始まり
埃まみれの古い資料を捲っているうち、いつの間にかかなりの時間が経っていた。まさか仮想空間で“埃”なんてものを体験するとは思わなかったが、それだけこの部屋が長い間放置されていたのだろう。
アミリアは猫のぬいぐるみを抱きながら、興味深そうにファイルを覗き込んでいる。俺も隣で段ボール箱をあさり、使い古されたメモ帳や写真を引っ張り出していた。
「こういう手書きの文字を見ると、なんだか落ち着くな……」
口に出してみて、自分でも意外だった。現代でも手書きは珍しくないけれど、ここは遥かな未来――それも最先端の電脳世界だ。しかし、このノートには温度や生活感のようなものが宿っているように思える。虚構のはずの仮想空間の中で、こんな“アナログ”に触れるのは不思議な体験だった。
ページをめくるたびに、開発者たちが苦心して残した技術メモや走り書きの図が現れる。どれも専門的で理解しきれないが、かつて楽園が完成するまでの道のりが決して平坦ではなかったことだけは伝わってきた。
「なぁ。こんな初期段階の資料が残ってるなんて、意外と捨てられないもんなんだな」
「はい。ここの空間ができた当時、みんなで“思い出を形に残そう”って動きがあったらしくて、その名残じゃないかと思います」
ふと手元の写真が目につく。焼けたような色合いで、白黒に近い。家族写真なのか、子どもと大人が笑顔でピースをしている。遠い時代の思い出のワンシーンだ。
(家族……か)
その瞬間、ふいに自分の胸の奥で小さな痛みが弾ける。
こういう写真を見て、懐かしいと感じるのはなぜだろう。もちろん、俺にも家族はいた。母と父、そして小さな頃の自分。だが、今の俺は22歳。就職活動に後ろ向きで、なんとなく人生に諦めを抱いていた……。
(ああ……そういえば、昔はもっと“何者か”になれると思っていたっけ)
写真を見つめるうちに、遠ざかっていた自分の過去が脳裏をよぎる。アミリアの存在とか、未来の技術とか、一旦全部忘れて――俺自身の子ども時代の記憶。
小学生の頃、俺はそこそこ勉強もできて、運動も平均以上にはできていた。クラスで目立つほどではないけれど、担任に「霧島は要領がいいな」と言われるくらいにはなんでもこなせた。周りからは「器用なやつ」程度に思われていたけど、本人としては“自分ならもっと上手くやれる”と密かに思っていた。
中学生になると、部活で少しだけ頭角を現した。バスケ部に入り、身長はそれほど高くないものの俊敏さを買われてレギュラーの座を掴んだ。成績も悪くない。お調子者の仲間たちに囲まれながら、そこそこ充実した日々を過ごしていたと思う。
ただ、その頃からうっすらと感じ始めたのは、自分よりも圧倒的に才能のあるやつが世の中にゴロゴロいるという事実だった。県大会で上位に進むたびに目の当たりにする、次元の違う選手たち。それは学業でも同じだった。塾や模試で全国トップクラスの成績を残す連中を見ると、“なんでもそこそこできる”だけの俺なんかは霞んで見える。
それでも高校に進学した頃は、まだ“自分もやればできる”と思っていた。成績だって、平均よりは上。部活でもそれなりに結果は出せる。だけど、同級生や先輩の中には、俺より遥かに努力を重ねているヤツらもいれば、何もしなくても天才的な結果を出すヤツらもいた。
そんな環境に揉まれ続け、少しずつ意欲が薄れていった。最初は「もっと頑張ろう」と思えたけど、高校2年の終わり頃になると、「まあ、この程度でいいか……」という諦めが頭をもたげ始めた。そうして“結果を求める”よりも、“そこそこの平均点で満足する”生き方にシフトしていった。
大学に入ったころは、もうすっかり熱意が薄れていた。志望校に届きそうな成績でもなく、かといって特別な夢も目標もなかった。なんとなく周りと同じように受験して、なんとなく合格ラインを超えた地方の大学に進学。そこで俺は、コンビニバイトをしながらゲームに没頭する日々を送るようになった。
「就職、どうすんだ?」
そう訊かれても、具体的な答えは何も浮かばなかった。子どもの頃は、“大人になったらすごいことをしてる”と漠然と思っていたはずなのに、いつの間にこんなに情けない状態になったんだろう。
(でも、別に困るほどじゃない。飢えるわけでもないし……)
そんな言い訳を自分に言い聞かせながら、日々を過ごしてきた。どうしても胸に空いた穴は埋まらず、すべてを投げ出してしまいたいとさえ思うときもあった。でも同時に、そこまで大胆な行動も取れない小心者が、自分自身だった。
過去の記憶をほじくり返しながら、俺はまるで夢でも見ているような感覚に襲われていた。だって、気づけばここは未来の電脳世界だ。自分は22歳の大学生で、就職もままならないまま、なぜか時空を超えてこの場所にいる。
「……マスター? どうかしましたか?」
優しい声がして、ハッと我に返る。見ると、アミリアが心配そうにこちらを見つめていた。いつの間にか、俺はファイルを膝の上で抱えたまま、ぼんやりと天井を見つめていたらしい。
「ああ、悪い。ちょっと昔のことを思い出してた」
「昔のこと……?」
「大した話じゃない。子どもの頃とか、学生時代のことだ。なんか、ここにある資料を見てたら懐かしくなってさ」
そう言って照れ隠しに笑うと、アミリアは穏やかな表情を浮かべて頷いた。猫のぬいぐるみの耳を撫でながら、どこか安心させるようなトーンで言う。
「もしよかったら、どんな思い出か聞かせてください。楽園の住人たちだって、あのアーカイブに自分の人生を残しているじゃないですか。マスターがどんな人生を送ってきたのか、私も知りたいんです」
「……俺の話なんて、別に大したことないんだけどな」
正直、自慢になるようなエピソードはまるでない。でも、アミリアがそんな“普通の人生”にも興味を持ってくれるのは、どこか嬉しくもある。あまりにも当たり前すぎて、人に話す機会すらなかったことだ。
「小さい頃はさ……なんでもできる気がしてたんだ。大人になったら、自然とすごい人間になれると信じてた。勉強だって運動だって、そこそこのレベルでできたし……でも、結局はどっちつかずで、どうにもならなくなった」
無意識に言葉がこぼれていく。こんなこと、わざわざ人に話したことはなかった。両親にすら本音を話した記憶がない。
「なんとなく大学に入って、就職もせずに遊んで……って言うか、就職する気力もわかなくて。俺、何やってんだろうな……って、ずっと思ってたんだ」
アミリアは黙って俺の話を聞いている。その瞳はただ、俺を受け止めようとしているように見えた。
「でも、こうして未来に来ちまってさ。わけわかんねえけど、アミリアと一緒に楽園を見て回ってる。……もしかしたら、俺は今まで逃げてきたのかもしれない。だから、こんなところに突然来ちゃったのかな」
言いながら自嘲の笑みが浮かぶ。まさかこんな形でタイムスリップするなんて誰も想像しないだろうが、俺にとっては現実逃避の延長線上にある出来事のようにも思えてしまう。
「逃げてきた……ですか。ふふ、マスターがどんな想いでここに来たのかは、私には分からないです。でも……少なくとも、今こうしてお話できているのは、私にとってすごく嬉しいことなんです」
アミリアはそう言って、小さく笑った。その笑顔に胸が温かくなる。俺の情けない過去を聞いても、否定することなく、ただ受け止めてくれる。
「それに、ここは現実じゃないかもしれないけど、だからと言って“本物の人生”じゃないわけでもないですよ。もしマスターが何かを見つけたいって思うなら、この楽園だって大いに利用できるんじゃないですか?」
アミリアの言葉を聞いて、俺は思わず目を見開いた。電脳楽園の価値観は、ある意味で俺の馴染んできた現実とは大きく異なる。でも、それは同時に“新しい自分”を見つけるチャンスでもあるのかもしれない。
「ま、確かにな。こんだけ自由な世界なら、何かやれることがあるかもな……」
心が少しだけ軽くなるのを感じる。未来の世界である電脳楽園。人々が自由に生きているこの場所で、俺ももしかしたら──
「……ありがとう。ちょっと、気が楽になったわ」
「ふふっ。私こそ、少しだけマスターのことが知れて嬉しいです」
アミリアは猫のぬいぐるみを抱えたまま、穏やかな瞳で笑う。その姿を見ていると、なぜか“アンドロイド”だということを忘れそうになる。
もしかしたら、俺は今まで自分のことを卑下しすぎていたのかもしれない。子どもの頃に抱いていた「なんでもできるかもしれない」という根拠のない自信は、いずれ別の形で役に立つのかも。
(……まあ、今はその実感はないけどな)
苦笑いを浮かべながらも、心のどこかで小さな変化が生まれているのを感じる。ここは未来の世界、電脳楽園。現実の価値観に縛られていた俺にとって、いろんな可能性が転がっている場所だ。
「よし、もう少しこの資料を漁ってみようぜ。あの“M.K.”とかいうイニシャルの研究者が、何者なのか分かるかもしれないし」
「はいっ、そうですね。あまり期待はできないかもですが、探してみましょう」
アミリアが頷くと、俺は段ボール箱の山へと手を伸ばす。パラパラと紙をめくるたび、使用済みのメモや古い写真、ディスク類が次々と出てくる。どれも今となってはあまり使われていないメディアなのだろう。
ふいに、その中の一枚に目が留まった。小さな付箋が貼られ、“Project Eden”という走り書きがある。ページを開くと、そこには“プロジェクトの主導者に関する confidential report”といった文字が書き込まれていた。
(プロジェクト・エデン……なんだ、それ?)
気になってさらに読み進めようとした瞬間、突然、アナログ・アーカイブの扉が軋む音が響いた。誰かが入ってきたのかもしれない。俺とアミリアは目を合わせ、静かに入口のほうをうかがう。
「……誰だ?」
小さく問いかけても、すぐには返事がない。扉の隙間から漏れる光の中に、人影のようなものが微かに見えた気がする。アミリアがそっと足音を忍ばせて、入口へ近づく。
だが、そこには誰の姿もなかった。開いた扉の向こうには、静まり返った廊下が続いているだけ。
「おかしいですね……誰かが覗いたような気がしたんですが」
「そうか……まあ、気のせいかもしれないし、向こうもこっちがいるのに驚いて帰ったのかもな」
俺は心を落ち着けるように深呼吸する。だが、少しだけ嫌な予感が胸をかすめた。この楽園は基本的に自由で平和な場所だと聞いているが、まさか全員が善人というわけでもないだろう。
「……とりあえず、引き続き調べるか」
「そうですね。あともう少しだけ見てみましょう」
アミリアが扉を閉め、俺たちは再び散らかった資料の山へ向き直る。先ほど見つけた“Project Eden”――それがいったい何を意味するのか。うまくいけば、“マスター”の手がかりと繋がる可能性もあるかもしれない。
ただ一方で、頭の片隅には未だに幼い頃の記憶がこびりついていた。小学校、中学校、高校、そして大学……確かに俺は努力を避けて、いつの間にか落ちぶれたような人生を送ってきたのかもしれない。
でも、だからこそ、今この場所にいるのかもしれない。自分には何もなかった――だから、この世界を見てみたかった。そんな運命がどこかで繋がっているのだとしたら……
(ちょっとはマシな生き方ができるかもしれない、か)
そんな淡い期待を抱きつつ、俺はアミリアとともに資料を漁る手を止めない。段ボール箱の底からは、まだまだ未知の書類が出てきそうだった。
未来へ来た大学生が、電脳楽園を巡る奇妙な旅。その途中で、こんな形で自分の過去に向き合うことになるなんて思いもしなかった。でも、アミリアと話して、ほんの少しだけ前を向ける気がする。
小さい頃に夢見た“可能性”――今度こそ、ここで取り戻してみるのも悪くない。