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夏蝉

作者: 白田侑季




 コンビニでアルバイトをしていた頃、必ずスイーツを買う男がいた。


 よく覚えている。


 いや、意識して覚えた、というほどでもないが。男が毎度スイーツを買っていたことと、レジに商品を置く彼の指先が酷く白かったことは、何故だか鮮明に覚えている。


 男が来るのは、決まって夜の11時過ぎ。


 その時間帯はコンビニ店員にとって割と地獄だ。第一に、客が来ない。第二に、来たとしても大抵は迷惑客か、声のデカいヤンキーか、この世の終わりみたいな顔をした陰気な奴ら、そのどれかしかいない。


 その男は一番最後、「この世の終わりみたいな顔をした陰気な奴ら」の1人だった。


 夜の11時過ぎ。男は若干皺の寄ったスーツを着て、目の下に真っ黒なクマを滲ませてやってくる。


 毎日ではないが、途切れることなく定期的にやってくるその男は、顔立ちは悪くなく、背も高かった。髪もほのかに染めているのが見て取れる。眼下の真っ黒いクマと、表情の抜け落ちた顔さえしていなければ、間違いなく女が黙っちゃいない。スーツに皺は寄っているが身綺麗だし、もしかしなくともサラリーマン、それも営業に近い仕事だというのは私でも察せた。


 そんな男が、この世の終わりみたいな無表情でスイーツを買う様を見れば、誰だって目に付く。


 男と特段会話を交わした記憶はない。


 彼との"関係値"はそれなりにあった、と自負してはいるが、何のことはない。私はただのコンビニバイトで、男はただの客だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。


 それは、ありふれた流れ作業。


 男が商品を持ってくる。私はレジを打つ。


 男が買うものも大抵決まっていた。1人用のパック惣菜と、コンビニスイーツ。たまにエナドリ。


 見慣れた商品を私はリーダーで読み取る。ピッ、ピッ、という乾いた電子音。私が金額を読み上げ、男が支払う。それも決まってモバイル決済。


 袋は要らない。箸も不要。買ったスイーツがカップ系だった場合のみスプーンを添える。それすら手慣れた作業に過ぎない。


 支払い終われば男は去る。袋を断った彼は、買った商品を酷く白い指先の上へ順々に積み上げ、バランスを取りながら店を後にする。手が塞がっているから、肩で扉を押すようにして。


 その背中を、私は見送る。


 ただ、それだけの関係だった。それだけの関係だったが。


 男がレジに並んだ瞬間、その一連の流れ作業が瞬時に頭の中で組み立てられるくらいには。レジを入力しながら片手間でスプーンを準備できるくらいには。そうやって身体が自然と覚えるくらいには。私と彼には"関係値"があったのだと思う。






 その"関係値"が変わったのが、あの日。


 例年よりも巨大な台風が街を襲った、8月の夜だった。


 といっても、私達の関係は相変わらずだった。お互いの身の上を話した訳でもなければ、ましてや恋仲になった訳でもない。ただのアルバイトと、ただの客。それ以上でもそれ以下でもない、どうしようもなく凡庸で希薄な"関係値"だった。


 その夜は横殴りの雨が始終窓を叩きつけていた。私は早く帰りたかった。ただし。


 能天気かつサボり魔の店長が、私が近所に住んでいること、金に困っていることを逆手に取り、他のバイトが休んだからと気易く私にシフト時間を前倒しさせ、あまつさえ店長本人が勝手に帰宅していなければ、の話だ。


 おかげで私の気分は最悪だった。店長の名前を手近なレシートの裏へ呪いのように書き連ねるほどには、最悪だった。


 でも、今思えばあの時帰っていればよかったのかもしれない。


 あの時店長の無理を断っていれば。台風だから、と強引にでも帰宅していれば。


 あの日、私が店番をしていなければ。


 何かが変わっていたのではないか、と。今では思う。






 その日も、男は店に来た。横殴りの雨にスーツの裾を濡らしながら、男は店の入口をくぐった。


 ちら、と反射で時計を見る。夜の11時過ぎ。いつも通り。他人事ながら、こんな日までいつも通りなのかと、そんな雑多な不憫さを覚えた。


 その間にも、男はいつも通りのルートで店内を巡る。入口をくぐってすぐの栄養剤コーナーで1品。そこから奥の冷蔵ドリンクの前を通り過ぎる形で惣菜コーナーへ。1人用のパック惣菜を一瞬吟味し、手に取ると、そのまま身体を半回転させ、向かいのスイーツコーナーに目を向ける。


 この時、男はいつも瞳の奥に何がしかの光を灯す。


 目の下の黒々としたクマすら気にさせないほどの、瞳の奥の光。パック惣菜を吟味する時の目とは明らかに違う光だ。


 それは、例えるならもっと縋るような。明るい何かを望むような。一日の最後に何か違う景色が見たいと、そう喘ぐような。


 形容しがたい切実さを帯びた、そんな目をする。


 かといって、男がスイーツを吟味している訳ではないことも、それまでの"関係値"で分かっていた。


 男は必ずスイーツの棚の左手・最上段から、右手・最下段にかけて順々にスイーツを買っていくからだ。男がレジに商品を持ち込むたびに自然と気付くようになった。


 別段好みがある訳でもない。今晩は何を食べようかと悩む素振りもない。切実さを帯びた眼を向ける割に、男がスイーツコーナーで悩んでいる姿を見たことがない。季節ごとの新作が入荷した時だけ、或いは私のシフト外で男が来ていた時だけ順番がズレることはあっても、男は必ず順番通りにスイーツを購入する。


 その日も男はスイーツ棚の前で立ち止まることもなく、パッと商品を手に取って、私のいるレジまでやってきた。


 商品は3点。緑のモンエナ。蒸し鶏と塩昆布のやみつきキャベツ。そして、抹茶といちごのティラミス。


 私はいつも通り余計な口を開かず、顔にも出さず、ましてや、いつもありがとうございます、なんて言う訳もなく。


「806円です」とだけ言った。


 この時には、もう何となく分かっていた。


 男は別に甘いものが好きな訳じゃない。


 単に「スイーツを買って食べた」という事実そのものに、意味を見出そうとしているだけだ。


 夜の11時過ぎ、間違いなく残業だ。目の下のクマからして碌に眠れてもいないのだろう。時間的にスーパーも大半閉まっているし、開いていたとしても惣菜なんて皆無だ。相当の頻度でコンビニに来るくらいだから、こまめな自炊や作り置きをしている訳がない。営業マンっぽい割に、居酒屋で飲んでいるようにも見えない、そう察せるくらいには表情が暗い。


 だが、私が関わることでもない。


 男が差し出す画面にリーダーを翳しながら、工場の流れ作業のように、ティラミス用の小さいスプーンを淡々と抽斗から抜き取る。


 ありがとうございます、なんて言うこともなく、男は決済が終わったことを横目で確認しながら、早々に商品を手の上に積み重ねていく。骨ばった白い指が、蛍光灯の下でもその白皙さを示す。


 気のない会釈を済ませ、私気にしてませんよ、みたいな顔でいつものように男の背中を見送ろうとした、


 次の瞬間。



 ズルッ



 男が足を滑らせた。



 一瞬の出来事だった。でも理由は明白だった。


 台風。横殴りの雨。店長への憤りを優先して、床の掃除をしていなかった私。


 そのせいでびしょびしょに濡れていた床に、男は足を掬われたのだ。


 幸い男は踏みとどまった。彼の革靴が、ある種の悲鳴のようにギュ、ギュッと苦しそうに哭いた。


 だが、男が抱えていた物は、そうはいかなかった。



 バサッ  ゴトン  ビチャッ



 そんな無情な音が、夜も更けたコンビニに虚しく響いた。


 一瞬、男は呆然と立ち尽くしていた。立ち尽くしたまま、無表情のまま、目の前の光景を眺めていた。


 その時何故か、私は男に駆け寄った。どうして身体が動いたのか自分でも未だに分からない。


 それでも咄嗟に私はカウンターから出て、男に駆け寄り、「大丈夫ですか」なんて上の空で口にして、男が落とした商品を拾おうとした。伸ばした指の先、透明なカップの中で、ティラミスがぐじゅぐじゅに崩れているのが見て取れた。抹茶の深緑といちごのピンクが不快なほどに混ざり合っていた。


 当然だ、背の高い男があれだけの高さから落としたのだ。無事であるはずがない。


 男もティラミスの惨状に気付いたようだった。


 そして、男の瞳の奥で何かが消えた。


 一瞬過ぎて全部を理解することは出来なかった。


 ただ光が消えたことだけは分かった。特別好きな訳でもない、それでも縋ろうとするような、あの切実さを含んだ光が、私の目の前で消えた。


 私はまた上の空で「大丈夫ですか」と言った。


 男は刹那にも満たない時間の後、「大丈夫です」とつぶやいた。整った顔立ちに似つかわしくない、ひどくしゃがれた、壊れた笛のような声だった。


 もし。


 もしその時、私が何か言えていたら、何かが変わっていたんだろうか。


 何かもっと気の利いた、例えば「商品を交換しましょうか」なんて言えていたら、もっと別の結果になったのだろうか。


 でもその時の私には「大丈夫ですか」が精一杯で、


 その時の男もきっと「大丈夫です」が精一杯だったんだろう。


 タイル地の床は、雨の水気と夥しい数の靴底の跡で、率直に言って見るに堪えないほど汚かった。それでも男は床に散らばった自分の商品を無造作に搔き集め、貼り付けたような笑みで「ハハッ」と笑って、


 店を後にした。


 男が肩で押すようにくぐった扉、その隙間から一瞬だけ暴風と暴雨が覗き見えて、すぐさまバタンッと閉じた。雨の打ち付けるガラス窓の向こう、落とした商品を必死に抱えながら男が自分の車へ戻っていく様を、私はどこか他人事のように眺めていた。


 客のいなくなった深夜のコンビニ。だらだらと流れ続ける無責任にハッピーな店内放送。その中を私はのろのろと立ち上がり、必要性もないのにカウンター内に戻り、早朝シフトの人間が来るまで、誰に言われるまでもなくそこに立ち続けた。


 家に帰っても、何故か男のことばかり頭に浮かんだ。


 スイーツを選ぶ時の目。


 床に落とした時の、光の消えた目。


 そして、あの貼り付けたような乾いた笑い。


 それらがどうしてか、焼き付いたように、瞼の奥で何度も再生された。


 徹夜明けのはずなのに、酷く目の冴えたまま、私は布団の上で真っ白い天井を見上げていた。






 2日後。昼間。


 私はシフトでもないのにコンビニへ行った。


 入口の扉をくぐったら、レジの中に居た先輩と目が合った。休みなのに何しに来てんの、とでも言いたげな揶揄うようなその目を無視して、私はすぐ手前の栄養剤コーナーで立ち止まった。


 買うものは、何となく決めていた。


 私は緑のモンエナを手に取り、そのまま店内をぐるっと一周する形で惣菜コーナーへ赴いた。一瞬迷った挙句、"鶏唐揚げのタルタル風味"を掴む。そして身体を半回転させ、スイーツコーナーへ向き合った。


 買うものは、()()()()()()()


 私はレジ待ちの列に並んだ。カゴも使わず、不揃いな形の商品たちを何とか手の中でバランスが取れるようになると、店内を眺める余裕ができた。


 昼間のコンビニは、夜のそれとは全く違った。


 いま会計しているのは子連れの母親。


 その横で弁当のあたためを待っている作業着姿の中年。


 私の前に並んでいる女子高生2人。私を含めて客は4組。


 会計中の母親は支払いにもたついていた。疲れたのか、連れていた子供も母親の服の裾を引っ張りながら「ねぇえぇ」と大声で駄々を捏ねている。その様子に「止めなさい」と釘を刺しながら、申し訳なさそうに顔を曇らせる母親。そんな母親と向かい合っていながら、レジの中の先輩は微動だにしない。まだかよ、といった表情はしていないものの無関心を装っているのが態度で分かる。


 長引く会計に待ちくたびれたのか、私の前の女子高生2人もペチャクチャ喋り始めた。


 「あのさ」「アレさ」「やばくない?」「ウケる」


 レジ前で駄々を捏ねる子供の声量に自分たちの会話を紛れ込ませるように、女子高生たちの会話も次第に大きくなっていく。


 何故か、私は少し苛々していた。


 レジでもたつく母親になのか。大声で駄々を捏ねる子供になのか。そんな様子を助けようとしない先輩や隣の中年になのか。子供の大声を免罪符に囀る女子高生たちになのか。


 それとも、そんなことが目に付いて仕方ない、自分自身になのか。


 何も分からないまま、女子高生たちの声だけが執拗に耳にこびりつく。反響する。


「アミが言ってたアレさ」

「アミってB組の?」

「そうそう、アミが言ってたじゃん、アレ」

「え、見に行くん? やば。ウケる」

「だってなかなか無くない? ()()()()()()()



 ────その瞬間、頭の中で何かが切れた音がした。



「え、近くなん?」

「割と近くだってさ。サオリも行ったっぽい」

「サオリも?」

「人多すぎてウケたって」

「ウケる」


 何がウケるのか微塵も理解できないまま、子連れの母親の会計が終わり、中年の弁当のあたためも終わり、女子高生2人の番が来た。鳥の囀りのように高い音で会話する2人。その2つの背中を呆然と眺め続ける私。


 やがて女子高生たちの会計も終わり、私の番が来た。


 すぐレジに行かない私に先輩が怪訝そうな表情を向けてくる。それにも痺れを切らしたのか、先輩は「お次の方どうぞ」とわざとらしく私を呼んだ。


 私は小走りにレジに行き、抹茶といちごのティラミスだけをカウンターに乗せながら口早に「これだけ買います」と言いながら、残りの2つの商品はカウンターの脇に押しやった。先輩の顔があからさまに曇る。客が買わない商品を、人手の少ない状況でわざわざコーナーに戻しに行く手間を考えたのだろう。私が同じアルバイトなだけに、その怒りも尤もだ。


 でも私は無視した。私の後ろにいつの間にか別の客が並んでいたことも逆手に取り、先輩の不機嫌に気付かないふりをした。早々に会計を済ませ、私は何かに急かされるように店を出た。


 案の定、少し離れた道の先に、先程の女子高生2人の背中が見えた。


 車が走る音。灼けたアスファルトと排ガスの臭い。灰色の道路。明滅する信号。


 その向こう、台風一過の茹だるような暑気の中、少女たちの紺色のスカートが陽炎を掻き混ぜるように揺れていた。


 彼女たちはいまから行くのだろうか。


 そこは何処で、どんな場所で、


 誰がいるんだろうか。


 誰がいたんだろうか。


 怒涛のような理性と感情の渦が頭を埋め尽くす。わずかに踏み出した左脚の行き場も分からず、靴底がジリジリと擦れていく。吐き気がするほど真っ青な夏空と、喉を塞ぐほどの熱気と、耐え切れないほどに集まったこめかみの汗が玉のようにスウッと頬を伝って、


 私は、そっと踵を返した。


 一歩。一歩。一歩。一歩。


 小うるさい蝉の大合唱。噎せ返るほどの湿気と夏熱。気持ち悪い汗が左手に滲んで、掴んだティラミスのカップが危うく滑りそうになる。


 私には、女子高生たちを追い駆ける勇気がなかった。その先にある何かを確かめることができなかった。


 可能性は可能性のままで。


 憶測は憶測のままで。


 確かめなければ自由でいられる。


 まだ逃げていられる。


 だから。


 そんな、誰に打ち明けるでもない理屈を、心の奥底でどろどろになるまで捏ね繰り回しながら、私は帰路についた。


 家に帰り、靴を脱ぎ棄て、手も洗わないまま、早々にティラミスを口に運んだ。甘ったるい砂糖の味。抹茶も苺も舌の上でほのかに感じ取れるが、それ以上の砂糖の味が口の中を埋め尽くす。均一な甘さが口の中で溢れ返る。そして、カップは空になる。


 この味に救いを見出せなかった私は、一体何をすればいいのか。何を後悔すればいいのか。それともこの言い知れぬ感情は私が背負って良いものでは無くて、これは、もしや、あの男だけの。


 何ひとつ分からないまま、私は窓の外を見やった。


 台風の過ぎ去った、真っ青な夏空。そこに浮かぶ馬鹿げたほどに膨らんだ入道雲。窓越しにも響き渡る蝉噪。晩夏のくせ、それら全てに夏の陽射しは容赦なく。


 それはきっと、蝉が命を落とすほどの。


 そこで私は考えるのを止めた。


 代わりにそっとスマホを起動する。連絡先を浚い、通話ボタンを押し、電話口に出た能天気な店長へ向かって、


 バイト辞めます、と告げた。




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