夜散歩 その三
月の周りに僅かに雲が出てきました。ですがとても薄くて、それは絹衣のように漂っていました。月の明かりを受けて淵が黄金色に染まっていますし燃えているようにも見えました。どこかの草むらの中からピリリピリと虫の鳴くのが聞こえています。ですが二匹か三匹くらいなもので、それ以外はとても静かでした。
どれくらいか進んだ後、老犬の紳士が彼の肩を叩きました。そして毛むくじゃらの指をさした方向には一本の痩せた樹が立っていました。細い枝には葉っぱをいっぱい付けていますが、月が照らすとその葉と葉の間から漏れた光が影をつくって、道路には何とも不思議な、蜘蛛の巣のような、迷路のような、または何匹もの小鳥がじゃれ合っているような、そんな絵ができあがりました。
女の子鼠はチーチー、チーチーと小鳥の鳴く真似をした後でふぁふぁと可愛らしく欠伸をしました。お母さん鼠はそれを見ると彼の首の後ろを器用に通って女の子鼠の所へ行きました。彼もお母さん鼠が通りやすいように少しだけ首を前へ倒したのです。
みなはその細い木の所へ行くと木の根本へ腰掛けました。そして彼は木の幹へ背中を預けました。じっとしているとドクッドクッという音が聞こえてきます。それは木の音なのか彼の心臓の音なのか分かりませんが低く重みのある音でした。
カラスの婦人は老犬の帽子の上から飛び立つと樹の枝の上に降り
「青白い綺麗な夜、カカッ
黄金の綺麗な夜、カカッ」
と言って笑いました。老犬の紳士は何も言わずに夜空を眺めています。鼠の女の子は最早こうべを垂れてお母さん鼠に抱かれています。お母さん鼠は優しい笑顔で女の子鼠の頭を撫でています。彼もまた少しだけ眠たくなっていました。
彼はこんなことを考えていました。冬になって雪が降って、この道路も畑も向こうの山も川辺の石も誰もが雪化粧で白く彩られる。夜中まで降った雪が止んで、車の轍にも雪が積もって、それから夜散歩に出かけたならそこは誰も踏み入ったことのない世界。自分が最初に足跡を付けられる。夜の群青色に月明かりが落ちればそこは何色になるのだろう。青色?黄色?混じった色?風はきっと肌を裂くぐらいに冷たいに違いない。指先は締め付けられるように冷たくなって真っ赤になるだろう。だけれど綺麗で楽しい散歩に違いはないよ。いろんな出会いや発見も待っているに違いはないよ。
彼はいつの間にか疲れて眠ってしまっていました。どこか遠くの方で「では、またお会いしましょう」という言葉が聞こえたような気がしましたが彼は動きませんでした。月は夜空の一番高いところから次第に傾き、西の方へ消えてゆきます。東の空から次第に星達が姿を隠していって、代わりに青白い空が波のように広がってゆきます。風が吹く度に若苗が揺れてサラサラと鳴るのを彼は眠りながら聞いていました。
こうして夜散歩は終わりました。
自転車がカラカラ音を立てて通り過ぎるのを聞いて彼は目覚めました。すっかり朝になっていましたが、まだ早朝で殆ど人影はありませんでした。朝独特の冷たくみずみずしい空気が漂っています。彼は背中を伸ばすと両手を高々と上げて空を見上げました。しんと音のない空には雲が薄く広がっています。飛ぶ鳥は一羽もなく静かな朝です。
向こうの方から一人の女性が歩いてきました。手には手綱を持っていて、一匹の老犬が繋がれています。女性は長い黒髪を揺らしながら僅かに微笑んで歩いてきました。その肌は綺麗な白色で大変に美しい女性でした。その女性が脇を通り過ぎるときも彼は少し恥ずかしくて女性の顔は見れませんでしたが、一緒にいた老犬が彼の顔をちらりと見たのです。老犬は頭を下げるかのように彼に目を向けました。彼もまた何かを知っているかのように軽く頭を下げました。
彼はもう一度空を見上げました。それからその場へ体を横たえて朝の空気と草木の香りを吸いました。