落ちた太陽
「……今日、帰り遅いな」
その言葉は、静かな家の中に溶けていった。 ざわざわと胸の奥で騒ぎ出した嫌な予感を振り払うように、僕は逃げるようにテレビのリモコンを押した。
明るい光と共に、無機質なスタジオが映し出される。 アナウンサーが淡々と、どこか遠い場所の出来事を語るようなトーンで、速報を読み上げていた。
『――本日午後6時ごろ、市内の路上で……』
聞き覚えのある地名。見慣れた交差点。 画面の端に出た、数枚の写真。
心臓の音が、耳元でうるさく鳴り始める。
「え……?」
テレビの中の人は、僕の苗字を呼んでいた。 僕がよく知っている、二人の名前を呼んでいた。
『――搬送先の病院で、両親の死亡が確認されました』
「……しぼう?」
何を、言っているんだ。 死亡って、誰が。
「……あれ。おかしいな。耳がおかしくなったのかな。……変な音が聞こえる」
乾いた笑いが漏れた。 何も感じない。何もない。 色も、音も、匂いも。 さっきまで世界はあんなに色づいていたはずなのに、今はただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いてしまった。
そこから、僕を形作っていた何かが、音もなく零れ落ちていく。
凶器、動機、殺害――。 そんな単語の羅列が、僕の家の中に、生活の中に、土足で踏み込んでくる。
さっきまで感じていた、あの「小さな光」は何だったんだろう。 あいつが隣で笑っていた、あの温かさは何だったんだろう。
世界は、こんなにも簡単に、一瞬で終わる。 僕がどれだけ必死に「普通」を装っても、社会という巨大なコンクリートは、僕の頭の上から容赦なく流し込まれてくる。
……もう、いい。
気がつくと、僕は外にいた。 靴をちゃんと履いたのかも、鍵をかけたのかも覚えていない。 ただ、頬に当たる夜風がひどく冷たくて、それが心地よかった。
街の灯りは、吐き気がするほど明るかった。 スマホの画面の向こうでは、誰かがこの事件を「悲惨だね」と一行で片付け、次の瞬間には別のニュースに笑い転げている。 誰も僕のことなんて見ていない。誰も、本当の痛みなんて知りもしない。
あいつだって、そうだ。 今まで僕にくれた言葉も、隣にいてくれた時間も。
「……ああ、そうだよな。どうせ優しく見えたって、人は偽善で、自分の都合で簡単に人を傷つける」
信じるから、裏切られたときに壊れるんだ。 期待するから、失ったときに息ができなくなる。
「……裏切られるなら、あんな光、最初からいらなかった。消えろよ、全部」
僕は思わず呟いた。 願うから苦しいんだ。 だったら、最初から全部いらなかった。
「……もう、いい」
視界の端で、絶え間なく流れていく光の列が見えた。 アスファルトを濡らす街灯の反射が、一本の川みたいに揺れている。
「……ああ、なんだ。こんなに近くに、救いの光がたくさんあったんだ」
その輝きに誘われるように、僕は境界線を越えて、ゆるやかに「川」の中へと足を踏み入れた。 この泥のような重さから、やっと解放される。
――あぁ、眩しい。
やっと、見つけた。 僕をこの世界から連れ出してくれる、本物の救いの光。
その瞬間、誰かが僕の名前を叫んだような気がした。 僕の身体が、横から何かに大きく突き動かされたような感覚。
……でも、もう、そんなことはどうでもよかった。
突然視界を埋め尽くした二つの大きな太陽が、僕のすべてを白く塗りつぶしていった。




