017話『白亜の壁の裡へ』(1)
※(2026.9.26) 本文の大幅な改稿と加筆修正を行いました
※メッテ→メートル
※東角の刻→午後3時
[ グラニアム地方 ~ ヴィンターブロット丘陵 ]
グレミィル半島の中央に位置する、なだらかな丘陵地帯。
最も高い場所では二百メッテとされており、一帯が天然の高台となっていた。
「見えてきたね~」
丘陵の麓にて白馬の隣を歩くエバンスが、中腹に聳える白亜の壁を見上げた。
「当然だけど、ヴィートボルグに異常はなさそうね」
「そりゃあ、これだけガチガチに防備を固めているからね。
いくらノイシュが一週間くらい不在にしてたって、そう簡単には揺るがないよ」
この丘陵の中腹に城塞都市ヴィートボルグが存在していた。都市を囲む城壁は、離れた場所からでも目立っている。
荘厳にして重厚。外敵には絶望を、裡で暮らす無辜の民には安寧を与えていた。
夜中であるにも関わらず魔具灯によって照らされているためか、少し離れた場所からでもはっきりと視認することが出来るのだ。
「そんじゃあ、おいらはこの辺で離れるよ~。
昨日のうちにジェーモスのおっちゃんに伝書を送っておいたから、
正門の辺りで誰かしらが出迎えてくれるんじゃないかな」
「ここまで来たのなら、一緒に凱旋すれば良いじゃない」
「ダメダメ。おいらみたいな旅芸人と一緒に居たら……」
「また、それ? ティグメアはともかくヴィートボルグなら良いでしょ」
少しだけ不機嫌そうな顔を浮かべて異論を唱えるノイシュリーベであったが、エバンスは頷こうとしなかった。
「本拠地だからこそ、小さなイメージの積み重ねは大事だ。
それにノイシュの配下の騎士の方々の中には、
おいらのことを快く思っていないヒトもいるからね~」
「……」
「ま、とりあえず……明日の朝には、ノイシュの執務室に顔出すよ。
続きはそこで話そう。書類作業の方も手伝うからさ!」
それだけを言い残して、エバンスは先に丘陵を駆け上がった。
ずんぐりむっくりとした見た目からは想像もできない程の素早さで、あっという間に白亜の壁に近付いていく。
開門の時間は疾うに過ぎているが、旅芸人にして密使でもある彼には、夜間に入都できる特別な権利を与えられていた。
「あの頃とはもう違う、か。
私としたことが、気が緩んでいたのかもしれないわ」
エーデルダリアからの帰路の途中でエデルギウス家の屋敷に立ち寄り、その後も数日の間ながらエバンスと二人で道中を共にした。
故に、郷愁と安らぎに浸り過ぎていたのだろう。心地良い、まどろみの如く。
「すぅ……はぁ。さあ、行きましょう」
一拍置いて意識を切り替えて、白馬の頭を優しく撫でる。
そうして彼女は緩やかな坂道を堂々と登り始めた。
向かって左手側、つまりヴィートボルグの西に隣接する『シーリア湖』より流れる涼しい風を浴びて、ノイシュリーベの心は一段と引き締められた。
「おかえりなさいませ、ノイシュリーベ様」
「御身が無事にお戻りになられて、心より嬉しく存じます」
「ご苦労様。わざわざ出迎えてもらって、悪いわね」
正門の前に佇む二名の騎士が下馬して、片膝を突いて頭を垂れた。
それぞれ自身の胸に左掌を添えており、実に堂に入った所作である。
そんな彼等を馬上より睥睨しながら、ノイシュリーベは更に前進。正門の傍まで近寄ったところで、騎士達が面を上げた。
「開門せよ! ノイシュリーベ様のご帰還だ!」
「我等が大領主、グレミィル侯爵閣下を誠心を以て出迎えるべし」
まるで地響きが起きたかのような振動と音が響き渡り、魔鋼材で編まれた落とし格子が、ゆっくりと上昇していく。
その先の門扉もまた同様に、ノイシュリーベが乗る白馬の歩みに合わせて、厳かに左右に開閉を果たした。
「……」
一人の女性から、大領主としての凛々しい顔付きへ。
まどろみに浸る少女の記憶から、数多の領民を統べる為政者の現実へ。
ノイシュリーベは、己の本拠地へと戻ったのだ――
[ グラニアム地方 ~ ヴィルム穀倉帯 ]
ノイシュリーベとエバンスが、ヴィートボルグに到着してから三日後の午後。
黒馬リジルに乗ったサダューインとラキリエルの二人も、ヴィンターブロット丘陵に近付いていた。
「この辺りも、全てライ麦畑なのでしょうか?」
「勿論、ライ麦も育てているだろうね。
他には大麦、燕麦、少量だが小麦の畑も混ざっている筈だ。
小麦に関しては、エルディア地方より南側の各農村の方が多いかな」
「ふむふむ」
「穀物の他には豆類、根菜類、ルグルドなどの一部の葉野菜。
それから現在では少し生産量が落ちてしまったがラプス菜も育てていたかな」
「それは……何故でしょうか?」
「ふふっ、それは母上がヴィートボルグ市内の照明という照明を、
油を使わない魔具に置き換えてしまったからだよ。
ああ、ラプス菜というのは主に――」
これまでの旅路と同じように、地上の文化や地勢に疎いラキリエルが見聞きしたものを尋ねて、サダューインがそれに答えていく。
ただの知識の披露ではなく、時折サダューインの主観や思想、価値観が滲み出ている。ラキリエルは、それを一つずつ知ることを何よりも至福に感じていた。
東角の刻を越えて、陽が落ち始めた頃。二人と一頭は丘陵の麓に差し掛かった。
周囲を見渡せば、それまで鍬を振るっていた農夫達も帰り支度を始めている。
「そういえば、この畑の近くに村のようなものは見当たりませんでしたけど、
皆さんはどちらに帰っていかれるのでしょうか?」
これまでに立ち寄ったグレキ村のような農村や荘園では、大規模な畑の傍には必ず、それを耕している者達の住居が存在していた。
「良い点に目を付けたね。
彼等は全て、ヴィートボルグ市内で暮らしている農民だよ。
朝と夕方の開門の時間に、一斉に城壁から出入りするのさ」
間近に迫った丘陵を見上げて、その中腹に築かれた白亜の壁を指差した。
それに合わせて、自然とラキリエルの視線が誘導されていく。
「とても大きな壁です……それに、ここからでも分かるくらい門も立派で……」
壁の高さは実に三十メッテを超えていた。
正門の両隣、及び一定の間隔で側防塔が備わっており、その荘厳な威容は決して見掛け倒しではない。戦いとなれば強固な防衛力を発揮するのだろう。
「この一帯はグレミィル侯爵の直轄領でもある。
生産された穀物はヴィートボルグ市内で流通し、余剰分は備蓄される。
なので籠城戦になったとしても、かなりの期間を耐えられる手筈だ」
「これだけ立派な壁に守られているのなら、田畑で働く皆さんも安全ですね!」
「そう思ってもらえるようにするのが、俺や姉上の最も重要な仕事だよ」
僅かに肩を竦ませて、苦笑交じりに話すサダューイン。続けて白亜の壁から西側に位置する大きな湖を指差してみせた。
「見てご覧、ラキリエル。
あれがグレミィル半島で二番目に大きな湖……『シーリア湖』だ」
「まあ……!」
「この湖のおかげで、ヴィートボルグ周辺は水源に困ることはない。
勿論、水質の管理は徹底しているよ」
「これだけ澄んだ湖ですと、水の精霊達もたくさん滞在していそうですね」
「そうだな。きっと君や姉上のような、優れた魔法の遣い手だったら
湖面に近付いただけで四方八方から精霊の声が聞こえるのだろう……」
保有魔力量が極めて少なく、精霊と交信する才が欠如するサダューインにとっては縁の無いことだ。そのことを思い出したラキリエルは急に申し訳なくなった。
「あっ、その……すみません」
「気にしなくていい。重要なのはヴィートボルグの水源になっていること。
そして、これから暮らしていく君に気に入ってもらえるかどうかだ」
「(そこまで、わたくしのことを……)」
ラキリエルは海底都市ハルモレシアの出身者。海水と淡水の差こそあれど、やはり水辺が近い方が安堵できるのだ。
「話を戻そう。このシーリア湖は、グリナス大河を通じて
ナグファルスス海峡まで繋がっている……海峡のことは覚えているかな?」
「はい! ザントル山道を登る前に、一緒に見た場所ですね」
「その通り。そしてナグファルスス海峡はナーペリア海へと続く。
ザンディナム銀鉱山で採掘された鉱物資源なども、
海峡、大河、湖を繋ぐ水路によって運ばれて来るのだよ」
「作物も、水源、資源も、そう簡単には枯渇しないということですね」
これまでの旅路で訪れた土地を例に挙げられたこともあり、ラキリエルの脳内では水路の繋がりが明確に想像できていた。
言及はしなかったが、きっと木材や石材なども十分に確保されているのだろう。
ヴィートボルグが城塞都市として如何に堅牢であるのかを思い知った。
同時に、彼女は一つの疑問を抱く。
「大領主様が暮らしておられる首府だからこそ……だとは思いますけども、
それにしても相当に堅牢に造られ過ぎているようにも感じます」
「ほう、やはり君は察しが良いな」
ラキリエルが逃亡生活を続けている最中に立ち寄った地上の国々では、ここまでの防備や生活基盤、資源まで確保された都市は見たことがなかったのだ。
彼女の疑問に対し、サダューインは少しだけ眉を顰め始めた。
「元々は『人の民』の最重要拠点として、長い年月を掛けて築かれた壁だった。
グラニアム地方より北側から攻めてくる『森の民』に抗うためのな」
「……!」
「この丘陵と湖、そして東西に延びるグリナス大河を含めた境界線が、
嘗ての『人の民』と『森の民』の棲み処を隔てる、絶対的な領域となっていた」
相反する二つの民が流した血の跡。或いは怨嗟と宿痾の筋道。
『人の民』の父と、『森の民』の母を持つサダューインにとっては誠に複雑に感じる現実である。
「父上と母上が、二つの民の融和を図る以前の時代では、
『鮮血に染まる境界線』と呼ばれていたそうだよ。
血が映える白灰の地、……という皮肉を込めてね」
「……」
連綿と続く争いでは何も成せず、ただただ無価値な白灰を積み上げる。
そこに尽きることなく注がれる二つの民の鮮血。愚かしさを体現した都市名だ。
「ですが……今は違うのですよね?
サダューイン様のご両親と、姉君のノイシュリーベ様が……」
「勿論だとも! まだまだ"黄昏の氏族"等の問題も残ってはいるが、
現在のグレミィル半島は『人の民』と『森の民』が手を取り合っている。
今では『尊重すべき境界線』と呼ばれるようになったものだよ」
不安な表情を浮かべるラキリエルを宥めるために、サダューインは努めて優しく、そして肉親を誇らしく語るよう振舞った。
「だから、ラキリエル。きっと君の居場所もこの都市にある筈だ。
もし無ければ、俺や姉上と一緒に創り上げよう……」
「……はい!」
そう、ラキリエルという亡命者の新たな人生は、この都市から始まるのだ。
安心して地に脚を着けて生きていくために。歩き続けていくために。
ラキリエルは改めて、丘陵の中腹に聳える白亜の壁を見上げた――
[ グラニアム地方 ~ ヴィンターブロット丘陵 ]
黄昏時の橙色の陽光に照らされて、道行く者の影が細長く伸びている。
一日の仕事を終えた農民達が列を成して、緩やかな坂道を登り始めていた。
黒馬に乗るサダューインとラキリエルは、為政者と亡命者ではなく旅人に扮した只の男女として列の中に溶け込んでいった。
急いで門を潜るのではなく、この地で暮らす人々と同じ時間を体感したのだ。
「皆さん、色々なことを話されておられますね。
今日あった小さな出来事。作物の出来栄え。晩御飯のこと……」
満足しているかどうかは人それぞれだ。しかし、いずれも生活に不安を感じている様子は見受けられない。
適切な仕事をして、安全な住居に戻る。そして余暇を楽しむ余裕がある。
「(これまでに立ち寄った、どの都市や村の人達よりも)
(皆さんの表情が明るいような気がします)」
故に、壁の中の街並みはどれほどの光景なのだろう。と、更に期待に胸を弾ませてしまうのは当然のことであった。
「門を潜ったら、都市内の様子もじっくりと説明しよう。
何でも尋ねてくれ、俺に答えられることは全て伝えよう」
「……!」
夏前の夕暮れ。橙色の陰影が、サダューインの丹精な顔立ちを更に引き立てる。
柔和な笑みと相俟って、ラキリエルは段々と正視することが出来なくなってしまった。
もし仕事帰りの農民達が周りに居なかったら、思わず小さく上擦った声を上げてしまっていたかもしれない。
橙色の陽光が齎す程好い熱が、背後の美丈夫が発する熱を和らげてくれる。
新たな生活の場を前にしての高揚感も、適度に誤魔化してくれている。
「……」
だからこそラキリエルは、辛うじて平静を保つことが出来ていた。
「さあ、これがヴィートボルグの正門だ。
開門は一日に三度。朝と昼と夕方の決められた時間にのみ通行が許可される」
黒馬の背に密着しながら乗っている都合上、サダューインの話す声は、丁度ラキリエルの耳元に直に響く。
しかしこの時には、彼が何を言っているのか頭に入らなくなりつつあった。
頭上を見上げれば無骨な落とし格子が並び、前方には見ているだけで威圧される分厚い門が左右に開かれている。
そんな防衛設備も、ラキリエルの視界には段々と朧気なものに映っていく……。
「次はやっと俺達の番だ。
堅牢なのは良いことだが、門を潜るのに時間が掛かってしまうのが難点だな」
「……」
「少し気を張って疲れてしまったかな?
ここまで来れば、もう何も心配は要らない。楽にしているといい」
「……はい」
海底都市の竜の巫女から、一人の女性としての高揚した顔付きへ。
長き逃亡生活を続けて疲弊した心は、多感な少女の如く、移り変わっていた。
こうしてラキリエルは、サダューイン達の本拠地へと招き入れられたのだ。
【Result】




