022話『今は遠き熱月の風』(9)
高度にして約二千メッテ。この高さから墜落したのでは、如何に頑丈な甲冑を着こんだ騎士といえど耐えられる筈がない。
急速に移り変わる視界の中では、先程までは箱庭の如く映っていたヴィンターブロット丘陵が正確が威容へと戻っていった。落着の瞬間が迫っているのだ。
唯一、助かる方法があるとすれば、それは壁上に陣取る支援部隊に気流操作などの魔法を施してもらい、受け止めてもらうことだ。
しかし高度二千メッテから落下したならば、地表付近に至るころには途方もない速度に達しており、果たして魔法使い達の反応速度で正確に魔法の効果を作用させることが出来るのかは甚だ疑問である。
「…………」
ノイシュリーベは臣下達を信じるしかなかった。仮にこのまま大地に激突して短い人生を終えたとしても決して彼等を恨みはしない。むしろ、こんな自分に今日まで付き従ってくれていたことを、魂が循環する回廊の中で感謝したいくらいだ。
然れど、そんなノイシュリーベの感傷は詮無きものとなる――
「グレミィルの空を舞う、自由で気ままな風の精霊に心を籠めて希う!
空の戯曲、想の調べ、白き雲の筋道にて結び、客席を賑わし給え。
『――白尾が、最後にやって来る』!」
その詠唱句の唄い声は、楽奏とともに風に乗って遥か上空まで流れて来た。次の瞬間にはノイシュリーベが纏う『白夜の甲冑』と斧槍の至る箇所に白き風の渦が纏わり付き、落下途中の彼女の身体を強引に操り出した。
「(これは、エバンスの魔法……?)」
眼下を見やれば、内側の壁に幾つか併設されている側防塔……の天井部分に狸人の旅芸人が居た。
彼は両腕でフィドルを奏でると同時に、魔法の詠唱句を唄い挙げていたのだ。
即ち、楽器による魔奏で魔法が届く距離を引き延ばした上で行使する、弾き語りのような形態で実施する接続唱法であった。
白き風の渦に導かれ、落下速度を急速に低下させつつ丁重なる操作で白亜の壁の上へとノイシュリーベの総身を両脚から降ろしてみせたのだ。
「あんな魔法で、あんなに丁寧に降ろすことが出来るなんてねぇ。
彼、相変わらずとても器用な男だわ……流石はエヌウィグス様の学友よね」
エバンスの手管を眺めていたバリエンダール女史が密かに称賛の言葉を発した。
気流操作の魔法でノイシュリーベを着地させることは、彼女でも不可能ではないのだがエバンスほど精緻な操作で降ろすことは出来ない。故に彼に一任したのだ。
そしてエバンスが得意とする『白尾が、最後にやって来る』は、あまり使う者の居ない、かなり不人気な魔法であった。
投射した物質の軌道を途中で操るという性質を持つのだが、その操作は術者が直接的に行わなければならない。したがって矢や砲弾といった超高速で飛び交う物質を操ることは難しく、投げ槍やブーメランに施すのが精々となる。
この魔法よりも扱いが簡便で、類似した効果を及ぼす魔法が存在するために、わざわざ『白尾が、最後にやって来る』を唱える旨味がないのだ。
ただ完璧に物質を操作できるだけの修練を積んだ際の軌道修正の幅は、この魔法のほうが優れているので、エバンスは大道芸で用いるために地道に磨いていた。
それが今回、ノイシュリーベの危機を救う手立てへと至ったのである。
「うっ……くぅぅ」
どうにか足から着地したものの"五本角"のエアドラゴンとの戦いで消耗した魔力と体力は尋常ではなく、また精神的な負担も相当のものであったのか直ぐに立っていられなくなり、その場に倒れ伏してしまった。
「各位、ノイシュリーベ様の前に集え! 竜が降りて来る前に雁行の陣を整えろ!
支援部隊はノイシュリーベ様の治療と制霊薬の投与を急ぐのだ」
「はっ!」
「ノイシュリーベ様をお護りするぞ!」
「今こそ我等が盾になる時」
「ノイシュリーベ様、身体の力を抜いて楽にして下さい。治癒魔法を施します」
「ノイシュリーベ様! 面当てを外させていただきます」
主君の生還と消耗を察したハンマルグレン卿が素早く指示を出し、魔法騎士や魔法使い達が各々の役割を遂行していく。
大盾を構える第四部隊の精鋭達は横隊を組んで左翼側を前方へ突き出し、右翼側を大きく後方へ退げるように配置することで斜線を描くような陣形を象った。
続いて支援部隊の魔法使い達が複数人で治癒魔法を唱えてノイシュリーベの皮膚を治療し、喪失した体力を補填させる。
全身甲冑の兜部分……の面当てをスライドさせて彼女の素顔を露わにさせると、先端の尖った瓶に充填されている紫色の液体を口元に流し込んでいった。
「ん……ぅぅ……ぷはっ!」
制霊薬を飲み干し、喪失した魔力と精神力が補填されていく。
ノイシュリーベの魔力賦活量であれば放っておいても直ぐに魔力は蘇っていくのだが竜種との戦いでは、その僅か時間が命取りとなるのだ。
「はぁ……はぁ……」
急速に体力と魔力を取り戻し、混乱し掛けた肉体を制御して頭上を見上げる。
すると"五本角"のエアドラゴンは空中で大きく横方向に旋回してから、一挙に壁上まで急降下してきたのである。
「来るぞぉぉぉぉぉ!!!」
瞬き一つの間に迫り、音速を越える速度にて白亜の壁の真上を通り過ぎていく。
…… ガッ ド ド ド ォォォォン !!
そう、壁上を通り過ぎただけなのだ。しかし脆弱な地上の生物を屠るのなら、それだけで充分であることを絶対的な捕食者達は知悉していた。
巨体が途方もない速度で擦過する際の衝撃波が、ノイシュリーベを含む全員に襲い掛かる。何人かの大盾持ちの魔法騎士が吹き飛ばされ、甲冑を着ていない魔法使い達の肉体が切り裂かれた。
然れど、事前に雁行の陣を敷いていたがために衝撃波は右斜め後方に受け流され、その真価を発揮するまでには至らない。
なお側防塔の屋根に登っていたエバンスは独力で耐え抜いてみせていた。
「グルルルゥゥ……」
低空を飛翔しながら大きく旋回し、速度を落としつつ再びノイシュリーベ達が陣取る壁上へと舞い戻った"五本角"のエアドラゴンは、何度も両翼を羽搏かせながら、ゆっくりと降りて来た。
眼下を睥睨し、己に挑んだ矮躯の騎士を睨み据える。
絶対的な捕食者である竜種は、少数で挑んで来た英雄に対して称賛とともに必滅の意思を宿らせる。此れは遥か太古の時代より続くヒトと竜種の戦いの中で遺伝子に刻まれた本能であり、習性であった。
故に、この"五本角"のエアドラゴンは、他の塵芥達が率先して己に挑んでこない限りは最優先でノイシュリーべを付け狙うのである。
「……防げ!!」
大盾を構えるハンマルグレン卿が先頭となり、"五本角"のエアドラゴンに盾撃を噛ましていく。第四部隊の魔法騎士達がそれに続き、支援部隊の魔法使い達が防護圏を重ね掛けしていった。
攻撃ではなく、ノイシュリーベが体勢を整えるまでの時間稼ぎの策である。
「グォォオオオオオ!!」
ノイシュリーベに固執する巨体が前進しながら眼前の魔法騎士達に両腕の鉤爪を振るい、尾撃を叩き込み、顎門の牙で嚙み砕こうとした。
「息を合わせよ! 押し返すぞ!」
ハンマルグレン卿の号令とともに一丸と化した魔法騎士達が、一糸乱れぬ完璧な連携を以て順次突撃。
正面からぶつかるのではなく、下方向から掬い上げるかのような技で以て断続的に打突の衝撃を与えていくのだ。
ドガンッ! ド ド ド ド ドッ !
一人一人の盾撃は"五本角"のエアドラゴンを揺るがすには至らない。しかし連続して、各々が角度を違えて突撃したならば小山を振動させ得ることもあるだろう。
「……グォゥ!?」
やがて打突の連続衝撃に対して踏ん張りが利かなくなったのか、小さな呻き声とともに二~三歩のみだが"五本角"のエアドラゴンを後退させることが適った。
「ふぅ……はぁ……はぁ…」
体力と魔力を取り戻し、どうにか呼吸も整えながら再び肉体を稼働させ始めたノイシュリーベが、斧槍を支えにしてその場から立ち上がる。
眼前で繰り広げられている、主君を護るべく奮闘する臣下達の姿を見咎める。竜種がその場で旋回し、遠心力を加えた尾撃を横薙ぎに放つと、これには流石の大盾持ち達も耐え切れず、何名かは吹き飛ばされて瞬時に戦闘不能へと陥っていた。
「ノイシュリーベ様、遅くなりました」
その時、側防塔の螺旋階段を登って壁上へと駆け上がった四名の騎士が現れる。
一人は常備兵達を城館へと連れ帰った騎士ハシュマー、残りの三名は
多面騎士エゼキエルと、彼の部下達である。
エゼキエルは柄端に鎖の付いた独特な斧槍を手にし、部下達はそれぞれ大戦鎚を担ぎ上げるように構えていた。
騎士ハシュマーは壁上に置き去っていた自身の大盾を拾い上げ、第四部隊の同僚達の陣へと戻っていく。
「いいえ、ブレンケ卿。絶妙な時に来てくれたわ!」
一挙に希望に満ちた表情へと様変わりしたノイシュリーベが溌剌と答え、兜の面当て部分をスライドさせて面貌を覆い隠した。戦闘続行である。
「左脇腹の辺りの鱗に罅を入れた。竜の咆哮と荷電粒子哮は一回ずつ撃たせたわ」
「はい、此処に来る途中で視ておりました……随分と無茶をなさりましたな」
現状の戦果を通達すると、エゼキエルは思わず困惑した表情を浮かべた。
「ですが大したものです。純魔力を放射する竜の咆哮と荷電粒子哮は
再装填までに一定の時間を要しますからな。第二射までに仕留めましょうぞ!」
「ふふ、騎士修行時代に貴方が対竜戦闘の心得を仕込んでくれたおかげよ。
さあ……支援部隊はブレンケ卿達にも防護圏と筋力強化を施して!
ハンマルグレン卿! もう一度仕掛けるわ!!」
自身の斧槍を構え、エゼキエル達を交えた四名による攻勢を宣言する。
ノイシュリーベの号令を聞き遂げた魔法使い達が矢継ぎ早に詠唱句を唄い始め、壁役を担っていたハンマルグレン卿達が、陣形を違えようとしてくれていた。
僅かな時間であったが前進しようとする"五本角"のエアドラゴンの猛攻撃を食い止める負荷は相当のものであったらしく、第四部隊の面子の実に三割ほどが大盾を破壊され、或いは深い傷を負っていた。
「……路を開きます! さあ、ノイシュリーベ様達に勝利の栄光を!」
魔法騎士達が縦隊となって左右に別たれ、鶴翼の陣を敷く。最前列の者ほど大きく拡がり、後方に控えるノイシュリーベ達 四名の下へと誘因する形を採った。
「よく耐えてくれたわ、負傷した者達は優先的に治療を受けなさい」
攻勢を担う四名の内、斧槍を持つノイシュリーベとエゼキエルが前衛に位置し、大戦鎚を持つ他の多面騎士が後衛に着いた。
・第22話の9節目をお読みくださり、ありがとうございました!
・何だかんだで、ノイシュリーベは臣下達から慕われているとは思います。
紋章官達はサダューインを支持する者が多いですが、武官……特に騎士階級の者の大半はノイシュリーベを支持しています。