薄くなる雲
家に着くころには、空の雲が少しだけ薄くなっていた。
風はまだ冷たいのに、さっきまでみたいな荒れた感じはない。
さっきまで胸の中で吹き荒れていたものも、少しだけ静まっている気がした。
……だからって、何かが解決したわけじゃないけど。
家のドアを開ける。
靴を脱ぐと、リビングからテレビの音が流れてくる。
いつもと同じ時間、いつもと同じ音。
「おかえり」
母さんの声。
「……ただいま」
自分の声が、やけに普通で、少し安心する。
テーブルには夕飯の匂い。
父さんがニュースを見ながら「手洗えよ」とだけ言う。
それだけのやり取り。
深い話なんて何もない。
でもその“何もなさ”が、なぜか胸の奥に引っかかった。
特別仲がいいわけじゃない。
なんでも話せる家族、ってほどでもない。
けど。
嫌いじゃないし、たぶん人並みには大切だと思う。
こういう、何も起きない時間は。
なくなったら困る気がする。
「部屋戻るわ」
階段を上がり、自室のドアを閉める。
家の音が遠くなって、ようやく息が深くなる。
机にスマホを置いたとき、画面が光った。
──あいつからだ。
『明日も会いたい』
短い一文。
その文字を見た瞬間、
一瞬だけ、呼吸の仕方が分からなくなった。
胸がぎゅっと締まる。
息を吸おうとして、浅く喉が鳴る。
嬉しいのか怖いのか、自分でも分からない。
画面を閉じて、天井を見る。
……いっそ、手放してくれたら。
そしたら期待もしなくて済むのに。
傷つく前に終われるのに。
それでも。
ほんの少しだけ――
嬉しいと思ってしまった自分がいる。
それが一番、怖かった。
⸻
送信ボタンを押したあと、手のひらが汗ばんでいるのに気づく。
昨日の今日で誘うのは正解じゃないかもしれない。
それでも、時間を空けるほうが怖かった。
あいつはきっと、放っておいたら自分から距離を取る。
だから。
今はしつこくてもいい。
嫌われてもいい。
問題はそこじゃない。
「……俺、どうすりゃいいんだよ」
ベッドに倒れ込みながら呟く。
励ます?
無理に笑わせる?
何も聞かないで普通にする?
違う気がする。
あいつはたぶん、
優しくされることにも慣れてないし、
信じることにも慣れてない。
じゃあ俺は?
ただ隣にいるだけでいいのか。
でも、それで救えるのか。
考えても答えは出ない。
それでも一つだけ分かるのは、
離れるって選択肢だけは、絶対にないってことだった。
⸻
朝、目が覚めてもすぐには起き上がれなかった。
天井を見つめたまま、昨日のやり取りを何度も思い返す。
どうすればいいのか、結局なにも分からなかった。
励ますのが正解なのか
何も聞かないのが正解なのか
ただ笑わせるのがいいのか
考えたって答えは出ない。
でも一つだけ、頭から離れない考えがあった。
もしかしたら。
あいつはもう――
今の関係を、静かに終わらせようとしてるんじゃないか。
昨日の立ち上がりかけた背中が、やけに遠く感じた。
あのまま止めなかったら、
あいつは本当に、いなくなってた気がする。
怖い。
間違えたら、きっと終わる。
でも。
何もしない方が終わる可能性の方が、もっと高い。
布団の中で小さく息を吐く。
「……だったら、間違えながらでいい」
完璧な言葉なんて出てこない。
正しい距離感も分からない。
それでも。
今日も会いに行くってことだけは、もう決めていた。
⸻
待ち合わせ場所に立っている湊を見た瞬間、胸が少しだけ締まった。
昨日よりは普通に見える。
でも、どこか力が抜けきっていない。
目の奥の疲れが消えていない気がした。
……まだ引きずってるよな、昨日のこと。
当たり前だ。
一晩で軽くなるような話じゃない。
俺はただ、側にいるだけでいい。
特別なことなんてできなくていい。
気の利いた言葉なんて言えなくていい。
無理に救おうとしなくていい。
ただ、いつも通りでいればいいんだ。
そう自分に言い聞かせてから、口を開いた。
「昨日さ、ポテトL頼んだらバケツみたいなの出てきてさ」
湊が少し呆れた声で返す。
「それお前がサイズ見間違えただけだろ」
「いや絶対店側の罠!」
真顔で言い張った、そのとき。
「ははっ……」
隣から、軽い笑い声がこぼれた。
一瞬、時間が止まった気がした。
横を見る。
あいつが、驚いたみたいに自分の口元を触っている。
作った顔じゃなかった。
無理に作った笑いじゃなかった。
昨日見たあの表情とは、まるで違っていた。
気づいたら出てしまった、みたいな笑顔だった。
胸の奥がじんわり熱くなる。
(……今の、ほんものだ)
壊れかけた顔じゃない。
ちゃんと、生きてる顔だった。
正解かどうかなんて分からない。
でも。
まだ隣にいていい理由には、十分すぎた。
⸻
さっきの笑いが、まだ胸の奥に残っている。
楽しかった、のかもしれない。
そんなことを思っている自分に戸惑う。
胸の奥の暗闇に、
ほんの一瞬だけ光が差した気がした。
でも、それを認めるのはまだ怖い。
失う痛みを、もう知っているから。
それでも。
少しだけ前を歩くあいつの背中を見ながら、思う。
これから僕は――
どうなってしまうのだろうか。




