024話『その掌に光を、頭上に草の冠を』(29)
「み、見ないで……!」
慌てた様子で、自身の両腕で顔を覆い隠そうとされた。
恐らく直前まで泣いていたのであろう、弱々しい涙声にて拒絶の言葉を発しながら後退り始める。
濃密な幼少期をともに過ごした間柄ならば、例え三年という月日を経て久しぶりに再会を果たしたとしても、一目で相手が誰であるのか察するものである。
エバンスが変わり果てた彼女を見てノイシュリーベだと理解したように、彼女もまた自身に近付く狸人が成長を遂げたエバンスであると一瞬で察したのだ。
「……ノイシュなんだね。久しぶり、会えて嬉しいよ」
彼女の変貌ぶりに驚愕しつつも、努めて優しい声色でただ再会を喜んでいることだけを伝えることにした。
いったい、どうしたんだ? などと自分から尋ねるのは愚の骨頂である。
「うぅ……」
「今、エルカーダ一座はグリーヴァスロのエッケルグ広場で巡業しているんだ。
あと半月くらいは滞在する予定だよ」
「……知ってるわ。城内の侍従達が噂していたもの」
「それは良かった! おいらは今日まで休暇をもらってるんだけど、
ノイシュに会えないかなって思って都市内や郊外を歩いていたんだ。
……元気そうで良かった、とは言えないのかな?」
「…………」
沈黙の肯定。この三年間の間に彼女の身に何かが起こったことは明白だ。
「ここ、好い場所だね。
なんとなく、あの館に居たころによく連れて行かれた川の畔を思い出すよ。
……隣に座っても良いかな?」
「……そ、それは! 私なんて放っておいて……」
「座るよ」
尚も拒絶の言葉と態度を返そうとするノイシュリーベが一瞬だけ戸惑った隙を突いて踏み込み、さっと彼女の隣の草地に腰を下ろした。
そして陽光を反射する川の水面だけを見詰めて、ゆっくりと語り掛ける。
「三年掛けて大陸中を回ってみたけど本当に色々な国や、色々な人が居たよ……」
ノイシュリーベが何か反応を示すより早く、エバンスは携行していた竪琴を取り出し、慣れた手付きで弦を弾いて穏やかな音色を奏で始めた。
そして楽奏に合わせてこれまで巡ってきた国々の様子を滔々(とうとう)と語ってみせた。
ラナリア皇国の各属領だけでも様々な文化や人種が存在し、それらを束ねる本国であるラナリア皇国領は厳格さと野心に満ちた先進的な都市が連なっていたこと。
大陸東部に広がる大砂漠や、グルダナ大草原で暮らす人々の独特の生活様式。
中央東部を席巻するデルク同盟各国の古式ゆかしい伝統的な建築物や文化。
"主"の直轄領には直接 足を踏み入れることは許されなかったが、その境目で暮らす特殊な人々の存在を目にした。
雄大なるキーリメルベス大山脈を登ったこと。大陸北部の極寒の大地に驚いたこと。キーリメルベス連邦に属する国々の文化形態。大陸最大の湖であるメルベス湖はまるで海のようであったこと……などなど。
半刻程の時間を掛けてエバンスは淀みなく語り続ける。
一端の旅芸人として大成しつつある彼の口承は実に巧みであった。
最初はエバンスとの再会を拒もうとしていたノイシュリーベは、いつの間にやら聞き惚れてしまっていた。
そればかりか、まるで寒さに凍える子供が久しぶりに暖炉の傍で温もりを得たかのように少しだけ穏やかさを取り戻した表情を浮かべ始めていたのである。
「……こうして今は大陸一周して南イングレス領まで戻って来て、
来月にはグレミィル半島に帰る予定をしているのさ」
「そう、随分と立派にやっているのね」
僅かに元気を取り戻したノイシュリーベは、自然と次は自分が語る番だと捉えたらしく、ぽつぽつと三年の間に起こった出来事を話してくれた。
事前に聞いていた以上に、この地では男尊女卑の文化が根強く、騎士修行を始めたノイシュリーベはまるで異常者のように扱われているという。
また亜人種に対する風当たりも強く、エルフ種の外観を色濃く宿す彼女は差別の対象ともなっている。
限られた間のみ滞在する冒険者や旅芸人などの根無し草ならば町人や為政者は、むしろ一時の風物詩として歓迎するのだが長期的に暮らす隣人となれば豹変を果たすのである。
更に、当初のノイシュリーベの物怖じしない言動や、興味を懐いたことに対して周囲を鑑みず独りで踏み込もうとする性格も大いに反感を買うことに繋がった。
旧イングレス王国の貴族の女性には何よりも貞淑さが求められる。というよりも常に男性を引き立てるよう振舞わなければ真っ当な扱いを受けられないのである。
諸々の事由が折り重なり、ノイシュリーベはグリーヴァスロに到着したその日のうちに、これから関わっていく者達全てから距離を置かれてしまったという。
それでもノイシュリーベが圧倒的な騎士としての資質を……嘗てイングレス王国最後の防人と謡われた英雄ベルナルドの子としての片鱗を垣間見せることが出来たのであれば周囲の目を一変させ得たかもしれない。
然れど、彼女は騎士を目指す者としては余りにも凡庸であった。
運動神経や武芸の才は父親譲りの優れた素養を持ち合わせていたものの、致命的なまでに膂力が足りず、体重も軽い。精神的にも決して屈強ではなかった。
故にノイシュリーベは周囲の冷たい視線と扱いを覆すことが適わなかった……。
エデルギウス家の館やヴィートボルグの城館で暮らしていた時は、何だかんだで周囲の大人達も気を遣ってくれていたし、何よりもエルフ種に対する嫌悪を露わにする者はほぼ皆無であった。だが此処では何もかもが勝手が異なるのだ。
女性である上に亜人である彼女が騎士修行を許されているのは、偏にベルナルドの娘であることと、勉学や社交術の面で相応の教養を積んでいるからだ。
他の騎士修行中の貴族家の嫡子や諸氏、平民でありながら普段の仕事と並行して従騎士の鍛錬を積んでいる者達からすれば、到底認められるものではなかった。
時期も悪い。『大戦期』の傷痕がようやく払拭され始め、新たな時代に向けて南イングレス領を盛り上げようと懸命に励む若者達にとって、余所から来た亜人種の血を引く少女が自分達と同じ騎士見習いなど悪辣な冗談以外の何物でもなかった。
訓練用の甲冑を着用し、盾を構えての修練では思うように動くことが出来ず、ノイシュリーベは周囲より大きく劣る現実を突き付けられた。
九歳の頃よりベルナルドから基礎的な手解きを受けていたとはいえ、それはあくまで幼子の体力に合わせた鍛錬であり、苛烈さは比較になる筈もなし。
何度か修練中に体力が底を着いて倒れたり惨めに嘔吐を繰り返す羽目になった。
グリーヴァスロに滞在する騎士や、他の騎士見習い達からは、そのことで毎日のように躙られ、「早く故郷に帰れ」と嘲笑とともに言われ続けたという。
半月も経つ頃には現在のような扱いに至り、只管に嘲笑と侮蔑を浴び続けながら耐え抜くしかない環境へと陥ったのだ。
結果として従騎士への昇格はおろかその候補としても論外といった扱いだ。
それでも自分から騎士修行がしたいと嘆願した以上、ノイシュリーベは己の不足を悟りながらも必死に喰らい付いていくことしかできなかった。
例え周囲に付いていくことが出来なかったとしても、周回遅れを自覚していたとしても、倒れるまで毎日の修練には顔を出した。
肘まで伸ばしていた長い髪を指摘されれば、苦渋の決断の末に周囲の騎士見習い達と同じ長さにまで刈り上げた。
罵倒されながらも必死に堪えて、走って、走って、走り抜いて……それでも到底周囲の意識を変えるには至らない。彼女にとって初めての体験であった。
唯一の救いがあったとすれば、エゼキエルという平民上がりの一代騎士だけは彼女に対して他の騎士見習いと同様に接してくれたことだ。
主に武芸の教導役を担っており、他の教導役が自身の考えやグリーヴァスロの伝統的なやり方を強要してくる中で、彼だけはノイシュリーベの目的やそれまで修めてきたベルナルド仕込みの技を汲んだ上で必要な指導と相談を成した。
彼曰く、ノイシュリーベと比較的近い年齢の一人娘がいるために、思わず親身になってしまいそうになるとのこと。
しかし、そんなエゼキエルも普段は領内各地に建設されている前哨砦に駐在して野盗や魔物の警戒に当たっていることが多く、グリーヴァスロに居を構えながらも都市内に滞在することは滅多になかった。
故に、ノイシュリーベは基本的にほぼ孤立無援の状態で現状に甘んじることしか出来なかったのである。
三年という月日は、彼女から自尊心を奪っていくには充分な時間であった。
身の丈に合わぬ過酷な修練を続け、周囲から罵倒され続けたノイシュリーベの体力と精神は既にボロボロで、限界を軽く超過していた。
何が何でも騎士になりたいと、あれ程の熱意を以て父親を説き伏せてグリーヴァスロに赴いた当初の彼女の姿は、どこにもない。
挫折と疲弊の極みを経た心は既に何も感じなくなりつつあり、最近では視界に映るもの全てが色褪せて見え始めた。彼女が視る世界は、灰色と銀に呑まれ始めた。
そしてつい先日、いつものように修練中に倒れた後、起き上がることすら出来なくなってしまったのだ。
流石に見兼ねたイングバルト公爵と騎士エゼキエルにより強制的に一ヶ月間の休養を採らされることになった。
これ以上の修練を続けても意味はないと今頃は議論されているのかもしれない。
「……どうにか身体を動かせるようにはなったんだけどね。
お城に居ても心は休まりそうにないし……ここで一日中、ぼうっとしてた……」
一旦は穏やかになり始めていた彼女の表情は、自身の実情を明かすうちに再び暗く沈んでいき目には涙が溢れ出していた。
「本当に……何をやっているのかしらね、私って……」
川辺に座ったまま膝に顔を当てて、力なく呟く。
三年前までの自信に満ち溢れて行動力の塊であった彼女とは似ても似つかない。姿だけでなく態度や言動も、すっかり力を失ってしまっているようだ。
周囲の者達に認めて貰うために、少しでも修練に追い付いて行くために、己を殺して懸命に努力を試みて、それでも報われない現実に挫けてしまったのだろう。
心なしかエバンスに対して言葉を発する際にも、時折 何かに怯えたり、彼の顔色を伺うような素振りを見せていた。有体に言えば臆病な小動物が他者から嫌われないように、或いは敵意を向けられないようにビクビクと震えている状態だ。
「……それに比べて、あんたはすごいわ。
もうすっかり一人前にエルカーダ一座の一員になっているんだもの。
これじゃあ……あべこべになっちゃったわね」
ちらりと片目でエバンスを一瞥しながら自嘲気味に嘯いた。
片や名門と名高い旅芸人一座で着実に腕を磨いて主演に昇り詰めつつある者。
片や満足に修練に付いていくことも出来ずに周囲から疎まれている騎士見習い。
裏路地でボロボロの衣服を纏い、路傍の石の如く消え去ろうとしていた彼の姿はもう、どこにもない。
貴族家の嫡子として煌びやかな衣服を纏い、恵まれた才能の赴くままに溌剌と駆け回る彼女の姿はもう、どこにもない。
異なる路を歩み始めてから過ぎ去った時間は同じである筈なのに、大きく開いた落差を前に愕然としているようであった。
「…………」
エバンスは一度目を瞑り、深呼吸をしてから再び目を開いて真横を振り向く。
そしてノイシュリーベと視線を重ねながら、ゆっくりと口を開いた。
「話してくれて、ありがとう」
変わり果てたノイシュリーベの心境を察したエバンスは能う限り明るく、そして以前と変わらない態度を心掛けて言葉を発することにした。
そう……今のノイシュリーベの心は、嘗てビュトーシュの裏路地で寒さと空腹に震えていた頃のエバンスと同じ状態に陥り掛けているのだ。
勿論、衣食住が揃った環境やその気になれば帰ることが出来る故郷がある分だけ彼女の境遇のほうが遥かに救いはあるのだが、それとこれとは話は別だ。
エバンスはノイシュリーベに、そしてベルナルドによって救われた時のことを思い返した。生活環境だけでなく、ヒトとしての心や尊厳を救ってもらったのだ。
あの温かさに包まれた瞬間や、奈落の淵より掬い上げられたかのような錯覚。
灰色と銀に染まった褪せ色の世界が、再び色彩を取り戻した時の感覚は生涯忘れることはないだろう……今こそ、あの時の恩を返す時なのだと、強く決意した。
「頑張っているんだね……流石はノイシュだよ。
おいらが君の立場だったら、とっくの昔にへこたれて逃げ帰っているかもね」
「空回りしているだけよ! 頑張っても結局、誰にも認められなかった!
あれだけお父様にお願いして修行に出してもらったのに!!
今ほど自分が無力で、情けないと感じたことはないわ……うぅ」
くしゃくしゃに顔を歪ませて、涙とともに偽らざる本音を吐露する。
この三年間、誰かに愚痴を吐き出すことすら許されなかったのだろう。
「うん……」
そんな彼女との距離を更に詰めて両腕を拡げ、極自然な振舞いで抱きしめた。
抱き締めて、己の胸元に彼女の頭を蹲らせる。それほどの力は籠めない、いつでも彼女の意思で振り解くことが出来るような絶妙な力加減。
「……!!」
突然の抱擁に驚きつつも、彼女は抵抗しなかった。
「うっ……うぅ、エバンス……エバンスぅぅ!!」
そればかりか自ら体重を預けて、これまでに溜め込んできたものを全て吐き出すかのような勢いで盛大に泣きじゃくった。本当に、心身ともにもう限界を遥かに通り越していたのだろう。
まるで幼児に戻ったかのように、堰を切って涙を流し続け始める。
故郷で暮らしていた時に実の父親や母親の前ですら、彼女がここまで恥も外聞もなく、只管に泣き顔を晒すようなことはしなかった。
それだけエバンスのことを信用してくれているということなのだろう……。
嗚呼、もし許されるのならば、彼女を抱き締めたまま連れ去ってしまいたい。
彼女が直面する数多の苦しみから、今直ぐにでも遠ざけたい。
自ら選んだ路とはいえ、苦境に挫けた彼女の心を、全てを賭して護り抜きたい。
何故、己は恩人の傍から離れて旅立つ路を選んだのか?
何故、苦境に赴く彼女に付いていかなかったのか?
何故、彼女がこれ程に変貌するまで助けることが出来なかったのか?
ノイシュリーベの嗚咽と涙を受け留める最中、罪悪感が胸を締め付けた。
然れど、今こうして旅芸人として大陸中を巡っているのは、将来的に彼女の忠臣として尽くすためでもあることを即座に思い起こし、懸命に己を律した。
今ここで彼女を連れ去ってしまえば、彼女が耐え抜いてきた日々も、己が目指した路も全てが瓦解する。安易な一時の救済は、ただの挫折として影を落とすのだ。
「…………」
暫しの間、エバンスは無言でノイシュリーベを抱きしめ続けた。
言葉は不要だ。
語り部にして演奏者である者だとしても、或いは語り部だからこそ時には沈黙こそが最も恩人のためになるのだから……。
「……ごめんなさいね」
半刻ほどが経ち、掠れるような声で謝りながらエバンスの胸元から頭を離した。
一頻り泣き尽くしたためか、酷い面貌ではあったものの憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした雰囲気を纏い始めている。
「こっちこそノイシュが苦しんでいる時に傍に居られなくて、ごめんね」
「いいえ、お互いに別々の路を歩むと決めた時から覚悟していたもの。
むしろ立派に成長したあんたに今 会えて良かった気がするわ」
「おいらが一座でどうにか踏ん張れているのは、全部君のおかげだよ。
ノイシュ達がおいらを救い出してくれて、新たな路に進ませてくれた。
だからこそ、その恩を返し切るために早く一人前になろうって頑張れるんだ」
正面から彼女の瞳を見詰めながら、偽らざる本心を伝えていく。
「もし、おいらが少しでも立派に成長してきたと感じてくれたのなら、
それはそっくりそのままノイシュの功績でもあるんだよ。
君は凄い女性だ、普通のヒトなら諦めるような苦境にも踏み込んで行く」
「だけど、今の私は……」
「今はきっと少しだけ足踏みしているだけなんだよ。
勿論、本当に耐えられないというのならヴィートボルグに帰ったって良いんだ」
「…………」
「仮に騎士修行を諦めたとしても、君の理想を遂げる手段はきっと他にもあるさ。
そしておいらは、君がどんな路を歩むとしても生涯を賭して尽くしてみせる。
あの日、君が語ってみせた理想を全力で応援したいんだ」
川辺に流れる潺の音を感じながら、数年前の記憶を想起させる。
エデルギウス家の館から程近い小川の畔、草花と水面が美しいあの場所でノイシュリーベは自身の理想を何度も口にしていた。
英雄ベルナルドの後継者としてグレミィル半島の悪しき慣習を断ち切っていき、『人の民』と『森の民』が真に手を取り合える領土にしていくこと。
ラナリア皇国の属領としてではなく、独立した自治領として確立させること。
それが彼女の理想の核。
"獣人の氏族"の『下級戦牙』として生まれ、古き慣習と氏族社会の中で両親や兄達を亡くしたエバンスは、誰よりも彼女が唱える理想を貴いと感じたのだ。
加えて幼少期を共に過ごした異性にして、己の人生を救ってくれた恩人。
一人の男としても生涯を賭して彼女を支えたいと願うには充分過ぎた。
「ノイシュ……いえノイシュリーベ・シドラ・エデルギウス様。
貴方に救って下さったこの命と人生の全ては、余さず貴方に捧げる所存です。
今は苦難の時なれど、どうか強き意思で進むべき路の先だけを見続けて下さい」
姿勢を正し、言葉を整え、座り込んだままの彼女の隣で片膝を突いて跪きながら堂々とした声色で宣言を発した。
直前までのエバンスの態度や口調との変化に驚きつつも、ノイシュリーベはエデルギウス家の嫡子としての立場と責務を思い出し、真摯に己が意思を傾けてきた彼を正面から見据えて受け留めることにした。
「……ありがとう。こんな私を信じてくれて。
あんたに見限られないように、もうちょっとだけ頑張ってみるわ」
「うん、でもどうしても無理だと感じたのなら、その時は割り切ろう。
身も心も完全に潰れちゃったら元も子もないからねぇ」
少しだけ活力を取り戻したのか、ぎこちなく微笑みを傾けてくれた。
エバンスも釣られて微笑み返すと、跪く姿勢を解いて再びその場に座り込んだ。
そして足元に生えていた草花に目を落とし、何か思い付いたのか次々にそれらを摘み取っていく。
「……? 何をしようとしているの?」
「んー、ちょっと待っててね」
目にも止まらぬ手捌きで草花を束ね、器用に編み上げていく。
二枚一組の花弁が五つ、恰も星を象るような形状の植物……グレミィル半島でよく見掛けたグラニアステラの近縁種である。
そのことに気付いたノイシュリーベは、エバンスが何を作ろうとしているのかを朧気ながら察した。
「よし、出来た!」
彼の手元には編み上がった草花の冠が三つ、縦に積み重ねられている。
その冠を両掌で厳かに抱えながら立ち上がると、ノイシュリーベの頭上にそっと被せてみせたのである。
「……頑張っているノイシュに、特別にご褒美だよ。
おいらの前では幾らでも涙を流していいから、受け取ってくれると嬉しいな」
「……ッ!?」
ノイシュリーベの脳裏に、幼い頃に彼と交わしたやり取りの記憶が蘇った。
あの時は確か、使用人として新たな人生を歩もうと努力するエバンスへの褒美として、幼いノイシュリーベが草花の冠を編んで贈ったのだ。
今回は、其れが逆転した形となる。
「おいらは絶対にノイシュを裏切らない。
ノイシュがどんな状態になったとしても、どんな路を歩むとしても、
仮に周囲のヒトが全員敵になったとしても、最後まで見限ることは有り得ない」
己が主君に冠を被せた後に、彼女の小さな両肩に己の両掌を添えて熱く語る。
「貴方こそが我が主君。貴方こそが、おいらの道標だ。
あの冬の終わりの日に、ようやく見えた一筋の光そのものなんだ。
だから、貴方が理想を遂げた先を……一緒に視ていきたい、共に歩き続けたい」
嘘偽りのないエバンスの本心を、己の芯たる本性を垣間見せた。
優しいだけの言葉で、挫けた彼女を慰めることも出来ただろう。だが、それだけは駄目なのだ。後々になって、きっとお互いに後悔することになってしまう。
これは激励であり発破、そしてエバンスとノイシュリーベの立ち位置を明確にするための宣誓であった。
彼女は紛れもなく恩人であり、この世で最も大切な女性である。
異性として好きなのか? 愛しているのか? と問われたのならば、恐らく首を縦に振ることだろう。
エルカーダ一座の一員として大陸中を巡業する旅路の中で多くのヒトと出会う機会を得ていたが、この恩人ほど光り輝いて見える女性など他には居なかった。
幼少期を共に過ごし、彼女に振り回される日々は本当に楽しかった。永遠にあの陽だまりの日々に浸っていたいとさえ思えた。
許されるのなら、身分の差など越えて彼女の隣に立つ存在に成りたかった。
しかし同時に、彼女が唱える理想を遂げた先を、視てみたいと真摯に希った。
その理想を遂げるためには、彼女の隣に立つ者はエバンスであってはならない。
グレミィル侯爵の伴侶として相応しき者。
英雄ベルナルドに匹敵するような名声や地位、或いは民を束ねる素養を持つ者でなければ務まらない。二つの民が分け隔てなく暮らせる領土は創れない。
故に、故にこそ、エバンスはこの恩人の臣下として尽くす決意を固めたのだ。
肩に添えられた狸人の大きな掌と、エバンスより注がれた視線と言葉に込められた熱意を余さず伝えられたノイシュリーベは、思わず身震いした。
そして再び、瞳より一筋の涙を零した。
此度は辛苦によるものではなく歓喜と……諦観が入り混じった複雑な涙だった。
「……あんたの想い、確かに受け取ったわ。
そこまで言われちゃったら挫けている暇なんてないわよね!」
何かを諦めたような声色。然れど眼差しには力が蘇り、総身には新たな活力が漲り始めた様子でその場より立ち上がった。
彼女に合わせてエバンスも腰を上げると、次いで短く刈り上げたノイシュリーベの銀輝の髪に触れる。
「その意気だよ! それから、今の髪型も素敵だとは思うんだけど
やっぱりおいらは、前みたいに長く伸ばしてるほうが好きかなぁ」
「……でも髪が長いと、私と同じ騎士見習い達からも軽んじられるわ」
女性が騎士になることを快く思われない土地柄だからこそ、せめて周囲からの反感を抑えようと努力した結果が今の髪型なのである。
「うん、それは分かっているけどノイシュは古い慣習を覆していきたいんでしょ?
周りに合わせることも大事だけど、自分の魅力はもっと伝えるようにしたほうが
結果として支持してくれるヒトを増やせるんじゃないかなって思うんだ」
彼女の努力は理解できる。しかし、現在のノイシュリーベは必要以上に自身を押し殺して周囲に迎合しようとするあまり、彼女の持つ長所……光り輝く部分を全て封じ込めてしまっているようにエバンスは感じたのだ。
ノイシュリーベとて弟のサダューインと同じく傑物の素養を持ち合わせている。それを余さず引き出すことが出来たならグリーヴァスロの騎士達にもきっと認めて貰える筈だ。
逆に、このまま彼女が自分自身の可能性を封じたままであれば、凡庸以下な存在として騎士にも成れずに故郷に逃げ帰ることしか出来なくなってしまうだろう。
故に、先ずは髪型から元に戻すように、彼女らしく在るよう進言したのである。
「簡単なことじゃないとは思うけどね。
それでもノイシュは堂々と自分のやり方を貫いていくほうがずっと良いと思う。
繰り言になるけど、少なくともおいらは絶対に君を見限らない。
そして、おいら以外にも君を認めてくれるヒトは必ず増えていく筈さ」
「……ッ!」
「周りのヒトも、そんな素敵な君の姿を見続ければ絶対に見方を変えてくれるよ」
「……そ、そう。分かったわ。
まあ今のままのやり方を続けていても、どうにもならないでしょうし……。
あんたの助言を取り入れてみる」
僅かに頬を朱色に染めながら、前向きに頷いてみせた。
「それから、話に挙がっていたエゼキエルって人だけど。
年の近い娘さんがいるのなら、まずはその子と会ってみたらどうかな?
やっぱり相談できる相手を作っていくことは大事だよ」
「そうね……何事も、先ずはやってみないことには始まらないわよね」
「そうそう、ちょっとずつ足場を固めていこうよ。
おいらも南イングレス領に立ち寄る時には必ず君に会いに行くからさ!」
「ええ、楽しみにしているわ……。
次にあんたがグリーヴァスロに来る時までに、必ず従騎士にはなってみせる!」
徐々に活力を取り戻し、新たに決意を固めたノイシュリーベは、ぐっと拳を握り締めて堂々と宣言する。
その後も二人は日が暮れるまでの間、お互いの近況を中心に久方ぶりの談笑を大いに堪能していった。
翌日、ノイシュリーベはイングバルト公爵に相談した上で修練に復帰し、合間を見繕ってはエバンスが登板する一座の公演の場に馳せ参じ、眩しそうに鑑賞する。
自分を信じてくれる者が居ることを自覚した彼女は、これより大きく躍進していくことになるのであった――
更に三年の月日が流れ、再びエバンスは角都グリーヴァスロを訪れる。
この頃になると、エバンスはエルカーダ一座随一の旅芸人として大成しており、南イングレス領に入る直前にてエスキルからの提案を受けて独立を果たしていた。
「お前もすっかり うちの主力になっちまったなぁ……いや、それ以上だぜ。
正直に言うなら、お前はもう俺のとこで抱えておける器じゃねえ。
もっと自由自在に羽搏いていける筈だぜ!」
公演を終えた日の夜、出会った時よりも幾らか顔の皺を増やしたエスキルが遠い目をしながら嘯いた。
「そこで、だ。お前さえ良けりゃの話になるが、うちの看板と名前を背負って
独り立ちしてみないか? 主力が居なくなるのはちと痛いが、
若者の可能性を潰すのは、もっと手痛い損失になっちまうからよ」
「看板と名前……つまり、おいら自身がエルカーダを名乗るということですか?」
「おうよ! お前は"獣人の氏族"の『下級戦牙』の出身だと言っていただろ?
『下級戦牙』は家名を持たないって聞くし、ならエルカーダ性を名乗りゃいい。
これからの時代で大きく羽搏いていくなら、家名はあって損はないぜ」
実の所、エスキル自身も彼の師匠からエルカーダ性を継いだ形となる。
貴族としての生家は別に在るという。
「今のお前なら一人でも余裕で演っていけるだろうぜ。
何なら、そのままエデルギウス家に奉公したって良いんだ。
お前が支えたいって言っていたベルナルドの娘の理想に準じるなら、
その方が都合が良いだろ?」
「……はい、それは願ってもないことです」
「なら巣立ちの時だ。俺は結局、ベルナルドの傍には居続けられなかったが
お前くらい器用で素直な男なら幾らでも上手くやっていける筈だぜ」
彼の言葉を受け留めて、エバンスは一度深呼吸をしてから言葉を返す。
「座長のその申し出、有難く受け容れさせていただきます。
エルカーダ一座の名を穢すことがないよう心掛けながら、
おいらが目指す生き方を貫いてみせます!」
「くく、よく言った! なら今日からお前はエバンス・エルカーダだ。
こいつは餞別としてくれてやるぜ! 持っていきな」
そう言いながら、天幕の片隅に置かれた机より弦楽器を取り出してエバンスに手渡してきた。入団のための面接を受けた際に弾かされた懐かしの楽器である。
それはエスキルが長年愛用している業物であり、聞いた話によると伝説の職人に頼み込んで造って貰ったという無二の逸品とのこと。
「……良いんですか!? これ、座長の宝物なんじゃ」
「ふん、現役を退いた俺が何時までも抱えてちゃあ楽器が萎えちまうからな。
だったら、これから巣立つお前が持っていた方がコイツも本望だろうよ!」
昨年まではエスキル自身が時折 登壇する機会があったものの、昨今の一座の拡充に伴って座長としての仕事に忙殺されつつあり、寄る年波も相俟って第一線を退く決断を下したところなのである。
そのことを間近で見てきたエバンスには、愛用の楽器を託そうするエスキルの気持ちが十二分に理解できた。
「分かりました。一座の名と同じくらい大切にします
エスキル座長、この六年間……本当に有難うございました!
貴方は、おいらにとって第三の父親も同然だった……」
両掌で弦楽器を受け取り、改めてエスキルに頭を下げて謝意を伝えた。
「全く、ガキが育つのは早いもんだぜ。
一年くらいで逃げ出すかとも思っていたが……ベルナルドの眼に狂い無し、か。
そんじゃあクルゥトに着いたら盛大な宴会開いて送り出してやるぜ!」
クルゥトとは北イングレス南端の都市の一つであり、南イングレス領に向かう際にエルカーダ一座が毎回立ち寄っている。
つまりエバンスは、その都市でエスキル達と別れて単独でグリーヴァスロまで渡って来たのである。
一座を離れたエバンスの足取りに、不安や迷いは一切なかった。
旅芸人として既に完成された実績と隠れた名声を保持し、英雄ベルナルド仕込みの武芸やサダューインと共に研鑽した魔法の知識が合わさることにより、独りでの旅路であっても、彼は何処にでも歩いていけたのである。
そうしてグリーヴァスロに辿り着き、エッケルグ広場で芸を披露していると大通りを騎兵達が通り過ぎる姿が視界に映った。例の『剛角騎士団』だ。
豪奢な甲冑を全身に纏った歴戦の騎士が三列縦隊を組んで先導しており、直後に従騎士達が付いていくという一団なのであるが、エバンスはその従騎士達の中によく見知った顔があることを見咎めた。
見間違える筈もない、彼にとって最も大切な存在……ノイシュリーベである。
三年前の挫けた姿から様変わりを果たし、実に堂々と背筋を正して自信満々に騎乗している。
また髪はかなり長く伸ばしているようで、頭の後ろでお団子状に束ねていた。
彼女が通り掛かると、近くに居た若い女性達を中心にノイシュリーベの名を呼ぶ者達が集い始める。先頭を行く正騎士達よりも声望を集めているようであった。
その光景を垣間見て、彼女が"騎士の国"で受け容れられ始めていることを察し、エバンスは誇らしさと嬉しさが同時に込み上げてくる。
「……!」
「………ふふ」
公園を通り過ぎるノイシュリーベと目が合った。
眼交いは一瞬なれど、互いに順風満帆に路を歩んでいることを検めると自然と笑顔が浮かんでいた。
この時、エバンスとノイシュリーベは十八歳。
理想を遂げるために歩むべき道程はまだ入り口に差し掛かったばかりだが、それでも着実に前へ進んでいることを実感し始めていた時期であった――
・第24話の29節目をお読みくださり本当にありがとうございました!
・文章量的には3~4節くらいに分けるべきなのですが、どうしても1節内に納めたかったのでこのような長さとなってしまいました。
・エバンスとノイシュリーベの関係について、その一端を描くことが出来ていれば幸いでございます。
・次なる30節目は、成長したエバンスとサダューインの関係について描いていきます。
上手く1節内に納まれば、31節目で第24話を締め括れれば良いかな……と考えております。
・次回更新は9/14を予定していますが、もしかしたら9/16になってしまうかもしれません。