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第三章 しるしの形

 春が来た。

 それは教会の暦よりも、先に身体が知った。床の冷たさがわずかに和らぎ、祈りの途中で指先が痺れなくなった。季節が変わるだけで、人は理由もなく許された気分になる。


 青年は来なくなった。

 信仰をやめないと言った言葉は、嘘ではなかったのだろう。ただ、ここに来る必要がなくなっただけだ。祈りの場所は、必ずしも建物である必要はない。


 その日の午後、一人の女性が教会を訪ねてきた。

 年齢は私より少し上に見えた。背筋が伸び、声は落ち着いている。迷い込んだ人間の歩き方ではなかった。


「少し、お話をしてもいいでしょうか」


 私はうなずき、椅子を勧めた。

 彼女は座る前に、一度だけ祭壇を見た。その目には、期待よりも確認の色があった。


「夫が病気です」


 彼女は簡潔に言った。

 病名も、経過も、細かくは語らなかった。ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


「医師からは、もう難しいと言われています」


 その言葉のあとに来る沈黙を、私は知っている。

 多くの場合、それは願いに変わる。


「でも、少し前から、容体が安定しているんです」


 私は顔を上げた。

 彼女の声は揺れていなかった。報告だった。


「食事も取れるようになって、昨日は、私の名前を呼びました」


 それは、小さな出来事だ。

 奇跡と呼ぶには、あまりに控えめだ。


 だが、人はその程度の変化で、十分に救いを感じてしまう。


「祈っています」と彼女は言った。「特別なことはしていません。ただ、毎日」


 私はうなずいた。

 特別でない祈りほど、強い。


「もしかしたら」と彼女は続けた。「神が、答えてくださっているのかもしれない、と思って」


 その言葉は慎重だった。

 断言ではない。期待でもない。


 それでも、私は胸の奥で、久しぶりに軽い動きを感じた。

 希望は、音を立てずに入り込む。


「可能性はあります」


 私はそう言った。

 それ以上も、それ以下も言わなかった。


 女性は深く息を吐いた。

 それは祈りの終わりに似ていた。


 彼女が帰ったあと、私は教会に残った。

 掃除をし、蝋燭を整え、窓を開けた。


 風が入り、布が揺れた。

 祭壇の上の布が、ほんのわずかに持ち上がる。


 私は動きを止めた。

 第一章で感じた、あの予感が、再び胸に触れた。


 何かが、起こるかもしれない。

 そう思ってしまった自分に、私は驚いた。


 祈りの姿勢をとる。

 言葉は選ばない。


 このとき私は、具体的な願いを持っていた。

 女性の夫が回復すること。

 それによって、彼女が救われること。

 そして――

 私自身が、沈黙以外のものを受け取ること。


 それは正しい願いではなかった。

 だが、罪とも言えなかった。


 数日後、女性は再び来た。

 表情は、明らかに明るかった。


「歩いたんです」


 私は思わず立ち上がった。

 彼女は微笑んだ。涙はなかった。


「ほんの数歩です。でも、確かに」


 私は何も言えなかった。

 言葉は、遅れてくるべきだった。


「医師も驚いていました。理由は分からないそうです」


 理由が分からない。

 その言葉は、奇跡に最も近い説明だった。


 私はうなずいた。

 否定する理由はなかった。


 その夜、教会は久しぶりに満たされていた。

 人ではない。空気が。


 祈りの時間、私は炎を見つめた。

 蝋燭は揺れていた。確かに。


 風はない。

 窓も閉まっている。


 私は息を止めた。

 炎は、一度、大きくなった。


 胸が、わずかに熱くなる。

 これが、しるしなのかもしれないと思った。


 次の瞬間、炎は音もなく消えた。


 芯が折れたのだと、すぐに分かった。

 奇跡ではない。構造の問題だ。


 私は新しい蝋燭を取り出さなかった。

 そのまま、暗闇の中に立った。


 翌日、女性は来なかった。

 その次の日も。


 三日目の朝、電話が鳴った。

 簡潔な連絡だった。


 夜中、容体が急変した。

 医師は手を尽くした。

 苦しまずに逝った。


 私は受話器を置き、しばらく動けなかった。

 驚きはなかった。失望もなかった。


 ただ、理解だけがあった。

 希望が近づいたときほど、終わりは静かだ。


 午後、女性が教会に来た。

 喪服ではなかった。


「ありがとうございました」


 彼女はそう言った。

 第一章の青年と、同じ言葉だった。


「最後に、歩いてくれたんです。それで、十分でした」


 私は何も言えなかった。

 救われたのは、誰なのか。


 彼女が去ったあと、私は一人で祭壇に向かった。

 膝をつき、頭を下げた。


 神は、何も語らなかった。

 否定も、肯定も。


 奇跡は、起きたように見えた。

 だが、結果は変わらなかった。


 私はその夜、はじめて思った。

 神が沈黙しているのではない。


 答えが、最初から用意されていないのかもしれない。


 その考えを、私は祈りの中に押し戻した。

 まだ、終わらせるには早すぎた。

ありがとうございました。

感想をいただけるとありがたいです。

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