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大雨

気づけば雨が降り出していた。


さっきまでただ重たいだけだった雲が、限界を迎えたみたいに静かに崩れていく。


この空みたいに生きられたら、どれだけ楽なんだろう。


カフェの中はぬるい空気に満ちていた。

コーヒーの匂いと、食器の触れ合う音と、誰かの笑い声。


その全部が、薄いガラス越しみたいに遠い。


向かいに座るあいつは、何も言わずにこっちを見ている。


さっきまでの言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。


――俺の前では無理して笑わなくていいのに。


違う。

違うんだよ。


そんな簡単な話じゃない。


僕はストローで氷を回す。

溶けかけた氷が、カラン、と小さな音を立てた。


「……僕さ」


言ったら終わる気がした。

でも、もう飲み込めなかった。


「昔は、結構いいやつだったんだと思う」


あいつは黙ったまま、視線だけで続きを待つ。


「頼まれたら断れなくてさ。係とか雑用とか、めんどいの全部引き受けてた」


断れないんじゃない。

断らなかったんだ。必要とされてる気がして、それが嬉しかったから。


「宿題見せたり、ノート貸したり。

そうすると、みんな笑ってくれたから」


みんなの笑顔が、ただ嬉しかった。


笑われてたんじゃなくて、笑わせてたんだって。

僕はちゃんと、ここにいていいんだって。


「それだけが、僕がここにいていい理由で、僕にしかできないことだと思ってた」


あの頃は、本気で信じてたんだ。


「でもある日、聞いちゃったんだよ」


喉がひりつく。


「忘れ物取りに戻ったら、教室で僕の話してて」


最初は、自分のことだと思わなかった。


「うざい、とか。便利だから使ってるだけ、とかさ」


その言葉が、自分に向いてるって気づくまで、少し時間がかかった。


理解した瞬間、音が遠くなった。


笑い声が、壁の向こうの出来事みたいにぼやけていく。

足元がふわっと浮いた気がした。

なぜだか急に吐き気がして、息がうまくできなくなった。


教室の景色が、急に知らない場所みたいに見えた。


僕の世界は、音もなく崩れ去った。


「そのときさ、教室にいられなくなって」


どうやって廊下を歩いたのか覚えてない。

気づいたら外にいた。


冷たい空気を吸っても、胸の気持ち悪さは消えなかった。


「次の日教室行ったら、もうダメだった」


「ダメって…」


あいつの声が遠い。


「みんなが笑ってるだけで、僕のこと笑ってる気がして」


視線が刺さる気がした。

誰も見てないのに。

でも、どこを見ても“あの続き”が聞こえてくる気がした。


教室の色が、少しずつ抜け落ちていくみたいだった。

そこにいるのに、自分だけ別の場所にいるみたいに。


「誰も見てないのに。

でもずっと気持ち悪くて」


胸の奥が、ずっとざらざらしてる。


あの場所に立っているだけで、呼吸が浅くなっていった。


気づいたときには、世界はすっかり黒く染まっていた。


「その顔やめてくれよって、ずっと思ってた」


言葉が途切れる。


カフェのざわめきが、遠くの世界みたいに聞こえた。

雨音だけが、やけに近い。


僕は視線を落としたまま、空になったグラスをテーブルの端に寄せる。


もう無理だ、と思った。


これ以上ここにいたら、余計なところまで喋ってしまいそうだった。


椅子を引く。


「……帰るわ」


立ち上がりかけた、そのとき。


「……じゃあさ」


あいつの声が、静かに続いた。


「なんでその時、俺に言ってくれなかったんだよ」


動きが止まる。


「一人で抱え込んで、勝手に限界までいってさ」


責めているわけじゃないのに、胸の奥に刺さる。


「俺にも支えさせてくれよ」


雨が強く窓を叩く。


僕は立ったまま、動けなくなった。


顔を上げると、あいつの顔が濡れているように見えた。


それが雨のせいなのかは、わからなかった。


湊の過去に迫る話です。今後の展開で非常に重要な内容になっているので読んでいただけると幸いです。

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