022話『今は遠き熱月の風』(4)
大食堂にて皇太子バラクードと、その家臣達を歓待した翌日。
正午を僅かに過ぎたころノイシュリーベは城館よりやや離れた場所に位置する建物……滞在中の皇太子一行のために開放した宮殿へと足を運んでいた。
[ 城塞都市ヴィートボルグ エルシャーナ宮 ]
ヴィンターブロット丘陵は幾つかの高い丘が連なって構成されており、丘上の城館に匹敵する高さの丘も二ヵ所ほど存在していた。
その両方ともに城館を取り囲む第二の白亜の壁の外側に位置するものの、それぞれの丘上には重要施設が建てられている。
一つは対空防御の要を担う要塞施設。もう一つは高貴な身分の賓客達が滞在するための宮殿であり『エルシャーナ宮』と名付けられていた。
エルシャーナ宮は当初、星見のための施設として建てられたのだが魔具技術の発展にともない城館内からでも十二分に天体観測が可能となったので、現在はその役割を大きく違えている。
ラキリエルのように単独ないしは少人数の場合は城館内の貴賓室で過ごしてもらうこともあるのだが、そうではない場合は、こちらの宮殿が開放される。
皇太子一行は総勢にして五十名ほど。故にこの宮殿で数日の間、快適に過ごしていただく手筈となっていた。
「殿下、こちらでは何かご不便に感じることはございませんか?
もし何かあれば直ぐに対応させますので、何なりと仰ってください」
「いいや、昨日はぐっすりと眠らせてもらったよ。快適そのものだ。
見てくれの装飾よりも実用性が重視された魔具製の家具類は最高だね。
ロフェリアの古い貴族主義者達にも見習わせたいくらいだよ」
「……光栄です」
その家具類を用意したのはノイシュリーベの母、ダュアンジーヌ。
そして魔具設備を現在管理しているのは弟のサダューインとその部下達である。故に、彼女としては諸手を挙げて喜ぶことは出来なかった。
「ま、強いて不満を挙げるなら、直ぐに君の顔を見ることが適わないことかな?
君の居城の方角を見ても、此処からでは白亜の壁しか僕の目には映らないよ」
優雅な仕草でノイシュリーベに近寄り、彼女の銀輝の髪を一束、右掌で優しく掬い上げてみせた。
「相変わらず素晴らしい輝きだ……髪も、そして瞳もね。
本国の頭の固い者達は『森の民』を無意味に恐れているが、
僕はむしろ真珠のように輝く君の髪を、心の底から美しいと感じているよ」
嫌悪感は感じない。むしろバラクードの洗練された挙措の一つ一つには女性を思いやる心意気から磨かれたものであることが伝わってくる。多少の下心はあるのだろうが、むしろ全く無い男よりは信用することが出来るのかもしれない。
もしもノイシュリーベが、ただの侯爵令嬢であったのならば今頃は熱に浮かされて夢見心地な一時を過ごせていただろう。
だが彼女はグレミィル侯爵なのだ。政治的な駆け引きのため、仮に皇室に輿入れすることになったとしても、それは熱とは無縁の場所で行うべきだと弁えている。
「それは申し訳ございません。その分、ご滞在中の間は定刻には伺いますので」
「楽しみにしているよ」
大領主自らが賓客の様子を伺いに赴くのも相手が本国の皇族だからこそ、というのは表向きの事由。城館から離れた宮殿というのは、時に為政者同士の密談の場として有効に機能し得るのだ。
「ふふっ、じゃあ早速……昨晩の話の続きでもしようか。
面倒そうな用件は早めに済ませておくに限るからね。君も忙しいだろうし」
「はい」
と頷きつつもノイシュリーベは部屋の入り口付近を一瞥した。
そこには護衛の騎士……例の青髪のコングリゲガードが一名のみ待機していた。これから込み入った話をするのなら、必然的に彼に聴かれてしまうことになる。
「ああ、彼ならば聞かれても大丈夫だよ。
何せこの僕が、この地上世界で最も信用している男だからね」
「分かりました、殿下がそう仰るのでしたら」
「それとも、僕と二人きりで熱い一時を過ごしたかったのかな?」
ノイシュリーベが内心で呆れるよりも早く、青髪の騎士がバラクードを静かに攻めるように睨み据えながら口を開いてきた。
「……殿下、まだ日の高い時刻ですが?」
「はっはっは、確かにその通りだな。
それで、何だったかな……ああ、そうそう。ボルトディクス提督の件だ」
とぼけたような素振りを見せることで一泊置き、己が信頼する青髪の騎士以外の臣下の目がある場では話せないような話を切り出していった。
「彼が極秘裏にこの地で呪詛を撒いていることは、僕達も少しは察しているよ。
君にとっては大層不服なことだとは思うが、彼にとってこのグレミィル半島は
いわば一つの実験場のような感覚なのだろうね」
「やはり……! 許し難い所業です」
「多種多様な種族が混在するグレミィル半島……それは言い換えるならば
どんな種族に対して、どの様に呪詛が浸透し得るのかを測るには最適な場所だ。
まあ、ボルトディクス提督の場合は私怨も混じっているのだろうけどね」
「殿下は呪詛の正体についてはご存じなのですか? その解呪法なども」
「……いいや、済まないが僕のほうでそこまで調べることはできなかった。
遥か太古の時代に産み出された大呪詛ということは辛うじて判ったが
何せ、それらしき文献はどこにも見当たらなかったからね」
「そうですか」
「察するに、ボルトディクス提督はこの呪詛を復刻させることで
キーリメルベス連邦との戦争の際に戦略兵器として運用したいのだろう。
生物の肉体を、魔力の通わぬ結晶に変える呪い……恐ろしいものだ」
魔力とは惑星の息吹であり、正のエネルギーの総称。
肉体が魔力を宿さなくなるということは、この惑星の住人である資格を喪うということでもあり、常理の埒外へと強制的に追いやられるということを意味する。
「私は何度かその呪詛に罹患した者達を直接、目にして来ましたが
あのようなものが一度撒かれたならば土地もヒトも死に絶えます。
戦争を起こすことは元より、戦略に用いるべきものではございません!」
己の両親を死に追いやった『灰礬呪』に対する憤りは、この地上世界の誰よりも深く激しいものであるとノイシュリーベは自覚している。
「君の胸中を察するよ。そして、その意見にも同意する
今、正にグレミィル半島内の各所で呪詛が撒かれている最中なのだろうね」
「適うことならば、殿下の御力で今直ぐにでも呪詛を撒き散らす"水爵"の蛮行を
止めていただくことは出来ないものでしょうか?」
「済まないが、今の私の立場では難しいだろうな。
昨晩も少し話したが、幾らか抑止の手を打つのが精々といったところだろう。
彼は北部侵攻推進派……つまり皇王府の約半数の支持を得ているからね」
無論、ボルトディクスの独断行動を咎める声も無いわけではない。
しかし北部侵攻推進派は各皇子とも密に繋がっており、中途半端な措置は返って相手方に結束の口実を与えることにも成りかねないのだ。
「…………」
「ボルトディクス提督達を停めたいという気持ちは僕も同じだ。
呪詛を撒き散らして属領や他国を攻め滅ぼすなど、ヒトの所業ではないし
なによりも大陸を管轄する"主"の怒りを買ってしまうだろうしね」
嘗てのラナリア王国が大陸南部の各国を侵略して皇国となった時も、そしてラナリア皇国が旧イングレス王国を侵略し始めた時も"主"は特に介入してこなかった。
それは大陸内で繁栄した国同士が正統な手順と理由で争った結果だからである。しかし悍ましき呪詛を用いる戦争ともなれば、今度こそ目溢しは適わないだろう。最悪の場合はラナリア皇国そのものの解体に乗り出して来るかもしれない。
「一年だ。一年だけどうにか現状のまま保ち堪えてくれないか?
昨晩も話したが、それだけの時間があれば僕が打って出る準備が整うだろう」
「それは……失礼ながらバラクード殿下が皇王府を掌握されるという意味ですか?
皇王陛下やその側近達、そして戦争再開を唱える将官もろともに」
やや表情を強張らせながらノイシュリーベは意を決して疑問を口にした。
今後のグレミィル半島の安寧にも関わって来る以上、暈した言い回しで済ませておくわけにはいかなかったからだ。
「ああ、その通りだとも。
現状の皇王府の分断や派閥争いは、全て耄碌した父上の不甲斐なさに起因する。
このままでは必ず皇国は破綻した末路を歩むしかなくなるからな」
口調は軽剽に、然れど視線は確たる意思の強さを秘めていた。
「正直なところ、僕自身もうんざりしているんだよ。
軍人達の出世争いによる身勝手な振舞いにも、力無き保守派の連中にもね。
だからこそ僕は一度全てを粛清して、皇国の在り方自体を変革する
心算だ」
それは現在の皇王バランガリアや、他の皇族達および彼等を担ぎ上げようとしている皇国軍の将官の全てを、一年後に一斉に排除しようということである。
その中には当然ながらボルトディクスも含まれているのだろう。
不敵な笑みを浮かべながら、双眸を熱く滾らせる。
そこで初めてノイシュリーベは気付くことが適った。この漂々と振舞う長身の男は、裡に昏く深い獄炎の如き熱を秘めているのだ。
決して邪悪ではない、だが善良でもない。憤怒による反駁の意思と、変革へ向けて己の足で地道に歩み続けている自負がバラクードという像を象っているのだ。
気紛れに動き回り、周囲を振り回して呆れさせることもある行いの全ては、大いなる目的を遂げるために敵対者を欺いておくための演技でもあったのだ。
「ノイシュリーベ……僕は君のことを昔から、とても高く評価していた。
騎士としても、女性としてもね。
僕と君が守りたいものは一致している、護りたい民の笑顔も同じ筈だ」
更に半歩距離を詰め、ほぼ密着するような距離にまで迫って来た。長身のバラクードが身を屈め、その唇をノイシュリーベの長い耳の間近へと這わす。
南海の熱き風により、ノイシュリーベの髪と、心が揺さぶられた……気がした。
「君の御父上、ベルナルド殿のように民のために戦場を駆けたいのだろう?」
「……ッ!」
「なら僕のものになってくれたまえ。君が英雄となれる舞台を約束しよう」
「そ、それは……」
「僕が皇王府を掌握すれば、自棄に陥った者達が遠からず反乱を起こすだろう。
反乱軍から無辜の民の生活を守るために、必ず英雄という存在が必要となる。
分かるかな? 君がその役目を担うんだ。嘗ての"偉大なる騎士"のように」
「…………」
「そして全てが終わったら、僕と共に新たな皇国の礎となってもらいたい」
魅力的な誘いだった。これ以上ないくらいには魅惑的な男だった。
嘘を見抜けるノイシュリーベの瞳からしても、彼の言葉と意思に偽りは感じられなかった。つまり芯から己の本性と目的を説いてくれているのだ。
これには流石のノイシュリーベとて心を動かされないわけにはいかなった。
心臓の鼓動が、南海の熱き風に晒されて激しさを増さない筈がなかった。
然れど、嗚呼 然れども、この熱に呑まれることを、何処かで拒んでしまうのだ。
「ふふ、答えを急かそうとは思っていないよ。
今はただ、その一年を保ち堪えてくれさえすれば良い……返答はその後でいい」
ノイシュリーベの左掌を掴み、淀みない所作で手の甲に口付けを施すと、バラクードは己の懐より何かを取り出して彼女の左掌に握らせた。
「これは僕が、婚約者の候補に渡しているものだ。
本当は正式な婚約を結びたいところだが……僕が成し遂げようとしていることが
絶対に上手くいくとは限らないからね」
即ち、皇王府の掌握に失敗した際にノイシュリーベとグレミィル半島の立ち位置が危うくなることを避けるための気遣いであった。
「……分かりました。殿下のご意思とご配慮、この身に余る思いです。
いずれ必ず、明確な返答を持って参りますので……」
「うんうん、今はそれで結構だよ」
「こちらでも何か殿下達への支援となり得ることがありましたら
この身を削ってでもご用意いたします」
「こうして僕が避暑のために滞在する場所を提供してくれるだけで充分だ。
強いて言うなら折角の機会だから、君とより親密な一時を過ごせれば……」
流れるように右掌をノイシュリーベの腰に回し、更なる誘惑の言葉を紡ぎ出そうとした、その時だった。エルシャーナ宮よりやや離れた場所に聳える要塞施設より凄まじい音量の警鐘が打ち鳴らされたのである。
ゴォォォォン……! ゴォォォォォン……! ゴォォォォォン……!
重厚で厳かな音色が丘上に響き渡る。
「……対空警鐘が三回!! 殿下、これは魔物の空襲を報せる合図です。
申し訳ございませんが、私は大領主として対応に当たらなければなりません」
「おやおや、いいところだったのに……残念だ」
バツが悪そうな笑みを浮かべながらノイシュリーベより一歩離れた。
「直ぐにこちらの宮殿にも兵を集めさせますので、暫しご辛抱いただければ……」
「いいや、その必要ないよ。
こちらには優秀な護衛が居るし、従者達も一通りの戦闘訓練は受けさせている。
戦力を分散させずに、速やかに迎撃してみせてくれたまえ」
そう言いながら、入り口付近にて早速ながら槍と盾を構えている青髪の騎士へ向けて視線を傾けた。大陸最強と謡われるコングリゲガードが控えているのであれば確かに中途半端な数の兵士に守られるよりも安全なのだろう。
「かしこまりました! 殿下の眼前に魔物の牙が届かぬよう殲滅して参ります!」
ノイシュリーベもまた後方に一歩退がり、皇太子に恭しく一礼してから部屋の扉を開けると、疾風の如き速さで宮殿の外へと駆け抜けていった。
「ふふ、速いねぇ……まるで戦場の化身と云われる守護霊獣グリーヴァのようだ」
僅か数分後には、もう白馬に跨って宮殿より丘を降ろうとするノイシュリーベの姿を窓辺から見咎めて、率直なる所感を零した。
「殿下、一応 念のために宮殿の奥まった区画までお移り下さい。
空からの襲来となれば、おそらく大山脈を降って来た魔物でしょう」
「いや、むしろこの宮殿の屋上……展望台が置いてあったという場所で
じっくりと観戦しようと思う」
「……はぁ? 何を言っているんだ、貴方は!」
「彼女がどこまで腕を上げているのか、お手並み拝見といきたいからね。
それに君だって気になるだろう? ノイシュリーベの戦い方が」
「……確かに、英雄ベルナルドの娘である彼女の魔法騎士としての能力は
我々、コングリゲガードと轡を並べる資格くらいは有りそうですからね」
至極真面目な表情と口調のまま、青髪の騎士が淡々と告げた。
「貴方の伴侶の候補足り得るのか。そして未来の皇国を支える人柱足り得るのか。
この夏に、この地に滞在している間に検分しておくのも悪くはないでしょう」
「そういうことだ。
それにしても……いいところで魔物の襲撃という邪魔が入るなんて
まるで遥か昔の冴えない寓話のようじゃないか! 風情がないよねぇ」
「……本当に何を言っているんだ、貴方は?」
呆れ果てる青髪の騎士を無視して、まるで遠足にでも赴くような気楽な足取りで皇太子バラクードは宮殿を囲む防壁の壁上へと向かっていった。
・第22話の4節目をお読み下さり、ありがとうございました!
・バラクード殿下が話していた革命劇はこの物語の後の出来事となります。
まずはこのお話の完結に向けて全力を注がせていただきますので、応援していただければ幸いでございます!