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024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(5)


 その少女は、辺りに降り積もる雪よりも遥かに真白だった。


 真白であると同時に、月輝が溶けたかのような翠色の燐光を帯びていた。


 灰色と銀へと色褪せた筈のエバンスの視界に於いて、其処だけが例外的に色彩を帯びていたのだ。

 


「…………」


 言葉を返そうとしたが上手く口が動かない。喉から息を零すことすら億劫に感じた。ここ数ヶ月はまともに誰かと会話してこなかったのだから当然か。

 会話どころか最後に言葉を発した日すらも記憶を辿ることが出来なかった。


 もごもごと口を動かそうとするエバンスに対して、少女は少しだけ我慢して待っていようとしていたものの直ぐに痺れを切らし始めた。

 どうやら、あまり我慢するということに慣れていない様子である。



「答えられないの? "声"くらいは聞いたことあるんでしょ?

 普通のヒトは精霊の姿を視ることができないのは知ってるけど」


 "声"については心当たりがあった。数年前から幻聴だと思い込んでいたものであろう。云われてみれば確かに、あの"声"からは悪意は感じなかった。



「あー、もう! 黙り込んでいられたら何も分からないわ。

 それにさっきから酷い臭いだし……どうなってるのよ、ここ」


 浮浪者や骨拾いが屯する区画に足を踏み入れるという経験が今までになかったのだろう。彼女の井出立ちを鑑みれば容易に察することが出来た。

 彼女は明らかに貴族御用達といった上等なポンチョやブーツを身に纏っているのだ。このような場所に対して完全に不釣り合いだと云えた。



「仕方ないわね、お父様からは人前では唱えるなと言いつけられてたけど……」


 少し迷った素振りを見せながらも、次の瞬間には意を決してポンショの下に身に付けていた小さなポーチの中からエメラルド色の液体が入った小瓶を取り出した。

 それを挟み込むような形で胸の前で相掌すると静かに、何かの言語を呟き始めたのである。




「グレミィルの空をめぐる、おおいなる原初の風の精霊たちにおねがいします。

 光の雫のおみちびきをえて、浄化の洗風をおこしたまえ」



 小さな口を動かして言葉を紡いでいく度に、エバンスは周囲に漂う何かが蠢く気配を感じ取っていた。それが魔力だということに気付くには暫し先のこと。




「『―――『けがれなき風域(ザンクトゥエールデン)』」


 少女が詠唱句を唄え終えると同時に小瓶の中の液体が眩く輝き始め、独りでに小瓶の中から飛び出た後にエバンスの周囲を回遊するかのように渦を描いた。


 其は穢れを巻き取る一陣の旋風(つむじかぜ)。瞬き一つの間にエバンスが身に纏っている衣服を呑み込み、遥か天高くへと飛翔して何処(いずこ)かへと消え失せる。

 エバンスが気付いた時には身に付けている衣服やボロ靴の(ことごと)くより、まるで洗濯して日干しした直後のような清潔さを感じ取れた。

 それだけではない。エバンス自身も清水(せいすい)で沐浴したかのような、心身ともにさっぱりとした境地に至っていたのである。




「これでよし! ふふっ、だいぶ綺麗になったわね!」

 

 エバンスを含む周囲一帯に蔓延していた臭気や埃、塵に汚水、更には降り積もり始めていた雪すらも掻き消えていたことを見咎めた少女は満足気に頷いていた。



「…………」



「あんた、名前はなんていうの? それくらいは言えるでしょ……って、

 こういう時は自分から先に名乗るのが礼儀だってお父様が言ってたわね」


 空になった小瓶をポーチに仕舞い込んでから左掌を自身の胸に当て、右掌を(うずくま)ったままのエバンスへ差し向けながら堂々と己の名を告げた。





「私は! ノイシュリーベ・シドラ・エデルギウス」



 冬の寒空の下、澄んだ大気の渦中にてよく徹る幼い声が裏路地に響き渡る。

 三重輪の光輪を灯らせた双眸にて、真っ直ぐにエバンスを見詰めていた。





「お父様の後を継ぎ、このグレミィル半島を統べていく者よ」



 己と同じくらいの年齢と思しき少女、ノイシュリーベは自信満々に告げた。


 旋風(つむじかぜ)によって浄化された周囲の景色と、降り注ぐ月輝に照らされた彼女の姿は、恰もスポットライトを一身に浴びた舞台俳優の如し。

 翠色の燐光が、ノイシュリーベという存在をより一層と際立たせていた。



 種族も、性別も、産まれた境遇も、何もかもが異なる。正しく別世界の住人だ。

 数少ない共通点があるとすれば、それはこの日、この夜、この都市に居合わせたというだけであろう。あとは精々、精霊に愛された者同士ということくらいか。




 だからこそ、無二の出会いへと導かれた。


 だからこそ、路が交わる瞬間を刻み得た。




「……だから! そんなところで座り込んでないで私についてきなさい!」


挿絵(By みてみん)




 ノイシュリーベは、眼前の狸人(ラクート)の少年が上手く言葉を発せられない状態にあると気付き始めていた。故に、先ずは場所を、環境を変えて正面から対話しようと試みだしたのだ。


 それは即ち、ノイシュリーベがエバンスと対等に接しようとしている証左。

 対等に接するに値する人物である可能性を見出したという慧眼。


 こんな路傍の石も同然の薄汚い己に対して、どうしてこの少女は真剣な瞳と言葉と、そして右掌を傾けてくれているのだろうか? 

 家族の戦死を皮切りとした一連の悲劇を経て散々に凍て付き、遂には視界より色彩を喪うまでに壊死し掛けた心が、温かいものに触れて溶け出すような心地良さを感じていた。




「…………ぅぅあ。……あぁ」


 ようやく絞り出すように吐き出した声は、まるで言葉にはならなかった。己の声を耳にしたのも久方ぶり。それでも、懸命に声を発した。

 眼前に差し出された右掌へ、己の右腕を伸ばして掴み取ろうとした。もしここで掴めなかったら、明日の朝には他の骨拾い達と同じように無価値な死骸と成り果てている予感がしたのだ。




「……すごい手。館で働いてる使用人たちよりよっぽど苦労してきたのね」


 痩せ細り、枯れ枝のようになっていたエバンスの腕を見て痛ましそうな表情で呟いた。その掌で懸命に自身の右掌を掴み取ろうとする少年を、持てる力の限りを尽くして立ち上がらせた。




「じゃあ行きましょう! 勢いにまかせて走って来ちゃったから

 ここがどこなのかは分からないけど、歩いてたらそのうちなんとかなるわ!」



「…………」


 幼いエバンスの腕を自ら引っ張るようにして、ノイシュリーベが歩き出す。

 その自信はどこから来るのか? どうしてそのように一見すると楽観的に、前だけ向いて進んでいけるのか、この時のエバンスにはまだ理解できなかった。


 しかし、裏路地をぐんぐん歩いて行く彼女の姿を間近で目にしていると、将来このグレミィル半島を統べるという言葉があながち法螺ではないように感じられた。


・第24話の5節目をお読みくださり、ありがとうございました!

 出会い方はこのような形で、そして旅芸人エバンスの本領発揮はこれからとなります。

・さて、次回投稿予定日は1日空きまして8/9(土)となりますので、こうご期待下さい!

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