第四章 残されたもの
女性が来なくなってから、教会は以前よりも静かになった。
人の気配が消えたのではない。期待だけが抜け落ちたのだと、私は思った。
祈りの時間は変わらない。
床の冷たさも、光の入り方も同じだ。だが、身体のどこかに残っていた張りが、ゆっくりと解けていくのを感じていた。
私は考えないようにしていた。
あの数歩が、何だったのかを。
答えを出すことは簡単だ。
医学的説明はいくらでもある。偶然、錯覚、一時的な回復。どれも間違いではない。だが、それらはすべて「説明」であって、「意味」ではなかった。
意味を考え始めると、祈りが変質する。
祈りが分析になった瞬間、それはもう祈りではない。
数日後、女性から手紙が届いた。
短い文だった。
礼を述べ、葬儀が無事に終わったこと、親族が集まり、穏やかな時間を過ごせたことが書かれていた。最後に、こうあった。
「歩いたあの日のことを、私は何度も思い出しています。あれがなければ、きっと耐えられなかったと思います」
私は手紙を閉じ、机の上に置いた。
感謝の言葉は、受け取る側を慎重にさせる。喜べば傲慢になり、否定すれば残酷になる。
あれは、希望だったのだろうか。
もし希望だったのだとしたら、なぜ続かなかったのか。
もし希望ではなかったのだとしたら、なぜ与えられたのか。
問いは、祈りの形をしていなかった。
その日の夕方、青年が久しぶりに姿を見せた。
以前よりも痩せていたが、足取りは迷っていなかった。
「ここに来ると、少し考えすぎる気がして」
彼はそう言って、苦笑した。
「でも、今日は来たほうがいいと思いました」
私はうなずいた。
理由を聞く必要はなかった。
彼は椅子に座り、しばらく黙っていた。
沈黙の質が、以前と違っていた。
「噂を聞きました」
彼は言った。
「歩いた人がいたって」
私は答えなかった。
否定も肯定もしない。
「奇跡、だったんですか」
問いは、軽かった。
重くなりすぎないよう、注意して投げられた言葉だった。
「分かりません」
私はそう言った。
それが、今の私に言えるすべてだった。
青年は少し考え、うなずいた。
「そうですよね。分からないほうが、正しい気がします」
その言葉に、私は微かな違和感を覚えた。
正しさが、ここでも顔を出していた。
「でも」と青年は続けた。「あれがあったから、救われた人はいますよね」
私は答えなかった。
救いの定義は、人の数だけある。
「母は、最後まで目を覚ましませんでした」
彼は淡々と話した。
「でも、あの人は歩いた。少しでも」
私は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
比較が始まっている。
誰も望んでいないのに、祈りは並べられる。
奇跡は、起きなかった人の隣に置かれる。
「差があるように見えますか」
私は静かに尋ねた。
青年は首を振った。
「いいえ。見えません。ただ……」
言葉が止まった。
「もし、あれが希望なら、持てなかった人は、どうすればいいんでしょう」
私は何も言えなかった。
この問いに答える言葉を、私は持っていなかった。
夜、私は一人で教会に残った。
蝋燭に火をつけなかった。
暗闇の中で、私は考えた。
あの数歩は、救いだったのか。
それとも、救いに似た何かだったのか。
希望は、人を生かす。
同時に、人を選別する。
神が与えたのが希望だったとすれば、
神は、与えなかった者の絶望も、同時に許したことになる。
それでも、誰も悪くない。
女性も、青年も、神も。
悪が存在しない場所では、
痛みは理由を持てない。
私は膝をついた。
祈りの姿勢をとった。
言葉は出なかった。
出てきたのは、理解だけだった。
希望は、必ずしも救いではない。
救いに見えるものほど、人を孤独にすることがある。
その夜、私は祈らなかった。
祈りの形を保ったまま、何も願わなかった。
沈黙は、神のものではなかった。
それを引き受けていたのは、私だった。
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