007話『裏拍-其は足元に這い寄る濁り水』(3)
・(2025.11.04)加筆修正を行いました。
「―――おい」
声が響く。
「―――おい、聞いてるのかよ」
耳朶に何者かの、声が響く。
「……ッ!!」
物思いに耽ってしまっていたノイシュリーベは自身に対する呼び声により、意識を明瞭にして思わず顔を上げた。
そこには怪訝そうな表情で見詰める少年の姿があった。
「……さっきから何なんだよ。というか、あんた誰だよ?」
力なく、気怠そうな所作で、近寄ってきた者に対し荒んだ瞳を傾ける少年。
この場に似付かわしくない人物の来訪に若干ながら驚いている様子こそ見られるが、然したる抵抗を示す素振りはない。
搾取されることに慣れてしまった上に病状を抱えた身であるが故の、底辺の生活から抜け出せなくなってしまった者が陥る無気力さと諦観といったところだろう。
もはや敵意や警戒心といった関心すら懐くことはないようだ。
「ごめんなさい。貴方の肌……その鉱物のようなもので覆われているのを見て
つい気になって考え事をしてしまっていたの」
「あんた余所から来た人?
この辺じゃあ俺みたいに『偽翡翠』の病気に罹った奴は珍しくないよ」
「偽翡翠……?」
「ここに住んでる奴等は皆そう呼んでる。……一年くらい前からになるかな。
買取屋の爺さんの手足がこんな風になったのが最初で、
気付いたら似たような奴が少しずつ増えていったんだ」
「なんですって……!」
一年前といえば大領主の座に就いたノイシュリーベが諸々の段取りを経て本格的にグレミィル半島の統治のために動き始めた時期である。
『翠聖騎士団』の拡充と再編成を成し遂げ、時には自ら精鋭騎士達を率いて領地内で暴れる魔物や、外地から入ってきた賊徒の討伐に勤しんでいた。
そうして新たな大領主として、英雄ベルナルドの意思を継ぐ者として、武と徳の両面を以て地道に喧伝していったのだ。故に、陽の当たらぬ場所で浸透する呪詛を見落としてしまっていたのかもしれない。
「……そうだったのね。痛みは感じる?」
「痛くはないよ、ただ力が入らないし感覚もなくなってきてる……。
だんだんと思い通りに動かせなくなってるし自分の身体じゃないみたいだ……」
その言葉を聞いた瞬間、ノイシュリーベは両目に三つの光輪を灯し始めた。
其は同心円状に重なる均一的な光であり、惑星の息吹に干渉し得る特殊な素質であった。
眼前の少年が益々 訝しむものの、言及するほどの気力はないようだ。
「(やっぱり、お父様達と同じ症状ね……。)
(この子の身体の結晶化した部分だけ、魔力の循環が途絶えているわ)
(むしろ偽翡翠とやらに魔力と生命力を吸い上げられているみたい)」
母譲りの優れた魔法の素質を持つノイシュリーベは、目を凝らせば魔力の流動を看破する『妖精眼』を備えていた。
少年の自己申告と己の眼で見たものを照合した上で、両親が罹った呪詛と同種のものであると判断した。
しかし同種であるのならば、一つ疑問が生じた。
この呪詛について僅かながら解析できた情報として、結晶化した体内で呪層域が完結するために外部へ広がる可能性は極めて低い……という事実がある。
つまり自然発生的に罹患者が増えるということは、皆無ではないのだろうが非常に少ない筈なのだ。
「(この子以外にも貧民街中で罹患者が増殖し続けているなんて)
(いったいどういうことなの? まさか意図的に呪詛を撒いている者が居る?)」
ノイシュリーベがそのような疑問を懐き始めた時、先程までよりも幾分か弱々しい声色で少年がぽつりと言葉を零した。
「俺……このまま死ぬのかな……」
「……ッ!」
発する言葉に悲壮さは漂っていなかった。ただ、あるがままに現状を受け入れて諦めきった者が発する乾いた声。
希望を知らぬがために深い絶望もない。産まれた時から薄暗い貧民街しか知らぬがために、病魔に侵されることや飢餓で死ぬことを当然としている。
路傍の石の如く消えていくことに対して何の疑問も持つことはなく、ただ自分の番が回ってきただけだと認識している声色だ。
「……その身体を治してあげることができれば良いのだけど、ごめんなさい。
私が扱える治癒魔法では、偽翡翠という症状を解呪するのは出来ないの」
兼ねてより解呪の方法を模索してきたからこそ解る。眼前の結晶化した肌が発する呪詛の質は相当に邪悪極まりない代物であると。
魔法であれ、魔術であれ、魔具術であれ、錬金術であれ、現代で普及している治療の術とは、患部に対して薄く魔力を送り込み、解析を行うことから始まる。
会話の最中に密かにノイシュリーベが魔力による触診を試みていたところ、この少年の肌は既に生物の身体として機能していなかった。
それどころか注いだ魔力自体が貪られるようにして消失してしまっていた。
これは父ベルナルドの時と全く同じ状態であり、現在のノイシュリーベが持てる手管では改善を施すことは不可能であると思い知る。
城塞都市ヴィートボルグの地下に設けられている魔導研究所に連れて行ったとしても、精々が呪詛の進行を遅らせるのが関の山であろう。
「別にいいよ。かなり顔が広かった買取屋の爺さんですら
どうにもならずに死んでいったんだ……。
俺みたいにロクな知り合いもいない奴じゃ、どうにもならないに決まってる」
「…………」
思わず言葉に詰まってしまった。「私がなんとかしてみせるわ!」と言い放つ寸前で押し留めたのだ。
中途半端な希望を、特に未知の呪詛や病魔に苦しむ者に対して与えてしまうことは、後でより深い絶望と苦痛を齎す可能性のほうが高い。
まだ満足に世間を知らぬ幼少の頃のノイシュリーベであれば、己にできないことは何も無いとばかりに堂々と言ってのけたことだろう。
実際に、ベルナルドに連れられて領地内を巡視する旅に同行していた際には、現地で出会った戦災孤児に対して、そのような啖呵を切った覚えがある。
幸いにもその時の戦災孤児は今では立派に成長し、エデルギウス家の為に働いてくれるようになるまで躍進したのだが、それは極めて稀な例だ。
父と同じ騎士として、為政者として、大領主としての立場となり己の責務を自覚するに連れて、言葉の重みを意識するようになった。
それでも生来の猪突猛進さから来る行動力や、勢いで言動を発することはあれど最低限の根拠と道理は弁えられるようになった。……なってしまった。
「せめてこれで、なにか栄養のある物を食べなさい。
生きていれば、そのうち特効薬が出回ってくるかもしれないわ」
数十秒ほど逡巡した後に言葉を絞り出し、懐よりグレナ銀貨が十枚ほど入った革袋……主にノイシュリーベが市街で買い物や娯楽を楽しむ際に用いる、小分けされた路銀の一部を取り出して少年の掌に握らせた。
グレナ銀貨十枚とは、おおよそ五エディンに相当する。
これはエーデルダリアの庶民の一日分の稼ぎに近しい金額であった。
ましてや貧民街の住人であれば路上に居座って施しを得たり、廃品や遺骸回収を生業とする『骨拾い』を一ヶ月続けても得られるかどうかの大金である。
「こんなに!? ……変わった奴だ、後で返せなんて言わないよな」
目を丸くしながらも、のそのそと自由の利かない腕で革袋を受け取り、仕舞い込もうとする少年。瞳を支配する諦観の色自体は聊かも変わる気配はない。
そんな彼の様子を眺めるノイシュリーベは忸怩たる思いであった。結局のところ身分に甘えた一時的な施しを試みることしか今はできないのだ。
"偉大なる騎士"であった英雄ベルナルドは常に真摯に民に寄り添い、お金や物だけではなく確たる心の支えと成るように振舞っていた。
そんな偉大なる父を目指しているのに、現状はこの様である。
「(一人のヒトとしても、騎士としても、大領主としても、まだまだね……)
(お父様の足元にも及ばないとそう痛感させられてしまうわ)」
そうノイシュリーベが己の無力さに浸りかけていると、背後から粗野な足音と共に何者かが近寄る気配がした。どうやら一人ではないらしい。
貧民街でよく見掛ける住人のような、裸足ないしは拾ったボロ靴が鳴らすような音ではない。それなりに上質な革のブーツが湿気った土を踏み締める音だ。
「おおっと……? 見慣れねぇ奴がうろついてると思ったら、
やけに羽振りがいい真似してんじゃねーか」
「……グレナ銀貨だな。それも一枚一枚 丁寧に磨き上げられている。
こんな場所で暮らしている輩が振舞うには分不相応が過ぎる……妙だな」
「おいガキぃ! 見てたぜ~、その銭の入った袋をこっちによこしな。
っつーか外套の野郎も金が余ってるんなら、ここで全部置いていけよ!」
現れたのは明らかにガラの悪そうな悪漢達だった。
しかしブーツ同様に身に纏っている衣服や携行している武器の質は中々良い。
使い古された感はあるものの粗悪品というわけでもなく、彼等がそれなりに腕の立つ傭兵ないしは冒険者崩れであることを物語っていた。
・第7話の3節目を読んで下さり、いつもありがとうございます!
おかげ様で目にして下さる方々も少しずつ増えてまいりまして身に余る光栄でございます。
・このまま完結まで投稿を続けていきますので、皆様が全ての物語を読んで下さった時に充実感を感じていただけるよう邁進していきたいと思います。




