017話『白亜の壁の裡へ』(5)
身体を清めて用意されていた着替に袖を通したラキリエルは、その家屋で最も広い部屋……即ち作業部屋を兼ねるサダューインの自室へと案内された。
コン コン…
「……入ってくれ」
スターシャナが扉を二度ノックすると、淡々とした応答の言葉が返ってくる。
古い樫木の扉を開けて足を踏み入れると、大きな長方形の作業机が部屋の中心に置かれており、その周囲には幾つか小さい机と椅子が配置されていた。
壁には大量の書物を納めた本棚が並び、魔具と思しき代物や、その素材を仮置きしているのであろう木箱や鉄箱が整列している。
天井には様々な薬草や、照明の役割を果たす魔晶材が吊るされており夜間作業中の光源を担っている。
そして申し訳程度の寝台が部屋の隅に置かれている。
相応に清掃が行き届いてはいるようではあったが、とても貴族家の長子が寝泊まりするような部屋とは思えないほどに質素であった。
「(サダューイン様の私室というよりも魔具術士や錬金術師の)
(工房兼仮眠所と呼んだほうが相応しいのかもしれませんね)」
部屋を一望した率直な感想をラキリエルが胸中で懐いていると、椅子に座ったまま背後を振り返ったサダューインが優し気に手招きをしてきた。
「思ったより早かったね」
「はい、とても心地よい清水でした……」
「それはなによりだ。こちらの作業も直ぐに終わるから適当な席に座って
待っていてくれないか? 消費した魔具を補填しておきたいんだ」
自分用の作業机にて、なにやら薬品の調合に勤しんでいる様子であった。
補填と聞いてラキリエルが思い当たったのはグレイウルフの群との戦いで投じた試験管型の魔具や、ラナリア兵との戦闘直後に用いた治療用の魔具。
しかし後者は『翠聖騎士団』の支援部隊長に制作を依頼したと言っていた。
「はい、それではお言葉に甘えて……。
ですが腕のお加減はもうよろしいのですか?」
「ああ、この通りだ。すっかり骨もくっ付いたし、裂傷の痛みも引いた。
まあ無理を重ねるつもりはないから、軽い作業くらいなら見逃してほしいな」
証明するとばかりに左腕を軽く動かしてみせた。
魔具像に叩き折られた傷も、ほぼ完全に快癒を果たしたようである。
「それでは、私は席を外しておきましょう。
他の『亡霊蜘蛛』のメンバーに貴方の帰還を報せておきます」
手近な椅子を引いてラキリエルを着席させると、スターシャナはティーポットとカップを乗せた盆を中央の作業机の上に置いてから一礼して部屋を後にした。
「やれやれ、変なところで気を回してくれるな……まあ、いいか」
サダューインは再び視線を手元へと戻し、調合を進めていった。
目の前の硝子容器には藍色の液体が入っており、別の容器には桃色の怪し気な液体。更に何かを摺り潰した粉末や、小さな蟲の魔物、団子状に丸められた物体が詰まった瓶がそれぞれ並んでいる。
また試験管台に立ててある試験管には薬草類が一枚ずつ詰められていた。
「それは……グレイウルフとの戦いの時に使っておられた魔具ですか?」
「その通り。まあ本来なら魔具は使い捨てにするもんじゃないが
俺の魔力で魔術師の真似事をするのなら、爆弾みたいに扱うしかないからね」
魔晶材を削り出して造られたと思しき特殊なスポイトを利用して藍色の液体、桃色の液体、粉末の順番で各試験官に適量ずつ、慎重に加えていく。
更に団子状の物体と蟲の魔物を擂鉢で潰して混ぜ、ドロドロと化したところでほんの少しだけ試験管に追加していった。
一見すると目分量で作業しているようでいて、試験管に混入されていく素材は全て均一の量で揃えられている。精緻にして生真面目な彼の性分が現れていた。
サダューインの膂力は常人の埒外。魔物との戦いでは魔導杖を叩きつけて容易く吹き飛ばしたり、ラナリア兵との戦いでは素手で頭蓋骨を握り潰したほどだ。
にも関わらず硝子製の器具に触れて、うっかり握り潰すような素振りはない。
ラキリエルは思い出した。エペ街道で腕を引かれて救出された時や、道中で何度か頭を撫でられたり、肩に掌を添えられたことがあったのだが、ただの一度として「痛い」と感じることはなく、絶妙な力加減がなされていた。
などと考えていると、僅かに素材が放つ刺激臭が漂ってきた。
嗅ぎ慣れていないラキリエルは鼻がツーンとなってしまい、思わず衣服の袖でそっと鼻の辺りを抑えることにした。
「……おっと、気が付かなくて申し訳なかったね」
「いえ、慣れない臭いで少し驚きましたけど、ぜんぜん平気ですので!
……サダューイン様、その瞳は?」
近くの窓を開けて換気を行いながら、背後を振り返ってお詫びの言葉を述べるサダューインの右目……爬虫類のような瞳孔を備える黄金の瞳が僅かに輝き、魔力を発露していたのだ。
まさか彼も『妖精眼』を持っているのではないか? と、ラキリエルは思わず身構えてしまった。
仮にそうであるのだとしたら、己の本性など最初から筒抜けではないか。
「ああ、これか……驚かせてしまって済まない、これは魔眼の一種だよ。
昔、ヘマをして右目を失った時に、ある伝手を頼って移植してもらったのさ」
「そ、そのようなことが……」
「幸い、移植手術は上手くいき定着した。左目と同等の視力が戻っているよ。
更に魔眼の効果により僅かに魔力の備蓄と素材の計量を行う機能も備わった」
サダューインが最低限の魔術を扱えるのは、この移植された右目に魔力を蓄えておけるからなのである。
逆に云えば、彼は魔眼を得るまで全く魔術を使えなかったということ。
「素材の計量……ということは魔力の流れなどは視えないのですか?」
「……ふむ、スターシャナから聞いたのかな。だったら違うと言っておくよ。
残念ながら俺は姉上と違って『妖精眼』を授かることはなかった……」
ラキリエルの質問の意図を察して、少しだけ悔しそうに語る素振りを見せる。
視ただけで魔力の流動や術式の本質を看破できる『妖精眼』は魔術師や魔法使い達にとって垂涎ものの瞳である。更に高位の『妖精眼』ともなれば精霊の姿すらはっきりと見渡すことが可能となり、容易く交信を行えるようになるという。
なお先程、サダューインが自己申告した素材の計量を行う機能というのは、数ある魔眼の機能の中でも低位の部類であったが、魔具造りや錬金術を実施する際には充分に有用であると感じている。
「同じ血を別けた姉弟だというのに、ままならないものだよ」
術式を一つ習得するだけでもサダューインは膨大なる書物と向き合い、時間を掛けて少しずつ頭と身体に叩き込む必要があった。
魔力を持たぬ身であればこそ、感覚に頼って理解するという手段を採ることができない。仮に理解したとして、その術を行使できるとも限らない。
それでも地道に、理屈を以て租借していくことで、一歩一歩 進み続けたのだ。
魔術師を目指す者ならば一月もあれば習得できるような低位の術ですら、サダューインは五年以上もの歳月を要した。しかも、習得したは良いものの当時は魔力が足りなかったので発動することが出来なかった……。
魔眼を得て、極僅かな魔力を操ることが可能となり、ようやく魔術と呼べるものを扱えるようになったのである。その喜びは筆舌に尽くし難いものがあり、現在でも鮮明に思い出すことができる。
然れど、姉のノイシュリーベは同じ術式を一瞬で習得して行使してみせた。
当時の彼女は既に騎士を目指して鍛錬を積んでいる最中であり魔術や魔法とは無縁な生活を送っていたのだが、たまたま城館を訪れた魔術師が披露した魔術を目撃し、気紛れとばかりに何の予備知識もなしに模倣してみせた。
『妖精眼』を持つ彼女からすれば、魔術の仕組みなど児戯も同然に映るのだ。一度視れば魔力の流れを完璧に把握し、自身の潤沢なる魔力でそっくり真似をするだけの戯れ。学術的な理解や研究を挟む必要はない。ヒトが呼吸をする際に専門的な知識など必要としないのと同じなのである。
「ただ、まあ……俺なりに必死に向き合ってきたからこそ、
魔具造りや錬金術、あとは内政や経済などにも精通することが出来たのさ」
我武者羅に書物と向き合い、己に足りぬ部分を他者との交流を経て埋めていくことで魔力をほとんど必要としないような、知識と理屈がものをいう分野に於いてサダューインは類稀なる素養を開花させ、結果として傑物へと成り得たのだ。
「……サダューイン様の飽くなき努力のほど、尊敬いたします」
この部屋の本棚を目にしただけでも、その一端が如実に伝わってくる。
いずれも全く埃を被っておらず、作業机の上に山の如く積まれた書物の表紙は手垢で塗れており、何度も繰り返し読み込んだのであろう跡が見て取れた。
調薬や製造のための器材類も入念に使い込まれており、一つとして新品は見当たらない。貴族家の嫡子のお遊びとはまるで異なる、正真正銘の工房なのだ。
その努力の尊さを理解する一方で、ラキリエルは安堵していた。
サダューインが『妖精眼』を持っていないと宣言したこと。即ち、古代魔法によって偽る前の容姿を看破される心配がないと判ったからである。
無論、彼の知識や洞察力であれば疾うの昔に、姿を偽っている可能性に気付いていると思うが、具体的な姿までは把握することはできないだろう。
「これからも自分に出来る限りの努力を続けていく心算だよ。
それじゃあ仕上げに取り掛かるから、もう少しだけ待っていてほしい」
「わかりました!」
とはいえ手持無沙汰になったラキリエルはスターシャナが用意してくれていたティーポットを手に取り、二つのカップに紅茶を注いで片方をサダューインの作業机に置き、もう片方を自身が座っている椅子の近くの机の上に置いた。
「ありがとう」
眼前の作業に集中しているため、振り向くことなく言葉だけで礼を伝えるサダューインを見詰め、次いで周囲に置いてある物体へと順々に視線を移していく。
本棚から器具類へ、机と椅子、仮眠用の寝具を経て、やがて壁に掛けられている幾つかの魔具が目に留まった。
「(小道具のような魔具は規格を統一して制作されているみたいでしたけど)
(武器のように大きな魔具は一つ一つが特別製といったところでしょうか)」
一つは、サダューインが愛用している魔具杖。改めて視ると特に先端部は独特の流線形状をしており、通常の魔具と比べて異端さを感じさせる代物である。
他には四本の騎士剣が立て掛けられていた。いずれもデザインは異なっていたが膨大なる魔力を帯びていて、高度な術式が刻印されていることが伺えた。
ラキリエルが興味深そうに魔具を検めている間にもサダューインは淀みなく手を進めていく。そして遂には仕上げとなる魔術の刻印の工程へと入った。
『――赤灯よ、両掌に燈れ』
詠唱とともにサダューインの左右の指の先端に赤い光が宿った。
『――赤塔よ、両界を閉じよ』
試験管のような魔具を両掌で挟み込むようにして近付けると、指先の赤い光が真鍮栓へと移っていき、やがて小さな文字を灼き刻んだ後に消滅した。
そうして全ての真鍮栓に同じ要領で刻印を施していくのだ。
「……よし、これで完成だ」
呟くように言葉を吐きながら、椅子の背凭れに重心を傾けて差し出されたカップを手に取るサダューイン。
そのまま特に警戒することもなく紅茶を飲み干していった。
・第17話の5節目を呼んでくださり、ありがとうございました!
・補足となりますがサダューインがカップを手渡されて特に警戒することなく飲み干しているのは、それだけスターシャナやラキリエルのことを信用しているのと、大抵の毒物には耐性を獲得しているから、となります。