寒い夏
あの時の空を鮮明に思い出したのは、この雪が溶け切った瞬間だった。覆い隠すものが何もなく、ジリジリと照りつける太陽が懐かしい。足跡は自分のものだけで、見渡す限り誰もいない。かつて栄えた繁華街も今では見る影もない。絶え間ない人口減少で皆行ってしまったのだ。老人ばかりで生きることなどできないのだ。そんなことを考えながら、ひたすら先に進む。あの光景を信じて。忘れられないひと時、それを共有した友人たち、思い出すだけで体が芯から暖まっていく気がする。この先に行けば、この寒さからも解放される、そんな風に思うことができた。
「なあ将来はどうするんだ。周りのみんなは進学だ就職だと話しているが、お前はどうするんだ?フリーターか?あ、それだと就職か。」
「進学に決まってんだろ。言ってなかったっけ?」
「ああそうか。思い出した。やべえな、俺も考え始めないと。」
いつも話すことがなくなると何度も話した話題になる。まるでボケてしまったかのように。こんな良い天気の中で、こんなにくだらない話をして時間を浪費できる幸せはいつまで続くんだろうか。まあ、途切れることもないか。壮大な前振りのようなことを考えてしまう。何も起こらない日常、退屈だけどそれがいいんだと思う。比較的平和だったという江戸時代もこうだったのだろうか。
ひたすらアスファルトが続いていた。ひび割れてガタガタになった歩道。崩れかけた車止め。転んだら非常に痛そうな地面。その恐ろしさはこの日差しによって確信に変わる。ほぼ確実にやけどをしそうな様子だ。地面にモヤがかかっている。遠景を歪めるそのさまはまるでブラックホールのようだ。そんな地獄の中を僕らは自転車で颯爽と走り去る。そのスピードがよどんだ空気を爽やかな空気に変える。汗だくになった脇の下から背中に抜ける冷感が至福だった。しかし、それもつかの間。忌々しい信号機によって夏の空気は牙を剥く。むっとするような空気がどっと押し寄せる。やけに古びたストーブの目の前で、揺れる炎を見つめているようだ。律儀に青に変わるのを待っていたが、一向に車が来る気配はない。あるのは、雑草と友人と、あの憎き赤信号だ。
そんな時だった、奥にやけに大きな入道雲が見えた。普段は見たこともないようにも感じた。少し灰色でしたからわずかながら明るい光が出ている気もする。
「なんかあの雲変じゃね。」
「ええ、ただの入道雲だろ。あんなもんだろ。あの下じゃ大雨なんだろうな。」
「まあそうか。お、青になった。」
僕と友人はペダルに足をかけ勢いをつける。勢いに乗り、またあの素晴らしい爽快感が戻ってきた。
ドンッ。妙な爆音が耳をつんざいた。行ったことはないが、まるで典型的なクラブのドラム音のようだった。いや、そこまでまろやかな音ではない。メタル系のアーティストでも驚くような鋭い音だった。いや、もはやどんな音なのかよく分かっていない。全身で感じることができた。
「え、なんだ今の?」
「うん、聞こえた。またうるさい車かと思ったけど誰もいなそうだし。」そうしてしばらく呆然としていると、誰かが全力で自転車を故意でやってきた。
「ねえ、さっきの聞いた?ものすごいおっきい音。」同級生の女子だった。
「ああ、聞いたよ。今、なんだろうって話してたとこ。」
「なんだろうね。私たちがおかしいだけ?」
そしてなんとなくSNSを開くと、「配信中断」「システム障害」「爆音」といった言葉がトレンドになっていた。
「なんか色んな配信者とかが配信中断しまくってるらしい。中断というぶった切られたって。」
「それ関係ないでしょ。」
「あと、爆音もトレンドになってる。」
みんなハッとした顔になった。
「え、そんなに話題になるほどみんな体験してるっていうのか?なんかあった?」
そんな中でどこかで性格の悪い興奮を感じていた気がする。
「あ、お母さんから電話だ。ちょっと待ってて。ん、どういうこと?なんでそんなに焦ってんの?え、ふーん。」
「いや、なんか爆弾?落ちたとか何とか。」
ただでさえ流れ出ていた汗が少し増えた気がした。
「それってなんか勘違いじゃないの?」
「お母さん変な虚言癖あって、今もそれかな、たぶん。いつもは優しいし面白いんだけどね。」性格の悪い興奮はさらに正体を現し始めた。そんな時、突然スマホがけたたましく騒ぎ始めた。胸が締め付けられるような恐ろしい不協和音だった。
[緊急速報。原因不明の大爆発によって首都圏が壊滅しました。現在、原因を調査中です。安全な場所に身を隠してください。]
「え、どっか隠れろ。」
「あっ、あそこの高架の下とか。」
「まあしょうがないな。他にないし。」
少しジメジメした高架の下に3人で走った。風が少しも気持ちよくなかった。皆、とてつもない量の汗を吹き出していたと思う。そしてそのまま3人でぼうぜんとしていた。顔を見合わせ、ぎょっとした表情をしている。そして女子が口を開いた。
「これって核爆弾落ちたみたいなこと?」
「どうなんだろう。でも爆発って書いてあったしな。少なくともあの爆音の原因だろうけど。」
「それにしては警報遅くない?」
「都内だから通信でなんかあったんだろ。」
「Youtubeでライブやってるぞ。車の中の映像だよ。おい、すごいことになってるぞ。」やけに冷静な自分も含めた三人の感情はよく分からなかった。悲しくない訳では無いが、何故か表に出す気にはなれなかった。現実感がなく夢の中にいるようだった。このまま目が覚めることを期待していたのかもしれな
い。
「...これ...本当?瓦礫の山だよ。どうなんのこれから。」
「あー嫌になった。普通に大学行って普通に就職して普通の生活がしたかっただけなのに、なんでこうなんだよ!」
そのまま3人は黙りこくってしまった。スマホから聞こえてくる中継映像の音はセミの声にかき消されていた。
それから2時間ほど経った時だろうか僕はゆっくりと立ち上がった。2人は、おそるおそる外を覗く僕の方を見つめていた。それは非常に長く感じた。蝉の声はほとんど聞こえていなかった。思い切って外をみると何も変わっていなかった。暑さでよどんだ空気、規則正しく動く信号機、遠景に見える山々、何もなかったようにそこに存在した。妙な雲はすでに消えていて、夢なのではないかと期待した。しかし、緊急放送のようなものが鳴っているのに気づき、その期待は打ち砕かれた。内容としては避難しろという時に変わったものでもなかった。しかし、今は真夏である。最も危険なのは爆弾ではなく、この暑さだった。僕が学校の近所で買った2Lペットボトルも空だった。すぐにでも卒倒しそうな気分になってくる。
「おい2人とも。こんな暑い中これ以上ここにいると脱水で死んじまうぞ。外は平気そうだから、向こうに見える自販機でなんか買おう。」
「そうだね。行こう。自転車も忘れず。」
そして僕達は道端に置きっぱなしだった自転車を立てて、自販機の方へ歩き始めた。チリチリとなる自転車の音が印象的だった。
何事もなかったかのように求愛を続けるセミや通過する乗用車の音も聞こえたはずだったが、あの爆音のせいだろうか、周囲がやけに静かな気がした。
「本当に爆弾なんて落ちたのか?なんてことない日常としか思えない。」
「核爆弾って言ったら使ったら世界終わるイメージだったけど、流石に一発じゃ終わらないのか。」
「⋯」
蜃気楼のせいか、暑さのせいか、自販機までの道のりは想像以上に長かった。たどり着いたそこでは、昨日と同じように堂々と冷たい飲み物を売っていた。
「うげー。こんな時まで金払うんかよ。来月まで持つかな。」
「僕はこれで全額使い切るかも。」
「私は一応結構お金あるけど、無駄遣いはできないよね。」
そんなことを言いながら各々で飲み物を買った。皆買うなりすぐに飲み始めた。なぜか皆不思議とコーラだけを買っていた。コカ・コーラ社はこんな事態が起こっても、利益を生み出すのかと感心した。
「こういうときって自衛隊とかが来るもんじゃないのか?何してんだろ。」
「もっと被害が大きいところに救助とか行ってるんじゃないの。この辺は平気だし、後回しにするしかないんでしょ。」
「まあな。とりあえずどうしようか。まずは他の人たちを探したいな。そういやインスタとかラインとか見たらなんか分かんじゃない?」そういってケンはスマホを取り出した。そしてSNSの画面が開く。
「みんな学校にいるっぽいぞ。戻ってみよう。避難所に指定されてるっぽいから自衛隊とかもいるみたい。」
学校へと向かう道は、いつもより静かで、どこか重たかった。あれだけ騒がしかったセミの声も、今は遠くでくぐもっているように聞こえる。自転車のタイヤがアスファルトを削る音だけが、妙に生々しく響いていた。途中、コンビニのシャッターは閉まり、信号は機械のように律儀に点滅を繰り返している。すべてがいつもの風景で、すべてが少しだけズレている。現実が夢を真似しているようだった。
空は、さっきまでの灼熱を引きずったまま、どこかぼんやりとしていた。白く霞んだ雲の向こうから太陽の輪郭がにじみ出て、まるでこの世界を焼き尽くそうとしているようにも思えた。
「あと少しだな。」
誰かが呟いた。たぶん僕だ。声に出したことで、少しだけ確かさが増した。坂を上がりきったところで、見慣れた鉄柵が見えた。そこが学校の裏門だった。門の向こうに見える校舎の白さが、今はやけにまぶしくて、どこか嘘くさい。
正門まで回ろうとした時、遠くから聞き慣れない音がした。重機のような、金属がぶつかり合うような、混ざりきらない音の束。それは、自衛隊の車両だった。遠くに緑色の車体が見え、人影が忙しなく動いているのが分かる。誰かが大声を出しているが、風の音にかき消され、内容までは聞き取れない。
「本当に来てるんだな、自衛隊。」
「なんか、映画みたいだよね。」
そう言った彼女の声は、少し震えていた。僕らは、自転車を降りて押しながら正門へと向かった。すでに何人もの生徒たちが集まっており、見知った顔も、見知らぬ顔もあった。皆が口々に不安を語り、スマホを見つめては首をかしげる。また、一部の人々は他愛もない話をしたり、飲み物を分け合ったりしていた。いずれにせよ、皆、現実に追いつけていないようだった。
門の近くには、教師らしき人物と、自衛隊の隊員が立っていた。数人ずつ名前を確認し、避難の状況を記録しているようだった。僕たちはその列に並びながら、ようやく現実を受け入れ始めた。
この世界は、確かに何かが変わってしまったのだと。
それでも、誰もが今を生きていた。熱気に満ちた空の下で、コーラの炭酸の刺激がまだ喉に残っている。僕たちはまだ、生きていた。何かが終わったのかもしれないが、同時に何かが始まったのかもしれない。あの時の空を思い出すように、いつかこの瞬間も、記憶の中で熱を持って語られる日が来るのだろう。
「おう、鈴木と小野寺と、山白か。元気そうでよかった。」
門の前に立っていたのは偶然にも僕たちの担任だった。普段から明るく生徒からの好感度も高い彼は、いつもと同じように何もなかったかのように、接してくれた。
彼はグラウンドの端に設営されたテントの方を指さした。自衛隊の迷彩服を来た隊員と役所にいるような係員が何やら名簿を取っているようだった。
その後、手続きを終えたあたりだろうか、どこかにあるラジオから音が聞こえてきた。
[政府は本日未明の大規模攻撃を受け、行政機能の一部を西日本に移転し臨時政府を設置したと発表しました。現在、内閣の指揮及び関係各省の業務は、安全が確認された地域において暫定的に再開されているとのことです。
また、先の大規模攻撃を受けて、各国は緊急声明を....]
すでにあんな映像を観ていたため、少しも驚くことはなくなっていた。下がり始めた太陽の光は少しばかり柔らかくなり、心地よい風が吹き始めていた。
あれはちょうど3年前だっただろうか。この終わらない冬のせいで、まだ数ヶ月しか経っていない気がしていた。
でも実際には、三年という時間が経っていた。
冬が居座り続けるこの世界で、季節の境界はぼやけ、記憶と現実の間に靄がかかる。
あの日、僕たちが逃げ込んだ高架下。
そのすぐそばで、また三人が集まった。小野寺は、ポケットの奥に手を突っ込みながら、どこか安心したような表情で空を見上げていた。この三年、連絡は絶えずにいた。けれど、顔を合わせたのは本当に久しぶりだった。言葉を交わさなくても、それぞれの時間がここに繋がっていた。
「寒いね」
山白がぽつりと呟く。その声は、降り積もったばかりの雪のように柔らかかった。
「今年は少しマシだって言ってたけどな」小野寺が答える。彼の声にも、どこか凍えたような優しさがあった。
「この辺りもずいぶん片付いたね」
僕はそう言って、以前逃げ込んだ高架の方を見た。ひびの入った柱、雑草に埋もれた路面。それでもあのとき僕らが座っていた場所の影は、今も変わらずそこにあった。
「ここ、まだ覚えてる?」
山白がふいに言った。
「蝉の声がして、コンクリが熱くて、みんな汗だくだったな。」
小野寺が笑う。でもその笑いは、どこか懐かしさの底で揺れていた。僕たちは自然に座り込み、肩を並べた。雪がうっすら積もったコンクリートの冷たさが、過去を少しだけ鮮やかにした。
「なんか、また始まるのかなって思うことある?」
山白の問いかけに、僕と小野寺は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく首を縦に振った。
「何が始まるかはわからないけど、止まってはいないよな」
「うん。今も進んでる。寒くても、終わった感じはしないんだ」
風が流れていった。
空はまだ霞んでいるけれど、雲の切れ間からかすかな光が差していた。何かが終わって、何かが始まる予感は、いつだってこういう静かな日に忍び寄る。
「来年も、また会おうね」
山白が言った。
「今度はもう少し、暖かい日がいいな」
小野寺が言った。
「うん。春になってたらいいね」
僕はそう返した。
誰も笑わなかったけれど、その空気は不思議と軽く、どこかやさしかった。
3年前、ここから見上げた空は、ひどく眩しかった。
今、その空はまだ白いままだ。けれど、もう一度、青くなる気がした。