したい」などと、そんなことばかり考えて生活をしていた。
それは、9月の半ば頃だっただろうか。気力も食欲も皆無とはいえ、暇だな、と認識出来るくらいにはなっていた。それまでは何もしたくなかった為に、何もしない時間が続いても「暇だ」などとは思わなかったのだ。
登録していたソーシャルネットに、書き込みをするようになった。友人の書き込みを読むようになった。友人の一人が、体の不調を訴えていた。その友人はKという。ネットで知り合った友人であり、親友だ。会ったことすらなかったが、あまりに気が合った為、お互いに本名を知り、Kには私の大学時代の部活以外のトラウマを話した。そしてKも、多くの人に秘密にしていた事を私に話してくれたのだ。私にとって、そのトラウマは軽々しく他人に話せないことであり、部活でも十分嫌な思いをしたが、そのトラウマの方が、私に重くのしかかっていた。Kにしてもそうなのだろう。簡単には他人には話せない秘密。それがなぜか、私たちはお互いに打ち明けられた。だから、ネットだけの付き合いでも何年も続いているのである。そしてだからこそ、お互いに相談し合ったり、励ましあったりも身近にいる友人と同等に行っていた。もちろん私の病気もKは心配してくれていた。だから私もKに応援するメッセージやメールを送っていた。
自分ばかりが辛いんじゃないと、当たり前のことを改めて思う。もちろん、私も辛くて苦しい思いをしているが、Kはそこに痛みが加わり、そしてお互いに先が見えない不安感が大きくなっている途中であった。
その時期は、私にとって最も辛い時期であったと思う。
まさか、自分がするはずがないと思っていた自傷行為も、無意識のうちに行っていた。
きっかけはやはり大学時代のトラウマで、突如一人きりの部屋で襲われたフラッシュバックに、私は耐えられなかった。
左手で、右利き用の鋏の刃をひたすら右腕を叩きつけていた。切れるはずがない。引っかき傷の様な赤いミミズ腫れが、狭い手首を占拠した。血液など、一滴も流れない。半袖で出かけても全く目立たない。そんな中途半端な自傷行為であった。
死にたいと、思ったわけではないのだ。痛みを知りたかった。そして、いつまでも頭の中から出て行かない大学の三年間。その間に関わった人物。心の底から憎いと思う人物が三人いる。三人とも大学の先輩だ。三人が、急に憎くて仕方なくなることがある。あいつらに、この痛みを味あわせたかった。鋏で叩きつけるよりも、ずっと痛い思いをした人物が居ることを事を知らしめたいと思った。命の重さを知らない三人に。
その後だった。Kが入院した。正直、ネットの書き込みなんかじゃどの程度の病気なのかもわからなかった。病名も書いていたが、軽いものだと思っていたのだ。Kの痛みは、入院が必要な程の痛み。私は自分で傷つけた。Kは、そうなりたいなんて望んでもいないのに、入院しなければならない。私は自らを傷つけた事を恥じ、部屋中の刃物を、母に預けた。特に不便はない。リビングに行けば鋏もカッターもある。一人で部屋に篭るからいけないのだ。
この時点で、Kがどんな人物かと聞かれても、私には詳しく答える事が出来なかっただろう。ネットしか接点がなく。メールもそんなに頻繁にしていた訳ではない。ネットでは、入院くらいではめげない様な、明るく前向きな印象を持った。人に話せない秘密を抱えてきた分の強さと、だからこそ他人を思いやれる、中心にいるような人物だと。だからそれは、軽い気持ちでのメールだった。
「ねぇK。病院ってメールしていいの」
きっと暇なこともあるだろう。私は毎日暇だし、私に出来るのは暇なときにKの雑談相手になることくらいだと思ったのだ。
「できるよ。メールしてよ」
「毎日送ってやる(笑)」
そうして、私とKのメールのやり取りが始まった。
2
いつまでも揺れる電線を見ているのは意味が無いので、私はまた散歩を再開した。携帯電話の写真機能を終わらせて、閉じたそれをコートのポケットに入れる。鳴ることはほとんど無い。
それにしても、歩きにくいものだ。風は冷たいが、日が出ている。溶けかけた雪ほど厄介なものは無い。道路沿いを歩けば大型車が溶けた雪を撒き散らすし、とにかく道がぐちゃぐちゃで歩きにくい。ブーツにも多少染みて来る。靴下の二枚履きは常識だ。貯金も積み立てた保険のお金も、半年も自宅療養をしていればほとんどが医療費に消える。元々貯金など、あってないようなものだったが。だから私のブーツは安物なのだ。しかしそれも、あと少しの辛抱だろう。
しばらく歩くと、少し大きめのスーパーがある。その駐車場の雪は、除雪車によって一箇所に集められている。この時期は、どのスーパーでもこの現象が起こり、駐車できる台数が減って迷惑することもあるのだが、除雪を怠り、駐車スペースのラインが見えなくなる方が迷惑なので仕方ない。
その雪山は、大人の平均身長程はあるはずの私の背丈よりもずっと高かった。おそらく全てが溶けるのは五月頃ではないかと思うが、二月のいま、少しずつ溶けているようなので、そんなに時間はかからないかもしれない。
雪山は、出来たばかりなら綺麗な白なのだが、二月頃ともなるととても汚くて見せられたものじゃない。だからそうなる前、十二月頃だったか、Kにホームセンターの脇に高く積まれた雪山の写真を送った。コメントとして、普通なら「すごい雪でしょ」「大雪だよ」などが無難だが、比較対象として全国区のそのホームセンターのロゴが見える様に撮ったので「ほら、ホームセンターだよ」と軽くボケてみた。しかしその日はKの具合が悪かったらしく、返事は来なかった。私のボケは、雪の中に埋もれてしまった。そしてこの日も、Kを笑わせる事が出来なかった。
他にも何通か雪の上に落ちた片方だけの手袋や、二階の窓を狙うツララの写真なんかを送ってみたが、反応は無かった。
大体この頃、十二月頃からだっただろうか。Kからの返信がゆるやかに減っていった。
3
Kとのメールのやり取りは思ったよりも頻繁だった。お互いの病気の状態を話したり、共通に持っていたゲームの話をした。そして稀に、Kの本音を送られてきたりした。
「怖いよ。死んじゃうのかな」「治療が痛いんだ。もう嫌だ」ネット上では、いつも冗談を言い合っていた。お互いに他人に話せない秘密を抱えてはいるが、それは常に気になることも無く、私が日記を書けばKは内容に関わらず下ネタのコメントを残し、私がそれに乗る。私の友人にまでKは絡み、本当に憎めない人物だと私の友人の間でも何度か話題になったくらいだ。
それが、こんな直球の弱音、本音を送られてくるとは思わなかった。「あんたにしか、言えないんだ」Kはそう言った。それならば、私はそれを全て受け止めるしかない。Kの印象が、少しだけ変わった。ネット上のみの繋がりだった、ヴァーチャルさがなくなり、よりリアルなものになった。強いと思ってはいても、Kはやはり私と同い年。二十代の子供だ。それも、明日をも知れない病気の。
怖がっているときには、「弱音は何でも聞くから、自分にだけは本当のこと吐きな」「痛いのを乗り越えたらすぐ退院出来るさ。そしたら、遊びにいこうよ」あまりうまい励ましは出来ないが、それでもKは聞いてくれた。
大丈夫とか頑張れなんて、そんな言葉は軽薄すぎて言えなかった。
あまり知らないと思っていたKの人となりが何となくわかってきた。強がりで、プライドが少し高いから簡単に弱った自分を見せたくなくて、だから、ネットや直接会わない私にしか本音を話せないのだろう。私たちの性格は、とても似ていると思った。だから、Kの気持ちも考えていることも、だんだんわかるようになっていた。
Kがあまりにも死ぬのを怖がるから、約束をたくさんした。Kは約束を破るような奴じゃないからだ。まず、近い所で年賀状の交換を約束した。その他は、Kが退院してからの約束だ。私はKの住む都道府県には行った事がなかっただから、案内してもらう約束をした。お互いにコーヒーや紅茶が好きなのでカフェに行く約束もした。
それからは、Kが死を怖がったら「まだ約束を何一つ果たしてないのに、死ぬはずがないだろう」「カフェ楽しみにしてるんだから」と言った。自分との約束を破るのは許さないと、その度に言った。先に見える何かがあれば、少しは支えにもなるだろうと思ってのことだ。
Kの本名をここに明かすことは出来ないが、とても綺麗な名前なのだ。一度、自分でも気障なことを言ってるな、と自覚しながらも、名前を用いてKを叱った事があった。そんなに綺麗な名前貰っておいて、今のKには釣り合わない、と。そうは言ったが、釣り合わないなどとは思ったことが無い。弱音を吐いても、死を恐れても、Kはいつも、どこか気丈であった。心を病んだ私よりも、ずっとずっと綺麗で強いと思っていた。
それでも一度だけ、Kに泣きついた事がある。他の人には言えなかった。今思えば誰に泣きついても良かったのかもしれないが、Kなら私の苦しみを理解してくれると思った。
病気になり、働けなくなってからの私の日課は散歩である。最初は、運動くらいはしておこうと思っただけなのだが、次第に目的は変わっていた。いつだったか、Kが「自分はかごの中の鳥だ」と言ったので、その日の散歩で空の写真を沢山とって、Kに送った。それをきっかけに、散歩の目的はKに外を見せること、面白いものを見つけたら写真を撮ってKに送ることになった。
毎日、とにかく沢山の写真を撮った。送りきれず、簡易的な携帯サイトを作り、そこに写真を更新してKに見てもらったりもした。そのおかげで、自分に少々だが活力というものが戻って来た様な気がした。
相変わらずフラッシュバックはあるが、数は格段に減っていたのだ。そんな事よりも、いかにKを楽しませるかが私の頭の中を占拠していた。元々、自分の為に何かするよりも他人の為に何かをするのが好きなのだ。つまり、百貨店は私にとって最高の職場だったと言えた。だからその行動自体、苦ではなかった。ただ歩いていただけの散歩が、周りを見ながら、Kを笑わせる為の散歩になっていたのだ。
Kのせいにするつもりはない。だがそのうち、私の中での認識が「運動の為の散歩」「そのついでにKを笑わせる写真を撮る為の散歩」から「私は何があっても散歩に行かなくてはならない」になっていた。元来神経質で頑固で、典型的なA型である私は、それが嫌で適当な性格であるように振舞ったこともあるが、元のその性格がうつ病につながり、これもその症状の一種だったのだろう。
十一月頃だったはずだ。その日は、台風の様な暴風雨で、警報や注意報が何かと出ていたと思う。
私は散歩に出た。
こんな天気では、Kに送る写真も撮れず、傘もほとんど意味をなさない。やっとの思いで、毎日のように通っている書店にたどり着いた。おそらく、書店のスタッフさんはみんな私の顔を覚えているだろう。適当なあだ名が付いているだろう。だから、こんなところで泣く訳にもいかなかった。きっと、こんな天気でも来るのか、とスタッフさん達も呆れたことだろう。
店内に入る前に軽く雨粒を払い、いつもの店内に入って、少しは落ち着いた。それでも、泣きたくて泣きたくて、仕方なかった。こんな行動を取らずにいられない自分が恐かった。
「K、あのさ、今日はこっち、すごい大雨なんだ。でも散歩に出てるんだよ。『散歩に行かなきゃいけない』って。きっと病気の症状なんだけど。K、怖いよこんな日にまで散歩に出ちゃうんだ」
Kからの返信は、いつもよりずっと早かった。
「あんたは今日、散歩に行きたくて来てるわけじゃないんだよね?」
「うん。すごい暴風雨で、全身びしょ濡れなんだ」
「無理に散歩に行かなくてもいいんだよ」
「わかってるよ。だけど、頭のどっかで『行かなきゃいけない』って思ってるんだ」
「じゃあ今日はもう帰って、明日は散歩行くの辞めな。それで一緒にゲームしようよ」
「うん。帰る。明日はゲームしよう」
「そうしよう。ごめんね。いつも弱音吐いてばっかりで。辛いのはあんたも一緒だもんね」
「いいんだよ。Kの方が大変なのに、ごめん」
いつもふざけ合う私たちにとっては、珍しいやり取りであったと思う。Kから弱音を吐くメールが来たときも、真面目に話を聞くことが確かに多かったが、最後は茶化し合って終わったりしていたのだ。こんな風に、お互いに慈しみあう様な事は、覚えてる限りではこのときだけだ。
次の日の天気は覚えていない。雨は降っていたとは思うが。私は約束どおりゲームの電源を入れる。Kもそうしていたかはわからない。昨今ではネットで繋がって、離れた相手ともゲームが出来るシステムがあるが、私たちが持っていたソフトにはその機能はなく、一緒にゲームをすると言っても、そこには意味など無いのだ。
それでもよくKは私とゲームをしたがった。私の持っているソフトをわざわざ買ってまで、一緒にやろうと誘われた。きっと、寂しかったのかもしれない。どこかで誰かと繋がっていたかったのかもしれない。
Kにこれ以上心配はかけたくない。その日を境に私は、Kに弱音を吐くのを辞めた。Kを笑わせる事を、第一に考えるようになった。
この頃、Kが入院し始めてから折り始めた千羽鶴が、五百羽に達した。そしてそれを、Kにメールした。笑って欲しかった。「そんなにたくさんいらねーよ」「あんた、どんだけ暇なの」そんな返事が来るものとばかり思っていた。いつもそうだったからだ。しかし、少し時間がかかって返ってきたメール内容は、意外なものだった。
「いま、母とメール読んだ。泣いちゃったよ。ありがとう」
まさか、そんな事を言われるなんて思っていなかった。なぜだか分らない。だけど私まで泣いてしまった。たった五百羽で、それはKの痛みも辛さも軽減出来るものではないのに。たった、それだけのことで。それならきっちり千羽折って、Kの病気を治してやろうじゃないか。退院するその日、千羽鶴のおかげで退院できたんだからな、とメールしようと決めた。それが、いつになるかわからないが。もしその場に自分がいられれば最高だと思った。
4
毎日同じ様な道を通って散歩をしている。それも半年目にもなれば、少しの変化にも気が付くようになった。しかし、二月。あたりは雪だらけで、特に変化は無くなっていく。Kに送る写真を探すのも一苦労だったりもした。それは一月頃にも同じだった。たまにおもしろい写真や、雪景色、片手だけの手袋の写真なんかを送った。雪で真っ白になった木の写真を送った時だけは、笑わせようとは思わず、綺麗なものを見せたいと思って送った。そして、十二月頃から減っていた返信が、この日は珍しく返って来た。「きれい」と、たった一言だけ。その一言が、何よりも嬉しくなっていた。
二月ともなれば、暦の上では春である。あの時Kに送った様な白い木は今のところ見当たらない。ただ、そうやって油断させておいて三月や四月にもう一雪来るのが東北である。そうすればまた、あの白い木は姿を現すかもしれない。それはそこに暮らす私たちにとってはあまり嬉しい事ではないのだが、Kが喜んだその写真をまた撮ってやりたいと思っていた。
今は、面白いものが何も無い。汚れた雪の山。わずかに溶けた雪から覗く空き缶。コンビニ弁当の空。すっかり雪が溶けた春には、この辺りはゴミだらけになることだろう。青空ばかりがきらきらと輝いている。
いつもと違う路地に入った。二十年以上住んだ土地だ。路地を一本ずらしたくらいで迷うことは無い。
そこはコンビニの裏だった。日陰になるそこにはまだツララがある、そしてコンビニの熱で少しずつ溶けていた。その下には、名前も知らない小さな木。それがツララから落ちた水滴にコーティングされ、氷の木が出来ていた。しかもその上には、片方だけの手袋が落ちているではないか! この情景をKに送らずに何とする!
私は発作的に一度はポケットにしまった携帯電話を再び取り出した。カメラを起動させ、ピントを合わせる。ズームは必要ない。そこでいつも気付くのだ。ため息。白い、薄い雲のような息は、風に流されて消えた。
この写真を受け取る相手は、もういない。
5
それはいつだったろうか。雪が降り始めた頃だったように思う。ある朝。まだ早朝と言える時間にKからメールが来た。お互いに早起きであったので、それ自体は珍しいことではない。ただ、内容が、雰囲気が、いつもと違ったのだ。
「どうしよう。怖いよ。副作用で髪の毛が抜けて来たんだ。どうしよう。死にたくないよ」
いつもは弱音を吐きながらも気丈に振舞っていたKが、このときは心から怖がっていた。短い文章からでも、それが読み取れる様になっていた。助けを求めている。
私に何が出来る? 私にどんな返事が返せる? 言葉は何一つ思い浮かばない。
こんな時間だ。Kの病室にはKを抱きしめてくれる人はいないのだろう。どんな言葉を返すよりも、黙ってKを抱きしめるのが一番だと思った。しかし私にはそれが出来ない。距離が離れすぎている。
考えて、考えて、いつも通りに返そうと決めた。私に医療の知識などはないから、大丈夫なんて、言えるわけが無いからだ。励ます言葉は無意味だと思った。
「馬鹿だな。それは冬毛に生え変わる準備だよ」
ちょうど、そんな時期だった。これで不安ながらも少しでもKが笑ってくれればいいと思っていた。
返事は、来なかった。
何時間待っても来ない。Kを幻滅させてしまったかもしれない。怒らせてしまったかもしれない。そもそも、メールなど打てる状態ではないのかもしれない。
日課の散歩をしながら、いろいろなことを考えた。だって、毛が抜けたのだ。ドラマや映画ではよく見るシーンではあるが、それが実際に、自分の身に起きたら、落ち着いてなんかいられないだろう。私は、なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう。
昼近くになっても返信は来なかった。だから私は謝罪のメールを送る。「今朝はごめん。怖くないはずないよね。不安にきまってるよな。言いたいことは弱音でも罵倒でも全部聞く。本当にごめん」
それでも、また数時間、返信は来なかった。
何度も言うが、私とKの住む都道府県は簡単には行けない距離にある。どうがんばったって、ネットで知り合い、共通の友人のいない私にはKの今の状態は分らないのだ。今日はもう返信は来ないだろう。そう思った、夕方頃の事だった。そんな時間にKからメールが来た。珍しい事だった。
「ごめん。ゲームしてた」
舌を出して笑う絵文字。人をこれだけ心配させておいて、この態度。いつものKだ。
「ちょっと、かなり心配したのにゲームかよ!」
「ごめんね。でも冬毛ってうまいなぁと思ったよ!」
「Kなんか冬毛でもっこもこになればいいんだ!」
この後少し、お互いのゲームの進行状況を話してメールは終わった。
その時は私も多少情緒不安定になっていたから気付かなかったが、きっとKは、無理をしていたのかもしれない。本当はゲームなんかしていなかったのかもしれない。病人の癖に、私に心配をかけまいとしていたのかもしれない。案の定、私は気付かなかった。
ただ、本当にゲームをしていた可能性もあるな、とも思わせるのがKだ。真実は知らない。今後、知ろうとも思わない。ただ、この辺りから、徐々にKからのメールは減っていた。ソーシャルネットにも、書き込みをしなくなった。機種変したからうまく使えない、と言ってはいたが、これも真実は知らない。
千羽鶴はこの頃、八百を越えていた。
千羽鶴といえば、繋いでグラデーションなんかにして、野球部の部室に飾ってあるイメージが私にはなぜか強くある。Kはセンスが良くてお洒落な人だ。そんな千羽鶴が似合うだろうか? この頃から、千羽鶴の送り方を考え始めた。絶対普通になんて送ってやるものか。送られてきたときに「何これ!」とKが笑うようにしたい。それまではKに「今何羽まで折った」と経過報告をしていたが、それも一切やめた。
6
それでも一応、片手だけの手袋を写真に収めた。行き場のない写真。Kの為に作った写真サイトなど、とっくに閉鎖した。
歩こう。疲れるまで。何も考えなくなるまで。Kとの思い出のない道を通って。
以前はきょろきょろと周りを見ながら散歩していた私は、足元の状況も悪いこともあり、俯きがちに歩くようになっていた。面白いものなど何も無い。支えていたつもりだったのが、私はKに依存し、支えられていたのだ。治ったと思い込んでいた私のうつ病も、まるで再発したように感じた。いや、元々治ってなどいないのかもしれない。
何をしたらいいかわからない。何のために生きているのかわからない。いつも考えていたのは、自分の病気の事よりも、離れたKに何が出来るか、と言うことだ。私は、Kの為に生きていた。
私の具合は、良くなっているはずだと思った、少し前。精神科の先生にKの事を話し、一秒でも早く会いに行きたいから働く許可をくれと頼み込んだ。呆れ顔で医師は「あなたはそうしないと、心配で具合悪くなっちゃうんでしょう?」と、働くために薬の内容を変えてくれた。
次の日から、早速就職活動を始めた。給料が安くてもいい。Kは待っていてくれる。しかし私の就職活動は連敗続きであった。Kの住む土地は遠い。なんとしてでも就職しなくてはいけない。落ちた事が確定した直後に私はすぐに他の企業へ電話し、面接の約束を取り付けた。週に一度のペースで面接を繰り返した。それが年が明けてから少したってからだっだはずなので、たくさん受けたつもりが、カレンダーを見るとそうでもないのだ。まだまだ面接できる企業はある。Kに会うために、次こそは。毎回そう思っていた。
そして、ある日曜日、この日の夕方も面接が入っていた。
7
十二月。具合が悪いのか、ほとんど返信がなくなっていた。それでも私は毎日のようにKにメールを送った。雪の降り始めた頃は、白に彩られた植物の写真が多かった。それから、自動販売機であまり飲みたくはないような変り種のジュースの写真。とにかくKを笑わせたかった。
ときどき返事が来る。それは写真の感想だったり雑談だったり。弱音を吐くことはほとんど無くなっていた。代わりに「愛してる」と。
これまで私とKの性別は書かなかった。そんなものはどうでもいいからだ。私は、性別という分け方が世界で最も下らないと思う。確かにそれが必要な場面もあるのだが、私たちの間ではどうでもいいことだ。それはきっと、他のKの友人もそう思っていたと思う。
私もKを愛していた。何度か「愛してる」とメールしたこともある。そこにあるのは、性別だとか恋愛だとか、そんな下らないものじゃなくて、私もKもお互いを人間として、愛していた。今までの恋人にさえ言ったことのないこの言葉が、不思議とKにはすんなりと言えた。「愛してる」他にKを思う時の言葉なんて、思いつかない。
一月になり、最初の約束、年賀状の交換の時が来た。
この頃には、私の具合もだいぶ良くなっていたと思う。音楽を聴けるようになった。バンドの練習の約束をした。活字を読むのはまだ少し辛かったが、集中力は保てるようになった。
私はもちろん、年賀状を書いた。そういったことも出来るようになっていたので他の友人にも何通か書くことが出来た。しかし、元日にはKからの年賀状は届かなかった。仕方ない。ここのところKの具合は悪そうであったからだ。届かないかもしれないと思ったKからの年賀状は、少し時期をずれて届いた。
その年賀状は、思ったものとは違っていた。書き出しが「Kの母です。ペンを持つのが辛い様なので代筆します」となっていた。そして、何かあったら、とKの母のメールアドレスが添えられていた。知らなかった。わからなかった。ペンを持つのも辛いのに、携帯なんかいじれるはずが無いじゃないか。それをKは「機種変したら使い方に慣れない」と言っていたのだ。気付けば、ゲームの誘いもこの頃にはほぼなくなっていたのだ。
それからは、KよりもKの母とのやり取りが多かったかもしれない。最初のメールで「今日も返事は貰えていないのですが、Kさんの体調はどうですか?」と尋ねた。丁寧にも、K本人に「返信しないの?」聞いてくださったらしい答えは「手がうまく動かないから、ごめんなさい」との事だった。だから私は約束をした「でしたらこれからも無理に返信しなくていいとお伝えください。その代わり、毎日自分はメールする、とも」
それまでも毎日メールしていた様なものだった。それが、「絶対」毎日メールするに変わっただけだ。大変なことではない。毎朝、少しの雑談と「愛してる」をメールした。Kからの返事はほとんど無い。それでも私はやめなかった。毎日「愛してる」を伝え続けた。
会って抱きしめることが出来ない私には、それしかないのだ。
一月の半ば、千羽鶴が完成した。鶴は全て安物だが千代紙で折った。中には数種類キラキラと光る折り紙も混ぜた。それを大き目のメイクボックスに入れた。開けたときに、宝石箱に見えるように。退院して鶴の役目が終わったら一泊旅行くらいには使える大きさのボックスだ。使い勝手は良いほうがいい。Kの母に送る旨と、病室に持っていくまではKに内緒にして欲しい旨をメールした。そのサプライズは、どうやら成功したらしい。届いた次の日、笑顔のKと鶴の写真が送られてきた。Kの母の話では、泣いて喜んだとの事だ。そのメールを読んで、私も少し泣いた。この千羽の願いが届けばいい。学生の頃から何かと千羽鶴を折る機会はあったが、ここまで真剣に願いながら折ったのも、一人で千羽折ったのも初めてだった。
離れている分、出来る限りのことをしたいと思っていた。やっと、Kの笑顔が見れた。後で、写りが気に入らなくて何度も撮りなおしたのだと知った。まったく、Kらしい行動である。これで少しでも元気になってくれればいい。私の願いは千羽鶴に託した。Kは気付かなかっただろう。千羽のうち、何羽かには中に「愛してる」と書いた。気付かなくていい。毎日伝えてるのだから。それがずっとKの傍にあれば、何か変わるかと思ったのだ。
それからも毎日「愛してる」とメールした。他にも面白い画像があればそれも送った。相変わらず返信はほとんど無かったが、一度、私に返信しようとして失敗したのか、空メールが届いた。こんなに嬉しい空メールは生涯でこの一通だけだろう。そして、保護設定にした空メールもこの一通だけになるのだろう。
ある日、Kの母から一通のメールが来た「来週には容態が急変かもしれないとお医者様から言われました。来れますか?」考える余地など無い「検討します。少し待って下さい」そしてすぐにパソコンの電源を入れた。費用のことなど、頭に無かった。申し訳ないが家族に借りよう。そんなことよりも、私の住む都道府県から、Kの入院する市までの交通機関、乗換えを調べるのが先だ。
私とKを繋ぐ道のりは何通りか検索された。また、幸い私にはKの住む都道府県に友人、先輩等が多く居た。思いつく限りの方々にメールした。更に、いくつかのルートを教えて貰った。後は、一番自分に都合のいいルートを選んで交通機関を予約して……。やる事は、沢山あった。しかし、私のキーボードを打つ指は止まってしまった。
パニック障害。うつ病の方はだいぶ気にならなくなってはいたが、私は、公共の交通機関が恐かった。気が付けば、私は泣いていた。親友が、危ないかもしれないのに、私のそんな都合で会いに行けない。もしもKと私の立場が逆だったら、Kはそれでも私に会いに来てくれたはずだ。それでも、恐い。恐い。それだけが私の頭の中を支配していたのだ。事情を知る私の母は、金銭面は気にするなと言ってくれた。あとは、私の勇気だけだ。実際、病気になった八月からは公共交通機関はおろか、自分の車さえ運転していなかった。閉鎖空間。逃げ場がない。それも、初めての土地で。私にとっては、この長距離移動は恐怖でしかなかった。
一晩では、決められなかった。恐い。でも、会いたい。会わなければいけない。しかしそれを思うと呼吸が速くなった。その繰り返しである。連絡を貰った次の日は、ちょうど精神科へ通う日だった。すると、パニック障害を誤魔化せるような処方は出来るそうだ。つまり、本当に後は私の勇気だけなのだ。Kの母にメールをした「行けそうなのですが、私はパニック障害で飛行機等に乗る勇気が出ません。行くのを決める猶予は、どれ程あるのでしょうか?」自分の子供が危ないというのに、なんて失礼なメールをしてしまったのだろう。本当は、何もかもを投げ打ってでも行きます、と返事がしたかった。何日の何時頃にそちらに伺います、とメールしたかった。それなのに、Kの母は優しかった。「昨日のメールで追い詰めてしまいましたね、ごめんなさい。本当に危ないときにはもっとはっきり言ってくださる先生のようなので、Kはまだ大丈夫です。来れるようになったときに来てくれれば良いからね」それが本当なのか分からない。私のために、心配かけないようにそう言ってくれたのかもしれない。それでも私は問い詰めず、Kが元気ならよかったです。と返事をした。元気なはずは、ないのに。そして、またそのようなことがあったら教えてくれ、と。そのときこそは、本当に全てを手放してでも会いに行こうと決めた。
8
面接の予定が入っていたのは、二月の最初の日曜だった。本来その企業を受ける気はなかったが、成り行きで受けることになってしまったのだ。それでも、面接を受けるからには受かるようにきちんと面接をしよう。企業を選んでなどいられない。そんな暇はない。
毎朝の日課としてKにメールをすることにした。返事は貰えないだろうが、私の気持ちが伝われば、それでいい。文面はこうだ「おはようK。今日は面接だよ。今度こそ受かるから、応援してね。愛してるよ」文面の最後に「愛してるよ」と付けるのが、私の中での決まりだった。
さて、メールを送ろうと携帯電話を開いた。「メール着信一件」結構早い時間だ。もしかしたらKかもしれない。半ばわくわくしながら、メールを開いた。Kの母からだ。
「今日の二時四十五分にKが亡くなりました。通夜、告別式の問い合わせは~」
いつも丁寧で、長い文章のメールをくれるKの母にしては、とても簡潔で淡々としていた。淡々としているから、現実味がない。何度も何度も、そのメールを読んだ。簡単な文章。なのに、理解が出来ない。
二時四十五分。深夜。私は処方された眠るための薬で、深く眠っていた。Kの事など、考えていない時間。
涙が私の眼鏡を白く濁らせていった。意識もせずに流れる涙。だから、止められない。止め方がわからない。なぜ泣いているのかも、次第にわからなくなっていく。亡くなった? 意味がわからない。カフェの約束は? 最後にメールが来たのはいつだ? 私たちは、何の話をした? 私は、Kに会うことは叶わないのか? 千羽鶴は、何の役にも立たなかった。
散々死にたいだとか、憎い三人を殺したいだとか、自分の思考の浅はかさを知った。
どのような状況だったのかだなんて聞けない。しかし、訃報というものは、とても素っ気無く、非現実的なものだと思った。ほんの数行のメールで、Kの死は友人たちに伝えられた。それが、現実だ。
9
それからも毎朝メールする習慣は変わらなかった。返事は来たり、来なかったり。麻酔等で意識が朦朧としてしまうことの多くなったKは、親戚に送るメールを間違えて私に送ってしまったりしていた。
メールでの会話は成り立たなくなっていた。毎朝のメールのほかに、私が写真添付のメールを送る。たまにその感想がきて、私はそれにリプライするのだが、これ以上返事はない。ゲームに誘われる事はもうなかった。そして私も、ゲームをしなくなっていた。
ある日、間違いだらけのスペルで「あいしてる」と一言だけのメールが来た。これだってもちろん、会話にはなっていないのだが、Kからメールが来るだけで私は嬉しくて仕方ないのだ。そしてその次の日には「やっと日本語で打てた!音楽かっこいい」と、随分前に私が送ったCDの感想をやっと聞かせてくれた。それから一日開いて、またKからメールが来た。それまで全くといっていい程返事が来なかったのに、調子が良くなっている証拠なのだろうかと私は嬉しくなった。その日のメールは、私が送った写真が何だかわからず「これ何?」と言うようなものだった。もちろん私は解説のメールをしたが、Kからのリプライはなかった。
だから大丈夫だと思った。また前みたいに冗談を言い合えるようになると、期待した。千羽鶴の効果だ、と言ってやろうと目論んだ。しかしそれが、Kから私に届いた最後のメールである。それからたった六日後の深夜に、私の知らないうちに、Kは私には会えない所に行ってしまった。
10
当然、通夜も告別式も行くことが出来ない。本当に急変だったのだろう。私はほんの六日前のメールでKは元気なのだと確信し、この日の面接にも気合を入れて挑むつもりでいた。
私の毎朝の習慣は、この日が最後だ。しかし文面は、最初に考えたものから大幅に変えた。
「K、あんたさ、何で勝手に行くのさ? 約束果たしてないじゃんか。 愛してるよK。ずっとずっと愛してる。ありがとう」
これが、私からの最後のメールである。受信はされただろうが、開かれなかったメール。
私は初めて弔電を打った。まだ私もKも二十代である。こんなことには慣れていないし、慣れたくも無い。弔電は、ネットで簡単に作成でき、送ることが出来た。こんなにも、簡単なのだ。料金だってクレジットで、全てがネットで済まされた。私は何ヶ月もかかって鶴を千羽も折ったというのに、願いは届かず、簡単に打てる弔電では、「お悔やみの気持ち」を伝えることが出来る。型にはまった様な文章は嫌だったが、これはご家族へ送るものであるので型にはめて送らせて頂いた。せめて最後に「愛してるよ」とでも付けたしたかったが、それも遠慮することにした。
その日、その後の面接ははっきり言って最悪だ。Kのために頑張ろうと思ったが、何を喋ったのか全く覚えていない。笑顔も保てていたかどうか、自信が無い。案の定、その企業は落ちた。
私は、誰かの死を悲しみすぎる癖がある。それは例えば憧れたギタリストだったり、散歩の途中で仲良くなった猫であったりしてもだ。一人ではいられなかった。しかしKとの共通の友人はいない。だから私はKとよく話していた場所、とあるソーシャルネットのKのページに書き込みをした。「Kのお友達の方とお話がしたいです」すると一人の方が、私にメッセージをくれた。これから告別式に行くとの事だった。初めてやり取りをする人。不躾にも私は「Kに愛してると、伝えてきてください」と頼んだ。その方は快く了承してくださった。その後も、この方とはメールのやり取りなどでKの話をしてくれる友人になった。
他にも何名かの方からメッセージを頂いた。中には何も知らなくて「Kからメールの返事が来ないのですが、何か知っていますか」と言う方もいた。その方には、勝手ながら、Kの母から来たメールを転送させて頂き、簡単に事情を説明した。
K以外に繋がりの無い方々からのメッセージ。私と同じようにKのページに書き込む方々。おそらく皆、示し合わせた訳ではないだろうに、口を揃えて「K、愛してる」と書き込んでいた。それは私に届くメッセージも同様だ。
その日のうちに、告別式に行った方からメッセージが届いた。Kは、綺麗な笑顔で眠っていたそうだ。
あんなに辛い思いをして、苦しんで、我慢して。それでも最後は笑顔だなんて、かっこいいじゃないか。私にはそんなことが出来るかわからない。やっぱり、Kはその名前にぴったりな強い人間だった。
それから数日が過ぎた。忙しいだろうと連絡を控えていたKの母の方から、どうしてますか? と連絡が来た。私はまず、告別式に行けなかった事を謝り、それから亡くなった事を知らない方に勝手に伝えさせていただきました、と事後報告をした。すると、「もしまだネットでKのお友達に伝えられるのなら伝えて欲しいことがある」と伝言を託され、私はそれをまたKのページに書き込みをした。その次の日からである。なぜか私が「千羽鶴の人」だとバレていた。
なぜバレたのかは分からないが、そのおかげで、Kのお見舞いに行っていた方からメッセージを頂き、日記を公開していただいた。
そこには、私の知りえなかったKがいた。余程仲の良いお友達だったのだろう。頻繁に通っていたようだ。そこで私は安堵する。Kは一人じゃなかった。抱きしめてもらえていた。私の知らないK。もし会いに行っていたら、私にも同様に接してくれただろうか。Kの友達は、優しくていい人ばかりだ。でもKの事だから、面と向かって弱音など吐けなかったのだろう。だからそれが、私の役目だ。ネットだけの繋がりだから、出来ることもある。話せないことも話せる。Kには支えられてばかりだと思っていた。でももしかしたら、私にもKを支えることが出来ていたのかもしれない。
日記を公開してくださった方には心から感謝した。Kが一人じゃなかった事を、知ることが出来た。そして少しだけ嫉妬した。私も一度くらい、Kを抱きしめてあげたかった。
また別の方からKの母へ伝言を預かったので、メールをした。すぐにKの母は返事をくれた。私はそのメールを開くまで、「ありがとう」というだけのメールだと思っていた。しかし開けばかなりの長文で、少し驚いてしまった。
「伝言ありがとう。迷惑かけてごめんね。あのね、本当はあなたがKに会いに来てくれたときに話そうと思ってたんだけどね。一度Kに、「Kの親友は?」と聞いた事があります。あなたの名前を挙げていましたよ」
それまで我慢していた涙が、一気に流れる様だった。Kの周りには沢山の人がいて、皆こころからKを愛している。そこには性別も年齢も、何もかも関係なくて、みんながKを一人の人間として愛していた。それなのに、会ったこともない私を、親友だなんて。何も出来なかったのに。鶴の願いも届かなかった。会いに行くことも、抱きしめることも、傍に居ることも出来なかった。
出来たのはメールと千羽鶴だけ。そんな私を、Kは親友だと言った。
もっといろんな事が出来たんじゃないか。飛行機くらい、乗れたんじゃないか。数日間自分を責め続けた私を、Kの母が、Kが救ってくれた。これで、よかったのかもしれない。
その後もKを通して何名かが友人になってくれた。Kがいなければ繋がらなかった縁だ。時々思う。Kの友人とメールしながら、この話をKに聞かせてやったら大笑いするだろうな。日記のコメント欄も、さぞ賑わった事だろう。でもそのときは来ないから、K抜きで散々楽しんで悔しがらせてやろう。
それが、これからの私の生きる目標だ。自分から死のうなんて考えは、気付けばもうどこにもなかった。
また別の日に、Kの母から「Kの携帯のSDカードを見ていたらこんな写真が出てきたので送ります」と、一枚の写真が添付されたメールが届いた。
そこにいたKは、私がいままで見た中で、一番の笑顔だった。その顔が瞼に焼き付いて離れない。髪の毛が抜けて、辛い治療を毎日の様にして、それでもKは笑っていた。こんなに強くて綺麗な人間を、私は他に知らない。
11
傍らに置き去りにされた、片方だけの手袋を見る。持ち主は、現れるだろうか。この路地は、ここら辺でも特に、人が通らない場所だ。そもそもなぜ手袋は片方だけで落ちるのだろうか。こんな寒いところに置き去りにされて。寂しいだろうに。
少し体が冷えてきた。ふと空を見ると、小さな雪が舞っている。まだ昼過ぎ。青空だが雲が少し出始めた。小さな雪が、私の頬を濡らしていく。冷たい。しかしときどき暖かいものが混ざった。止められない。日課とはいえ、散歩は控えようかといつも思う。Kを思い出さない訳には行かないからだ。
思えば私の散歩は、途中からKと一緒に散歩しているようなものだった。それが、あの手袋と同じ。置き去りにされた。
帰ろう。そう思って一歩踏み出すと、ろくに人の通らない道。右足が雪にはまって転びそうになる。が、雪国育ち。すんでのところで堪え、その場にしゃがみ込む形をとった。
雪が強くなる。天気予報では、今日の最高気温は氷点下。だから仕方ない。寒いのも、頬がどんどん濡れて、鼻水まで出てくるのも。胸の奥のほうまで冷え切ってしまいそうだ。
置き去りにされた手袋の様に片方だけ、ひとりぼっちの私。うずくまって泣いている。誰か拾いに来てくれればいいのだが、この手袋も私も、きっとこのまま置き去りなのだろう。
だから、自分の足で歩かなければならないのだ。このまましゃがみ込んでいてはKに笑われてしまう。笑わせたいとは思っていたが、笑われるのは嫌なのだ。
「自分が死んだくらいで、あんたちょっと大げさなんじゃないの」
Kにそう言われてる気がした。
「仕方ないじゃん。愛してるんだから」
「素直に言われると照れるからやめてよね」
「大丈夫。あんたと違って、こっちは病気治してやったんだから。せいぜいそっちで羨ましがりな」
「う、羨ましくなんかないんだからね……!」
「素直じゃねぇな」
きっと、こんなやり取りをしたことだろう。
私は一人じゃない。片方だけの手袋には悪いが、Kが繋いでくれた縁がある。立ち上がり、すねの辺りの雪を払い、まずは鼻をかむ為に、私はコンビニの表側に出ることにした。
すでに仕事も決まっている。日課の散歩も、今日が最後にしよう。私は置き去りにされたんじゃない。Kと別の生き方をするだけだ。Kが羨ましがるような、そんな生き方を。
12
日本中が揺れた。三月十一日の東北地方太平洋沖地震である。
私は新しい職場で仕事をしていた。今度は百貨店ではないが、大型のスーパーだ。長い揺れ。悲鳴。埃が舞っている。館内がギシギシと音を立てる。とても長い揺れだった。治まったとわかっていても、まだ体が揺れているようである。これ以上の営業は不可能と判断し、一旦外に逃げたお客様にそのままお帰り頂くようにお願いをする上層部。
吹雪だ。ここのところ良い天気が続いていたというのに、外はひどい吹雪であった。お客様を誘導し、館内には従業員だけが残る。電話もメールも混線し、外部との連絡は全く取れなかった。
それでも、胸騒ぎが収まらない。Kが、私に何かを訴えている。Kが心配だった。家族より、生まれたばかりの甥よりも。しかし今更Kを心配してどうする? 入院中なら大変なことだが、Kはいま、どこよりも安全な場所にいるのに。
気付けばメールを打っていた。Kの母宛に。
「先ほどの地震は大丈夫でしたか? こちらは途中で営業停止になってしまいましたが怪我もなく、停電以外に特に問題はありません」
今更、Kの母とそんな連絡を取り合ってどうするというのだ。わからないけれど、聞かねばならない気がした。何度も送信ボタンを押す。漸く一通送れた所で退店の支持が出た。
田舎のスーパー。従業員駐車場からは一本道。かなりの人数が一気にそこを出たものだから、当然渋滞である。進まない車。やっと我が家との中間地点くらいまで来た辺りで電話が鳴った。Kの母である。どうせ車は進まない。悪いことと知りながら、これを逃せば次にいつ電話が繋がるかわからない。
「もしもし」
「あ、Kのお母さんですけどね、大丈夫だった?」
「はい。こちらは問題ありません。あの、そちらは? どうも、Kさんが心配している気がして」
「こっちは大丈夫よ。ありがとうね」
そして改めて軽く安否確認をして通話は終わった。車は進んでいない。
メールを読んで、心配してかけてくれたのかと思うと、胸が熱くなった。普通なら、もう連絡も取らないような間柄でもおかしくはないというのに。
次の日の朝、幸いにも私の住む地区はかなり早い段階で電気が復旧した。しかし職場はそうではなかったらしく、食品売り場を覗いて全てのテナントが急遽休みとなった。その連絡を店長から貰ったその後で、一通のメールが届いた。店長からの連絡漏れかと思い、開けばそこには全く予想しなかった事が書かれていた。
「おはようございます。Kの母です。昨日、メールくれてたんですね。夜中に届いていたので先ほど気が付きました。同じような時間に、二人とも心配しあって、同じような事を考えていたのですね。どうもありがとう」
それではあの電話は、私のメールを読んだからではなく、Kの母が自主的にかけてきてくれたと言うのか。Kが、かけさせたのだろうか。Kの母にしたって、安否確認をしなければいけない親戚や友人はたくさんいるだろうに。もちろん、それは私もだったのだが。
「不思議ですね。もしかしてKさんって心配性でした?」
その返信への答えは、もちろん「はい」であった。