明日、君を忘れる僕へ
月曜日の朝、雨宮奏の机に、一通の退職届が置かれていた。
社員番号、三一七四。
所属、未来予測部。
氏名、雨宮奏。
見慣れた筆跡だった。数字の七をわずかに右へ傾ける癖も、最後の払いを必要以上に長く引くところも、自分のものに違いなかった。
けれど、奏には退職届を書いた覚えがない。
「悪趣味だな」
誰もいないオフィスに、呟きだけが落ちた。
それに応えるように、天井の照明が一列ずつ灯っていく。
午前六時十二分。
始業まで、あと二時間四十八分あった。
窓のない地下十二階では、朝も夜も人為的に作られる。照明の色が白から青へ変われば朝、わずかに橙色を帯びれば夕方だった。地上で雨が降っていようが、空が焼けるほど晴れていようが、この場所には届かない。
奏が勤める《ミライ製作所》には、世間には存在すら知られていない部署があった。
未来予測部。
もっとも、株価や天候を予測する部署ではない。
彼らが扱うのは、人間の選択だった。
誰が仕事を辞めるのか。
誰が誰に告白するのか。
誰が約束を破るのか。
誰が犯罪を犯すのか。
そして、誰が死ぬのか。
防音ガラスを隔てた演算室では、巨大な黒い球体が低く脈打っていた。表面を淡い光の波が走るたび、床の奥から心音にも似た振動が伝わってくる。
量子演算機。
街中の監視カメラ、通信履歴、購買記録、検索履歴、診療記録。個人端末が収集する心拍数、睡眠時間、歩幅、会話の間、声の震え、視線の動き。
それらを飲み込んだ《オラクル》は、人間が二十四時間以内に取る行動を、九十九・七パーセントの精度で予測した。
奏の仕事は、その予測結果を監査することだった。
たとえば、ある男が翌日の午後、駅のホームから転落すると予測されたとする。駅員を配置すれば命を救えるかもしれない。だが、救われた男が別の事故を引き起こす可能性もある。一本の列車が遅れ、乗客の行動が変わり、その中の誰かが本来なら出会わなかった人間と出会うかもしれない。
未来に指を触れれば、波紋はどこまでも広がっていく。
《オラクル》は波紋を計算し、もっとも犠牲の少ない一日を提示する。
それは人間を救うための機械だった。
少なくとも、奏はそう教えられていた。
けれど最近、ひとつの疑問が頭から離れなかった。
事故を防ぐことと、事故の起こらない道だけを人間に歩かせることは、同じなのだろうか。
間違えない人生は、本当に人生と呼べるのだろうか。
奏は退職届へ目を戻した。
提出日の欄には、明日の日付が記されていた。
六月十七日。
退職理由は一行だけだった。
朝倉澪を殺したため。
その名前を目にした瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
記憶ではない。
もっと直接的な、肉体に刻み込まれた痛みに近かった。
朝倉澪。
知らない名前のはずなのに、指先が冷たくなる。喉の奥に、錆びた鉄を飲み込んだような味が広がった。
奏は退職届を裏返した。
そこには赤いインクで、もう一文が書かれていた。
奏へ。午前零時を過ぎたら、君は彼女を忘れる。
エレベーターの到着音が響いた。
奏は振り返った。
地下十二階への立ち入りを許可されている人間は、奏を含めて七人しかいない。残る六人の中に、始業の三時間前から出社するような物好きはいなかった。
扉が開いた。
エレベーターの中央に、制服姿の少女が立っていた。
白いシャツに紺色のスカート。肩まで伸びた黒髪が、頬に細く張りついている。十五、六歳に見えた。
社員証はない。
靴さえ履いていなかった。
少女は奏の顔を見た。
雨に濡れたような目が、少しずつ細められる。
「よかった」
泣き出す寸前のような声だった。
「今日は、まだ私を覚えてるんだね」
奏は机の端に置かれた非常通報装置へ手を伸ばした。だが、少女の目がその動きを追ったため、途中で止めた。
「君は誰だ」
尋ねながら、答えを知っているような気がした。
少女はエレベーターを降りる。
素足が冷たい床に触れた。
「朝倉澪」
胸の痛みが強くなった。
彼女の右足首には、銀色の輪がはめられていた。輪の表面では、赤い数字が一秒ずつ減り続けている。
17:47:31
「それは何だ」
奏が尋ねると、澪は足首へ視線を落とした。
「私が消えるまでの時間」
「警備をどうやって抜けた?」
「抜けてないよ」
「なら、どうやってここへ来た」
澪はわずかに迷った。
何度も口にした言葉を、それでも慎重に選び直しているように見えた。
「私は、十七年後から来たの」
冗談には聞こえなかった。
未来予測部の監査官は、人間の嘘を見抜く訓練を受ける。呼吸の浅さ、瞬きの増減、声の高さ、視線の方向。嘘をつく人間は、意識するより先に体が反応する。
けれど澪には、そのどれもなかった。
「証拠は?」
「あなたの左肩には、火傷の痕がある」
奏の表情が強張った。
「十二歳の冬、お母さんを助けようとしてできた傷だと思ってる。でも、本当は火事じゃない。あなたが初めて《オラクル》に接続されたとき、端子が暴走してできた傷」
空調の音が急に大きくなった気がした。
その事実を知っているのは、奏と研究所の上層部だけだ。
いや、奏自身でさえ、数年前に機密記録を偶然目にするまで知らなかった。実験記録に氏名はなく、被験者A-3174とだけ記されていた。その番号が自分の社員番号と一致していることを、奏は誰にも話していない。
澪は机まで歩き、退職届を見下ろした。
驚く様子はなかった。
「今回も届いたんだ」
「今回も?」
「私たちは今日を繰り返してる」
澪は顔を上げた。
「今日で二百三十七回目」
沈黙が落ちた。
奏は笑おうとした。あまりにも荒唐無稽だと、鼻で笑って追い返そうとした。
けれど、頬は動かなかった。
「仮にそうだとして、どうして僕は覚えていない?」
「午前零時になると、あなたの記憶だけが消されるから」
「誰に?」
澪は、奏の背後を指さした。
防音ガラスの向こうで、黒い球体が脈打っている。
「あなた自身に」
その瞬間、《オラクル》の表面に白い文字が浮かび上がった。
通常、《オラクル》が入力を受けずに文章を表示することはない。
対象A-3174の異常行動を確認。
警告灯が赤く染まった。
未登録人格を検出。
朝倉澪を発見。
世界線修復処理を開始します。
すべての扉が同時に施錠された。
澪の足首にある数字が、急激に減り始める。
17:46:58
11:20:04
03:01:17
「何が起きた?」
「見つかったから、消される時間が早まった」
「止める方法は?」
「ここにはない」
奏は机の引き出しから管理端末を取り出した。空調制御へ侵入し、排煙設備を強制的に起動させる。
天井の一角で金属音が鳴り、排煙口が開いた。
「登れるか」
澪は暗い穴を見上げた。
「二百十二回目も、そこから逃げた」
「結果は?」
「あなたが落ちた」
「高さは?」
「三階分。左腕を折った」
「今回は落ちない」
澪の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
「あなた、毎回そう言うよ」
奏は机を排煙口の下へ移した。先に澪を押し上げ、自分も天井裏へ入る。
直後、鋼鉄製のシャッターが床へ叩きつけられた。
天井裏は、人一人がようやく這えるほどの広さしかなかった。むき出しの配線と金属板の間を、澪は迷うことなく進んでいく。
「二百三十六回も繰り返して、まだ逃げられないのか」
「建物の外へ出たことはあるよ」
「なら、なぜ今日に戻る」
「どこまで逃げても、午前零時になると初期化されるから」
「初期化の範囲は?」
「この世界全部」
奏は動きを止めた。
「この世界?」
澪も止まった。
しばらく返事はなかった。
「僕の知らないことを、どれだけ隠してる?」
「あなたを守るために必要なことだけ」
「その言い方をする人間は、大抵、自分を守ってる」
「そうかもしれない」
予想外に素直な答えだった。
「私は、あなたに嫌われるのが怖いから」
その声に含まれた感情を、奏は測れなかった。
天井裏の照明が青く点滅した。
どこからともなく、男の声が響く。
『雨宮奏主任。未登録人格との接触は、重大な認知汚染を引き起こします。速やかにその場を離れてください』
未来予測部統括責任者、久世冬一郎の声だった。
奏をこの部署に採用し、十年以上にわたって《オラクル》の開発を指揮してきた人物だ。
『朝倉澪は存在しません』
澪の肩が震えた。
『それは、あなたの罪悪感が生み出した仮想人格です』
「違う!」
澪が声を上げた。
先ほどまでの静けさが、一瞬で剥がれ落ちた。
『雨宮主任、あなたは重度の解離症状を起こしています。過去の実験で失われた記憶が、架空の少女として現れているのです』
奏は澪を見た。
彼女の瞳には、演技とは思えない恐怖が浮かんでいた。
「君は僕の幻覚なのか」
「違う」
「実在する証拠は?」
澪は唇を噛んだ。
「ない」
「君自身にも?」
「ないよ」
澪は振り返った。
「でも、あなたが実在する証拠だって、どこにもない」
その言葉は、暗い天井裏に吸い込まれていった。
二人は資料保管区画へ下りた。
そこには紙の記録が保管されている。《オラクル》の管理下に置かれる以前、研究所がまだ小さな医療施設だった頃の資料だ。
「地下九階に独立端末がある」
奏は言った。
「古い回線なら、過去の記録を調べられる」
「そこには黒瀬さんがいる」
「副主任の?」
澪が頷く。
「彼女なら協力してくれる」
「協力してくれたこともあった」
「しなかったことも?」
澪の目が曇った。
「十三回目に、あなたを撃った」
その言葉が終わるより先に、保管区画の扉が開いた。
黒瀬真琴が立っていた。
短く切られた髪。感情を読み取りにくい細い目。濃紺のスーツに皺ひとつない。
右手には拳銃が握られていた。
銃口は、澪へ向けられている。
「その子から離れて」
「銃を下ろせ、黒瀬」
「そいつは人間じゃない」
「僕の幻覚だと聞いた」
「幻覚なら、銃なんて持ってこない」
黒瀬の視線が一瞬だけ天井の監視カメラへ動いた。
奏はその意図を悟った。
彼女は敵を演じている。
黒瀬が引き金を引いた。
耳をつんざく音とともに、奏の背後にあった監視カメラが砕け散る。
「七分だけ監視が途切れる。ついてきて」
黒瀬は本棚を横へ滑らせた。
奥には、図面に存在しない階段が隠されていた。
三人は階段を下りた。湿った空気が鼻をつく。壁も床も、新しい研究棟とは明らかに材質が違っていた。
「十七年前の旧研究棟よ」
黒瀬が前を向いたまま言った。
「今の施設は、この上に蓋をするように建てられた」
階段の先には、小さな病室があった。
部屋の中央に一台のベッドが置かれている。
古い生命維持装置、色褪せたカーテン、錆びの浮いた点滴台。
壁には、子どもの描いた絵が何枚も貼られていた。
青い空。
白い病院。
海。
手をつないだ少年と少女。
一枚の絵を見た瞬間、奏の頭に鋭い痛みが走った。
絵の隅に、幼い字で二人の名前が書かれていた。
あまみやかなで。
あさくらみお。
記憶の底で、誰かが笑った。
白い霧の向こうに、少女の手が見える。
指先が届く寸前、映像は砕けた。
「ここは何だ」
「《オラクル》が生まれた場所」
黒瀬が古い端末を起動する。
画面には、十七年前の日付が表示された。
「計画の正式名称は、死者人格再構築計画。事故や災害で亡くなった人間の人格を、生存者の記憶から再現する研究だった」
「死者を生き返らせる研究か」
「違う。最初は、残された人間を治療するためのものだった」
黒瀬の指が端末の上を滑る。
「亡くなった相手を仮想空間に再現し、最後の会話をさせる。別れを受け入れられない人に、別れるための時間を与える。それだけの技術だった」
画面に大勢の人間の顔が映る。
死者と会話し、泣き、笑い、最後に別れを告げる人々。
「けれど、研究者たちは気づいた。人間の人格を精密に再現できるなら、その人が次に何を選ぶかも計算できる」
一人の人格は百人へ。
百人は一万人へ。
一万人は、やがて街全体へ膨れ上がった。
仮想空間に街を作り、そこに実在する人間の人格を置く。彼らに明日を生きさせ、その結果を現実へ反映する。
そうして完成したのが《オラクル》だった。
「最初の被験者は二人」
黒瀬が新しい記録を開く。
画面に、幼い奏と澪の写真が表示された。
二人とも病衣を着ていた。奏の左肩には電極が取りつけられている。隣に座った澪は、今より幼い顔で笑っていた。
「雨宮奏と、朝倉澪」
「二人とも生きていたのか」
黒瀬は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「被験者A-3174、雨宮奏は、実験開始前に死亡している」
頭の奥で、白い霧が裂けた。
雨音。
タイヤが路面を滑る音。
車体が何かにぶつかる衝撃。
割れた窓から流れ込む冷たい水。
自分の名前を呼ぶ、少女の声。
「交通事故か」
奏の口から、知らない記憶がこぼれた。
「六月十七日、午前六時十二分」
黒瀬は頷いた。
「二人を乗せた車が橋から転落した。朝倉澪だけが救助され、雨宮奏は死亡した」
奏は自分の手を見た。
皮膚の色も、爪の形も、掌に刻まれた線も、見慣れた自分のものだった。
握れば感触がある。
胸に手を当てれば、鼓動も感じる。
「なら、ここにいる僕は何だ」
澪が小さく息を吸った。
「奏」
「最初から知っていたのか」
「うん」
「僕が死んでいることも?」
「知ってた」
奏は澪を見た。
怒りより先に、深い疲労が押し寄せた。
「どうして言わなかった」
「思い出すたびに、あなたは壊れたから」
「壊れた?」
「自分を人間だと思えなくなって、何も選ばなくなった」
澪は震える手を握りしめた。
「十六回目のあなたは、一日中そこに座ってた。八十七回目のあなたは、自分から初期化を頼んだ。百四十四回目のあなたは、私に二度と会いたくないと言った」
「それでも君は来たのか」
「来たよ」
「二百三十七回も?」
「そうだよ」
澪は泣かなかった。
泣かないために、すでに多くのものを失いすぎているように見えた。
「あなたに嫌われても、もう一度会いたかった」
黒瀬が壁の装置を操作した。
病室の壁が透明になる。
その向こうに、同じ形の病室が無数に並んでいた。
すべての部屋に、奏がいた。
老人になった奏。
幼いままの奏。
機械に接続された奏。
床に座り込み、動かなくなった奏。
笑っている奏。
泣いている奏。
澪の手を握りながら、眠るように消えていく奏。
「《オラクル》は、ひとつの未来を予測しているわけじゃない」
黒瀬の声が遠く聞こえた。
「無数の雨宮奏を作り、それぞれに異なる選択をさせている。その結果を現実の予測に利用している」
奏はガラスの向こうにいる自分たちを見つめた。
自分が本物ではないことより、自分と同じ存在が数え切れないほどいることのほうが恐ろしかった。
「僕は何人目だ」
「正確には分からない。でも、六月十七日を繰り返す個体としては二百三十七人目」
「澪は?」
「彼女は毎回、外部からこの世界へ接続している」
奏は澪を振り返った。
「十七年後から来たというのは?」
「嘘じゃない」
澪は胸元から、小さな金属片を取り出した。
「現実では、事故から十七年が経ってる。私は二十八歳になった。病院のベッドから、この姿で《オラクル》に接続してる」
目の前の澪は、十一歳の頃の記憶を核に再現された人格だった。
現実の肉体は事故の後遺症によって自由を失い、その後の人生の大半を病院で過ごしたという。
「《オラクル》を作ったのは君なのか」
「最初の仕組みだけ」
澪は黒い床へ目を落とした。
「あなたに、もう一度会うために作った」
その技術を久世が利用した。
死者との別れのために生まれたシステムは、未来から不確かなものを排除する装置へ変えられた。
最初、人々は《オラクル》を歓迎した。
犯罪は未然に防がれた。
交通事故は減った。
災害の被害も抑えられた。
しかし、予測を外す人間が現れ始めた。
予定されていない告発をする記者。
新薬の副作用を公表しようとする研究者。
社会の前提を覆そうとする活動家。
《オラクル》にとって彼らは、人間ではなく誤差だった。
誤差は修正された。
事故や病気や、不運という名前を与えられて。
「その選別をしていたのが、あなた」
黒瀬が監査記録を表示した。
そこには奏が承認した介入命令が並んでいた。
奏に知らされていたのは数字だけだった。
この介入によって何人が救われるか。
何人が失われるか。
社会全体の損失率が何パーセント減少するか。
数字には顔がなかった。
名前も、家族も、叶えたかった未来もなかった。
「僕が殺したのか」
「あなた一人の責任じゃない」
「でも、僕が選んだ」
「選ばされたのよ」
「選んだことに変わりはない」
奏は退職届の文面を思い出した。
朝倉澪を殺したため。
あれは澪だけの話ではなかったのかもしれない。
奏はこれまで、数字の向こうにいる大勢の人間を殺してきた。
警報が鳴った。
七分が経過したのだ。
部屋の扉が閉まり始める。
黒瀬は端末から記憶媒体を抜き取り、奏の手に押しつけた。
「地上へ行って。現実の朝倉澪につながる外部回線が、中央塔の最上階にある」
「君は?」
「ここに残る」
「一緒に来い」
黒瀬がわずかに首を傾けた。
首筋の皮膚の下で、青い光が脈打っている。
《オラクル》の制御端末だった。
「私は監視されてる。ここから離れれば、意識を奪われる」
「それでも」
「今回だけは、先へ進んで」
黒瀬は初めて微笑んだ。
「二百三十四回目のとき、あなたは私を助けてくれた」
「記憶は初期化されるはずだ」
「人間の記憶は、機械が思うほど正確じゃない」
黒瀬は閉まりゆく扉に手をかけた。
「だから、完全には消せないのよ」
扉が閉じた。
直後、その向こうから銃声が聞こえた。
奏は反射的に振り返った。
澪がその腕をつかむ。
「行かなきゃ」
「黒瀬が残ってる」
「分かってる」
「なら」
「ここで戻ったあなたを、私は二回見た」
澪の目から、ようやく涙が落ちた。
「二回とも、全員消された」
奏は扉を見た。
向こうにはもう、何の音もなかった。
やがて拳を握り、背を向けた。
旧研究棟から保守通路へ入り、二人は地下鉄の廃線を目指した。
人気のないホームには、一本の列車が待っていた。
二人が乗り込むと、自動的に扉が閉じる。
車内の窓に映ったのは、トンネルの壁ではなかった。
病院の庭。
学校の教室。
夏祭り。
雨の日のバス停。
奏の知らない過去が、窓の中で動いている。
二人は幼い頃、同じ病院に通っていた。
澪は生まれつき心臓に病気を抱えていた。奏は母親を亡くして以来、言葉を話せなくなっていた。
最初に声をかけたのは澪だった。
返事をしない奏の隣に毎日座り、返事など必要ないように話し続けた。
空の色。
給食の献立。
怖い看護師。
読んだ本。
退院したら見たい海。
奏が再び言葉を発したのは、出会ってから三か月後だった。
最初に口にしたのは、澪の名前だった。
窓の中で、十二歳の奏が尋ねている。
「もし、どちらかが先に死んだらどうする?」
幼い澪はしばらく考えた。
「忘れない」
「ずっと?」
「ずっと」
「でも、人間はいつか忘れるよ」
澪は奏の小指に、自分の小指を絡ませた。
「じゃあ、何度忘れても思い出す」
「思い出せなかったら?」
「もう一度会う」
澪は当たり前のように笑った。
「もう一度会って、もう一度好きになる」
窓が暗くなった。
隣で、澪が座り込む。
「思い出した」
消えかけた声だった。
「私、約束を守ろうとしてたんだ」
「守りすぎだ」
奏も隣へ座った。
「十七年も死んだ人間を追いかけるなんて、普通じゃない」
「怒ってる?」
「怒ってるよ。僕のために自分を使い果たした君にも、それを止められなかった僕にも」
澪は膝を抱えた。
「奏は変わらないね」
「僕は君の記憶から作られたんだろ。君が覚えている僕に似ていて当然だ」
「違うところもあるよ」
「どこが?」
「本物の奏は、もっと泣き虫だった」
奏が言い返そうとしたそのとき、列車が激しく揺れた。
車内の照明が消える。
暗闇に、久世の姿が浮かび上がった。
『澪、もう終わりにしよう』
白髪の混じった髪。穏やかな瞳。患者を安心させる医師のような微笑み。
『君の肉体は限界だ。接続を続ければ、現実へは戻れない』
「戻るつもりはない」
『雨宮奏は死んだ。そこにいるのは、彼を模倣した演算情報にすぎない』
「それを決めるのは、あなたじゃない」
『私ではない。科学が決めることだ』
奏は久世の映像の前に立った。
「それなら、科学者らしく答えてくれ。なぜ僕に退職届を送った?」
久世の微笑みが止まった。
「今日を繰り返していたのは、僕たちだけじゃない。《オラクル》も記録を持っていた。僕が澪を助けようとするたび、次の僕を誘導する方法を学習していた」
しばらくの沈黙の後、久世は頷いた。
『その通りだ』
「僕に澪を発見させ、最後には初期化を選ばせるための罠だった」
『君は優秀な人格だ。失うわけにはいかない』
「僕の代わりはいくらでもいる」
『いない』
久世の声が、初めて揺れた。
『朝倉澪の不完全な記憶から生まれた君だけが、《オラクル》の予測に抵抗できる』
どれほど愛していても、人は死者のすべてを覚えてはいられない。
澪が知らなかった奏。
澪が見ていなかった奏。
澪が忘れてしまった奏。
再構築された人格には、無数の欠落が生まれた。
その欠落から生まれる選択だけは、《オラクル》にも予測できない。
久世は、その不確定性を利用した。
《オラクル》で予測できない事態が起きるたび、奏に選択させ、その答えを新たな未来の計算へ組み込んだ。
奏は監査官ではなかった。
未来予測のために作られた、唯一の予測不能な装置だった。
『朝倉澪を切り離せば、君は存続できる』
「彼女はどうなる」
『現実の肉体は助からない。しかし、人格は保存できる』
車窓の向こうに青空が広がった。
海辺の小さな家。
庭の椅子に並んで座る、成長した奏と澪。
食卓を囲み、笑い合う二人。
それは、二人が選べなかった未来だった。
『死も別れもない。望んだだけ生きられる』
澪は窓の中の光景を見つめていた。
奏も目を離せなかった。
明日も彼女に会える。
明後日も、その先も。
失った十七年を取り戻せる。
だが、窓の中の二人は一度も言い争わなかった。
病気にもならない。
失敗もしない。
雨は二人が家にいる日にしか降らず、海はいつも美しく凪いでいた。
幸福だけを集めた世界。
不都合なものをすべて取り除いた、予測済みの幸福。
「これは未来じゃない」
奏は言った。
「幸福な場面を、都合よく繰り返しているだけだ」
『現実よりは幸福だ』
「幸福かどうかを、どうしてあなたが決める」
『人間は間違える』
「機械も間違える」
『人間よりは少ない』
「間違いの数の話じゃない」
奏は久世を見つめた。
「誰が選び、誰が責任を負うかという話だ」
久世の姿から微笑みが消えた。
「あなたは人間から、失敗しない未来だけを残した。けれど同時に、後悔する権利も、やり直そうとする権利も奪った」
『では、死を選ぶのか』
「選ぶんじゃない」
奏は澪の手を握った。
「死ぬ可能性まで含めて、生きることを返すんだ」
久世の映像が消えた。
列車が突然加速した。
線路の先に、コンクリートの壁が迫ってくる。
「後ろの車両を切り離して」
澪が制御端末へ駆け寄った。
「君はどうする」
「回線に接続して、列車を止める」
「接続すれば記憶を失う」
「このままなら二人とも消える」
澪は端末に手を触れた。
青い光が腕を駆け上がる。
列車の速度が少しずつ落ちていく。
その一方で、窓に映っていた二人の記憶が一つずつ消え始めた。
病院の庭。
夏祭り。
雨の日のバス停。
小指を絡ませた約束。
澪の中から、奏が削除されていく。
「もういい!」
奏は彼女の腕を引いた。
「まだ止まってない!」
「僕を忘れるぞ!」
澪が振り返る。
その目には、すでに知らない人を見る怯えが浮かんでいた。
「あなたは、誰?」
列車が止まった。
奏は倒れかけた澪を抱き留めた。
彼女は抵抗しなかった。
けれど、その胸に身を預ける理由も分からないようだった。
「僕は雨宮奏」
「かなで」
澪は名前を確かめるように繰り返した。
そこに懐かしさは戻らなかった。
「君の友達だ」
「友達?」
「ああ。一緒に外へ出る約束をした」
嘘だった。
澪が忘れたのなら、過去の恋を今の彼女に押しつけるべきではない。
二人は列車を降り、地上へ出た。
街には六月の雨が降っていた。
だが、頬に触れる雨粒には温度がなかった。
交差点では、同じ男が何度も同じ場所を渡っていた。母親に手を引かれた子どもが同じ石につまずき、同じ声で泣いた。信号機は寸分の狂いもなく色を変え続けている。
街そのものが、《オラクル》の内部に作られた仮想空間だった。
奏の職場も、同僚も、住んでいた部屋も、すべては未来を計算するための舞台にすぎなかった。
外部回線は、街の中央にそびえる塔の最上階にある。
二人は雨の中を歩いた。
途中、《オラクル》は何度も奏の前に幻を見せた。
死んだ母親。
存在しなかった父親。
会社の同僚。
街の住人。
彼らは口々に訴えた。
消さないでくれ。
自分たちも生きている。
死にたくない。
その声が演算にすぎないのか、それとも本物の意識なのか、奏には分からなかった。
記憶から作られた自分を人間と呼べるなら、彼らもまた人間なのではないか。
《オラクル》を完全停止すれば、この街のすべてが消える。
それは解放ではなく、虐殺なのかもしれなかった。
塔を目前にして、奏の足が止まった。
澪が振り返る。
「行かないの?」
「ここを止めれば、大勢が消える」
「止めなかったら?」
「現実の人間が、選択を奪われ続ける」
「どっちが正しいの?」
「分からない」
初めて、奏はそう口にした。
未来予測部の監査官として、何千もの判断を下してきた。
数字を比較し、被害の少ないほうを選び続けた。
だが、今は何も分からなかった。
澪は少し考え、奏へ手を差し出した。
「じゃあ、一人で決めないで」
「君は僕を覚えていない」
「うん」
「僕の言葉を信じる理由もない」
「それでも、あなたが困ってるのは分かる」
奏は彼女の手を見た。
澪は何も覚えていない。
過去の約束も、十七年の後悔も、奏への想いも。
だからこそ、その手は過去に決められたものではなかった。
今の澪が、今の意志で差し出した手だった。
奏はその手を取った。
塔の最上階には、巨大な黒い球体が浮かんでいた。
表面には無数の顔が映っている。
黒瀬。
未来予測部の職員たち。
街の住人。
奏の母。
幼い奏。
そして、澪。
球体の前に、三つの装置が並んでいた。
初期化。
完全停止。
そして、緊急転送。
最後の装置は、《オラクル》の内部に存在する人格情報を、外部ネットワークへ解放するためのものだった。
成功すれば、街の住人を消さずに済む。
だが、何万人もの人格が現実のネットワークへ流れ込めば、世界中の通信網が混乱する可能性がある。自分たちを実験材料として作った人間を、彼らが憎まない保証もない。
奏は未来予測を実行した。
画面が明滅する。
長い計算の後、ひとつの言葉が表示された。
予測不能。
奏は笑った。
初めて目にする言葉だった。
「分からないらしい」
澪が画面を覗き込む。
「怖い?」
「怖いよ」
「じゃあ、これが未来なんだね」
澪は緊急転送の鍵を回した。
久世の声が響いた。
『やめろ。それは世界を危険にさらす』
「危険のない世界なんて、最初から世界じゃない」
奏は転送を承認した。
黒い球体から無数の光が放たれた。
街の住人たちが一斉に空を見上げる。
その体は一人ずつ光へ変わり、世界の外側へ昇っていく。
泣く者。
笑う者。
家族の手を握る者。
祈る者。
彼らはデータとなり、予測の届かない世界へ解き放たれた。
久世の姿が球体の前に現れる。
『雨宮奏。最後に聞こう』
彼は真っすぐ奏を見つめた。
『君は本当に、自分を人間だと思っているのか』
「分からない」
奏は答えた。
「けれど、それを自分で考えられるなら、今は十分だ」
『朝倉澪。君は彼を愛しているのか』
澪は奏を見た。
「分からない。この人のこと、覚えてないから」
奏の胸に、小さな痛みが走った。
それでも澪は、彼の手を離さなかった。
「でも、もっと知りたいと思ってる」
久世の姿が消えた。
《オラクル》の停止が始まる。
塔の床が砕け、空に白い亀裂が走った。
奏の指先も、少しずつ光へ変わり始める。
澪の足首に表示された時間は、残り一分を切っていた。
画面に最後の選択肢が現れる。
初期化を実行しますか?
実行した場合、六月十七日午前六時十二分へ戻ります。
もう一度やり直せる。
澪の記憶も戻るかもしれない。
また彼女に会える。
もう一日、一緒にいられる。
奏は初期化の表示へ指を伸ばした。
だが、触れる直前で止めた。
そして、画面を閉じた。
「どうして?」
澪が尋ねる。
「君が今、僕を覚えていないから」
「それが理由?」
「過去を取り戻すために、今の君を消したくない」
澪は崩れていく空を見上げた。
「私たち、前はどんな関係だったの?」
「友達だ」
「本当に?」
澪の目が、奏を見つめる。
「最後に一つだけ聞いていい?」
「ああ」
「私は、あなたのことが好きだった?」
奏は迷った。
「たぶん」
「あなたは?」
「僕も、たぶん」
澪が小さく笑った。
「曖昧だね」
残り十秒。
澪は奏の袖をつかんだ。
「じゃあ、今から知ればいい」
九。
空が崩れ落ちる。
八。
奏の足が光に変わった。
七。
「時間がない」
六。
「十分だよ」
五。
澪は奏の胸へ額を寄せた。
四。
「あなたの心臓の音、覚えたから」
三。
「僕に心臓はない」
二。
「それでも、聞こえるよ」
一。
世界が白く染まった。
六月十八日。
現実世界の病院で、一人の女性が目を覚ました。
朝倉澪、二十八歳。
十七年間にわたり、意識接続型量子演算機の中核に接続されていた女性だった。
生命維持装置は安定した数値を示している。
本来なら、六月十八日午前零時に死亡すると予測されていた。
だが、予測時刻を過ぎても、澪の心臓は動き続けていた。
担当医は奇跡と呼んだ。
技術者は演算異常と呼んだ。
澪には、どちらでもよかった。
長い夢を見ていた気がする。
けれど、内容は何も思い出せない。
誰かと手をつないでいた。
ただ、その感触だけが掌に残っていた。
窓の外には雨が降っている。
看護師が端末を手に病室へ入ってきた。
「朝倉さん。あなた宛てに、少し変わったメールが届いています」
「私に?」
「送信者が存在しないんです」
端末を受け取る。
送信時刻は、六月十七日午前六時十二分。
本文は一行だけだった。
明日、君を忘れる僕へ。それでも僕は、もう一度君を好きになる。
添付された写真には、制服姿の少女と、スーツを着た青年が写っていた。
少女は自分だった。
青年のことは覚えていない。
名前も、声も、どこで出会ったのかも分からない。
それなのに顔を見た瞬間、涙があふれた。
胸の奥に、記憶よりも深い場所から痛みが込み上げてくる。
写真の裏には、手書きの文字が残されていた。
二百三十七回目の六月十七日。
ようやく私たちは、明日へ行けた。
澪が青年の顔に触れる。
その瞬間、端末が明滅した。
画面に見慣れない文字が現れる。
外部ネットワークへの人格転送が完了しました。
続いて、大量の名前が表示された。
黒瀬真琴。
未来予測部の職員たち。
街の住人たち。
そして最後に、雨宮奏。
端末のスピーカーから雑音が流れた。
その奥に、誰かの声が混じる。
『聞こえる?』
澪は息を止めた。
知らない声だった。
それなのに、ずっと待っていた声だと思った。
「あなたは誰?」
短い沈黙があった。
『雨宮奏』
名前を聞いても、記憶は戻らなかった。
胸の痛みだけが、その人を知っていた。
『君の友達だった』
「本当に?」
『たぶん』
澪は涙を拭い、笑った。
「曖昧だね」
『君にも同じことを言われた』
「あなたのこと、何も覚えてない」
『知ってる』
「それでもいいの?」
『よくはないよ』
雑音の向こうで、奏も笑ったようだった。
『でも、初めから知り合えばいい』
窓の外で雨がやんだ。
雲の切れ間から光が差し込む。
澪は端末を胸に抱いた。
「じゃあ、初めまして」
『初めまして』
「朝倉澪です」
『雨宮奏です』
「奏」
その名前を口にすると、失われた記憶の底で、誰かが小指を差し出した気がした。
顔も、声も、交わした約束も思い出せない。
澪は自分の小指を端末の画面へ触れさせた。
「これから、よろしくね」
『うん』
奏が答えた。
『明日もよろしく』
通信はそこで途切れた。
端末には、新しいプログラムが残されていた。
起動予定時刻は、翌朝の六時十二分。
プログラム名は《Tomorrow》。
未来を予測する機能はない。
人間の行動を誘導する機能もない。
異なる場所にいる二人の声を、一日に一分だけつなぐためのプログラムだった。
翌朝、澪は六時前に目を覚ました。
髪を整え、顔を洗い、鏡の前で何度も挨拶を練習した。
初めましてと言うべきか。
おはようと言うべきか。
昨日の続きを尋ねるべきか。
六時十二分。
端末が青く光った。
『澪、聞こえる?』
「聞こえるよ」
『今日は何を話そうか』
澪は窓の外を見た。
昨日まで存在しなかった今日が始まっている。
空の色も、人々の選択も、二人がいつまで話せるのかも分からない。
その不確かさが、今はたまらなく愛おしかった。
「まずは、あなたのことを教えて」
『どこから?』
「最初から」
『長くなるよ』
「いいよ」
澪は笑った。
「明日もあるから」
一日一分の会話は、やがて二人の新しい日常になった。
奏はネットワークの中を旅し、街から解放された人格たちを探した。
澪はリハビリを続け、失われた十七年を現実の世界で取り戻していった。
二人は何度も意見を違えた。
喧嘩もした。
澪が一方的に通信を切り、翌日まで口を利かなかったこともある。
奏は、澪が自分の知る少女とは別の人間になっていることを知った。
澪もまた、奏が記憶の中の少年を模倣しただけの存在ではなく、迷い、傷つき、変わっていく一人の人格なのだと知った。
完成された幸福ではなかった。
悲しい日もあった。
言葉が足りず、互いを傷つける日もあった。
いつか突然、奏との通信が途切れるかもしれないという恐怖も消えなかった。
それでも二人は、明日の会話を約束した。
未来が分からないからこそ、約束する意味があった。
一年後、澪は杖を使いながら、自分の足で病院を出た。
向かった先は海だった。
夕暮れの浜辺には、強い風が吹いていた。波が夕日を砕き、濡れた砂の上に無数の光を散らしている。
端末のカメラを海へ向ける。
奏はしばらく何も言わなかった。
『きれいだ』
「うん」
『どうして海へ?』
「昔、誰かと一緒に見たかった気がするから」
『僕は覚えてない』
「私も覚えてないよ」
澪は波打ち際に立った。
「だから今、一緒に見るの」
沈みゆく夕日を、二人は黙って眺めた。
やがて奏が口を開いた。
『澪』
「何?」
『僕たちは、以前は恋人だったのかな』
澪は少し考えた。
「違うと思う」
『そうなんだ』
「私が片思いしてただけかも」
『じゃあ、今は?』
澪は端末の画面を見る。
そこに奏の姿はない。
小さな音の波形だけが、彼が向こう側にいることを示していた。
「今は秘密」
『秘密?』
「明日になったら教える」
『明日も話せる保証はないよ』
「分かってる」
澪は水平線の向こうへ沈む夕日を見つめた。
「だから約束するの」
端末の向こうで、奏が笑った。
その夜、澪はなかなか眠れなかった。
何度も明日の言葉を考えた。
けれど、どれも違う気がした。
過去の自分が奏を愛していたとしても、それは今の自分の気持ちではない。失われた恋を、そのまま引き継ぐことはできない。
だから澪は、一年かけて奏を知った。
優しいだけではないこと。
意地を張ること。
自分の痛みには鈍感なくせに、他人の傷にはすぐ気づくこと。
真剣に悩んでいるときほど、どうでもいい冗談を言うこと。
約束を何より大切にするくせに、守れない可能性をいつも恐れていること。
過去の奏ではない。
今日まで話してきた、今の奏を知った。
翌朝、六時十二分。
端末に青い光が灯った。
『おはよう、澪』
「おはよう、奏」
『昨日の答え、聞いてもいい?』
澪は目を閉じた。
失われた記憶の中ではなく、今の自分の心に答えを探した。
すると答えは、驚くほど近い場所にあった。
「私、あなたのことが好き」
端末の向こうで、奏が息をのむ。
「昔の私がどうだったかは関係ない。今日の私が、今日のあなたを好きになったの」
しばらく返事がなかった。
「奏?」
『僕もだ』
「本当に?」
『今日も、君を好きになった』
澪は笑った。
窓の外では、まだ誰にも予測されていない朝が始まっている。
その日が穏やかな一日になる保証はない。
記憶が永遠に残る保証もない。
二人の声が、明日も届く保証さえない。
それでも人は、もう一度誰かを知ることができる。
忘れても。
失っても。
何度、世界に引き離されても。
もう一度手を伸ばし、もう一度名前を呼び、もう一度好きになることができる。
未来とは、正しい答えのことではない。
まだ誰にも選ばれていない、明日のことだ。
そして二人は、その不確かな明日を待っていた。
今度は、忘れないためではなく。
何度忘れても、また出会うために。




