足音
重たい扉を抜け、中央管理区から続く通路を抜け出すと、視界が一気に開けた。目の前には、陽光が降り注ぐ広大な街並み。さっきまでの薄暗いアーカイブの部屋が嘘のように、穏やかな光景が広がっている。
「はあ……なんか、別世界に戻ってきた感じだな」
思わずため息をつきながら、アミリアをちらりと見る。彼女は猫のぬいぐるみを胸に抱えつつ、どこか考え込むような表情を浮かべていた。先ほどの“Project Eden”の記録、そして謎の監視役の警告。それらが、彼女の思考をぐるぐると渦巻かせているのかもしれない。
「……マスター、どうします? これから」
「どうするって……まずは、少し外の空気を吸いたい。頭がごちゃごちゃして、整理できてねえ」
俺はアミリアを促して、管理区のビルから出る。そこはまるで近未来都市のように整然とした広場が広がっており、人々(正確にはアバターたち)が行き交っている。さっきまでの埃っぽさが嘘みたいに、爽やかな風が通りを吹き抜けた。
そして、あまりにも日常に見えるこの風景を前に、先ほどの出来事が遠い夢のようにも思えてくる。だけど、背後に潜む“Project Eden”と監視役の存在を忘れるわけにはいかない。
「なあ、アミリア。とりあえず、あの資料――“Phase4レポート”だったか――をどこかで読める状態にしておきたい。全部は頭に入ってないし……」
「そうですね。コピー機能はブロックされてましたが、紙の書類なら持ち出せましたから、一度私の端末でスキャンして、さっとデジタル化しておくといいかもしれません」
アミリアの提案に頷きつつ、俺は周囲を見回した。どこか、人目を気にせずに落ち着いて話せる場所はないだろうか。考えた末に、少し前に訪れたカフェのことを思い出す。あの甘い香りとテラス席が印象的だった店だ。
「そういや、あそこに戻ってコーヒーでも飲みながら作業するってのはどうだ? とりあえず頭を整理したい」
「いいですね。……私も、甘いものを食べたい気分です」
アミリアはそう言って、微かに笑みを浮かべた。俺たちは幾分気を取り直して、街のメインストリートを歩き始める。周囲には楽しげに会話する人々がいて、彼らはこの世界の裏にどんな秘密があるかなど、想像もしないだろう。
例のカフェに到着すると、相変わらずファンシーな外観が目を引く。パラソルつきのテラス席に腰を下ろすと、先客らしき女性客が俺たちに目を向けて軽く会釈してきた。こういう社交的な雰囲気も、この楽園ならではなのかもしれない。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
店員の明るい声が聞こえ、俺はメニューを開く。前回飲んだコーヒーがやたら美味かった記憶があるが、今日は何か違うものを試してみる気にもなる。とはいえ、思い切った冒険をする余裕もない。
「俺は……うん、ホットコーヒーでいいかな」
「私はチーズタルトとミルクティーをお願いします」
手際よく注文が通り、すぐにカップと皿が運ばれてくる。この“待たされない”感じも楽園ならではだろうが、逆に言えば、“待つ”という体験が失われているのかもしれない。そんな雑念が頭をかすめる。
「……やっぱり、このコーヒーの香りは最高だな。現実のどんな名店をも上回る完成度かもしれない」
「ふふっ、そしてこのチーズタルト……口当たりが軽くて、甘みも酸味も自分好みに合わせてくれるんですよ。まるで夢みたいですよね」
アミリアは一口かじって目を細める。猫のぬいぐるみは椅子の背にちょこんと置かれていて、その姿が可愛らしい。こんな普通のカフェ時間を過ごせるのは有難いが、胸の奥にはどこか刺さるような違和感が消えない。
「さて……と。じゃあこの書類、ざっと読み返すか」
俺はバッグから“Project Eden – Phase4 Report”のコピーを取り出す。アミリアが端末を取り出し、簡易スキャンを始める。光が資料の表面を走り、データ化が進んでいく。
「これで、端末からも読めるようになりましたね。改めて……目を通してみましょうか」
「おう、頼む。説明できる範囲でしてくれ」
紙の資料は英数字が混じる専門用語も多く、正直俺には読みにくい。アミリアなら多少なりとも技術的な部分を理解できるはずだ。
「はい。ええと、まず“Phase4”というのは、複数の被験者を一度に融合させる段階ですね。“Collective Consciousness”を目指す試みだったみたいです。だけど、この段階で人格崩壊や狂気が発生し始めた、と」
「そりゃそうだよな。意識を無理やり混ぜ合わせるなんて……」
「そして、主導研究者であるM.K.氏が撤退を進言し、プロジェクトは凍結された。最終的には、“個を尊重する”路線に方向転換して、今の楽園が形作られた……となっています」
「じゃあ、なんで“マスター”がEdenのログをいじったんだろう? 計画そのものは凍結したわけだろ? まだ何か機能が残ってるのか?」
紙をめくりながらそんな疑問を投げかけると、アミリアは端末の画面を見つめたまま、小さく唸った。
「そこがはっきりしないんですよね……。凍結されたプロジェクトでも、一部のプログラムやコードが楽園の根幹に組み込まれたまま残されている可能性はあるかもしれません」
「なるほど……。要するに、まだ“意識融合”のシステムが完全に消えたわけじゃない、ってことか」
ゾッとするような可能性だが、それが監視役がわざわざ警戒を示した理由かもしれない。もし“Project Eden”の名残を下手に刺激すると、楽園全体が危機に陥る可能性もある。それを阻止するために、あの男は動いているのだろうか。
(だが、本当にそれが善意での行動なのか?)
考え込んでいると、ふいにテラス席の隣から声がかかった。
「ねえ、あなたたち……ちょっと興味深い話をしてるみたいだけど、もしかして研究関係の方ですか?」
振り向くと、そこには上品な雰囲気を漂わせた女性が座っていた。黒髪の短いアバターで、年齢はよくわからないが落ち着いた佇まいがある。彼女はフフッと微笑みながら、俺たちの手元の書類に視線を落とす。
「これ……“Project Eden”? ずいぶん懐かしい単語ね」
「っ……!」
驚きに思わず胸が高鳴る。まさかこんな場所で“Eden”の名前が出るとは思わなかった。俺が言葉を失っていると、女性はイスを少しこちらに寄せ、声を落として話し始める。
「ごめんなさいね。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、資料が見えちゃって……。実は私、昔ほんの少しだけ、あのプロジェクトに携わっていたの。と言っても、末端スタッフのような形でね」
「末端……スタッフ? じゃあ、本当に“Project Eden”を知ってるってことか?」
思わぬ形で有力情報が舞い込むかもしれない。俺は慎重に言葉を選びながら尋ねる。アミリアも黙って耳を傾けていた。
「ええ、でも詳細まで知ってるわけではないわ。あの頃は開発チームがいくつもあって、私の上には更に何重ものプロトコルがあった。……でも、M.K.という研究者が『安全性の確保』を強く訴えていたことはよく覚えてる」
M.K.――やはりキーポイントはそこか。女性は柔らかな笑みを浮かべ、続ける。
「私の知る限り、意識融合の可能性は完全には捨てられていないの。ただ、それを完全に封じ込めて今のような楽園を作ったのがM.K.の功績。だからこそ、M.K.は楽園を“ユートピア”として完成させるために、ありとあらゆる危険因子を排除しようとしていたの」
「危険因子……」
「ええ。例えば、誰かが“意識融合”の再起動を試みたり、進化した形での統合システムを実行しようとしたら……この世界は一気に“狂気”に染まるかもしれない。そういう噂が根強くあるわ」
女性の言葉に、俺の背中がぞくりと震える。まさかとは思うが、“マスター”がログを書き換えたのは、そうした機能を動かすためではないよな……?
「でも、その噂を実際に確かめる手段はないんですか? M.K.の居場所とか、その手がかりとか……」
俺が食い下がると、女性は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「残念だけど、M.K.はもう楽園からいなくなってる。どこかのタイミングで意識データを削除したとか、深部に潜んで眠っているとか、いろいろ噂はあるけど……確かなことは誰も知らないのよ。だから私も、こうして“未来がどうなるか”を見守っているだけ」
そう言うと、女性はスッと立ち上がった。まるでこれ以上話す気はないという雰囲気だ。
「ごめんなさいね、余計なことを言っちゃって。……あなた方が、楽園をどう導いていくのか、楽しみにしてるわ」
それだけ言い残し、女性は足早にカフェを出て行く。去り際に、ほんの一瞬だけアミリアを見つめる瞳が意味深だった。
「おい……行っちゃったぞ」
「はい。まるで、ずっと前から私たちのことを知っていたような感じでしたね」
俺は小さく息をつく。監視役の男、そして今の女性。ここへ来て“Project Eden”にまつわる人間が次々と姿を現し始めたのは、偶然じゃないだろう。
「どうする? 追いかけるか?」
「いえ、今はやめておきましょう。情報が増えすぎて、正直整理しきれません……」
アミリアの言うとおり、今の俺たちには消化不良すぎる情報だ。まずは目の前のコーヒーを一口飲み、軽く深呼吸をする。甘く香ばしい液体が喉を通り抜けると、少しだけ思考がクリアになる気がした。
「ふう……まあ、焦っても仕方ないか。俺らにはまだ時間があるだろ?」
「はい。私も、一度管理区に戻ってログを洗い直してみます。あの監視役がどう動いているのかも含め、慎重に調べる必要がありますし……」
そう呟くアミリアの横顔には、いつになく真剣な光が宿っていた。俺もまた、これまで無縁だったような責任感を自分の中に感じている。まるで、この楽園の行く末が自分の行動にかかっているかのような――そんな不思議な感覚だ。
「じゃあ、ひとまず今日は休むか。明日になったら、改めて方針を考えよう。お前も疲れただろ?」
アミリアは笑みを浮かべ、軽く首を振る。
「アンドロイドなので、疲れることはありませんよ。でも……お心遣いありがとうございます。マスターこそ、少しゆっくり休んでくださいね」
「……ああ、そうするわ」
俺はコーヒーを飲み干し、カップをそっとテーブルに置いた。視線を上げれば、まるで絵に描いたような美しい空と街。だけど、その下には計り知れない闇が広がっているのかもしれない。
“Project Eden”が眠る場所、そしてM.K.の残した理念。それらは決して過去の遺物ではなく、今もなお楽園を支える根幹なのだろう。
少しずつ世界の輪郭が見えてくるにつれ、俺の胸に宿る決意もまた強まっていく。アミリアの傍らで、どこまで走り続けられるか分からないが、もう逃げるのはやめにしよう。
こうして俺たちは、仮想都市の雑踏の中に戻っていく。街灯がともり始める夕暮れの光景を眺めながら、俺はほんの少しだけ、自分の未来に希望を感じていた。