せめて、淑女らしく~お飾りの妻だと思っていました
本作品は「幸せは自分次第」(https://ncode.syosetu.com/n3052jn/)のスピンオフですが、単体でもお読み頂けます。
「最初に言っておく。俺の愛を求めるようなことはしないで欲しい」
リュシエンヌは淑女である。
だから怒りを面に出すようなことはしない。例え本日顔を合わせたばかりの見合い相手から、失礼極まりない発言をされたとしても。
「つまりオーバン様は、ご自分の愛には大層価値があると仰りたいのですね。私がそれを、はしたなく恋い願う程に」
こういうときは一言だけ返せばいい。そう、蜂の一刺しの如く。
目の前の男がわずかにその整った眉を顰めた。そんな表情でも、その美しさは少しも損なわれないところが小憎らしい。
――オーバン・ルヴァリエ伯爵。
ルヴァリエ侯爵家の三男で、従属爵位の一つである子爵位を継いでいたが功績により陞爵したばかり。
その優秀さは学院時代から有名。一度たりとも首席から落ちたことはなく、卒業論文で教師陣を唸らせたという。卒業後は文官となり宰相補佐室に勤めているが、数々の功績により次期宰相候補の筆頭とすら囁かれている。
さらには長身で眉目秀麗、人当たりが良く会話術にも長ける。夜会に出ようものなら、ご婦人たちの熱い視線を一身に集めてしまうらしい。
むしろ何を持ち得ないのか?というくらいである。
これほどの器量の持ち主、かつ将来有望な青年なのだから愛人の一人や二人、いや四、五人いたっておかしくはない。
実際、社交界ではどこぞの侯爵夫人の愛人だとか第三王女殿下と密かに恋仲だとか、そんな噂がまことしやかに囁かれていた。噂を全て鵜呑みにするほどリュシエンヌは浅慮ではないけれど、火のない所には何とやらである。
次の言葉は「俺には真に愛する人がいる」あるいは「傷物令嬢など願い下げだ。お前などお飾りに過ぎない」だろうか?などと考えていたリュシエンヌだったが。
「いや、済まない。言い方が悪かったな。君を愚弄するつもりはなかったんだ。ええと、人の思考には容量という物があるだろう?」
次に発せられた言葉には少々呆気に取られてしまった。
(なに言ってるのかしら、この男)
などという感情は勿論、顔には出さない。淑女なので。
「知っての通り、俺は宰相閣下の補佐官を務めている。この先も宰相閣下、そしてこの国に全身全霊で尽くすつもりだ。だから余計なことに思考を割かれたくない」
「ならば結婚などしなくてもよろしいのでは?」
「そうもいかないのだ。周囲が色々と煩くてね」
難しい言い回しをしているが、要は『俺様は仕事をしていたいから、家庭に煩わされたくない』ということだ。
優秀な男性は仕事優先でも許されるのに女性だと頭でっかちと言われ、我慢を強いられる。全くもって理不尽な話だ、と扇の陰で溜め息を吐く。
「私の役割は妻として家政を務める、ということでよろしいでしょうか」
「ああ、その辺は全て任せる。与える予算内であれば好きなものを買っても構わない。社交についても君のペースでやって貰えばいい。正式なパーティや夜会には同行して貰うことになるが」
相手が愛人だろうが仕事だろうが、結局はお飾りの妻に変わりはないということだ。
とはいえ、リュシエンヌも後がない身。断ると言う選択肢はない。
(構いませんわ。お飾りの妻だろうが何だろうが、淑女らしく務めてみせましょう)
「であれば、私に異存はありません」
「分かって貰えて助かる。それではこの話を進めるという事で」
◇ ◇ ◇
リュシエンヌはアルトー伯爵の一人娘だ。
母親は彼女を産んですぐに亡くなった。父、アルトー伯爵は残された娘を大層可愛がった。溺愛といっても過言ではない程に。
幼い頃からリュシエンヌが欲しがるものは、財が許す限り何でも与えた。勉強が嫌だと騒げば「おお、そうかそうか」と笑って家庭教師を解雇した。そんな育て方をされた彼女が我儘で聞き分けの無い少女に育ってしまったのは、仕方のないことだろう。
そんなリュシエンヌは恋をした。相手はオランド公爵家の長男アドリアン。
彼と出会ったのは、同年代の子供たちの交流を目的としたパーティへ参加した時のこと。
周囲の令嬢令息は誰もリュシエンヌへ近寄って来なかった。今にして思えば、躾のなってない娘に関わりたくなかったのだろう。だがアドリアンだけは親しげにリュシエンヌへ話しかけ、「こっちで一緒に遊ぼうよ。お菓子もあるよ!」と手をひいてくれたのだ。
しかもアドリアンは金髪に碧眼の美少年。幼いリュシエンヌは彼を運命の相手と思い込んでしまった。
「お父様!私、アドリアン様と結婚したいの」
こちらはたかだか伯爵家。公爵家の嫡男に嫁ぐのはかなり無理がある。などということが、当時の彼女に分かるはずもない。
しかしどういう手を使ったのか、アルトー伯爵は縁談をもぎ取ってきた。どうやらアドリアンもリュシエンヌなら婚約してもいいと言ったため、オランド公爵が渋々認めたらしい。
ただし婚約に際し、公爵夫人から一つの条件が付けられた。
「今のリュシエンヌ嬢では、とても公爵夫人は務まりません。公爵家に相応しい教養や振る舞いを身につけて貰います」
そうしてやってきた老年の家庭教師イヴェールは、とても厳しい人だった。
彼女は元伯爵夫人であり、長年家庭教師として幾人ものご令嬢を躾け直したという伝説の持ち主らしい。
「この程度の作法もできないのですか?高位貴族のご令嬢とは思えませんわ」
「泣いても無駄です!覚えるまで部屋から出しませんよ」
課題が出来なければ、食事も与えられない。嫌がって抜け出そうとすると鞭で叩かれた。
「あの人、私を鞭で叩いたのよ。クビにして!」と父親に頼んでも「公爵夫人の言いつけだからねえ」と困った顔をするだけ。
公爵夫人はリュシエンヌが厳しい教育に耐えられず、心が折られることを期待していたのかもしれない。そうすれば婚約を白紙にできるから。
しかし元来負けん気の強いリュシエンヌは頑張った。それはもう頑張った。
「最初はどうなるかと思いましたが、目を見張る成長ぶりですわ」
家庭教師から淑女の心得を叩き込まれたおかげで、数年後のリュシエンヌはすっかり落ち着いた令嬢になっていた。
「ありがとうございます。全て先生のおかげですわ。こんな聞き分けの無い娘に忍耐強く付き合って下さって」
「ふふふ。貴方は躾け甲斐のある生徒でしたよ」
そして教養が身に付くと、今までの行動が如何に貴族令嬢として恥ずかしいものであったか良く分かった。
穴があったら頭から飛び込みたいくらいである。淑女らしくないのでやらないが。
それと同時に、婚約者アドリアンの欠点が見えてきた。
「新しい劇が上演されるんだって。リュシー、一緒に行こうよ」
「申し訳ありません、アドリアン様。明日もイヴェール先生の講義がありますの」
「最近雨が続くねえ。鬱陶しいなあ」
「長雨で作物が心配ですわね。領民から陳情は上がっていませんの?」
「……リュシーは変わったね。昔はもっと明るくて面白い子だったのに」
アドリアンは享楽的なことが好きで、いつも遊び歩いている。内政どころか学院の勉強も疎かにしている様子だ。そのくせプライドが高く、他者の助言や諫言に耳を貸さない。
こんな跡取りでオランド公爵家は大丈夫か?と心配になるレベル。
そして婚約者に不満を持っていたのはアドリアンも同じだったらしい。
成人近くなった頃、彼は突然「幼馴染の子爵令嬢に子供が出来たから、婚約を破棄する」と言い出したのである。慌てたオランド公爵が調べたところ狂言ではなく、本当に子供が出来ていた。
「リュシエンヌ嬢は、お前と結婚する為にずっと頑張ってきたんだぞ!」
「だって最近のリュシーは付き合いが悪いし、小煩いことばっかり言ってちっとも可愛くないんだもの。俺、頭でっかちな女は嫌いなんだ」
そこまで発言したところで、アドリアンは公爵に殴り飛ばされた。
「何するんだよぉ~痛いよぉ~」と泣きわめく彼の姿に、わずかに残っていた恋心が吹っ飛んだ。いや浮気どころか子まで作っていたという時点でゼロどころかマイナスになっていたのだが。
その場で彼は廃嫡、7歳下の弟が跡継ぎに決定。オランド公爵家からアルトー伯爵家へ多額の慰謝料が支払われ、婚約は白紙となった。
リュシエンヌ自身は清々したわ、という気分だったが。
「今の貴方なら、我が家に迎えるのに申し分ないと思っていたのよ……」と涙を流す公爵夫人の姿に心が痛んだ。
それに相手の不貞が原因とはいえ、成人近くにもなって婚約が解消された事実は貴族令嬢としてどうしようもない瑕疵。
どこかの後妻に入るくらいなら修道院に入るか、職を探すか……と考えあぐねていたところへ持ち込まれた縁談相手が、オーバン・ルヴァリエ伯爵だったのである。
◇ ◇ ◇
婚約から半年という異例の早さで結婚式が執り行われ、リュシエンヌはオーバンへ嫁いだ。
夫はほとんどの時間を職場で過ごしている。たまに帰ってきても「困ったことはないか」「ございません」という会話のみ。
外に愛人でもいるのか?と思ったが。どうやら本当に忙しいらしい。
他の宰相補佐官たちも似たような状態で、あまりの激務に「もう駄目だ~」と叫んでぶっ倒れた者もいるとかいないとか。
普通の妻であれば「旦那様がいらっしゃらなくて寂しいわ……」なんて思うのだろうが、幸いこちらはお飾りの妻。
むしろいない方が楽ですらある。
「夫を敬い支え、婚家を守る。それが妻の務めです」
イヴェール先生の言葉だ。リュシエンヌは師の教えに従い、精力的に家政をこなした。
伯爵邸は大きいが、その割に使用人が少ない。結婚に合わせて屋敷を購入したが使用人の選定までは手が回っていなかったらしい。
リュシエンヌはルヴァリエ侯爵家を通し、紹介して貰った使用人候補に面談を行って信頼のおける者のみ雇用。また帳簿には毎月細部まで目を光らせ、無駄な出費を控えるよう指示を出した。
勿論、社交にも手は抜かない。
高官の奥方は勿論、王宮文官の妻たちとの交流も積極的に行う。妻同士の横の繋がりは重要である。前述の「もう駄目だ」補佐官のことも、妻たちから得た情報だ。
親しくなったご夫人たちには折に触れて手紙や贈り物もした。
そうして得た情報は、夫へフィードバックする。
といってもなかなか会えないので、やり取りはもっぱら手紙だ。
『ベルジュ伯爵夫人は、最近ラングード国の絹織物を使ったお召し物をよく着ておられます。ツテがあるとかで、自慢しておられました』と伝えると。
オーバンの内偵により、ラングードとの取引を主要産業としているマルロー侯爵の派閥にベルジュ伯爵が取り込まれたことが発覚。
速やかに対策を講じることが出来たため、夫は宰相から褒められた。
『隣国から来たという新興劇団の劇を、お友達と共に見に行きました。大変に質が高く、また面白いものでした』と伝えれば。
報告を受けて劇を視察した王太子夫妻がそのクオリティの高さに唸り、劇団は王立劇場と専属契約をすることになった。
「才ある者を他国に先んじて囲い込むことが出来た、国内の演劇の質も上がるだろう」と王太子はご満悦だったらしい。
そうやって夫の評判が上がっていくにつれ、リュシエンヌの社交も忙しくなっていった。
夜会には夫と主に出席するが、別行動になった途端、絡んでくる者も出始めた。リュシエンヌは大人しそうな外見であるため、オーバンより弄りやすいと見たのだろう。
こういう時の対処についても、師は教えてくれた。
「淑女たるもの、何があろうとも人前で感情的になってはいけません。だからといって黙っていてばかりでは、軽く見られてしまいます。冷静に、かつ簡潔に反論するのです。蜂の一刺しの如く、優雅に」
要はナメられたらあかんぞ、言い返したれという事である。
「ルヴァリエ伯爵、最近はバリエ子爵夫人とお噂になっているそうですわね。リュシエンヌ様もお辛いでしょう。お気の毒に……」と口角を上げつつ同情するフリをするご夫人には。
「私は夫を信じておりますの。それに彼はとても忙しいですから、女性と逢い引きする暇なんてありませんわ。まあ、夫に懸想するご婦人がたには少々気の毒な事ですけれども」と淑女の微笑みを崩さず返した。
ちなみに相手は顔を引き攣らせていた。後から知ったことだが、彼女は以前オーバンへ言い寄っていたらしい。尤も、彼には全く相手にされていなかったようである。
その腹いせにリュシエンヌを「愛されない妻」と嘲笑いたかったのだろうが、なにせ元々お飾りの妻。ノーダメージである。
「よろしければ、あちらのテラスで話しませんか」と一人になったところを狙いすましたように話しかけてきた殿方に対しては。
「申し訳ございません、こちらで待つようにと夫に言われておりますの。ところでバシュレ子爵令嬢はご一緒ではないのですか?」
『貴方の婚約者とは顔見知りですわ』と暗に伝えてやると、そそくさと逃げていった。
オーバンの人気と名声に嫉妬し、妻を口説いて悪い噂を立てようとしたのだろう。
「ルヴァリエ伯爵は、先日も陛下からお褒めの言葉を頂いたんですってね。伯爵の手腕は勿論だけれど、リュシエンヌ様の内助の功あってこそと評判よ。縁を取り持った甲斐があったわ」
「恐れ入ります、オランド公爵夫人」
アドリアンとの婚約は無くなったが、オランド公爵夫人とは交流を続けていた。リュシエンヌにオーバンを紹介したのは夫人だったのだ。
「本当にリュシエンヌ様は良くできた女性だわ。うちのアドリアンも貴方の支えがあれば、もう少しまともだったでしょうに……」
公爵はアドリアンを廃嫡したものの籍は抜かず、根性を叩き直せと領地での執務補佐の仕事を与えた。だがアドリアンは田舎が嫌だと駄々をこねて、夫婦共々勝手に王都へ戻ってきたらしい。
遊び歩いているうちに金が尽きたらしく、オランド公爵家のみならず、妻の実家にまで金を無心しにきたそうだ。
「主人の怒りもそろそろ限界になりそうだわ」と公爵夫人が溜息を吐く。
家から放逐しなかったのは、公爵の温情だったろうに。彼は最後の糸すらも自ら手放そうとしているのだ。
公爵夫人には申し訳ないけれど、あの男の方から婚約を無しにしてくれて良かったとリュシエンヌは心の底から思っている。
「何か変わったことはあったか?」
オーバンが上品にティーカップを傾けた。
最近、夫の帰宅頻度が増えている。今日は珍しいことに、彼の方から「お茶でもどうか」と誘ってきたのだ。
「今年はザクロが豊作のようですわ」
「ん?ああ、慶事が多いのか。その分の予算を多めに取っていい」
「ありがとうございます」
ザクロは多産の象徴である。ここのところ、係累の家で立て続けに子供が産まれているのだ。祝い金や品を贈らなければならないのですがよろしいですか、という謎かけであった。
直接話す機会が増えて分かったことだが、オーバンは頭の回転が早い。こうやって謎かけをしてもすぐにこちらの意図を読む。それに知識も底が無いのかと思う程豊富だ。ポンポンと弾む会話が楽しい。
会話が止まったタイミングで夫が「リュシー、これを」と懐から小さな包みを出した。
「いつもありがとう。君には本当に助けられている。これは最近貴族女性に人気という店で作らせたものだ。君の気に入ると良いのだが」
中身はブローチだった。真ん中にはエメラルドがはめ込まれており、高価なものだとひと目で分かる。
リュシエンヌがグリーンのドレスを好んでいる故の選択だろう。
宝石の周囲は花の意匠があしらわれており、万人受けしそうなデザインだった。本当にソツのない男である。
(お飾りの妻と言えども、機嫌は取っておこうということかしら?)
「とても気に入りましたわ。ありがとうございます。無理にこのような事をなさらなくても、私は自分の務めを疎かにはしませんわ」
「いや、そういうことでは……」と何故か夫は顔を赤くする。
「どうかなさいまして?」
「なんでもない。……そういえば、義父上がいらしていたそうだな」
「ええ。申し訳ございません、相変わらず心配性のようで」
結婚してからというもの、オルトー伯爵は何度もリュシエンヌの元を訪れている。
当初は「ちゃんと当主夫人を務めているのか?」くらいだったが。
最近では「ルヴェリエ伯爵はほとんど帰ってこないそうじゃないか」「他の女性と共にいる姿を見かけた」「辛ければ、いつでも戻ってきていいんだぞ」としつこいくらいだ。
その度に「問題ありませんわ」と答えてはいるのだが。
「義父上は愛娘が嫁いで寂しいのだろう。一度、里帰りしてはどうだ」
「そうですわね。旦那様が良いと仰るのでしたら」
「勿論。何なら二、三日、泊ってきてもいい。……あまり長期間戻って来ないと困るが」
「?ええ、勿論すぐに帰ってきますわ。女主人が長い間家を空けるわけにはまいりませんもの」
「……そうか」とオーバンはそのまま押し黙ってしまった。
何か機嫌を損ねるようなことを言ってしまったかしら、と首を傾げるリュシエンヌ。
侍女が生温かい視線を向けていることに、気付かない二人であった。
「貴方がルヴァリエ伯爵夫人かしら?」
ある日、王宮で開催された夜会へ参加していたリュシエンヌは、ご令嬢とその一団に囲まれた。
その無礼な物言いからは敵意をひしひしと感じる。
出しぬけに何なのよ、と少々苛立ったが。それくらいで表情を変えるリュシエンヌではない。
「ごきげんよう、マルロー侯爵令嬢。お会い出来て光栄です」
「ごきげんよう。ふうん。どんな美女かと思っていたのだけれど。意外と地味な方なのね」
「リリーベル殿下の足元にも及びませんわねえ」
彼女とその取り巻きたちがクスクスと笑う。
リリーベル王女殿下とオーバンが想い合っているという噂は、嫌というほど耳にしてきた。殿下に婚約者がいないのはオーバンを想い続けているからだとか、彼の結婚を聞いて泣き崩れたとか。
殿下は素直な性格と愛らしい容貌で人気が高い。令嬢令息の中には崇拝に近いレベルで慕っている者もいる。目の前にいるマルロー侯爵令嬢のように。
彼女たちにとってリュシエンヌは『愛し合う二人を引き裂いた悪女』らしい。
そもそも結婚を持ちかけてきたのはオランド公爵夫人なのだが、流石に公爵夫人には文句を言えないのでリュシエンヌに憤りをぶつけているのだろう。迷惑な話である。
「貴方、随分図々しい性格をなさっているのね」
「図々しいと思ったことはございませんが。何かご不快な思いをさせてしまったのなら、謝罪致します」
「それならば、何故さっさと身を引かないの?貴方、一度婚約破棄をされてるんでしょう。傷物女がルヴァリエ伯爵に相応しいとでも?」
「それを決めるのは夫ですわ」
「あちらを見てごらんなさいな」
広間の中心でオーバンとリリーベル殿下が踊っていた。その美貌と揃いの銀髪は一対の人形のよう。麗人が華麗なステップを踏む様に、観衆の目は釘付けだ。
音楽が変わっても二人は踊り続けている。二回以上ダンスを踊るのは、夫婦か恋人同士。それが暗黙の了解だ。
「二回も踊られるなんて」「やはりあの噂は本当だったね」
ひそひそと囁く人々の声が聞こえてくる。
「なんてお美しいのでしょう……まるで絵画から抜け出てきたようではございませんか。やはり王女殿下を娶られる殿方は、ルヴァリエ伯以外有り得ませんわ。そう思いませんこと?」と、マルロー侯爵令嬢がリュシエンヌの耳元で囁いた。
どくんと心臓がはねる。
彼らのダンスに魅了されたからではない。リュシエンヌの目は、リリーベル王女のひらひらと翻るドレスに吸い寄せられていた。
数日前の事だ。
いつものように夫へ手紙をしたためて執事に渡そうとしたが、あいにく執事は不在。
夫の机に手紙を置いておこうとしたが、ペーパーウェイトが見当たらない。悪いとは思いつつ引き出しを開け、一枚のハンカチが入っていることに気付いた。
ハンカチを彩るのは美しい百合の刺繍。
どう見たって女性からの贈り物だ。技巧は拙いものの、その丁寧な針仕事には相手を思いやって綴られたことが察せられた。
リリーベル殿下の纏う、大きな百合の花がデザインされたドレス。
彼女が自分と同じ名前を持つ百合の意匠を好むのは、周知の事実だ。
(……ああ。そういうことだったのね)
呆然といったリュシエンヌの様子に、マルロー侯爵令嬢は満足そうな笑みを浮かべて去っていく。その背中を見送る彼女に「リュシー」と呼び掛ける者がいた。
「お父様……」
そこにいたのは、礼装に身を包んだアルトー伯爵。彼は心配そうに娘の顔を覗き込んだ。
「可哀想に。辛いだろう」
「……私は大丈夫ですわ」
「いいや、こんなことは許せない。大方、奴は王女殿下との婚約を匂わされて鞍替えしたのだろう。私の大切な娘を愚弄する行為だ。リュシー、もう無理しなくていい。帰っておいで」
数日後、リュシエンヌは「里帰りをする」と告げてルヴァリエ邸を出た。
夫への報告書だと伝えて置いてきた封書の中に、離縁届を忍ばせてある。数週間程度は家政が回るように執事と侍女長へ指示を出しておいたから、暫くは使用人たちが困ることは無いだろう。
「申し訳ありません、お父様。出戻ってきてしまいました」
「いやいや、私は可愛い娘が戻ってきてくれて嬉しいよ。後の事は任せなさい。ルヴァリエ伯爵には私が上手く言っておくから」
夜会からの帰り道にリリーベル殿下のことを尋ねたところ、オーバンはしかめっ面をして「落ち着いたら話す」とだけ答えた。
それで確信したのだ。
夫がリュシエンヌと離縁し、王女を妻に迎えるつもりであることを。
愛人の噂がほとんど出鱈目であったことは知っている。リリーベル殿下はともかく、彼が王女を想っているかは分からない。
オーバンは生真面目な男だ。国のため、民のために真摯に仕事へ取り組んでいる。王女殿下との結婚は彼にとってプラスになるはずだ。王家というバックを持つことで、より政治の中枢へ近づけるに違いない。
それに王女の降嫁を陛下に命じられれば、どのみち逆らえない。
妻が王族ならばオーバンもお飾りには出来ない。きっと、真に愛し合う夫婦になれるだろう。
――彼との会話は楽しかった。
お茶を飲むときや髪をかきあげる仕草が洗練されていて、見惚れてしまった。
ブローチを渡したときの少し照れたような顔を、可愛いと思ってしまった。
このまま結婚生活を続けていたら、愛を欲してしまう。お飾りの妻なのに。
だからリュシエンヌは潔く身を引くと決めた。せめて、最後まで淑女らしく。
「心配しなくていい。すぐに次の嫁ぎ先を用意するからね」
「お父様。私、もう結婚は考えたくありませんわ。職を探すつもりです」
オルトー伯爵は既に跡継ぎとして係累から養子を迎えている。
実家へそう長く居座ることはできないだろう。家庭教師でも目指そうかしら、と考えていたところだ。
「何を言うんだ。もう行き先は決まっているんだよ」
「え?」
「アドリアン君が、リュシーとなら再婚してもいいと言ってくれたんだ。そら、手紙も来ているよ」
「お父様、何を仰っているの?アドリアン様には妻子がいるわ」
「大丈夫だ。妻に逃げ……別れて今は独り身らしい。お前は彼が大好きだったろう?」
手紙には『俺の事が忘れられないと聞いた。嬉しいよ。金が尽きたら妻は逃げていった。子供も置いていった、薄情な女だ。やはり俺に相応しいのはリュシーだけだ。優秀な君ならすぐ仕事にありつけるだろう。一刻も早く嫁いで来て欲しい』と書かれていた。
図々しい物言いにゾッとする。自ら婚約を破棄しようとしたことも、忘れたのだろうか。
「それは子供の頃の話よ。あんな男、好きどころか嫌悪しかないわ。だいたいこの文面、どうみたって妻じゃなくて金蔓が欲しいだけじゃない」
「まあまあ。彼に会えばまた愛が芽生えるかもしれないじゃないか。あんなに夢中だったんだから。それに、先方にはもう返事をしてしまったしね」
「こんなの、自ら地獄へ飛び込むようなものよ!お父様は私が不幸になってもいいの?」
ニコニコとしていた父親の顔から、すっと笑みが消えた。
「当たり前だろう。お前には、死ぬまで困難な人生を歩んで貰わないと」
「そのためにお前を甘やかして育てたんだ。愚かな娘に育つようにな。オランド公爵家のバカ息子と結婚すれば、さぞ苦労するだろうと骨を折ったのに……。婚約が解消された上、ルヴァリエの若造へ嫁いだ時は焦ったよ。全く、公爵夫人もお節介なことをしてくれたものだ」
「え……お父様?一体、何を仰ってるの……?」
「私はお前の『お父様』ではないよ」
アルトー伯爵は口角を上げ、「お前の父親は母様の前の婚約者だ」と吐き捨てた。
リュシエンヌの母カトリーヌには婚約者がいた。政略とはいえ二人は愛し合っていたそうだ。しかし何故か突然、カトリーヌは婚約を解消される。
そして傷心の彼女へ求婚したのがアルトー伯爵であった。
「デビュタントしたばかりのカトリーヌはとても可愛らしくてねえ。一目惚れしてしまったんだ。しかもちょうど婚約が無くなったところだと言うじゃないか。だから早速婚約を申し込んだんだ」
「……随分とお父様に都合の良い話ね」
「私とカトリーヌの出会いは運命だからね。まあ、少々お膳立てはしてやったが」
カトリーヌの元婚約者は男爵家の令息だった。
男爵家へ圧力を掛けて令息の方から婚約を解消するよう仕向けたと、アルトー伯爵は嬉々として語る。
「お母様は、婚約を解消される前に私を身籠ったの?」
「いいや、カトリーヌが孕んだのは結婚してすぐだ」
「それは普通にお父様の子なんじゃ……」
「早過ぎるだろう。婚姻前にあの男と関係を持っていたに違いない。さあ、無駄話は終わりだ。あのドラ息子のところへ連れて行ってやる」
アルトー伯爵はリュシエンヌの手を掴むと、無理矢理外へと連れ出した。荷物を積み込んだ馬車が玄関前に待機している。
「嫌っ、離して!」
「ああ、その表情はカトリーヌそっくりだ。お前はあの女の代わりに、うんと不幸になって貰わなければ」
じたばたと藻掻くリュシエンヌを見る父親は嗤っていた。その瞳に憎悪の光を宿らせて。
こんな時は淑女としてどうすればいいんだっけ、とリュシエンヌは必死で師の教えを頭の中で反芻する。
残念ながら、如何に百戦錬磨のイヴェール先生と言えど、『父親が娘に嫌がらせをしていた場合』などというニッチな事例は教えてくれなかった。
リュシエンヌの身体が馬車へ押し込められた、その時。
「俺の妻から手を離せ!」
「うわっ」
低い声がしたかと思うと、アルトー伯爵の身体が吹っ飛んだ。よろけたリュシエンヌの身体を抱きしめたのは――夫の腕だった。
「大丈夫か」
「え、ええ……」
「これはどういうことだ?」
「ルヴァリエ伯爵、暴力行為は見過ごせませんな。宰相に報告させて頂きますぞ」
殴られたアルトー伯爵が立ち上がり、オーバンへ詰め寄る。
「妻を守っただけだ。何があったかは知らんが、無体を働いていたように見えた」
「誤解です。ちょっとした行き違いがあっただけですよ」
「そうは見えなかったが?ともかく、妻は連れて帰る」
「勝手なことを言われては困りますな。こちらにも予定があるんですよ。それに貴方はリリーベル王女殿下と婚姻なさるのでしょう?離縁する妻の事など捨て置けばよろしい」
「離縁などするつもりはない。リリーベル殿下はフォルジア帝国の第二皇子と婚約が決定している」
「馬鹿なことを。あの話は無くなったはず」
「ほう。それを知っているということは……。貴公、ラングード派と繋がりがあるのだな」
アルトー伯爵はハッとした顔になったが、すぐに平静を取り戻し「何のことか分かりませんな。ともかく娘は離縁させます。お引き取りを」と答えた。
「離縁はしないと言ったはずだが?」
「ソレは亡き妻が結婚前に、どこぞの男と繋がって産んだ娘だ。将来有望なルヴァリエ伯爵には相応しくありませんよ」
「はて?婚姻を結ぶ前に調べたのだが、リュシエンヌが産まれたのは奥方が嫁がれてから一年後だったはずだ。結婚前に出来た子供だとすれば、計算が合わないのではないか?」
「……っ、それなら結婚した後も会っていたんだ。そうに違いない!」
「それに関しては、今さら調べようもないが。俺から見ればリュシエンヌは貴公によく似ている。顔が少し丸い所や、眉の形。それに興奮すると目を細める仕草などはそっくりだ」
「ウソだ。そんなはずはない!あの女は私を裏切ったんだ。この私が愛してやったというのに……。しかもさっさと死におったせいで、苦しめる暇も無かった」
「だから私へ代わりに復讐をするって言うの」
リュシエンヌの瞳に涙が溢れる。
混乱からようやく自分を取り戻した彼女は打ちのめされていた。
誰よりも自分を愛してくれていると信じていた父が自分を憎み、陥れようとしていた事実に。
「そうだとも。お前はカトリーヌの罪の証。だから苦しむべきだ!」
「例え本当に彼女が母君の浮気で生まれたとしても、それは貴公と母君の問題だろう。それに出自がどうあれ、リュシエンヌは私の大切な妻だ。彼女の人生を貴公の下らぬ妄執に巻き込むな」
オーバンは妻を庇うように前に立ち、アルトー伯爵を鋭い視線で見据えた。
「他人が口出しすることではない!それは私の娘なのだから、どう扱ってもいいはずだ」
「リュシエンヌは実娘ではないと、先ほど貴公が言ったのだぞ。矛盾していないか?」
「う、うるさい!邪魔をするなあああ!」
激高してオーバンへ飛び掛かったアルトー伯爵だったが、あっという間に護衛騎士に取り抑えられた。
「そやつからは、ラングード派との関連について聞き出さねばならん。後は尋問官に任せる。連れていけ!」
暴れる父親が連れられて行く様を、リュシエンヌは泣きながら眺めていた。
「彼の取り調べが終わっても、君に危害を加えないよう処理する。心配しなくていい」
「ぐすっ……ありがとうございます。私、父にそこまで憎まれていたのね……。全然気づかなかった」
「アルトー伯爵は、君を亡き妻の身代わりにしていただけだ」
「あくどい手を使ってでも、妻にしたかった女性が愛を向けてくれなかったんだもの。恨んでしまうのも分かる気がするわ」
愛しているからこそ、その心が自分に向けられないのが辛い。その気持ちが今のリュシエンヌにはよく理解できる。
しかも恨みをぶつけたい相手はもうこの世にいない。どこにも逃げ場のない感情を抱えて、父は苦しんでいたのかもしれない。
だからといって、それを娘にぶつけるのは筋違いであるが。
「どうかな。母君の気持ちは分からないが、少なくとも不貞はしていなかったんじゃないか?」
「私、そんなに父に似てます?」
「ああ。それに愛と憎しみは紙一重だと言うだろう?伯爵の妻や君への想いには、どちらも含まれていたんじゃないかな」
「……そうかもしれませんね」
自分に向けた父の微笑みが全て嘘だったとは、リュシエンヌには思えなかった。
幼い自分が熱を出したとき、徹夜で付き添ってくれたこともあったのだ。
愛情が無ければ出来ることではない。……リュシエンヌがそう思いたいだけかもしれないが。
「ところで旦那様はどうしてここに?」
「執事から連絡を貰ったんだ」
リュシエンヌの様子が変だったと侍女から注進を受け、処罰覚悟で封書を開けた執事が離縁届を見つけた。その知らせを受けてオーバンはアルトー伯爵家へ駆け付けたのである。
「なぜ黙って出て行ったんだ。何か不満があったのなら、言ってくれれば」
「旦那様はリリーベル殿下とご結婚なさると思っていたのです。そうなれば私は不要、いえむしろ邪魔な存在になりますから」
「は!?俺は既婚者だ。王女殿下と婚姻するわけが無いだろう」
「私と離縁すれば可能ですわ。殿下との婚姻は貴方にとって益のあること。ですから身を引くことが、お飾りの妻としての最後の仕事と」
「先程も言ったが、殿下はフォルジア帝国の皇子と婚約が決まっている」
王家はフォルジア帝国との繋がりを強めたがっているが、もう一つの大国ラングードとの同盟強化を推す派閥から反発が起きている。
王女と皇子の婚約も妨害される恐れがあった。そこでラングード派には「婚約の話は無しになった」という嘘情報を流し、秘密裡に婚約を進めていたのだ。
「でも、リリーベル殿下は貴方のことを」
「殿下は自分の責務を疎かになさるような方ではないよ」
確かにリリーベル王女はオーバンへ憧れていたし、それを口にすることもあったという。しかしその気持ちは憧憬の域を出ない物であり、また帝国へ嫁ぐことが自分の役割であることも彼女は理解されているそうだ。
ダンスを二度踊ったのはラングード派に見せつけるためもあったが、最後の思い出にと王女に頼まれたからでもあった。
「殿下から頂いたハンカチを、大事そうに取ってありましたわ」
「王族から拝領した品を、粗略に扱うわけにはいかないだろう。使ったことは一度もない。それに俺は、君を正式な妻として扱ってきたつもりだ。お飾りなどでは断じてない」
「最初に愛を求めるなと仰ったではありませんか」
「うっ……それは……」
痛いところを突かれたのか、オーバンがバツの悪そうな表情になる。
「た、確かに最初はそう言った。それはその、理由があって」
彼は学生時代から様々な令嬢に言い寄られてきた。
爵位が上がり名声が高まると、さらに令嬢たちからの攻勢が激しくなった。中には他の男性と婚約している令嬢や、既婚の夫人までいたそうだ。
「貴方のためなら、婚約者を裏切っても構いませんわ……」と胸をすり付けながら誘惑してくる令嬢には吐きそうになった、と語るオーバンの表情は嫌悪に満ちていた。
そんな中、オランド公爵夫人から縁組を持ち込まれた。かなり強引だったようで、オーバンはきっとまた自分に懸想した娘だろうと思っていたそうだ。
しかし実際会ってみればとても理知的な女性。自分の失礼な物言いにも淡々と返すところを見て、この人ならと結婚を決めたのだと彼は語った。
「君と過ごす時間は俺にとって心地よいものだった。いつしか妻という役割だけではなく、大切な人だと思うようになった。君は聡いから分かってくれているだろうと」
リュシエンヌが顔を伏せた。握りしめた拳がぷるぷると震えている。
「……そんなもの……」
「リュシー?」
「言われなきゃ分かりませんわ!!!」
淑女の心得はどこへやら。リュシエンヌは感情のままに声を張り上げる。
「親子ですら言葉が足りなければ、すれ違うこともあります。私だって父の意図に気付けませんでしたもの。まして私たちは結婚して二年足らず。言葉が無ければ伝わりませんわ。黙っていても分かってくれる?私は旦那様の母親でも乳母でもありませんわっ」
呆気に取られて固まってしまった夫に構うことなく、リュシエンヌは怒りの形相で捲し立てた。
「しかも最初に『愛を求めるな』なんて言われたんですもの。心の交流を拒否されたと思うのは当然でしょうに!」
「済まない。その通りだ」
オーバンはひざまずいて、そっと彼女の手を取った。
「前言を撤回する。リュシエンヌ、俺は君と真に愛し合う夫婦になりたい」
懇願するかのように妻を見上げるオーバン。髪は乱れ、自身なさげな表情なのにやっぱり見目麗しくて小憎らしい。
リュシエンヌはぷいっと横を向いた。怒りの表情を作ってはいたが、その頬は赤くなっている。
「私たちには一にも二にも会話が必要です。言葉にしなくても分かって貰えるなどと、思い上がらないで下さいませ」
「分かった」
「女性だからと十把一絡げに考えるのはお止めください。中には貴方と共に人生を歩もうと真剣に考えていた令嬢だって、いたと思いますわ」
「肝に銘じる」
「貴方、顔がいい自覚はございますの?女性に絡まれるのがそんなにお嫌なら、眼鏡をかけるなり髭を生やして威厳を出せば良いと思いますわ」
「ああ。何でも君の言うとおりにする。だから、どうか戻ってきてくれないか」
「……仕方ありませんわね。そこまで仰るのなら、戻って差し上げますわ」
◇ ◇ ◇
「はぁ。全く……」
妻の膝に頭を乗せたまま、俺は溜め息を吐いた。
「ずいぶん大きな溜め息ですこと。どうなさったのです?」
「エルネストの奴がまた細君に逃げられたそうだ」
リュシエンヌが「あらまあ」と声を上げながら俺の白髪頭を撫でた。妻の手が心地良くて、しばしその感触を楽しむ。
エルネスト・セルヴァンは俺の部下だ。最初の妻に逃げられた後再婚したが、二年も経たぬうちに離縁。三人目の妻ともうまくいかず、離縁届を残して実家に帰ってしまったそうだ。
仕事には熱心だしまあまあ有能な男ではあるのだが、何故か家庭においてはその有能さが発揮されない。
「夫人には申し訳ないことをしたな。彼女はまだ若い。新しい縁談を紹介せねば」
三人目の細君はルナール子爵家の令嬢だった。二度も離縁をしている男に嫁ぐのは……と子爵夫妻は渋い顔をしていたが、俺が仲介してなんとか整った縁組みだった。
妻の実家へ訪れたエルネストは門前払いされたらしく、取りなしてくれと俺に泣きついてきたのである。
俺の顔も潰したことを分かっていないのか、あの男は。
「お相手の候補をいくつか当たってありますわ」
妻が手を振ると、侍女が釣書きの束を持ってきた。初婚ではないため若い男ではないが、ぱっと見たところまともそうな相手ばかり。問題のありそうな者は、予め妻が省いたのだろう。
「用意がいいな。もしやこうなると見越していたのか?」
「夫人からは何度か相談を受けていましたから」
リュシエンヌは俺の部下の細君たちと積極的に交流を行っている。若い妻の愚痴や相談に付き合うこともあるようだ。
結婚してから三十年余。多忙な俺に代わり家政や社交、子育てをこなし、さらにこうやって女性の立場からサポートもしてくれた。
俺が侯爵位を拝領し、宰相という立場になれたのも彼女の貢献あってこそだ。
「エルネストの方は、もうまともな縁談は見つからないだろうな」
「誰を連れてきても同じこと。あの方は、そもそも結婚に向かないのですわ」
「全く同感だ。再婚は諦めて、養子を迎えるよう諭すか」
「それがよろしいかと」
エルネストは俺たち夫婦に憧れているらしく、特にリュシエンヌを「何をされても黙って夫を支える賢妻」だと思い込んでいる。そして己の妻に「リュシエンヌ様を見習え」と強要していたらしい。
妄想も甚だしい。そんな都合の良い人間など、どこにも存在しないというのに。
しかし俺も人のことは言えない。
出会った当初はリュシエンヌを見下していたし、結婚してからも会話を放棄していた。そのせいですれ違ってしまったが、彼女が俺の目を覚ましてくれたのだ。
あれから俺たち夫婦は会話を第一とするようになった。どんなに忙しくても、週に一度は夫婦でゆっくり話し合う時間を作る。時には意見の相違で喧嘩になることもあったが、それを繰り返して今がある。
もし別の女性だったなら、俺もエルネストのようになっていたかもしれない。本当に得難い妻だ。
「そういえば、ルナール子爵家はオランド公爵家の寄り子だったな」
エルネストの結婚相手を探していた際に、令嬢を紹介してくれたのも公爵だ。そちらにも謝罪を入れておかねばなるまい。
現在のオランド公爵はアドリアンの弟だ。兄と違ってまともな人間で、夫人ともども交流がある。
ちなみにアドリアンは、あの事件の直後に公爵家から除籍された。奴に甘い父親もついに堪忍袋の緒が切れたらしい。俺へ任せて欲しいと申し出たところ「煮るなり焼くなり好きにしてよい」との確約を貰った。
だから俺はアドリアンを娼館に放り込んだ。見目だけは良いからしばらくは人気男娼だったが、加齢と共に売れなくなって放り出されたそうだ。今頃どこかで野垂れ死んでいるだろう。
あの愚物は放っておいてもいずれは身を滅ぼしたに違いない。だが、いつまでも愛する妻の周りをうろちょろされたくなかった。妻の心身を守るのは夫の役目だからな。
リュシエンヌの父親、アルトー伯爵も既にこの世にいない。
あの後尋問官により拷問に掛けられたが、彼はロクな情報を持っていなかった。結局、ラングード派の妨害工作にはほとんど関わっていなかったということで放免となった。
アルトー伯爵は口八丁手八丁で人の懐に入るのは上手いが、中身が伴わないので信用されていなかったらしい。王女殿下の婚約話も、マルロー侯爵家の使用人に金をちらつかせて聞き出しただけだった。
多少強引だったが跡継ぎへ爵位を譲らせ、元伯爵は領地で軟禁させた。拷問でかなり身体が弱っていたようで、そのまま寝付いてしまったそうだ。
病の床で娘に会いたいと騒いだようだが、リュシエンヌは会いに行こうとしなかった。だが父親が亡くなった後、こっそりと泣いていたのを知っている。
あんな目に遭わされても彼女は父親を愛していたのだ。愛憎は紙一重であるのだから。
「ねえ貴方。私、来月オランド公爵夫人と観劇に行く予定なの。新作の劇が公開されるんですって」
「ああ、楽しんでくるといい」
「それでね、観劇の後は食事に誘われているの。公爵も時間を作って同席して下さるって。貴方もどうかしら」
「分かった。俺も参加しよう」
「公爵夫人に伝えておくわね。うふふ、楽しみだわ」
偶然ではあるまい。
妻はセルヴァン伯爵夫妻の不仲を知り、俺が公爵へ謝罪に向かうことまで読んでいた。だから先んじてオランド公爵夫人と約束を取り付けたのだろう。
俺はやはり、君には敵わない。
……ああ、そうだ。思ったことは口にする約束だった。
「リュシー、ありがとう。君は相変わらず素晴らしい妻だ」
「あら、何の事かしら?」と彼女が微笑んだ。昔と変わらぬ、愛らしい笑顔で。
「貴方の妻として当然のことをしているだけよ。私、淑女ですもの」