第1章
この小説には残酷な表現が多分に含まれます。
耐性の無い方はご遠慮下さい。
闇という安直な表現は彼らにはできなかった。
空を覆いつくす肉塊にひたすら銃弾を打ち続ける。
圧倒的な物量で迫る肉塊は、はるか昔、都市だった残滓を砕きながら少しずつ、進む。
その度に彼らは後退し、肉塊から吐き出された体液に溶けてゆく。
「司令部から各部隊、ヨミド標的が第三次防衛線を突破、二〇六野分から二一〇早鐘までは第四防衛線まで後退。まもなく、棺桶を投下する」
ノイズ混じりの無線機が銃撃の間から辛うじて聞き取れた。
空になった弾倉を捨て、走る。
「……はぁっ……はぁっ……」
焼け付くように喉が痛む。
限界を超えて酷使した足は痛みすら訴えていたが、止めることはしなかった。
高遠誠二は止めたら、そこで自分も死ぬことも知っていたからだ。
瓦礫の下から腕がのぞいているのが見えた。
走る先に腰から下の無い同僚が居るのが見えた。
だけど、誠二にとってはまだ、使える銃器を走りながらひったくる程度の物としてしか見ることができない。
遠く、地鳴りのような音が聞こえる。
それは確実に誠二の背後に迫ってきていた。
振り向かずに走る。
だが、砂塵を巻き上げる突風が吹いた矢先、誠二の前には巨大な影が立っていた。
「――っ」
息を飲む音がはっきりと聞こえた。
身の丈で四メートルはあるだろうか。支える太い太ももに対してくるぶしは細い。
赤く膨れあがった胸板にはいくつもの銃弾が突き刺さっていた。
丸太のような腕。というよりは丸太を束ねた太い腕。
その先には人の子程はあろうかという大きさの爪とそれを支える大きな手のひらがあった。
――赤鬼。
そう、昔話に出てくる赤鬼がもし、本当に実在するならばこのような格好をしているかもしれない。
だが、誠二にとってはそれは昔話ではなく、今この瞬間に直面している現実だった。
突撃銃を構え、引き金を引き絞る。
肩に鋭い衝撃が走り、銃弾が吐き出される。
吐き出された銃弾は赤鬼の胸の上に突き刺さり、紫色の血の華を咲かせる。
赤鬼は誠二にその煌々と輝く双眸を向けると僅かに歩を進めた。
次の瞬間、赤鬼が跳躍し、誠二が地面を転がった。
今まで誠二が立っていた場所のコンクリが裂けていた。
強靱な腕で振るわれた爪が地面に突き刺さっている。
どう避けたかは誠二にはわかっていない。
次の瞬間には立ち上がり、突撃銃を振り回し、効果的にダメージを与えれる場所に銃弾を叩き込んでいた。
広い膝の裏で弾けた銃弾が赤鬼の足を折る。
一際甲高い咆哮を上げて赤鬼がコンクリート片を投げつけた。
誠二の華奢な――それでも、軍人としては鍛えられている――体は風に吹かれた紙切れのように飛ばされ、地面を転がった。
転がりながら、急いで起き上がり、痛みをこらえ、建物の中に隠れる。
壁に背中を預け、息を整えようとする。
視界が真っ赤に染まる。きんきんと耳鳴りがうるさい。
銃把を握る手が白くなっている。
肺が酸素を求め、必死に喘ぐ。
考える余裕がなくなってくる。だが、辛くとも考えることをやめる訳にはいかない。
考えて、体が反射的に壁から離れることを選ぶ。
爆発のような音がしてコンクリートの壁が切り裂かれる。
もうもうと立ちこめる煙の向こうに誠二は引き金を引いた。
咆哮が響き渡る。
赤鬼が双眸を潰されて猛っていた。
誠二は最後の手榴弾を使うかどうか躊躇った。
だが、すぐに手榴弾を赤鬼に向かって放っていた。
炸裂まで二秒と短い手榴弾は赤鬼の頭に触れる前に爆発し、その頭部を破砕する。
ずしん、と重苦しい音を立てて赤鬼の体が地面に横たわった。
――これで自決が苦しくなる。
誠二が放ったのは自決用の手榴弾だった。
誠二は赤鬼――鬼人型標的の活動停止を確認する前に建物を飛び出し、走り出していた。
建物の外に出ると既に異形の生物に囲まれていた。
女の体を持つ蜘蛛。双頭の鼠。六つの体を持つ女。手足の生えたヒトデ。二つに分かれたムカデ。羽の生えた芋虫。
それらの持つ、目や、目とおぼしきものが誠二を一斉に捕らえた。
狂いそうになる精神をとどめるのが精一杯だった。
いっそ、狂ってしまおうか。
甘美な誘惑が誠二の中で駆け回る。
銃を振り回し、巨大な化け物の中を走り出す。
どちらに走っているかもわからなくなった。
銃を撃って。ナイフで切り。走って逃げて。同僚の死体から武器を取り。また、戦って。逃げて。
「――棺桶、投下」
激しい音がした。
衝撃に飛ばされ、また地面を転がった。
意識が眩み、もうもうと立ちこめる粉塵を肺一杯に吸い込み、ざらついた咳をつく。
粉塵が収まるのを待って起き上がり銃を構える。
そこに鎮座していたのは鉄の棺桶だった。
「辻風〇五から司令部。へ―二四地点に着棺を確認したが起動せず。また、付近に生存している陸戦部隊員、一名を確認」
「了解した。当該陸戦部隊員の部隊、応答せよ。応答が無いなら一方的に送る。棺桶を起動し、ヨミド標的を抹消せよ。繰り返す――」
無線機がうるさく鳴っていた。
教練のときに見たことがある。
自軍の損害が著しく、戦略的不利と判断されたときに投下される戦術兵器。
産屋――通称、『棺桶』。
重々しい鉄の箱は三トン程の重さがあり、ロケットにより射出される。
その大部分はその中心部にある極秘事項を守る為の装甲で、着棺――着弾ではなく、棺桶が着地するという意でこちらを用いる――するまでの間に、破砕されないためだけの措置。
それでも、着棺率は五割弱でこのように故障してしまうケースの方が多い。
「――野分三、応答せよ。棺桶を起動し、ヨミド標的を抹消せよ!」
ざりざりと無線機が耳障りなノイズを立てていた。
誠二は自分が呼ばれていることに気がつき、マイクを手にし――応答することを諦めた。
何度か転がされた時にマイクを破砕したらしい。プレストークのボタンが飛び散っている。
背後から蛇の尾をもつ狐が炎を吐いた。
棺桶を盾に、やり過ごす。
「熱っ!熱っ!熱っ!」
幻聴を聴いたと誠二は思った。
狂気でついに気が触れたか。安定剤を飲むかどうか迷う。
だが、誠二は銃の引き金を引くことの方が精神的に救われることを知っていた。
落ち着きながら狐の尾に狙いを定め、一つ、二つと撃ち抜いていく。
九つ全て撃ち抜いたとき、狐は白煙を上げて崩れ去った。
「あれ、開かない。ちょ、うわーもう……やだなあ」
ガンガンと棺桶の中から音がしていた。幻聴だと思っていた声も中からだ。
「……女?」
熱が急速に引いていく。
誠二は音のする方へ回り込むと棺桶の装甲を止める蝶番が捻れているのがわかった。
銃で撃ち抜く。
大きな破砕音がして棺桶が開いた。
「ぶはぁっ!」
もうもうと立ちこめる白煙の中、煙を割ってあらわれた少女に誠二は銃を向けていた。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
引き金に指をかける誠二に少女は小さく頭を下げた。
白い装束に、赤い袴。
幻覚を見せられているのかと思った。
誠二は今までの戦場で三度程、幻覚を見せられたことがある。
発狂しそうになったところを同僚が足を撃ち抜き正気に戻してくれた。
誠二はすぐさに状況を判断しようと――
「今、禊いでますから!……あ!」
少女が勢いよく立ち上がろうとして、転び掛けた。
誠二の胸に倒れ込んでくる。
シャンプーと石けんの匂い。
甘い微熱と、女子の持つ肢体の柔らかさ。
――だけど、少女には右足が無かった。
「す、すみません。少し、支えてもらえますか?見てのとおり――足が無いもので……」
戦場で何をやっているのだと誠二は自問する。
動悸が激しくなり、ほんのりと頬を染める少女の顔に見入っている。
「……も、もう少しで終わりますんで、あはは、ごめんなさ――」
あどけない唇。細長い睫毛。白く澄んだ肌。
まだ、純真さを失っていない瞳。
「そういえば、まだ、名前を――」
その瞳が、裂けた。
風船の割れるような音がして、瞳から鮮血が迸る。
「あ……」
――瞳から太い、太い腕が伸びていた。
ぬらぬらと粘液を纏った腕が生き物のように伸びて虚空で握り、開かれる。
紫色から赤色に変色し、緑色に変わり肘に目玉が生まれた。
濁りきった茶色の瞳孔がてらてらとした粘液をまとわりつかせたままぐるぐると回り誠二を捉える。
鮮血を頭から浴び、誠二は瞳から伸びる腕に捕まれる。
胸に吊していたアーミーナイフを抜き、振るう。
そして、少女の瞳に、突き刺した。
「痛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」