024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(3)
[ヴェルムス地方 ~ 首府ビュトーシュ ]
ヴェルムス地方の中央よりやや南西の位置する場所に、この地方で最も大きな都市であるビュトーシュは栄えていた。
グレミィル半島最大の湖であるヴェルミィス湖にも程近く、古来より陸路と水路による二つの路からヒトやモノが流入していたためか為政者達が拠点を構えるようになり、彼等を相手に商売をする者達によって自然と都市が形成されていった。
"獣人の氏族"は常に山野を駆けて、移動しながら生活する部族が大勢居るのだが行政を担う者は流石に都市に拠点を構えなければ成り立たなかったのである。
都市を囲む防壁。石畳で舗装された街路。煉瓦と石で編まれた無骨な家屋。近くにヴェルミィス湖という水源があるとはいえ、半島内で最も強風が吹き荒れる土地柄なのか、全体的に耐火性を重視した建造物が散見された。
都市内を往来する者は、やはり獣人種が圧倒的に多かった。
エバンスの故郷の村以上に様々な種族が入り混じり、極稀に見掛ける純人種の男性が肩身の狭い思いをしている様子が視界に映る。
「何だこの薄汚ぇガキは?」
「逃亡奴隷か? それにしては首枷や足枷は見当たらねえな」
防壁の入り口付近に立つ番兵達……槍を持った犬人達がエバンスの身形を見るや不躾な言葉を浴びせ掛けた。都市の安全を守るために配置されているのだから、不審者を訝しむのは当然ではあるのだが。
「ふん、大方どこぞの農村で、口減らしのために棄てられたんじゃねえか?
この時期にビュトーシュまで来る奴は中々珍しいけどな」
「おうよ、この寒空の下で此処まで辿り着いた根性だけは大したもんだ!」
現在の季節は秋から冬に掛けて本格的に寒波が押し寄せ始める頃合いである。此処より更に北の地方では既に雪が降り始めている。
「都市に入りたきゃ好きにしな。ただし、お前みたいなガキに出来る仕事は無ぇ。
無様に野垂れ死ぬか、さもなきゃ奴隷商に攫われるのがオチだろうぜ」
「わははは! 違ぇねえや!」
一応の身体検査を行い、特にこれといった武器や危険物を所持していないことや伝染病などに罹患していないことを確認すると、意外とすんなり都市内に入ることを許されたのである。
その背景には、『大戦期』以降も長らく続いた小戦の影響で減少した労働人口を少しでも補うためにビュトーシュへ訪れた者に対する入都条件が緩和されていた時期という事由があった。
とはいえ番兵の言う通り、身寄りも無ければ教養も無い、更に五歳という幼子を雇うような物好きなど現れる筈もなく……救護院や孤児院も、この時期はエバンスのような戦災孤児で溢れかえっていたので受け容れてもらえなかった。
大きな都市の中には入れたが、それだけだ。山野を徘徊する魔物の脅威から免れただけでも僥倖と云えるが都市には都市の脅威が蠢いているのである。
「へっ、何処から流れて来やがったガキかは知らないが、
ここいらは俺達の縄張りなんでな! 分かったら金目もん置いていけや」
「ほほほ、そこのお坊ちゃん。コーデリオ教に興味はありませんかな?」
「おい、狸人が居やがったぞ! 商会のデブどものツレかもしれねぇ! とっ捕まえて身柄と引き換えに金をもらおうぜ!」
裏路地に陣取る悪漢の一味。怪しい宗教家。戦争が終わって食い扶持を失った『下級戦牙』の慣れの果て……などエバンスの身に降り掛かる災難は後を絶たない。
そういった者達の魔の手から逃れながら、生ゴミを漁って飢えに耐え、都市の中を流れる川の水を汲んできては渇きを凌いでいた。
その一方で都市の中心街を彷徨い歩いていると自分と同じ狸人と思しき中年男性が悠々と出歩いているのである。彼等は一様にして下腹を膨らませており、贅沢な暮らしをしていることが一目で判った。
狸人という種族は得てして背が低く、手足は太く、腹が出ている。
ずんぐりむっくりとした体形をしているものだが、彼等はそれを遥かに凌駕した肉の塊のような外観に至っていたのだ。
「何だ、薄汚いものが動いていると思ったら……とっとと此処から離れたまえ。
お前のようなみずぼらしい奴が我々と同じ種族だなんて反吐が出るわ!」
心底嫌そうな顔をしながら衛兵を呼ばれてしまい、中心街から摘まみ出された。
また、ある時は裏路地の端を歩いている時に親切そうな老人に声を掛けられた。
身形の良い純人種の男性で、第一印象からして物腰の柔らかさが伝わって来る。
「やあやあ、君はもしかして行く宛てがないのかな?
だったら私達がこれから建てようしている孤児院に来てみないか?
もう冬も本番だ、これからの時期を路地裏で過ごすのはさぞ身に堪えよう」
弱き者を憂うような優しい目と声色で語り掛けてきた。
この時、エバンスは微かな違和感と尻尾の毛の先が逆立つ例の感覚に見舞われていた。しかし罵倒や怒号、嘲笑や宗教勧誘など以外で誰かから話し掛けられたのは実に久しぶりのことであったがために、人恋しさもあってか耳を傾けてしまった。
「私は『人の民』と『森の民』が手を取り合って生きていく新たな時代のために
君のような若者達を保護し、一人一人に適した生活の場をを与える事業を
始めようとしているのだよ。……その第一号になってみないかな」
「あぁ……あの、はい」
絞り出すようにして、エバンスは久しぶりに口から言葉を発した。ようやくこの生き地獄から解放されるのかという安堵から自然と涙が零れたのだ……。
「さあさあ、まずはたっぷり腹を満たすといい。何をするにもそこからだ」
老人の借り屋だという、この都市では珍しい木造の家に招かれると、あまり質の良くない硬い黒パンであったが皿一杯に盛られた食べ物を与えられた。
エバンスは無我夢中でそれを食した。数ヶ月ぶりのまともな食事を力の限り頬張り、陶器製の盃に注がれた真水で喉を潤すうちに急激な眠きに襲われた……。
オキテ…… オキテ…… ネテイタラ タベラレチャウヨ……。
「……ッ!?」
耳元で囁く"声"によって目を醒まし、体中に痛みが襲い掛かる。
どうやら倉庫のような部屋に放り込まれ、手足は縄かなにかで縛られていることに気付いたのだ。
「(こ、これは……)」
口元にはボロ布で猿轡を施されており、声を発することすら出来ない状態だ。
しかしエバンスは数ヶ月に及ぶ過去な生活の中で培った危機意識の中で、いざという時のために服の袖に硝子の欠片を仕込んでおくことを学んでいたのだ。
縛られながらも少しずつ腕を動かして硝子の欠片を取り出し、腕の縄に切れ込みを入れ、時間を掛けてどうにか縄を断ち切ることに成功した。
続けて猿轡を外して呼吸を楽にし、足の縄も外していった。
自由に動き回れるようになると、そっと立ち上がって忍び足で倉庫部屋の扉へと近寄った。扉に鍵は掛かっていなかったので音を立てずに開く。
そうして木造の家屋の廊下を歩いていると、通り掛かった部屋より灯りが漏れていた。あの老人の他に数名が食卓を囲って団欒しているようだった。
「いやぁ、それにしてもちょろいもんですな。これで十人目ですか」
「ははっ、この都市には戦災孤児が山のように居る。
そしてこれからも余所から流れて増え続けるだろう。
獣人の奴隷は他の地方では高く売れるからな……このまま稼がせてもらおう」
「我々にとっては正に宝の山! 危険を冒して渡ってきた甲斐がありましたな!」
彼等が言っていることの意味は当時のエバンスには解らなかったが、それでも彼等が親切な純人種のふりをした悪辣者であることは朧気ながら察した。
「…………」
エバンスは再び涙を……今度は安堵や嬉しさとは真逆の意味の涙を零しながら、必死に足音を立てないことに注意して木造の家屋より抜け出したのだった。
その後も数々の都市の悪意がエバンスに擦り寄り、牙を向いた。
時には危うい綱渡りを何度も味わいながらも懸命に搔い潜り続けた。
代償として、幼いエバンスの心は徐々に擦り潰されていき、やがて何も感じなくなりつつあった……。
道行く人々の笑い声も、酔客同士の大喧嘩の喧噪も、悪漢達から浴びせられる怒声も、中心街で大道芸を披露する旅芸人すらも、心に響かなくなっていた。
時折、頭に響いていた"声"すらも段々と聞こえなくなっていた――
ビュトーシュにも『冒険者統括機構』の支部が存在し、冒険者の新規登録も受け付けてはいるのだが、基本的には成人を迎えた者にしか門徒は開かれない。僅か五歳のエバンスでは門前払いも同然に追い返された。
結局この時のエバンスに出来たことはといえば、浮浪者に混ざって骨拾いに身を窶すことくらいであったのだ。
骨拾いとは乞食と廃品回収者の中間。富める者からの施しに縋る一方で都市の各所で棄てられた物品や食料を拾い漁る者達のことである。
ボロ布、紙屑、木材の欠片、肥料に仕えそうな糞尿、食べ終わった肉や魚の骨、金属の欠片、投棄された武器や防具、そして稀に壊れた魔具などを拾えることがあり、それらは都市の外れの荒屋が立ち並ぶ区画で元締めをしている男が二束三文で買い取ってくれた。
尤も、骨拾いが手にすることの出来る賃金は真っ当な職に就いている者の一割もあればかなり良いほうで、エバンスの場合は月収にしてグレナ銀貨三枚、好調な月ですら大銀貨二枚になれば上等といった有様であった。
この程度の収入では安宿に泊まることすら難しく、裏路地の廃材を搔き集めた寝床で雨風を凌ぐより他なかった。
来る日も来る日も足を棒にして栄えた都市の中を歩き回り、人々に棄てられていった物を探しては拾い集める。実に惨めだが、それでもエバンスは盗みや強盗殺人などの悪事に手を染めることだけは一切しなかった。
枯れ逝く心の奥底で、故郷の村に居た時に親身に接してくれた旅芸人の言葉が微かに遺っていたからである。
「いいかい坊や、今は苦しいかもしれないが諦めずに足掻き続けなさい」
最早、エバンスには帰りを願う家族などは居ない。ならば何のために足掻こうとしているのか?
「足掻いて足掻いて、それこそ腐肉を齧ってでも生き延びていけば
人生を一変させるような出会いというのが一度くらいはやって来るものなのさ。
その時に、その出会いに乗っかっていけるよう自分を磨いておきなさい」
その出会いとやらを期待しているのだろうか?
誰かが、自分以外の何者かが、この惨めな惨状から救ってくれるのだと……。
馬鹿げている。誰かから与えられた救済など結局は掌で掬い上げた砂粒の如く容易く流れ落ちていくだけだというのに。
遥か太古の時代には神々などという施しを与えることを生業とする者達が存在していたらしいが、彼等はとっくの昔に狩り尽くされているのである。
つまりヒトは自分の力で、自分の脚だけで歩いていかなければならないのだ。
幼く、教養のないエバンスには自力で答えを見出すことなど出来なかった。
しかし旅芸人から贈られた言葉は、その意味を解らずとも自然と生き抜くための指針にはなっていた。
都市の何処かで拾った穴の開いた大きなブーツを、同じく拾った紐で縛るようにして子供の足でも強引に履けるよう仕立てた。
衣服も同様に、ボロ布や廃棄された服を糸で継ぎ接ぎしたものを纏った。
旅芸人から言われたとおり、身体の欠損だけはなんとしても免れようとした。
エバンスと同じ骨拾いや、それすら出来ない乞食の中には冬の寒さの中で凍傷に陥り、手足の指が壊死していった者達が大勢居た。
彼等の有様を目の当たりとして痛いほどに学び、冬場は特にボロ布を幾重にも手足に撒いて凍傷だけは絶対に避けようとしたのである
そうして二年の月日が経ち、エバンスは七歳となり、三度目の冬を迎えた。
完全なる終戦を迎えてからというもの、年月の経過にともなって都市は賑やかさを増す一方であった。その反面、エバンスのような路傍の石も同然の者達は、汚物であるかの如く見て見ぬふりをされ続けていく……。
「…………」
その日も朝から晩まで都市内を歩き続けた。廃品を拾っては元締めが居座る区画まで運び、僅かなグレナ銅貨へと換金する日々。
極度の披露と栄養失調からか、七歳になったにも関わらずエバンスの背丈は一向に伸びる気配がなく、手足も枯れ木の如く痩せ細ったままだった。
とてもではないが中心街で暮らす裕福な狸人達と同じ種族であるようには思えない有様である。
「…………」
最後に言葉を発したのはいつだったか思い出せない。誰かと話した記憶もない。元締めには無言で廃品を引き渡して、無造作に銅貨を投げられるのが常だった。
裏路地の一角にボロ布を敷き、廃材を固めて雨風を凌ぐだけの棲み処に蹲りながら、冬の寒空を見上げた。もう直ぐ今年も吹雪が吹き荒れるのだろう。
ヴェルムス地方は平原が多い土地故に、寒波を遮る地勢が少なく他の地方よりも冬場は厳しく感じるという。
頭上には、この地上世界を照らす三つの月のうちの二つが輝いている。月が三つ揃う日は一年を通しても限られており、大抵の国ではお祭りが開かれるという。
しかし骨拾いのエバンスには関係なかった。ただただ無慈悲に頭上で輝いているだけの灯りに過ぎないのである、最早、何の感慨もない。
言葉を失い、感情は枯れ果て、そしていつしかエバンスの視界からは色彩すら喪われていた。夜の都市を照らす篝火も、頭上の月光も全て等しく灰色に映るのだ。
そのことに対してすら、もう何も思うことはない。もう何も疑問には感じない。
更に数日が経過した。いよいよ本格的な吹雪が押し寄せた。
ビュトーシュの街並みは雪化粧を纏い、道行く人々は寒さに震えた。
暖かそうな獣毛を生やす現地の獣人種達ですらこれなのだから、純人種達にとってはさぞや堪える冬の一時と化すことであろう。
「…………」
廃材に埋もれるエバンスも例外なく身体を震わせていた。今年の冬は特に寒い。加えて作物も不作で、家畜も大量に死んでいったらしく、都市に棄てられる廃材や食べ残しもどんどん減っていた。
その皺寄せはエバンス達、骨拾いにも伸し掛かり……ついに一日中歩き回ってもグレナ銅貨の一枚すら得られないほどであった。
カビの生えた黒パンすら買えない日々が続き、懸命に生き続けていたエバンスにも、とうとう餓死という未来が見え始める。
他の骨拾い達も、一人また一人と息絶えていく姿を連日のように垣間見た。
「…………」
呻き声すら挙げることすら出来なかった。もう、都市を歩き回る余力すらない。
立ち上がる気力すらも……湧かなくなっていた。
頭上より無慈悲に降り注ぐ月光を見上げながら、灰色と銀に染まった視界に白い靄が掛かり始める。
瞼が重い。
物凄く、眠たい。
このまま、何も感じることなく眠ってしまいたい。
そうすれば楽になれるのだろうか。
結局、生きてきた意味すら解らないままであったけど……。
身体を震わす寒波すらも感じなくなりつつあった、その時。
暫く聞こえなくなっていた"声"が再び耳元で囁き始めた。
クルヨ…… クルヨ…… ヤッテクルヨ……。
キミノ ビャクヤ ガ モウスグ……。
"声"が何を告げようとしているのか、終ぞ解らなかった。どうでも良かった。
灰色と銀に染まった世界の中で、遠くから小さな足音が響いてきた。足音は右往左往しながらも、着実にエバンスに近付いている。そして……目の前に。
「いた! やっと見つけたわ!
あんたでしょ、そのキラキラした精霊を引き連れてるの!」
息絶えようとする狸人の眼前に現れたのは、真白な少女であった。
・第24話の3節目をお読み下さり、ありがとうございました!
次回はノイシュリーベ側の視点を挟ませていただきたいと考えております。