024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(31)
魔人と化したサダューインはより強かに、より慎重に、より効率的な手段を採って己の理念を成し遂げようと暗躍するようになった。
交易会社を拡充して更なる資本を獲得し、各地で協力者を募った。中でも大陸中の国々で出店を繰り広げる新進気鋭の大商会……ウォーラフ商会の商会長と接点を築けたことは、彼にとって大いなる躍進の一端となる。
また自身の美貌を余すことなく活用することでグレミィル半島で暮らす貴婦人達を魅了し、意のままに操ることが出来る駒を確保していく。
甘い言葉を吐いて誘う。或いは茶会や夜会の場で洗練された貴公子として振舞うことで。時には己の完璧な肉体を用いた夜伽を経て、篭絡していったのだ。
サダューインが巧みであったのは、ただ駒として利用するのではなく駒となった者達にも恒久的な幸福や救済を与えたことである。彼の理念とはグレミィル半島で暮らす者達の真なる平穏であるのだから、当然ではあるのだが。
例としては新たに『亡霊蜘蛛』に取り込んだドニルセン姉妹が挙げられる。
彼女達はサダューインがオルスフラ学園に在学中に知り合った余所の大陸出身の貴族令嬢であったのだが、生家の没落に伴って露頭に迷っていたところを救い上げた。
大空を自在に飛び回る覇王鷲と、万里を駆ける屈強なテスカリオ馬を操る彼女達の参画は、刷新された『亡霊蜘蛛』の在り方を大いに改めた。
他には、グレミィル半島に古くより根付く地下組織とも積極的に接触した。
賭博、密漁、人身売買、違法薬物、呪物の取引などを手掛ける、日の当たらぬ世界で生きる者達である。
交易で稼いだ資本を元手に、或いはエデルギウス家の嫡子としての立場を最大限活用して彼等と交渉を繰り返し、類稀なる頭脳を駆使して懐柔していったのだ。
彼等が一定の利益を得ることを認めつつも、その活動範囲を巧みに操っていく。一般人が被る被害を徐々に、徐々にと削ぎ落しているのであった。
このように痛恨の敗北を契機としてサダューインの方針は様変わりを果たした。結果だけを見れば為政者としては善性に属するがエバンスの胸中は複雑であった。
「(サダューインのやり方で幸せになっているヒトが大勢居るのは確かだけど)
(このままじゃあ帰ってきたノイシュと衝突するのは目に見えてるよね……)」
十一歳の時に彼がスターシャナを強引に奪った件もそうだが、結果的に善い方向に進んでいるとはいえ清廉潔白を信条とするノイシュリーベの価値観と、現在のサダューインの方針は余りにも乖離し過ぎている。
彼女が事実を知った時、姉弟間で修復困難な溝が生じることは火を見るよりも明らかであった。そのエバンスの懸念は、近い将来 現実のものとなる……。
エバンスにとって、この姉弟が仲違いすることは何にも代え難き苦難であった。
己を救い出してくれた恩人。
幼少期を共に過ごした友人。
どちらも掛け替えのない、大切な……とても大切な存在。
故郷の村で家族と暮らしていた頃、エバンスには仲の良い双子の兄が居た。
不幸にも彼等は、両親と共に戦場で晒し者にされた挙句に処刑されてしまったがために、エバンスはこの姉弟が離別する光景を絶対に見たくないと思ったのだ。
「サダューイン達が今のやり方のまま歩み続けるというのなら
彼等の仲を繋ぎ止められるのは、おいらしか居ない……」
姉弟と共に武芸の鍛錬や勉学に励み、大陸中を渡っていける程の旅芸人としての実力と自由身分を手に入れた己にしか成せないことだと感じた。
何故ならば、彼等は次代に通用する傑物達。並大抵の人物であったり、付き合いの浅い者が間を取り持つことは決して適わないだろう。
同時に、姉弟の間を取り持つことは将来的に大領主の座を継ぐことになるノイシュリーベの最大の援けになると確信していた。
逆に仲違いをして、仮にサダューインが離反するようなことにでもなれば、その損失の大きさは致命的なものとなるだろう……。
「(そっか、これが おいらが歩んで行く路……か)」
己にしか出来ないことを自覚したエバンスは、総身を震わせた。
場合によっては己の立ち回りがグレミィル半島全域の明暗を別けることにも繋がるのだから、無理もない。
そうしてエバンスはこれまで以上に、能う限り姉弟に寄り添うようになり、各地で巡業を繰り返す間も頻繁に連絡を取り合うようになっていったのである――
[ 城塞都市ヴィートボルグ ~ 城館地下 十階 魔導研究所 ]
己が歩んで行く路をエバンスが自覚してから、更に二年の月日が流れた。
季節は真冬。地上ないしは丘上では猛吹雪が吹き荒れており、都市で暮らす者達は例年であれば寒さに凍えている頃合いだ。だが、この年は違った。
ダュアンジーヌが開発し、サダューインの資金提供によって広められた魔具設備の恩恵は市街地の家屋にも行き渡り、今頃は快適に暖を採っていることだろう。
「…………」
エバンスは地下深くの研究所内の一席にて、身を震わせながら座していた。
寒さに凍えているわけではない、空腹に悩まされているわけでもない。
彼が居座る地下十階の更に下。秘匿されし地下十一階の大部屋にて正に今、大領主であるベルナルドとその妻のダュアンジーヌが焼却されている最中なのである。
異変の兆しが生じたのは半年前の夏。それまで体調を崩し気味であったダュアンジーヌがいよいよ床に臥すようになり、なんと身体の一部が濁った翡翠のような鉱物ないしは結晶の如き有様へと変貌していったのだ。
最初は左腕から、徐々に彼女の身体を蝕み始めたのだ。
原因は、悍ましき呪詛によるもの……らしい。
"魔導師"であるダュアンジーヌは前々からこの呪詛について解析や解呪の方法を試していたものの、特効に値する処方は見出せず進行を遅らせるのが精々だった。
やがてダュアンジーヌの総身が完全に結晶化すると、次に呪詛はベルナルドへと襲い掛かった。
ダュアンジーヌ亡き後はサダューインが呪詛の究明を継いだものの、依然として成果が上がらぬまま無慈悲に時間だけが経過し、間もなくベルナルドの肉体も同様にして濁った翡翠へと変貌していったのだ……。
余りにも急すぎる事態にエバンスは愕然としていた。彼がダュアンジーヌの変貌を耳に入れてヴィートボルグに戻って来た時は既に肉体の四割が結晶化していた。
その後、己に出来得る限りの情報網を駆使して呪詛について調べ回ったものの、やはり有効な証言や解呪の方法を見出すことは適わず、絶望に呑まれた。
騎士修行を終えて正式に叙勲を受けたばかりのノイシュリーベも直ちに帰郷し、
床に臥すベルナルドと残された僅かな時間を過ごしていった。
そうして今、地下十一階の大部屋にてベルナルドとダュアンジーヌが最期の時を迎えようとしているのだ。
彼等の遺した遺言と希望により肉体は粉々に打ち砕いた上で『ラナリアの聖火』
なる秘宝を用いて呪詛ごと完全に焼却させることと相成った。
盛大なる火葬の場に立つのは、彼等の実子であるノイシュリーベとサダューインのみ。呪詛が呪詛だけに最も近い肉親のみで行われることになったのだ。
エバンスは特別に、地下十階の魔導研究所に待機することを許された。
他の親族や関係者達が城館で待たされていることを鑑みれば特例の扱いとなる。
「ベルナルド様……ダュアンジーヌ様……うぅっ」
彼等と過ごした日々や、彼等から賜った莫大なる恩や思い出を脳内で振り返り、エバンスは涙を流しながら名を呟いた。同時に、正気を保つことに専心する。
足元の地下十一階では今頃、あの姉弟達も悲憤を堪えて焼却の儀に耐え抜いていることだろう。
彼女達が気丈に振舞っているのに己だけが泣き崩れるわけにはいかないのだ。
長く、重苦しい時間が過ぎていった……。
永遠にも等しいとさえ感じる、気を抜けば狂ってしまいそうになる夜が更けた頃合いにて、階段を登って来る一人の足音が響き渡った。
「……終わったよ、全てな」
サダューインだった。魔人と化した彼であっても、その精神的消耗は尋常ではないらしく、疲れ果てた声色で静かに告げながら力無く壁に凭れ掛かった。
実の両親を焼却するという業を背負ったことに加えて、つい先刻まで彼は絶えず『ラナリアの聖火』を稼働し続けていたのだから当然であろう。
「お疲れ様、サダューイン……無理もない話だけど、凄く顔色が悪いよ。
どうか今だけは少しでも休んでほしい」
「そうさせて貰おう。本当に大変になるのは、この後だからな……」
大領主とその妻。英雄と"魔導師"が、同時期に呪詛によって没したのだ。
彼等を失ったことはグレミィル半島の支柱を奪われたも同然であり、早急に次なる大領主の擁立と喧伝が必要となる。
またベルナルド達の死因を公表し、皇王府に報告する義務もあるのだが、これには相当に慎重な判断を要することになるだろう。
特に大陸でも五人しか存在しない最高峰の叡智の担い手たる"魔導師"が呪詛に依って死したなど、場合によっては大陸中に新たな混乱を齎す切欠にもなり得る。
既に大領主の座とグレミィル侯爵の爵位は、ノイシュリーベが継ぐことになっており然るべき段取りも進みつつはあるのだが、それでもやるべきことは膨大だ。
両親を喪った姉弟が心身を休められる時間は非常に限られている。
「エバンス、済まないが姉上を頼む。……君にしか任せられないと思っている」
「うん、おいらに出来る限りのことをするよ。
だから君も早く、そして一秒でも長く自分を労わってね」
「ふふ、明日には復帰すると誓おう……」
力無く微笑み、右掌で雑に握り締めた『ラナリアの聖火』を引き摺りながら地下三階まで直通する昇降機に乗り込んでいった。
「(サダューインにはスターシャナさん達が付いているから、きっと大丈夫だ)
(確かに今はノイシュの方を何とかしないといけないよね)」
ノイシュリーベはつい先日まで南イングレス領の角都グリーヴァスロで騎士修行を行っていたので、サダューインの『亡霊蜘蛛』のような真に信用の置ける直属の部下というものが居ない。
これから彼女の身に圧し掛かる重責は計り知れないものとなるだろう。
エバンスは椅子から立ち上がり、階下に続く階段を降りていった。
[ 城塞都市ヴィートボルグ ~ 城館地下 十一階 魔導研究所・最深部 ]
階段を降りると鋼鉄の壁や床で覆われた空間が広がっていた。
他には何も無い、ただただ無機質な金属で囲われた世界……。
この虚無の空間にて英雄と"魔導師"の焼却が成されたのである。
悍ましき呪詛ごと灼き祓うための灰すら遺さぬ高温の残滓が微かに漂っていた。
虚無の空間の中枢には、一人の女性が力無く座り込んでいた。
新たな大領主となる者、ノイシュリーベだ。
腰の辺りまで伸ばした長い銀輝の髪が複数の灯りによって照らされ、この場にはまるで似付かわしくない美麗なる風情を最大限に醸し出している。
然れど、この時の彼女の面貌は、見ているだけで痛々しくなる有様であった。
熱の残滓によって枯れ果てた涙の跡は生々しく、泣き腫らしたのであろう素顔は周囲の空間以上の無機質な虚無へと陥り掛けている。
嘗て、騎士に成るための修練に付いていけず周囲の罵倒を浴び続けて絶望した時は自分自身の不甲斐なさに涙していたが、今回はまるで異なる涙であった。
「ノイシュ……」
意を決して鋼鉄の床に足を踏み入れ、彼女の傍まで両脚で歩いて行く。
「…………」
「……よく耐えたね」
傍まで近付き、両腕を拡げて彼女を抱き締める。躊躇はしなかった。
そうしなければ、今直ぐにでも彼女の精神が砕けてしまいそうに感じたからだ。
「エバンス……おとうさまと、おかあさま……もえて、なくなっちゃった……」
感情が欠けた、抑揚のない声だった。
魂が抜け落ちる、という表現がよく文学などで用いられるが、この時の彼女の有様は正にそれを体現していたと云える。
「どうしよう……おとうさまたちのあとをついで……いかなくちゃいけないのに、
どうしたらいいのか、もう……わからないよ……」
思えば彼女は、父の反対を押し切って説得し、騎士修行のために十二歳の時から別の場所で暮らし続けた。
本来ならば、もっと両親と一緒に楽しい日々を過ごせた筈なのに……ようやく努力が報われて騎士叙勲を受けて、晴れて騎士と成って帰って来たら、この有様。
"偉大なる騎士"を目指していたのに、その彼は彼女が離れている間に呪詛に蝕まれて、とうとう帰らぬヒトとなってしまったのだ。
本来ならば、これから歩む筈だった輝かしい道程は真冬の吹雪の渦中を突き進むかの如き艱難辛苦の路へと変貌したも同然である。
ノイシュリーベの瞳より、枯れ果てた筈の涙が再び流れ始めた。
二十歳になった筈の彼女の面貌は、子供のようにくしゃくしゃになっていた。
こんな有様では、とてもではないが新たなる大領主として領民や臣下達の前に立てる筈も無し。死した英雄に代わって次代を担える器とは見なされないだろう。
「しっかりしないといけないのに……なみだがとまらないの……。
どうしたらいい? どうすればいい? ……たちあがれないの」
「……おいらとしては、半年くらいは君には養生してほしいと思う。
だけど、世情はそれを許してはくれないんだろうね」
英雄亡き後、即座に動かねばグレミィル半島に燻る火種は勢いを増すだろう。
数年前のギルガロイアの反乱の時とは比べ物にならない災禍が訪れるのだ。
ノイシュリーベが立てぬとあらば当面はサダューインが矢面に立って政を担うという選択肢も有るには有るのだが、それは最後の手段となる。
この時期に動けなかったノイシュリーベを、領民や臣下達が後々になって支持するようになる可能性は低い。英雄の後釜とは、それだけ過酷な路なのである。
故に、遅くとも明日には大領主として気丈に振舞う姿を皆に見せ付けなくてはならなかった。
そのことをノイシュリーベは誰よりも理解していた。
理解している筈なのに、身体と心が動いてはくれないのだ……。
グリーヴァスロで周囲の目を覆すことに成功したのも、彼女にしか歩めない路を只管に進み続けたからなのだ。
修練に付いていけなかった時期に於いても、彼女は倒れるまで動き続けることだけは止めなかった。だからこそ慣習に囚われていた者達を最終的には納得させた。
動くべき時に動けぬ者に、英雄の器たる資格無し。
"偉大なる騎士"の跡を継ぐなど、出来る筈もないではないか。
「……一先ずは上の階に移ろうよ。ここは少し冷えるし、身体に障るよ」
動けぬ彼女の肩を支えて、無理やりにでも立ち上がらせると慎重に階段を登って地下十階の魔導研究所の部屋……嘗てダュアンジーヌが居座っていた席に向かう。
地下十階は全域に渡って魔具を用いた暖房設備が充実しており、真冬だというのに非常に快適に過ごせる環境が整っている。
ノイシュリーベを適当な椅子に座らせると、エバンスは奥の倉庫に出向いていき納められていた巨大な物体を台車に乗せて戻ってきた。
「ノイシュ、これを見てよ!」
「……りっぱな、よろいね」
エバンスが運んで来たのは、ダュアンジーヌがノイシュリーベのために制作していた魔具兵器。白く輝く全身甲冑であった。
身体と心より力を失ったままの彼女は無機質な感想を呟くことしか出来ない。
「ダュアンジーヌ様がノイシュのために時間を掛けて造って下さった甲冑だよ。
正式な騎士と成った今の君になら、着る資格があるんじゃないかな?」
「……でも、わたしは……もう」
立てないのだ。身体と心が動いてくれない。
涙が止まらず、前が見えない。甲冑であることは認識しても、それを着用して皆の前で騎士として、大領主として振舞う自分の姿がまるで視えてこないのだ。
「……それでもだ。今、ここで着るんだ!」
「……ッ!」
強く叫ぶエバンスに、ノイシュリーベはびくっと身体を震わせた。
エバンスの本心としては、傷心の彼女を安静な場所で休ませてあげたかった。
しかし、それでは駄目なのだ。今、動かねば彼女の将来は暗いものとなる。
故に、心を鬼にして強い口調でノイシュリーベを説いた。
常世で最も大切な女性だからこそ、己にしか出来ない役回りを熟そうとした。
「……わかった」
戸惑いながらもエバンスの指示に従い、彼が運んで来た甲冑の脚甲を椅子に座ったまま装着していく。
最初は右脚の鉄靴、次に膝当てを固定化した後に腿当てを束ねていく。左脚側も同様に行った。
続けて腰当て、胸当て、肩当てと冠板を仮止めし、上膊当てに肘当てに
前膊当てなどの腕鎧を装着し、腕甲で両掌を覆う。
肩と腰の草摺りは独特の稼働形式が採用されており、背部の魔力放出板も見たことのない形状であった。
「すごい……ぴったりね……」
若干ながら身体と甲冑との間に余白を感じるが、これは本来ならば布頭巾や鎖帷子の上から着用することを想定しているためであり、完全装備ならば丁度良い具合となるだろう。
「ダュアンジーヌ様と会う度に、気にがどれくらい成長しているか訊かれたよ。
おいらが伝えて、ダュアンジーヌ様が微調整を繰り返した……その成果だね」
「うぅっ……おかあさま……」
「さあ、この兜で最後だよ。
君のために遺してくれたものを、今こそ纏ってみせるんだ」
更なる涙を零そうとするノイシュリーベを静止して残る兜を手渡した。
そして彼女の背後に回り、その長く美しい髪を丁寧に結ってお団子状に纏めあげた。これならば布頭巾が無くとも兜に納まるだろう。
「…………」
意を決して両脚にありったけの力を込めて立ち上がったノイシュリーベは、受け取った兜を装着した。
顎当てを固定し、面当てを降ろして装着完了となる。
「……あれ? なにもみえない?」
その面当てには視界を確保するための孔が空いていなかった。
故に、ノイシュリーベの視界は暗闇に閉ざされてしまった……。
「ノイシュ、両目の『妖精眼』を稼働させるんだ。
そして眼を中心にして兜内に魔力を伝播させてみてよ」
「……? わかったわ」
恐らく事前にダュアンジーヌからこの甲冑について説明を受けていたのだろうと察して、エバンスに言われた通りに実行していく。すると……。
《 『妖精眼』の展開を確認。識別……完了、ノイシュリーベ本人と確定 》
《 『妖精眼』との有機接続……完了 》
「な、なに……? なにが、おこっているの……」
兜内に響き渡る謎の音声に戸惑う間も、魔具兵器は順調に稼働していった。
《 幻象、再記導…………通常形態で稼働します》
ヴォン…… キキキキキキ……
面当てに設けられた左右一対の三本線の意匠が翠色に発光する。
魔力の循環に応じて甲冑の各部に刻まれている線型状の意匠にも光が伝播するように迸っていく。
封じられし古代の偶像が静かに目覚めていくかの如く、無機物たる甲冑が意思を宿して蠢き出す。
「わ、わぁ……!!」
次の瞬間、暗闇に閉ざされていた筈のノイシュリーベの視界に光が戻った。
まるで兜を装着していない状態のような明瞭な視界を得たのである。
「ダュアンジーヌ様から聞いた説明によると、その甲冑とノイシュの『妖精眼』が
同調すると、魔力を介して刻印された複数の術式が自動発動するんだ。
ノイシュの視界が開けたのは『透視』の術式によるものだね!」
つまりこの全身甲冑には従来の視界確保のための孔が設けられておらず、甲冑内は完全に密封状態となっている。
これにより、やろうと思えば海中や真空中、獄炎や雷雨の中でさえ戦い続けることが可能となる。
「他にも『暗視』だとか『幻術祓い』、『筋力強化』に『硬質化』、
『耐魔力』に『耐封印』……などなど、てんこ盛りって話だよ」
「……どうやら、ほんとうみたいね。なんてものをつくったの……おかあさま」
『妖精眼』を持つノイシュリーベには、この甲冑に刻印された術式を正確に見極めることが出来る。凄まじい数だ、よくぞこれだけ詰め込んだものだと驚愕する。
非力な肉体のノイシュリーベが英雄ベルナルドに匹敵する武芸を発揮できるようにするための特別な魔具兵器。
全身甲冑と分類されてはいるものの、其の本質は防具ではなく強化外殻。
そこへ更にノイシュリーベの本領である莫大なる魔力と魔法を併せていけば間違いなく英雄と呼ぶに相応しき傑物へと至れることだろう。
否、英雄などといった小さな器では収まりきらない!
古き寓話に記されし漆黒の勇者や白亜の魔王、剣の英雄や智の英雄といった存在、或いはそれ以上の化け物へと成り果てる可能性すら秘めているのだ。
「ノイシュが……騎士になったノイシュがベルナルド様みたいに活躍できるように
何年も、何年も掛けてダュアンジーヌ様が造り上げてくれたんだよ!」
「……ッ!」
その姿を姉弟よりも目にする機会の多かったエバンスだからこそ、解る。
如何に彼女が娘のために心血を注いで来たのかを……。
エバンスの言葉を正面から浴びたノイシュリーベは更なる涙を零し始めた。
ザッ……。
全身甲冑に身を包んだノイシュリーベの前で、エバンスは恭しく片膝を突いて首を垂れた。そして高らかに、謡い挙げるように言葉を紡ぐ。
「ノイシュリーベ・ファル・シドラ・エデルギウス様!
貴方は本来とても心優しく、とても情に厚く、とても涙脆い御方です。
ご両親を喪い、常世の終わりの如き悲しみに暮れておられることでしょう。
ですが! その涙に塗れた御顔を周囲の者に見せてはなりませぬ」
芝居の掛かった朗々とした口調にて、必要な台詞を淀みなく言い放つ。
「貴方は、このグレミィル半島を統べる御方だ。
『人の民』も『森の民』も、領土に棲息する魔物や魔獣でさえも、
貴方の前に平伏すのです! 大領主が情けない顔を晒してはなりませぬ!」
「エバンス……」
「いつも溌剌と誰かを先導し、一方で痛みや悲しみに寄り添える優しい御方。
精霊に愛された貴方は本来、凄惨な政の最前線に立つには相応しくない。
それでも務めを果たしたいと仰るのなら優しい本性は甲冑の裡にお隠し下さい。
そして! 甲冑の裡でのみ独りで静かに涙を流すのです!!」
ノイシュリーベと出会った時より、彼女と接して垣間見た彼女の本性を思い起こしながら、エバンスは胸に秘めた想いと共に一世一代の言の葉を紡ぎ続けた。
彼が発した台詞は、とある有名な歌劇の一節より引用したものである。
エルカーダ一座で何度も演出し、余裕で暗唱が出来る程に読み込んだ御伽噺。
故に、嗚呼……故に、ノイシュリーベに贈るならば最も相応しい台詞なのだ。
「何故ならば、貴方は英雄ベルナルドと"魔導師"ダュアンジーヌの御子。
そして彼等の志を受け継ぐ新たな大領主なのだから!!」
同時に、エバンスもまた己の心の裡だけで涙を流していた。
何故に、最愛の女性を過酷を極めるであろう大領主としての路へと後押ししなければならないのか?
もし適うのであれば、彼女を連れてどこか遠くの平穏な土地へと逃れたい。
だが、それでは駄目なのだ! 恩人は大領主になることを望み続け、己は彼女が目指した理想に殉ずると疾うの昔に誓いを立てた! ならば!
彼女が周囲に情けない顔を晒してはいけないように、己は彼女の前では決して悲観に屈した姿を見せないと新たに誓おう。
"仲間想いの陽気な旅芸人"という、甲冑を着込んで生きて行こう。
芯なる道化としての路を歩み続けよう。
彼女が理想を遂げるか、或いはこの生命が燃え尽きる、其の日まで――
「エバンス、あんた……そこまで」
己の全てを賭して尽くそうとする狸人の真意を受けて、ノイシュリーベの双眸は甲冑の裡で大きく見開かれた。
有名な歌劇の台詞を引用していたが……或いは台詞を引用して自分の言葉を覆い隠してしまわないと、彼が秘める凄まじく熱い想いと覚悟を真っ当に伝えることが出来なかったのであろう。
それだけの想いをぶつけられては、ノイシュリーベとて奮起せざるを得ない。
共に歩もうとしてくれる者が傍に居る、ならば今 立ち上がらずして何とする?
「あんたの心意、しっかりと受け取ったから。
旅芸人エバンス……私はもう皆の前では涙を流さないと此処に誓う!
だから、私の背後はあんたに委ねるわ」
「身に余る光栄です。我が路は、ノイシュリーベ様の栄光と共にあるでしょう」
「……でも大領主になるからといって二人の時はこれまで通りに話しなさいよ?
これからずっと、そんな口調で話されたら息が詰まってしかたないわ!
それから、一つだけお願いがあるの」
「んー、おいらに出来ることなら何でもやってみるよ!」
彼女に請われたならば、即座に砕けた口調へと変じてみせるとばかりに応じた。
「そ、その……臣下として真面目に接しようとしてくれるのは嬉しいんだけどね。
だけど、あんたとは幼いころからずっと傍で関わってきたわけなんだし、
せめて特別な友達……って思っていても、かまわないわよね? ほら悪友とか」
「悪友かぁ……うん、まあ良いんじゃないかな?
一緒に色んなことやって来たからねぇ、これからもきっと君に振り回されて
いくことになりそうだし!」
悪友という表現に込められた意味合いは実に複雑だ。
エバンスはノイシュリーベの理想を遂げるための忠臣として、身分を弁えて尽くそうとしてくれている。
そんな彼の想いに主君であるノイシュリーベが応じていくには、相応に想いを汲み取った間柄でなければならない。幾らノイシュリーベ側もエバンスに対して好意を懐いていたとしても、それを表に出すわけにはいかなくなったのだ。
故に、普通の友人とは異なる間柄。理想を遂げるための共演者として悪友という表現を選択した。其れが、彼女が出来得る最大の我儘にして抵抗であった……。
「ふん、じゃあ明日から早速 動いていくわ。
私を焚きつけた以上、あんたにも存分に働いて貰うから覚悟しておきなさい!」
「ういうい~、そうこなくっちゃね。
皆の前では気丈に振舞わなきゃいけないけど、決して君は独りじゃないんだ。
ベルナルド様達が遺してくれたものを頼りながら、頑張っていこう」
「ええ、絶対に歩き続けてみせるわ……どんなに細い綱渡りの連続だとしても」
面を上げて立ち上がったエバンスへ掌を差し出すと、彼もまた掌を差し出して二人は熱い握手を交わした。新たな時代へ向けて共に旅立つために。
その翌日、白く輝く全身甲冑を纏ったノイシュリーベは城館一階の大食堂に臣下達を掻き集めて高らかに宣言を発した。
我こそは、亡きベルナルドの意志を継ぐ大領主にしてグレミィル侯爵であると。同時にエデルギウス子爵を継ぐ者であると。
弟であり家督の継承権を持つサダューインも列席し、皆の前で爵位と大領主の座をノイシュリーベに快く譲る旨を宣言した。これによりグレミィル半島の統治は、比較的速やかに新たな体勢へと移行していくのである。
一連の様子を大食堂の隅に立って使用人達と一緒に傾聴していたエバンスは、彼女の雄姿を余さず見届けた。
きっと甲冑の裡では、未だに両親を喪ったことによる悲しみと、大領主としての重責に圧し潰されそうになっていることだろう。
それを少しでも和らげて、彼女の歩みを支えていくことが己の使命であると改めて実感していたのだ。
ノイシュリーベが大領主としての責務を果たすようになってから間もなく、彼女は弟のサダューインが行っている数々の所業を知ることとなる。
エバンスが危惧していたことは悉く的中し、彼女はサダューインに対して強いを嫌悪と忌避感を懐くようになった。
またサダューイン側もノイシュリーベの在り方は認めつつも、自身とは最早 相容れない存在として見定めるようになっていき、徐々に顔を会わさなくなったのだ。
そんな二人の間をどうにか繋ぎ止めようと、エバンスは懸命に立ち回った。
同じ城館に居ながらにして顔すら会わさない姉弟の連絡役を買って出て、時には『翠聖騎士団』や『亡霊蜘蛛』の面々とも積極的に接していった。
どんなに急な行動でも、どんなに離れた場所への連絡でも、己に出来る限り……或いはそれ以上に奮起して、二人の仲が完全に決別しないように奔走した。
それでも姉弟の溝は徐々に広まっていくばかり。
英雄と"魔導師"の子供達は、其々が目指す理想と理念に向けて歩いて行く。
最初は同じ、隣り合っていた筈なのに、鏡合わせの姉弟であった筈なのに。
新たな大領主が誕生してから二年の月日が経つ頃には、もうエバンスだけの力では二人を繋ぎ止めることが困難な状態にまで陥っていたのである。
姉弟達とエバンスが歩む路の果てが、何処に続いているのか。
最早 誰にも見通すことは出来ない。
~~~♪
熱く、切ない、弦楽器の音色が、ゆっくりと曲調を落としていく。
旅芸人エバンスとエデルギウス姉弟に纏わる物語は、此処で一旦の区切りであると示すかのように――
・第24話の31節目をお読みくださり、ありがとうございました。
・長かった第24話もこれにて締めと相成ります。ここまでお付き合い下さった皆様には本当に感謝してもし足りません。
僅かでも本作の主人公姉弟と、その友人であるエバンスに魅力を感じていただけましたなら感無量でございます。
・時に、少し前から考えていたことなのですが
当初の予定では第2章は21話~40話をもちまして一区切りとする算段をしていたのですが、第22話と第24話の内容が余りにも膨れ上がってしまったために、思い切って次なる第25話を持ちまして第2章の区切りとし、第26話~40話を第3章という扱いにしようかと思っております。
全体の内容や、物語の結末自体には大きな変化はございませんので、引き続きお付き合いいただければ非常に嬉しく思う次第でございます。
・さて、次回更新は9/17(金)を予定しております。
旅芸人エバンスの話を聞き遂げたラキリエルがどのように感じるのか、こうご期待下さい!