024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(7)
都市を巡る馬車の中はとても快適だった。上質な木材で組まれた車体には振動を軽減する特殊な素材と機構が組み込まれており、石畳の街路を進んでいるにも関わらず、まるで平地を滑るかの如し。
また車内と車外の至る箇所には豪奢な黄金飾りの意匠がふんだんに添えられており、見ているだけで目がチカチカしそうになってしまう。
「私としてはもっと質素な馬車のほうが好みなのだけれどね」
苦笑しながら、向いの席に座るエバンスとノイシュリーベに対して語り掛けるベルナルド。どうやらこの馬車は彼の持ち物というわけではないらしい。
「この都市の市長、つまり現在の"獣人の氏族"の氏族長でもある
オドルフ・ペルガメント殿の配慮で使わせてもらっているが……。
こんな装飾を施す資金があるのなら福祉施設に宛がってほしいものだ」
「はい、お父様。中心街はこんなに栄えているというのに
この子が暮らしていた場所で見掛けたヒト達は、酷い有様でした」
「…………」
二人が話している最中もエバンスは車窓より流れる街並みを食い入るかのように眺めていた。二年ほど掛けて散々歩き回った都市だというのに、自分が見ていた景色とは全くの別物に映っていたのだ。
それは馬車の車窓と子供の視点の高さの違いであると同時に、富める者と貧しき者、強き者と弱き者の間に隔たる絶対的な格差によるものでもあった。
まるで世界が違えて見えた。正しく常世の在り方を垣間見た。
「…………ぅ」
都市の中心部、『青銅広場』を横切ろうとした時に、思わず声が零れた。
子供の視点では見ることの適わなかった、或いは近寄ることすら出来なかった大きな天幕が車窓いっぱいに映ったからである。
天幕には楽しそうな飾りが施されており、周囲には人集りや何かの行列が形成されている。そして入り口付近には奇抜な恰好をした者達が様々な芸を披露したり、楽器を演奏しているのだ。
「あれは大規模な旅芸人の一座だな。
旗に描かれた座紋からすると……『エルカーダ』の奴か!
そうか、もうそのような時期なのだな」
エバンスの視線の先を辿ったベルナルドが、さり気なく解釈してくれた。
「お父様は、そのエルカーダというヒトとお知り合いなの?」
「ああ、ラナリア皇国陸軍と戦っていたころに私に協力してくれていた男だよ。
その時には自分の一座を持っていたのだが、何の気紛れなのか
最前線に居た私に何かと尽くしてくれた。彼の情報網には大いに助けられたよ。
終戦後は大陸中を渡り歩く一座として一挙に名を馳せたものだ。
そして、この時期には決まって旧イングレスの各地を巡業しているのさ」
「英雄を支えた人達なのね……」
「彼等のような存在なくして、私が戦い続けることは出来なかっただろう。
だからノイシュ、君もこれから出会う人達との縁を大切にしなさい」
「はい!」
「ふっ、そしてエバンス……君は彼等のような旅芸人に興味が有るのかな?
先刻から熱心に眺めているように見えた」
「……ぃ、せ ん」
分かりません。と答えようとした。
興味の有無でいえば、確実に有るのだと思う。彼等が奏でる様々な楽器の旋律には心より惹かれるものを感じたし、自分の意思で好きな土地に渡っていくという生き様も大いに魅力的に映った。
しかし現在のエバンスと彼等とでは、まるで立っている場所が違うのだ。
興味を懐いたところで彼等のような存在になれる気がしなかった。遥か遠くに映る御伽噺のような光景。故に、興味を懐く資格が己にあるのかすら、分からない。
「そうか……まあ、これから一歩ずつ自分を取り戻していけば良いさ。
ノイシュが見出した君ならば、きっと何かの可能性を秘めているのだろう」
エバンスの虚ろな瞳の奥に戸惑いの色と、微かな熱意のようなものを感じ取ったベルナルドは優しい声色で言葉を紡いだ。
「手前味噌だが、ノイシュのヒトを視る目は素晴らしいものがある。
この旅の間にノイシュが発した人物評には、私の臣下達も大いに驚いていた」
大きな掌を実娘の頭に添えて、優しく撫でる。すると当のノイシュリーベは少し気恥ずかしそうな素振りを見せながらも幸せそうに受け容れた。
「だからね、エバンス。私の館で働く間に、自分の裡に有るものを探しなさい。
君が本当に望むもの。心より希う生き方を見つけてほしい」
「………ぁ ぃ!」
胸の奥が熱くなるような感覚を懐きながら、今のエバンスに出来得る限りの声を絞り出して返答を返した。
『青銅広場』を通り過ぎ、中心街から外れると徐々に質の下がった家屋が立ち並ぶ区画へと移っていく。石や煉瓦を積み上げたそれらは統一された美しさを感じさせるものの、同時にどこか無機質な印象を人々に与えている。
「場所によって家の形がすごく違っているのね。
それに歩いている人達の服もぜんぜん違う……」
「ヴェルムス地方は弱肉強食の世界。だから階級差や実力差、富や権力の差を
覆して大成することは並大抵のことではないのだろう。
長らく続いた二つの民の諍いが、隔たりを助長させてしまった」
「お父様より前の大領主達は、なんとかしようと思わなかったのですか?」
「うん、中には試みようとした者もいたそうだが『森の民』との問題は
一筋縄ではいかない……結果的に、この地方は見過ごされてきた」
グラナーシュ大森林の奥深くにはイェルズール地方という魔境と、その地を支配する"黄昏の氏族"という者達が存在する。
彼等は隙あらば『人の民』の領域に遠征し、純人種を食料または家畜として連れ帰ることを生業としているのだが、その遠征を成し遂げるためには必ずレアンドランジル地方とヴェルムス地方を通過しなければならなかった。
そして『森の民』の各氏族に所属する者が、他の氏族が治める地方を闊歩するには一定の供物を捧げるか、さもなくば強引に武力で突破しなければならない。
したがってヴェルムス地方を支配する"獣人の氏族"は『人の民』と最も争ってきた者達であると同時に、"黄昏の氏族"の侵攻を制限してくれる防人でもあった。
斯様な背景事情のために歴代の大領主達は下手にヴェルムス地方の在り方を変革させることが出来ずにいたのである。
「何年先になるかは分からないが、この半島の諸問題を解決したいと強く希う。
まずは一つずつ着実に成果を挙げなくては始まらないが……。
視線をノイシュリーベからエバンスへと移し、彼の虚ろな瞳を見据えて、ベルナルドが熱く語り続ける。
「いずれは君のような境遇に陥る者が出ない領土にしていきたいのだ」
そこには熱意とは異なる僅かな悔恨の意思が見え隠れしていた。
「仮に私の代ではそれを成し遂げられなかったとしても、その基礎は建てよう。
そしてノイシュやダインの代では真に二つの民が手を取り合って
繁栄し合えるような社会になってくれればと、心から願っているのだよ」
奇しくもその言葉は、エバンスが首府ビュトーシュへ訪れて間もないころに声を掛けてきた人攫いの老人と類似したものであった。しかし発する声の真実味がまるで異なるのだ。
この英雄が、如何なる凄惨な世界を渡り歩いてきたのかエバンスには想像することすら出来なかった。しかし彼の発する言葉の一つ一つから確かな熱意と真摯さを子供ながらに感じ取れるほどには想いが伝わってくる。
「ゆっくりとでも良い、出来る限りの言葉で良い。
我が領土で暮らしていた君のことを教えてくれないか?
我々では決して視ることの出来ない、君の歩んできた世界を教えてほしい」
「……ぁぃ」
英雄ベルナルドの熱意を全身で浴びたエバンスの視界と心は、最早 完全に凍結状態から解き放たれて、元の色彩を取り戻そうとしていた――
その後、ベルナルド達の寄宿先に到着するとノイシュリーベを探し回っていた臣下達と合流を果たし、彼女が独りで駆け出した理由とともにエバンスのことも紹介された。
特に魔法と魔術の両方を修めているジグモッドなる人物からは大層に注目され、館に戻ったら資質を診たいと打診される。
なおノイシュ―ベは迷惑を掛けてしまったことに対して、臣下達に何度も謝罪を繰り返し、そんな彼女に臣下達は皆 温かい目をしながら受け容れていた。
その一部始終を傍で眺めていたエバンスは、エデルギウス家の主従達が強い信頼で結ばれていることを察したのだ。
寄宿先では実に数年ぶりに真っ当な食事や睡眠を採れる場所を与えられ、数日の後にはビュトーシュでの視察を全て終えたベルナルド一行に連れられてグラニアム地方に存在するエデルギウス子爵領へと渡ることとなる。
獣人種の生命力の強さや生来の逞しさもあってか、その数日の間にエバンスの健康状態も幾分か改善された。
少なくともエデルギウス子爵領に向かう馬車の中……都市内で乗っていた物とは異なる、無駄な装飾の無い質実剛健な造りの車内で過ごしている間には、充分に聞き取れるほどの声量で言葉を発することが出来るようになっていたのだ。
そうして徐々に健康と、感情と、言葉を取り戻し始めたエバンスは、馬車の中で己が辿って来た短い人生について二人に話していった。
故郷の村での生活、『下級戦牙』の過酷な現状、両親と兄弟が氏族長の差配で処刑されたこと、それ故に村人達から迫害されて追い出されたこと。
山野を独りで彷徨い歩いたこと、不思議な"声"が聞こえるようになったこと、ビュトーシュに辿り着いて数々の悪意に晒されたこと、骨拾いとして生きていくことしか出来なかったこと、それでも必死に生き抜いてきたこと。
全てを話し終えるころには日が暮れ始めており、その日 宿泊する旅籠屋へと立ち寄ろうとし始めた時刻になっていた。
「し、信じられない……」
「……なるべく双方に死傷者が出ないように差配していた心算になっていた。
応戦した我が軍の行動が、君の家族の死に繋がっていたとは申し訳ない限りだ」
「いえ、悪いのはベルナルド様に逆らった氏族長だと思っていますので……!」
馬車の中、向かいの席に座るベルナルドが頭を下げて詫びようとしたので、エバンスは慌てて言葉を挟んで止めようとした。
「今は自分の故郷に帰りたいとは思っているの?
お父様が話せば村に戻るのはもちろん、あんたを追い出した村長達に
土下座させて謝らせることだってできる筈よ」
「…………いいえ」
少しだけ言葉を詰まらせながらも、首を横に振りながら返答した。
「今更……あの村に戻る気にはなれませんし……村長達を恨んでもいません」
「どうしてよ! そんなひどい目に遭わされたのならやり反そうと思わないの?」
「……意味を感じないからです。
村長達も……"獣人の氏族"の一員で、その決まりの中で苦労していたから……。
家も残っていませんし、それなら新しい場所で居場所を作りたいです」
「それは、そうなのでしょうけど……んー」
「そこまでにしておきなさい。
彼が故郷に戻る意思がないのなら、それで良いじゃないか」
納得はしながらも、まだ何か口を挟みたそうにしているノイシュリーベをベルナルドが静止する。
「それにしても、農村部ではそのような生活が罷り通っていたとはな……。
ビュトーシュの役人達が説明していたことと随分と食い違っている」
「……二年前のことなので、今は……どうなっているのか……分かりません」
「そうだな、次にヴィートボルグに戻ったら密使を放って調べさせよう。
本格的な調査は雪解けの後の時期となってしまうだろうが……。
この地について少しは分かっていた気になっていたが、恥ずかしいものだ」
一度目を瞑り、再び申し訳なさそうに言葉を返してから開眼して車窓の外の景色を一瞥した。
ヴェルムス地方は広い平原と湖に面した比較的肥沃な土地の筈だ。
寒波への対策さえ万全ならば、戦ではなく農耕や湖漁に励むことで飢える者は格段に減り、生活は安定する。
だが、それを実現させるには"獣人の氏族"の価値観や伝統が立ちはだかる。
「私の力だけでは、君が暮らしていた村々まで改善することは難しいだろう。
だからエバンス、良ければノイシュ達の時代になった時に知恵を貸してほしい」
「……!」
「ここ数日の間、話していて思ったのだが君の知性はとても七歳児とは思えない。
館で働きながら教養を積めば、必ず一廉の人物に成り得るだろう。
勿論、ノイシュ達に協力するかどうかは将来の君に委ねたいと思うがね」
「そうね! ビュトーシュで出会ってからちょっとしか経っていないのに
随分と話し易くなってきた気がするもの」
「……考えて、おきます」
正直に言って己のような『下級戦牙』の出身者が眼前の英雄や、その実娘の役に立てるような人物になれるとは、この時は全く実感が湧かなかった。
然れど、ノイシュリーベが垣間見せた輝かしき姿や、ベルナルドから感じた熱い想いと言葉は着実にエバンスの心に影響を及ぼし始めていたのである。
一行は道中の旅籠屋に寄って停泊し、更に数日を掛けて南西の方角へと進む。
幾度目かの朝日を拝み、正午へと至るころには遂にエデルギウス子爵領の館へと辿り着くのであった。
・第24話の7節目をお読み下さり、ありがとうございました。
・エデルギウス家の馬車は、現在のヴィートボルグなどでも使用されている黒塗りの質実剛健な造りの車体となっていて、見栄えよりも耐久性や整備性が重視されています。
この辺りは『大戦期』を最前線で戦い抜いたベルナルドの価値観が大いに反映されています。