夜散歩 その一
彼は今日もまた一人のんびりと出かけていきました。夜中になると町の外れの田んぼ沿いの道を一人でブラブラと歩いていくのです。すっかり寝静まったこの町の中に彼以外に起きているものはありませんでしたが、彼はこの時間が一番綺麗な時間なんだということを知っていました。
今日はとても綺麗な月が出ています。昨日までは曇りが続いていましたから、彼自身こうして散歩に出かけるのは四日ぶりのことでした。満月ではありませんが殆ど真ん丸の月は黄金色に夜空を照らしていて、磨き上げられたような鋼の夜空は月の明かりで白んでいます。星はその周りで輝きました。紅色に黄色に白色にです。
彼はそれをぼんやり眺めながら一人で呟きました。
「綺麗な月だなぁ、それに綺麗な夜だよ」
頬をぐいっと持ち上げて彼は笑いました。月の表面にうっすらと影が落ちていて、それが何ともおかしな事に月が笑っているように見えるのです。
彼は大きく伸びをして見せました。すると突然道の脇に転がった岩から影が立ち上がりました。彼が驚いて体を伸ばしたまま止まっていると、影は彼に言いました。
「こんばんは、いい夜ですな。それにあなた、実に楽しそうではないですか。ごほん、ご一緒してもよろしいですかな?」
その影の姿が月明かりの下に出てくると、途端にその正体は分かりました。
それは大きく立派な年老いた犬でした。しかし違うのはその犬が二本の足で立っていて、体にはちゃんと服を着ているのです。灰色のズボンに白いシャツ、黒のチョッキを着ています。頭に乗せたハットをさっと、その毛むくじゃらの手で持ち上げて挨拶をする様は、さも人間のようでした。
さらには人の言葉まで話すものですから、彼は嬉しいやらおかしいやらで笑い出してしまいました。
「これは丁寧な犬さんですね。構いませんよ、一緒に散歩しましょう」
犬はとことこと彼の前まで歩いてきます。そして立ち止まると言いました。
「ありがとう、お兄さん。それにしてもお一人で散歩ですかな?」
彼はうなずきました。
「そうです、こんなに綺麗な夜をみんなは知らないのです。こんなに月が綺麗なのに」
「全くですよ、本当に楽しくなる」
一人と年老いた一匹は並んで歩きました。
月明かりは脇に広がる田んぼにその光を落としていました。なみなみと揺れる田んぼの表面には大きな山が映り込んでいますし、月そのものも姿を映しています。風に揺れる度にキラキラと水面が輝いて、星が水浴びをしているようにも見えるのでした。
「そうだ、お兄さんにこれをあげましょう。とてもいいものですよ」
老犬は微笑むと彼にそっと小さな木の実を手渡しました。その実は何とも美しく、傷一つない様子で玉虫色の光を放っています。
「何です?これは」
それをかざしながら彼は言いました。
「それはノブマルクの実ですよ。とてもいいものです」
「ノブマルク?どんな風にいいものなのですか?」
老犬は犬らしくチャッチャッチャと彼より速く前へ進み出るとくるりと振り返り、そして言いました。
「今宵、私たちが出会った証なのです。そしてこうして語らいながら笑えたという証なのですよ」
彼はうなづきました。年老いた犬との会話と変な実のプレゼント、本当に変な事だとは思いましたが、夜がこんなに素晴らしい夜だったものですから彼はじっと何も言わずに同意しました。
「なるほどそうか、それは素晴らしいですね」
そうとだけ言ってノブマルクの実を胸のポケットへとしまい込みました。
しばらく二つの影は進んでいきました。
先の方へずっと伸びていく田んぼの脇道を歩いていきますと、突然足下に二つの小さな影が躍り出ました。あまりにも突然だったものですから彼はその影を踏みつぶしそうになりましたが、身軽にぴょんと跳び越えると踏みつぶさずに済んだのでした。
その影の主はすぐに分かりました。
月明かりの下映し出された小さな影は二匹の鼠でした。それが一匹はピンクのシャツを着て、白いスカートを履いた小さな子鼠で頭の上にスカートと同じ白色のリボンをしています。手には小さな実を抱いています。もう一匹は上下紺色の服を着て、頭の上に紺色のベレー帽をのせた大きな母親鼠です。大きいといっても所詮は鼠ですから彼の靴下くらいの高さしかありません。
「あぁ、ありがとうございます。この子の命を助けていただいて」
母親鼠は彼を見上げて必死に言いました。女の子鼠の方は母親鼠にしっかりとつかまって、後ろに隠れています。
彼は二匹にかがみ込むようにすると言いました。
「なぁに、何もしてはいませんよ。僕の方こそ踏んでしまいそうになりまして、本当にすいませんでした」
「いいえ、飛び出したこの子が悪かったんです。綺麗な夜だったものですからはしゃいでしまって」
そう言うと母親鼠は丁寧にお辞儀をしました。彼も慌てて頭を下げ、老犬もまた落ち着いてハットを持ち上げました。
「実は我々も同じなのですよ、ご婦人。夜の美しさにふらりと出かけたわけです」
老犬は座り込んで言います。
「よろしければ我々と共に歩きませんかな?」
その老犬の提案に女の子の鼠はキャッキャとはしゃぎました。母親鼠もまた相変わらずの丁寧なお辞儀で応えました。
「しかし僕らとあなたたちでは歩幅が違いすぎる。どれお二人とも、僕の肩に乗っていって下さい」
彼はそう言って手を差し出しました。二匹は手の上へぴょんと飛び乗り、彼は母親鼠を右肩へ、女の子鼠を左肩へと乗せました。