024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(1)
「お待ちどうさま、ゆっくりしていって下さいねー」
「ありがとうございます。いただきます!」
席に座ったラキリエルとエバンスの前に、給仕が赤い液体の注がれた木盃を二つ置いていってくれた。
冬の間に採取した赤色のヴィンターベリーを摺り潰して原液としたものを、冷水で割った大衆向けの果実水である。
よく冷えた果実水により外気温との差によって木盃の表面には結露が生じ、一筋の水滴が滴っていた。
「そんじゃあ、話していこうかな……」
~~~♪
ゆっくりと弦楽器を奏でながら、エバンスがぽつりぽつりと過去の出来事を紡ぎ始める。音楽を伴わせて少しでも演出染みた語りに仕立て上げようとしているのは旅芸人の性質なのか。
それとも、これより口にすることが凄惨な史跡であるために、物語として語らなければ聴き手が苦痛に感じるかもしれないと理解しているからなのか。
その曲調は、水面に静かな波紋が広がっていくかの如く。
然れど、奥底に秘めた律動は切なく、熱く、不可逆の転調を繰り返す。
昼下がりの街中の風情を崩さないように、通行人や他の客達から注目され過ぎないように、人々の足音に紛れるようにして音色と語部の声が響いていく――
[ 約十七年前 ~ グレミィル半島 ]
旧イングレス王国より独立したグレミィル半島の治世は、『大戦期』での活躍を経て大領主に封じられた『人の民』の英雄ベルナルドと、『森の民』の有力氏族の出身者であるダュアンジーヌとの婚姻により平穏へと向かう途上にあった。
両者が結ばれて二年の月日が経つころには双子の妹弟を授かり、その存在と成長は、半島の行く末に更なる希望と安定を齎すだろうと領民達は大いに喜んだ。
しかし二つの民の棲息圏の端境では未だに小競り合いが続けられており、表立った諍いが収束するには、更に数年の月日を要することになるのである。
それより以前の『人の民』と『森の民』は、幾星霜を経て折り重なった歴史の醸造の中で対立と宿痾を煮詰まらせていた。
城塞都市ヴィートボルグおよびグリナス大河を基軸として東西に延びる境界線は常に激しい戦闘が繰り広げられ、夥しい鮮血で染めあげられてきたと云う。
ラナリア皇国の侵攻を受けている最中ですら両勢力は相争う関係を続けており、
特に『人の民』の勢力圏であるグラニアム地方、ウープ地方と隣接する『森の民』の勢力圏……ヴェルムス地方は陰惨を窮め尽くした。
ヴェルムス地方とは、グラナーシュ大森林の南西端に位置し、森の恩恵は少なく平原の面積の方が圧倒的に広い。
故に走力に優れ、野生動物や魔物を狩ることに長けた獣人種や、森を追い出された炙れ者が身を寄せて暮らす土地であり、『森の民』にとっては僻地に相当する。
また『人の民』との争いの最前線ということもあり、武力に基づく統率こそが何よりも尊ばれた。
事実として戦闘適正が高く、厳格な階級意識による統率力に優れた"獣人の氏族"が支配層として君臨し、ここ百年近くの間は『森の民』達の調停の場である大議会にも彼等の代表者が参席し続けていた。
狸人であるエバンスもまた、そんなヴェルムス地方の出身であり、両親は苗字を持たぬ『下級戦牙』という最も低い階級層の産まれであった。
『下級戦牙』は最低限の訓練と武装を施された上で『鮮血に染まる境界線』を維持するために雑に投入されては消費されるだけの雑兵である。
中には戦場で頭角を現して大出世を遂げた者もいたが、それは極一部の例外に過ぎず大半は無意味な死骸の山を積み上げていたのである。
最下層の生活は非常に苦しく、真っ当な教養などが許される筈もない。
幼少のころから田畑を耕して作物を育て、前線の兵站を支える術を強要される。そして十五歳で成人と見なされると同時に戦場に駆り出されるのが常だ。
文字の読み書きどころか満足な娯楽も与えられない。その一方で氏族社会の維持のため、やたらと子を作ることが奨励された。故に『下級戦牙』は家族が多い。
エバンスの実家はヴェルムス地方の北東、グルエダ領の農村部に所属しており、物心付いた時から畑に出て両掌を土に塗れさせ、ひたすらに桑を振るい続けた。
この地の特産品は麦類と根菜類、そしてオルデラ山羊という家畜から採れる山羊乳や山羊肉であり、この中の根菜類を育てていたのである。
狸人の中には商業で大成して、首府ビュトーシュに居を構える豪商の一族が居るが、大半は僻地の農村で暮らすかグラナーシュ大森林に移っていた。
エバンスが五歳の時。即ち、英雄ベルナルドの治世となって七年目を迎えていたが、二つの民は隙あらば最前線で醜い小戦を続けていた。
故に『下級戦牙』である両親は暫し家を空けて『鮮血に染まる境界線』に駆り出されていたのである。
同年代の子供達と一緒に朝から晩まで働き続け、ささやかな食事にありつくだけの生活、農作物を育てているのに口にできるのは粗悪なパンと具材の少ない薄いスープだけ。それも一日一回、食べることが出来れば上等だったのだ。
彼等にとっての唯一の希望は、新たな大領主が改革を進めてグレミィル半島から争いの火種を取り除いてくれること。そうすれば、少なくとも両親と毎日暮らしていける筈なのだから……。
「はぁ……はぁ……重い……苦しい……」
「いつまでこんなの続けないといけないんだろうなぁ」
「…………うん」
「文句なら他の場所に移って言っててくれよ。
見回りのおっさんに聞かれたら、俺までぶっ叩かれちまうじゃねーか」
五歳の幼子であるエバンスの周囲にも同じくらいの年齢の子供達が、同じように身体に合わない農具を抱えて作業に勤しんでいた。
狸人だけでなく、兎人や犬人、猫人など獣人種の坩堝のような村である。
年長の者ですら十歳を少し超えた程度であろうか、いずれも継ぎ接ぎだらけの使い古した衣服と靴を身に付けて、希望を見出せない日常を送るしかなかった。
土を耕し、雑草を抜き、肥料を運び、水を撒き、時には畑に近寄る野犬や猪を追い払った。それが終われば道具の手入れや家畜への餌やり、食料の運搬などの作業が待っている。
日が昇る前から同年代の子供が一箇所に集められて労役場所に連れていかれ、日が暮れて暫く経っても土塗れになっていた。
ようやく一日の労役から解放されると、ささやかな食事が施される。そうして仲間達と一緒に付近の川で水浴びをしてから己の家へと帰っていくのである。
「でもよー、大きな戦争ってのはもうとっくに終わったんだろ?
なんで父ちゃん達はロクに帰って来れないんだ?」
「……知らないよ」
「たまに帰って来てくれるだけマシだろ。
うちの親父なんか片足を失ってから、ずっと倉庫番やらされてるってさ。
だから半年に一回しか村に戻れないんだよ……」
「うわぁ、あの噂の倉庫かよ……」
「エバンスのとこはどうなんだ?
前の戦で、なんかすげー手柄を挙げたそうじゃん」
「んー……手柄を挙げちゃったから逆に激戦区送りなんだってさ。
今年から戦いに駆り出された兄ちゃん達も一緒に付いて行ったよ」
「そうか……そりゃぁキツそうだな……。
けどさー、戦場とはいえ家族が一緒にいられるなら良いじゃんかよ!」
「あはは……その分、おいらは家で一人で待ってなきゃいけないけどね」
当時、エバンスには二人の歳の離れた双子の兄が居た。奇しくも成人を迎えたばかりの彼等は、両親とともに最前線で槍を振るい続けている。教養こそないが利発的で身体的に優れた素養を持つために戦場で頭角を現し始めていたのである。
「いいじゃん、いいじゃん! そのまま戦で活躍して稼ぎまくれば
この村でオルデラ牛を買えるかもしれないぜー」
オルデラ牛とは、この辺りで飼育されている耕作牛の一種である。牡牛型の魔物を家畜化させたもので、額にはその名残である小さな一本角が生えている。
普通の耕作牛と比べて多少の戦闘能力を有しており、魔物や野犬、或いは盗賊などの襲来に対して自ら反撃を行うために有事の際に手が掛からないのである。
それだけに比較的高価でありオルデラ牛は豊かな村が、村単位で保有・管理しているのが常であった。
「牛かぁ……本当にこの村にやって来たら、おいら達の仕事が半分くらい減るね」
「そうそう、そしたら冒険者の兄ちゃんの話をもっと聞けるかもだぜ!」
「いいね、旅芸人さんの演奏ももっと聞けるようになるかも……」
農村部には時折、依頼を受けた冒険者や旅芸人、碩学者が立ち寄ることがある。
外の世界の情報や音楽、大道芸などは『下級戦牙』の子供達に大いに刺激を与えた。だが日頃から朝から晩まで畑仕事に追われる子供達は、その希少な刺激にすら限られた間しか触れることが出来ないのである。
特にエバンスは、村を訪れた旅芸人の奏でる楽器の音色や、彼等が口ずさむ冒険譚、そして色鮮やかな大道具などに強い関心を懐いていた。そして稀に楽器を触らせてもらえる機会を得ると並々ならぬ才覚の片鱗を見せていたのである。
しかし如何に素晴らしい才能を秘めていたとしても、それが戦いの役に立たないのであれば『下級戦牙』にとって全くの無価値なものとして扱われる。
楽器に興じる時間があれば畑を耕せ、槍を繰り出す修練に励めと、周囲の大人から凄まじい非難を浴びてしまうのだ。
それでもエバンスは村に旅芸人が訪れる度に、その日の作業をなるべく早めに終わらせて足蹴に通うのであった。
「器用な坊やだな、一回聞いただけでこの旋律を覚えるなんて……」
「えへへ、昔からこういうのは得意だったんだ。
野菜の育て方も一回も間違えたことないよ!」
夏の夕暮れ時。ヴェルムス地方の北東部に吹く疎らな風に乗って、幼少のエバンスがたどたどしく奏でる音色が流れていった。
「……それだけに惜しいな、ある程度裕福な家に生まれて
読み書きさえ出来るようになっていれば、大きな町で食い扶持を稼げるのに」
「…………へへっ」
予備の竪琴を触らせてくれた旅芸人……灰色の長髪を靡かせる男が何気ない所感を零し、エバンスは諦めたような表情で苦笑を零すことしかできなかった。
「私が君に、文字を教えてあげられれば良かったのだがね。
ずっとこの村に居続けるわけにもいかない……すまないね」
「ん、別にいいよ……」
「まあ生きていれば逆転の機会の一回や二回くらいは、向こうからやって来るさ。
それに、そろそろ最前線での小戦も終わるっていう話も出てきている」
「本当? そしたら父ちゃん達も帰ってくる!?」
「ああ、新しい大領主の統治を受け容れられない氏族長達だったが
長らく続けていた無駄な抵抗にも限界に近付いているということだ」
新たな大領主……英雄ベルナルドは、元はといえばグラニアム地方にささやかな領地を持つだけの男爵に過ぎなかった。
故に、"妖精の氏族"の名門であるフィグリス家出身のダュアンジーヌと結ばれたとはいえ、彼の台頭を認めない者は『森の民』の中にも存在していたのである。
「"獣人の氏族"の氏族長や『上級戦牙』の連中は戦闘狂が多いと云われているが
一つの氏族の軍勢だけで永遠に抵抗し続けることなど出来るわけがない」
「そっか。強いんだね、今の大領主様って」
「あのラナリア皇国陸軍の主力達に最後まで一歩も退かなかった益荒男だからな。
だから君の両親が帰って来たら、その時は盛大に出迎えてあげなさい」
「うん!」
「ふっ、その意気だ!
いいかい坊や、今は苦しいかもしれないが諦めずに足掻き続けなさい」
ポロロン……と竪琴を掻き鳴らし、旋律を添えて言葉を続けた。
「足掻いて足掻いて、それこそ腐肉を齧ってでも生き延びていけば
人生を一変させるような出会いというのが一度くらいはやって来るものなのさ。
その時に、その出会いに乗っかっていけるよう自分を磨いておきなさい」
「自分を磨くって……?」
「そうだな……まあ色々とあるが、自分が後ろめたいと感じる行いは控えるんだ。
それと出来れば手足や指、歯はなるべく欠けさせないことだ。
たかが指一本と侮るな。有るか無いかで、生死を別かつ場面だって出てくるさ」
まるで己がそうであったと云わんばかりに旅芸人の男は、己の左腕を見せてくれた。精巧に造られた義手であった……。
そうして彼なりの方法で幼いエバンスを激励してから村を去っていったのだ。
両親と兄達の帰りを待つ日々は心細く、先の見えない生活に幼心ながら途方に暮れかけることもあったが、それでも灰色の髪の旅芸人の言葉を信じてエバンスは懸命に働き続けた。目の前の生活を只管に守り続けようとした。
その小さな掌で、必死に桑を振るって畑を耕した。本当は桑ではなく楽器に触れ続けていたかったけれど、それが許されないのであれば、せめて今を生き抜こう。
家族が帰るべきこの家を自分一人で守っていこう。そうすれば、きっと人生を変える切っ掛けを手にすることが出来るかもしれないのだから――
そんな幼子の懐いた淡い希望は、無機質な一報によって容易く瓦解する。
「エバンス、よく聞くのじゃ。
お前の父と母、そして兄弟達は皆、魂が巡る回廊へと召されていった……」
その日、村長の家に連れて行かれたエバンスは衝撃的な事実を突き付けられた。
村長は一枚のザラ紙を手にしており、そこに記載されている文字と思しき中からエバンスの家族の名を読み上げていったのだ。即ち、戦死者一覧である。
ヴェルムス地方からレアンドランジル地方に自生する『ベルジニル』と呼ばれる麻の一種を細かく砕いて作られる粗雑で汚いザラ紙が存在するのだが、そのような紙に生命を賭して戦った者達の名前が、無機質に綴られていたのである。
無論、文字が読めなかったエバンスにはそれが何であるのかは、この時は分からなかったのだが、重苦しい雰囲気で告げる村長の言葉の意味は充分に理解した。
・皆様、お久しぶりでございます。1週間近く空いてしまったにも関わらず幻創のグラナグラムを目にしてくださり心よりお礼申し上げます。
そして第24話の1節目をお読みくださり、ありがとうございました!
・今話ではエバンス、ノイシュリーベ、サダューインの三者の出会いを主軸に描いていきますので、少し長くなるかもしれませんが引き続きお読みいただければ感無量でございます。